第2章 影

第2話ー影ー(1)


翌日。

授業が終わった後、僕は自分から植草先生の元を訪れた。

事の真相を確かめる為だ。


恐らく先生はあの日、何も知らない僕と月森光を引き合わそうとしたのだろう。

よりにもよって、生きる世界が違い過ぎる二人を。

だから結局、あんな事になった。

それを思うと、腹が立って仕方がなかった。


教室の前まで着くと、先生が見えた。

いつものコーヒーを片手に、くつろぐ後ろ姿を確認して、教室に入った。

速足になる足と共に、気持ちも早まる。

真っ先にコーヒーの臭いが漂い、体のそばを流れた。ツカツカと近づいて、外を眺める先生の背後に立つ。

声を掛けようとして、その前に先生は振り返った。


「どうだった?」


「…何がです?」

分かっているくせに、白々しくとぼける先生に苛立ちが混じる。

だが、ここはあくまでも、本人の口から本当の所を聞きたい。

先生は、一口だけコーヒーを飲んでからニヤリと笑った。

この様子だと隠す気も無いらしい。

やはり、僕の予想は大よそ当たっていたようだ。


「月森光、あいつ変わってるだろ?」

〝変わっている。〟そう言われれば、そうなのかもしれないが、問題はそこではない。


「…どうして、あの人があそこにいるって言ってくれなかったんですか?」


「〝いる〟って言ったら、お前、絶対行かなかっただろ?」

先生はそう言って、腹を抱えて笑った。

揺れるコーヒーを支えきれずに、そばにあった流しの淵に置く。

まんまと問題をすり替えられた。でも、図星だった。

口ではこの人に敵わない。

「これで、課題クリアだな。」

課題…?先生は楽しそうに言った。

ようやく、先生の思惑を理解した。

だが、分かった所で、まだ収まらない。


余計なおせっかいだ。

それも、散々な結果で終わった。また、僕のせいで…。

それに、僕はどうしてもあの人の事は好きにはなれない。

何不自由の無い人生。

だからこそ彼は、他人の痛みの深さには気づかない。

それを、あの笑顔が際立たせている。


「もう、あの人に会う事はありません。」


振り絞るように僕は言った。

間と沈黙が生じて、先生から笑顔が消える。

口に含んだコーヒーを飲んで、少し考えてから先生は言った。


「あいつと何かあったのか…?」

〝美しい〟そう言われた。


最初に出てきた言葉を、直前で止めた。

口にだすのも恥ずかしかった。

また、自分が惨めに思えてくる。


「絵のモデルを…してくれと頼まれました。」


「何だ、それならやってみればいいじゃないか‼」

予想外の答えだったのか、先生は一瞬、驚いた顔をした。

そして、また笑顔が戻る。

「いいじゃないか、苗字も同じ月が入ってて近いんだし。そう深く考えるな。」

先生は、軽く茶化しながらクルリと後ろを向いた。

蛇口をひねり、飲み終わったコーヒーカップを流しで洗う。


「僕には…出来ません…。」

小さな声で言った。水の音と合わさり、ちゃんと伝わったかは分からなかった。

それでも決意は揺るがない。

所詮、交わるはずの無い二人だ。これでいいんだ、これで…。

キュッと蛇口の閉まる音がして、先生は流しの側にあったタオルで手を拭いた。

「そうか、残念だな~。これであいつもスランプから抜け出せると思ったんだが…。」


―スランプ?―先生は確かにそう言った。


「え…?」

「ある時期を境にな、描けなくなってたんだよ。あいつ…。」


「それって…?」

信じられなかった。

だって、彼は天才と呼ばれる人だ。

なにより、あの日ずっと笑っていたのだから…。

驚く僕の所へ、先生は歩み寄る。

「気になるなら自分で確かめてみろ。」

最後に「なっ!」と言って、先生は僕の肩を軽く叩いた。

教室には、僕とコーヒーの臭いだけが取り残された。

教室の窓からアトリエの方を見た。

草木の生い茂る道。


その先に、あの人がいるような気がした。

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