第1話ー色ー(4)


「そう言えば…俺の方はまだ名乗って無かったね。俺の名前は…」


「知って…ます。」

今度は彼の方の動きが止まった。


スケッチブックを見ていた視線はたちまち僕へと移る。

鉛筆を持つ手はまだ動かない。


「月森光さん…ですよね?」


「…。」


彼はこの大学では有名人だ。

だからこそ、この倉庫の秘密は誰も知らない。

そして、だからこそ気に障ったのかもしれない。

「僕も…ここに来るまであなたがいるとは知らなかったですけど…。」

言い訳みたいにそう付け足した。

内側から滲み出る自信の無さはこんな時も隠せない。

目が合わないよう左手で前髪を直した。


「ねぇ、その髪上げた方がいいよ。」



「え…?」


その時、初めて気が付いた。

いつの間にか窓の方に彼の姿がない。俯いてばかりいた僕は彼との距離が近くなっていた事に、気が付かなかったのだ。

目の前にいる彼が、僕の右頬に触れる。


「あ…の…。」

放して下さい…。


そう言えない僕はそれだけで泣きそうになる。

硬直したまま、ただ消え去りたいと願った。

「ほら、やっぱりこっちの方がいい…。」

彼は残酷にも僕の前髪をかき分ける。

痣があらわになっていく。


もう限界だった。

それでも彼は、それがどんなに残酷な事かを知らないのだ。



「君は…顔にも色を持っているんだね。本当に綺麗だ。」


バシッという音がして、我に返った時にはもう遅かった。

咄嗟に彼の手をはたいてしまっていた。

二人とも、少し後ろによろめいて立ち止まった。

乱れた呼吸で、両手は収まりが効かない程に震えた。

気持ちを落ち着かせる為に、僕は払った方の右手首を持った。

持った手首を喉元の方まで持ってくる。

彼は払われた左手をさすっている。


「…どうしたの?」


月森光は、終始笑顔を絶やさない。すっとんきょうな顔をして、僕にそんな事を聞いた。

何という事をしてしまったのだろう。

そう思うと、体中の血の気が引いた。

だが、彼の質問に答える気は無かった。一刻も早くここから逃げ去りたい。

そればかりを思った。


何も言わない僕に、彼はまだ何か言いたげにゆっくりと歩み寄って来る。

たまらず、目の前の彼を押しのけ倉庫を飛び出た。

彼にぶつかった時、彼が何かを言ったような気がしたが構わなかった。

いや、構えなかった。それよりも急いで元きた草むらに足を突っ込んだ。


背の高い雑草のせいで、全力で走る事が出来ない。

少し経って、後ろから彼の声が聞こえた。

振り返ると、僕を追いかけて来る訳でもなく彼はずっと何かを叫んでいた。

さっきの窓の淵に身を乗り出し「待って…‼」と言う声だけが聞こえた。それでも、その後がどうしても分からない。

必死で僕を呼び止めているのであろう彼の声が、強い風の音と葉音で流されていく。

そして、その葉音が止んだ。


「絵のモデルをやってくれないか?」


―は?この僕に…?―


聞き間違いでは無い。あの人は滅茶苦茶だ。

振り返った手前、今度こそ何か意思表示をしなければならなかった。

無理だとはっきり言いたかったが、この距離だとまた風の音で聞こえないだろう。

足を止めた束の間、僕はまた歩き出した。

下手に何かを言うより、逃げたかった。


そうやって、二度目の拒絶をした。


かつて、僕からこんなに何かを拒んだ事はない。

僕はいつも、拒絶される方だった。

こんな所まで来たのに、まだ彼の透き通った声が聞こえたような気がした。


彼は、僕の事を美しいと言った。


馬鹿にするにも程がある。

顔の半分が、痣で出来ている男のどこが美しいと言うのか。

憧れの対象ですらあった月森光が、まさかあんな人だったとは思いもしなかった。

こんな気分になったのは久しくぶりだ。

傷つく事なんて慣れていたはずだったのに。


それでも今、彼の無神経な優しさがこんなにも痛いと感じるのは何故だろう。

胸の辺りにあった痛みが、やがて鼻を抜けて頬を一筋の水滴が伝った。

その痛みから逃げるように、必死でアトリエから遠ざかった。


草の道を遠く遠く、引き返した時にはもう、彼の声は聞こえなくなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る