第1話-色ー(3)
森が近いからか、ここだけは心地よい涼しさがあった。風に揺れる木々の葉音を聞いていると、少しだけ気が紛れる。
「君…。綺麗だね…。」
透き通った声が聞こえた。
それは、くしくも痣のある右側の方からだった。
誰もいないと思っていたはずの場所には、人がいた。
僕が一番、苦手なシチュエーションである。
なのに、ふいを付かれたせいもあって、僕は声のした方を真っ直ぐ見てしまった。
瞬間で、声を失った。
それは、突然の事だったからでも、極度の人見知りだからという訳でもない。
―月森光。―
彼だった。
目の前にいる月森光が、窓の淵に身を乗り出し僕を見ている。
僕は、未だかつてこんなに他人と目を合わせ続けた事は無い。
その数秒は、痣の事を忘れていた。再び風が通り過ぎた時、葉音の揺れる音が聞こえハッとした。我に返って急いで目を伏せる。
風に吹かれた彼の髪は、後ろからの逆光でキラキラと光っている。その眩しいばかりの笑顔で、自分が何者かを思い出した。僕は、急に怖くなる。
「…それ、ここに運ぶように言われた奴?」
彼は、僕の真横にある段ボールを指さしてそう言った。
「あ…はい。そう…です。」
視線のやり場に困ったまま、素早く段ボールを抱えた。
「ふふっ、やっぱり。」
そう言ってまた笑った彼は、窓の方から突然姿を消すと内側からドアを開けた。
「まあ、入ってよ。」
「はぁ…。」
彼に促されるまま、倉庫の中に入ると右側にはもう一つ別の扉があった。どうやら、その先が彼のアトリエになっているらしい。
「植草先生に頼まれたんでしょ?」
両手の塞がった僕を気遣い、先回りして扉を開けてくれた彼が背中越しに聞いてきた。
「そう…です。」
「だよね。頼んだの、俺だもん。」
何だか嘘みたいだ。
あの月森光と、こんな風に普通に会話しているなんて…。
足の踏み場の無い床。至る所に散乱した絵具や筆の数々。
天井をまたぐようにかけられた長い紐。そこに釣り下げられた沢山の絵には薄っすらと埃すらかかっている。
彼にとって、部屋の片づけは意外な弱点だったようだ。
唯一、スペースがあるとしたら窓際の一角だけだった。そこには立てかけたキャンバスと小さな木製の椅子が一つあった。
「あっ!それ、その辺適当に置いといて。」
「はぁ…。」
そう言われても、見渡す限り物に埋め尽くされたこの部屋に置き場なんてどこも無い。部屋の四隅に山積みになった本をどかし、そこに何とかスペースを作った。
それでもまだ床は大量の本や資料、描きかけのキャンバスなどで覆いつくされている。
「君…。名前は?」
彼は、窓の方の椅子に座って一連の作業を終えた僕に言った。手にしたスケッチブックには、早速何かのデッサンを始めている。
「秋斗…
「あきと…どんな字?」
「季節の秋に、北斗七星の斗です。」
声が震えた。
僕はまだ、彼をまっすぐ見る事が出来ない。
それなのに彼は、さっきから僕を見つめる事を辞めてはくれない。
「へぇ~、秋斗。いい名前だね。」
いい名前…?
そんな訳ない。分かりやすいお世辞だ。
僕はこの名前を一度だって良いと思った事なんて無い。
「よく…無いです。こんな名前。」
「…どうして?」
「パッしないじゃないですか。秋なんて…。」
そう。秋なんて季節の中で一番地味な季節。
まるで僕みたいな…。
「そうかな…?俺は好きだけど。」
「え…?」
「一番色を持っているよ、秋は。」
色を持っている。
まさに彼らしい意見だ。
けどそれと同時に、その言葉を素直に喜べない自分がいた。
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