第1話-色ー(2)
ある日、僕は油絵学科の
コーヒーと煙草の臭いのする教室。
植草先生とは入学当初の頃にも一度、ここで話をした事がある。周りに馴染めずにいた僕を気遣っての事だった。
「
長い木製の定規で、肩をトントンと叩きながら言った先生の声は、その振動で若干揺れている。
真面目だけが取り柄の僕にとって、出し忘れの課題なんてものは無い。
先生の言った課題と言うのは、僕だけに出された特別なものである。
猶予は半年。
それまでに、話し相手か友達を作れ、といういかにも植草先生らしい大雑把な課題だ。信頼の置ける人が一人でもいれば、作品にも大きく影響する。
以前、先生はそう言った。
目を掛けてくれているのは分かるが、僕が先生の課題を終わらせる日はきっと卒業しても来ないだろう。
美大に入って半年。僕にはまだまともに会話の出来る友達がいない。
「…いえ。」
僕はいつものように、目を伏せた。
自然と、声は小さく細くなる。
先生は、開いた教本に目を通したまま「へぇ~やっぱりな。」と言った。
その横顔は、いつだって特に驚く事もない。何とも、退屈そうである。
ヨレヨレになったワイシャツ。そのまくった袖に、視線を落とした。
ほんのり小麦色のがっしりとした右腕。その腕が、教本から手元のコーヒーへと移る。
濁ったレンズの眼鏡に、白髪の混じった短髪の髪と、武将に生やした短い髭。
深く椅子に座った先生の真横で立つ僕。
このいつもの定位置からは見慣れた光景だ。
歩み寄るようで、完全には踏み込まない。
あくまでも相手のテリトリーの中までは入らず、こちらが助けを求めるのを待つ。
植草先生は、他の先生とは違う不思議な空気感を持っている。
だが、いつもこの沈静な時間が、妙に僕には耐えがたかった。
「あ…じゃあ、僕はこれで…。」
絵に描いたようなぎこちなさだ。
僕はすかさず、その場から離れようする。
すると、一定のリズムを刻んでいた定規の音が突然止まった。
「じゃあさ、ペナルティーとしてその資材、校舎裏の倉庫に運んどんてくんない?」
「…え?」
先生が定規でさした先には、山積みになった資料本の束が積み上げられている。
「あ…はい…。」
僕が反論しない事を知っている先生は、山積みの本の元へ向かう僕を背に、ニヤニヤしながら言った。
「んじゃ、よろしくな~。」
スリッパのペタペタとした音が廊下に響いて遠くなっていく。
僕はいつもこうだ。
ていよく用事を押し付けられて、誰もいない教室でため息をついた。
大量の本を両手で運んで行くとなると、僕の両手では本が落ちてしまう。
けれど、今は一変にこの作業を終わらせてしまいたかった。別に友達もいない僕にはこの後、何かしらの予定がある訳ではない。
けれども、僕だって少しの理不尽に腹を立てる事だってあるのだ。
それは、決して他人には見せないけれど…。
僕は、とりあえず近くに教本を入れられる箱のようなものが無いか探した。
物ばかりが多い教室で、埃だらけになった空の段ボールを見つけた。埃を払い、一番大きいサイズの段ボールに本を詰めていく。
セミ達の声に混じって、どこか遠くの方で誰かの笑い声が聞こえた。女子の声だった。楽しそうに笑う甲高い声は、何人かの話声と共にどこかに消えて行った。
孤独は苦ではない。むしろ、集団のどこにも属せない人間には寂しいという感情さえ分からなくなる時がある。
しかし、時々無性にそれを自覚してしまう。
食堂でお昼を食べる時。他人の喜びや、悲しみに共感できない時。
それらを共有する相手がいない時。
僕は、一人なのだと感じる。
昼時の教室で、こんな事をしている学生はきっと僕だけだろう。本を全て詰め終わった所で、校舎裏の倉庫に向かった。
ここからその倉庫に向かうには、少し距離がある。
整備されていない道には、そこら中に雑草が生えていて、今の時期のような夏場は昆虫達の楽園になっている。
だから、誰も裏手側の倉庫には行かない。
第一、普段使われていない倉庫に行く用事など、こんな事が無い限り滅多に無いのだ。
箱一杯に教材を詰めた段ボールを抱え、教室のガラス戸を開けた途端、外の熱気で一瞬にして顔から汗が噴き出た。
暑苦しく長すぎる前髪が原因だろう。冷房の効き過ぎた教室が、空間の亀裂であるその境目を分かりやすくさせている。
ゴクリと唾を飲み込み、まるで別の国に踏み込むように背の高い草の道を進む。
伸びきった雑草が足のふくらはぎを刺すように擦れようと、そこが最短ルートである事には変わりはない。
大股で道なき道を進み続けると、その先に森林が見えた。森の手前に倉庫がある。
倉庫の手前で、草の道が消えた。一帯は細かい砂利になっている。
その一角に足を踏み入れ、ドアの前でようやく荷物をおろした。見た感じ、このドアは古くいかにも重そうだ。
錆びたドアノブをひねり、力強く手前に引っ張る。だが、押し引きを繰り返してもドアが開かなかった事で、鍵を忘れていた事に気が付いた。
初歩的で、致命的なミスだ。荷物に気を取られてすっかり忘れていた。
だが、判明した今、余計に汗が流れる。
それしかない事は分かっていても、それでもすぐに引き返す事を思うと気が引ける。
僕は二回目のため息をつき、錆びたドアを背もたれにしゃがみ込んだ。
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