第39話 北階段
「いててて」
下の階から、かすかに八雲の声が聞こえた。
「大丈夫?」
慌てていつかが、下を覗き込み、粉塵の中に向かって叫ぶ。
「ああ、なんとか」
粉塵の舞う中、薄っすらと八雲が再び尻もちをついて、腰をさすっているのが見えた。
「相当もろくなってるぞ。この建物」
八雲がいつかのいる上の階を見上げる。
「そうね。早くここから出た方がいいわね」
「そこから階段へは行けそうか」
「うん」
「こっちも行けそうだ」
「じゃあ、下に向かいましょう」
「ああ、じゃあ、下で会おう」
「分かったわ」
いつかは早速、階段へ向かって走り去って行った。
「あっ、しまった」
八雲は立ち上がってから気づいた。八雲のいる階は南階段への道が塞がれていた。八雲は遠い北階段から降りるしかなかった。しかし、いつかはもう、南階段の方へ行ってしまった後だった。
「しまったなぁ」
そう思った八雲だったが仕方なかった。下に降りてから、いつかを探すしかない。八雲は立ち上がって、北階段へと痛めた足と腰を引きずるように歩き出した。
北階段への廊下はやたらと長く、冷たい感じがした。どこか時空が歪んでしまったみたいに、何か不可思議な違和感があった。八雲は痛む体を引きづるようにして、そんな冷たい廊下を北階段へ向かって出来うる限り急いで歩いた。しかし、意識では急ごうと思っても、なぜかそれに体がついていかず、意識と体が分離してしまったみたいに、うまく動かすことが出来なかった。薄暗い廊下が、無機質に八雲の生命感を奪っている、そんな幻惑にも似た感覚が、八雲の全身を重く痺れさせていた。
「あっ」
それは、突然だった。八雲が顔を上げると、気配すらなく廊下の先に純が立っていた。
「・・・」
八雲は立ち止まり純を見た。それは、卓越した素朴な日本画のように無駄のない、静かな佇まいだった。
「うう・・」
とっさに逃げようと思った八雲だったが、逃げ場はなかった。八雲はその場に固まった。
「・・・」
しかし、純は八雲をただ静かに見つめているだけだった。
「・・・」
純は静かに八雲を見つめていた。その目の奥には、なぜかやさしさと悲しみが宿っていた。
「・・・」
襲われると思った八雲は、純のそんな何とも言えないやさしさに満ちた目に戸惑い、その場に金縛りにあったみたいに固まったまま、純を見つめ返していた。
「果てしない無限の宇宙の最果ての闇の隙間の中で、一瞬生まれた愛のために」
純はゆっくりと静かに、八雲の方へ歩いて来た。そこには、音も振動も、気配すらもなく、ただ、その場に一つの静かな現象が流れていくような自然な動きだけがあった。
「・・・」
八雲は、固まったまま身動き一つできなかった。
「そのたった一瞬の愛のために永遠の闇を生きなければならなくなった」
「な、何を言っているんだ?」
八雲は訳が分からなかった。
「たった一瞬の愛のために。たった一瞬の思いのために」
純の目は、人を殺そうとするそれではなかった。悲しみと愛おしさが抑えきれず、それが目の奥から溢れ、滲みだしているそんな目だった。
「・・・」
八雲はその何とも言えない慈愛の籠った目に見つめられ、更に頭の中が混乱した。
「あなたという存在は、輪廻の彼方でその思いと共にあり続ける」
遂に純は八雲の目の前に立った。
「あっ、あっ」
八雲は、言葉にならない言葉と共に、ただ成す術もなくその場に立ち尽くし、目の前に立つ純に圧倒されていた。
「八雲・・」
純は両手を包み込むように八雲の顔にもっていき、愛おしそうに八雲を見つめた。
「なっ、なっ?」
八雲は、なんだか様子の違う純の態度に戸惑った。
「八雲・・。それが今のあなたの名前なのね」
「今の名前?な、何を言っているんだ」
純は静かに八雲に顔を近づけていった。
「なっ、」
八雲は戸惑う。
「私はあなたを愛しているのよ」
「えっ?」
目の、すぐ前の純のどこまでも澄んだ瞳が、八雲の心の奥へと入ってくる。それはあまりに美しく可憐だった。八雲の意識は、痺れるような感動に震えた。
「あっ」
その時、純の薄いピンクの淡い唇が八雲の唇に触れた。心が温かく溶けていくような柔らかさが八雲の全身を包み込んでいく。それは人間の感じうる感覚全てを超えた壮大な幸福感だった。そして、その幸福感が、八雲の体の芯に集約されていくと、体の芯を貫くように走った。その瞬間、何か遠い、はるかに遠い何かとても大事な感情が、その純の唇の感触の向こうにあるのを八雲は感じた。
「あっ」
純が顔を離すと、八雲は驚いて純を見つめた。純の潤んだ瞳は堪らない愛おしさに溢れていた。
「私はあなたを愛しているの」
純はその透き通るような儚い声でもう一度言った。八雲は、訳も分からず、ただどうすることもできず、ただ純の目の奥のその思いに魅入られていた。
「あっ、あっ・・、俺は・・」
八雲は目の前の理解を超えた状況に、何も考えられず固まっていた。
「八雲・・」
純は固まる八雲の胸にその顔をうずめた。八雲は意識とは別の何かの感情で、その華奢な純の体を抱きしめた。質量のない絹のような肌触りが、ふわりと八雲の胸の中に広がる。しかし、そこには質量を越えた圧倒的存在があった。
「うううっ」
八雲はその時、堪らなく愛しいと感じた。この存在が何よりもありとあらゆる全てにおいて堪らなく愛おしかった。
「な、なんで・・」
なぜ自分がこんな感情を持っているのか不思議だった。しかし、それは確かに堪らなく愛おしく、厳然として八雲の中にあった。
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