第3章 ループ

第3話ーループー(1)


眠気を覚まそうと、4Bの鉛筆に力が入る。

真ん中にあるブルータスの石膏像が、あくびをするたび涙で歪む。


ここ数日、あまり眠れない日々が続いるせいだった。

おまけに、朝から生憎の雨で頭痛がする。デッサンに集中出来ない…。

こんな事は初めてだ。


植草先生は、円形に囲む椅子の配置の中を周り生徒全員の絵を見て回っている。

斜め前の女子と目が合った。

同じ学科だが、僕には名前も知らない人だ。

その人は隣の別の女子とこちらを見た後、何かを小声で話していた。

口元に手を当て会話をしている所を見ると、その内容など容易に想像できる。

恐らく僕の顔の事か、授業に集中していないのがばれたのかも知れない。


教室の窓ガラスに大粒の雨が叩きつけては、流れていった。今、噂話に花を咲かせている女子達の真後ろにある窓ガラスだ。

その雨の音を聞きながら、ふとあのアトリエを思い出した。

この雨だ。あそこは大丈夫だろうか…。


他人からの些細な言動や視線は、僕を簡単に

現実に引き戻す。

そう…。本来、彼女達のような反応が僕にとっては普通なのだ。

だが、彼といるとその普通の感覚を忘れてしまいそうになる。


結局、引き受けてしまった。

モデルを引き受けてから、どんな要求を求められるか気が気では無かった。

絵画モデルと言っても、ヌードモデルや着衣モデル。

手や足だけのパーツモデルなど種類も様々なのだ。


けど、光さんは僕にごく普通の事を求めた。

学校の終わった後、何気ない会話をしながら窓際の椅子に座る。

大体、それはいつもニ・三時間で終わり、光さんはその間、目一杯描き続ける。

空いた時間は、光さんのアトリエの掃除をした。

あのままでは、僕の身動きが取れないからだ。

光さんは、慣れた様子であの部屋の中を自由に動き回る。規則的な行動範囲が決まっているのかもしれない。


資料や、本の整理。埃まみれになった棚を拭き、それらを順序よく並べる。

その様子を、描いている時もあった。

つまり、光さんは〝止まっているモデル〟は描かない。

とにかく、とことん自然な仕草や表情を求めるのだ。

それは、授業でしているデッサンなんかとは随分と違う方法だった。


それと、もう一つ分かった事がある。

光さんは、絵を描いている時は真剣そのものだが、それ以外の時はよく喋る。

それでも、彼の本心は未だ見えない。


こんなに近くにいても、僕達は一定の距離を保っている。

その空間が、心地良くもあり、時々酷く遠く感じる。

これには、自分でも驚いた。以前の僕なら、絶対にありえない。


でも、彼の秘密を知った今、余計にそう感じてしまうのかもしれない。

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