第2話―影ー(2)
昼時。
同じ時刻くらいにまたここに来た。
勝手に入るつもりは無かった。だが、不用心にもやはり鍵は開いていた。
スケッチブックには書きかけの僕がいた。
この前、描いていたあのデッサンは僕だったのだ。
不思議だ。
このスケッチブックの中の僕は、いつもの僕じゃないように見える。
これが、あの人に見えている世界なのか…。
あれから数日が経った。
最初はもう一度、断る為だった。
しかし、今日は倉庫に彼の姿は無かった。何故だか胸をなで下ろす自分がいた。まだ顔を合わせる勇気は無かった。
けれども、植草先生の言葉が気になった。
あの、月森光が絵を描けなくなった。
絵を描く人間にとって、スランプのような描けなくなる時期が来るのはよくある事だ。
だが、あの人に〝影〟を重ねる事がどうしても出来なかった。
誰しも、持つはずの影の部分。
それを想像出来ないのは、単に僕の劣等感からなのだろうか…。
もし、本当に描けなくなったとするならば、それはどんな理由なのだろう。
単純な興味本位だ。だが、ずっと気になっていた。
だから、こうして確かめに来た。
よく見ると、未完のキャンバスが無残に床に転がっていた。
以前は、他の事に気を取られ過ぎて気が付かなかった。
ほぼ白紙の状態のものがほとんどで、それがいくつもあった。
それは、彼が今、スランプの時期である事を明確にしていた。
―ある時期を境に描けなくなった。―
先生の言っていた事は本当だったのだ。
勝手に入って来てしまった手前、急いでここを出る必要があった。
万が一にも彼との鉢合わせだけは避けなくてはならない。
彼が不定期でここに来ているにしろ、ここに長居をするのは危険だ。
物色した事がばれないよう、極力動かしてしまった物は元に戻した。
ふいに、目をやった腕時計が十二時半を回ろうとしていた。
今からなら、昼明けの三限に間に合う。
一つ目の扉を開け、二つ目の扉を開けた時。
扉の向かいに、月森光が立っていた。
最悪のタイミング。彼とはいつもこうだ。
「勝手に入るつもりじゃ…。」
咄嗟にそう言い訳した。向かい合ってしまい僕はまた逃げられない。
「何だ、来てたんだ。」
咎める事も無く、彼は言った。
気を使っている訳でもなく、自然な笑顔で微笑んでいる。
分からない…。
安堵と不安が入り混じり、違和感を覚えた。
急に、その笑顔が恐ろしく見える。
彼は、誰に対してもこうなのだろうか。
警戒心も無く、他人を咎め怒る事も無い。
彼という人間が見えない…。
「この前は…ごめんね。」
僕の脇を通って中に入った彼が、ふいに立ち止まって言った。
「え…?」
扉のドアノブに手を掛けたままで、その表情はよく分からない。
だが、その声は少し曇って聞こえた。
「それ…。気にしてるんだって?」
「え…?あ、あぁ…。」
振り返って、彼は自分の右頬を指さした。
僕も、自分の右頬に触れる。
「ねぇ、少し話そうよ。」
扉の前に立って彼は、僕を引き入れる。
横目で腕時計を見た。
もうすぐ十三時になってしまう。
これで、きっと三限の授業は間に合わないだろう。
それでも、その笑顔に抗えない僕はアトリエの中に入った。
落ち着く場所を探して困っていると、彼は窓際の椅子に掛けるように言った。
「でも…。」
一つしかない椅子に座るのは抵抗があった。
渋った挙句、彼の方を見る。
だが、彼の名前を簡単に口にする事が出来なかった。
どんな風に呼んでいいものか…。まだ、そういう微妙な距離感だったからだ。
「…光って呼んでくれていいよ。俺も、秋君って呼ぶし。」
「えっ?あ、秋君?」
急に愛称で呼ばれ、困惑するばかりの僕。
突然で、突拍子もない上に、彼はいつでも余裕だ。
それが、未だに慣れない。
「じゃあ、光さんで…。」
「ふふふっ、まぁ…いいや。」
彼が窓を開ける。
その後ろ姿と、強い日差しが重なった。
椅子の影は一層濃くなり、僕はその輪郭の出た座面に座る。
彼は窓の淵に座り、優雅に僕を少し上の角度から見下ろしている。
心地よい風が窓から入ってきた。
見上げると目が合って彼は言った。
「この前、酷い事言っちゃった代わりに俺の〝秘密〟を教えてあげるよ。」
「え…?」
何を言っているのか…。冗談のように彼は言った。
「俺ね、もうすぐ目が見えなくなるんだ…。」
―は…?―
何故、そんな話を僕にするのか。
そんなに、簡単に話していいのだろうか。
全くもって、訳が分からない。
でも、それ以上に理解出来ない事があった。
それは、彼が今もなお、〝笑っている〟事だった。
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