第36話 結局

 八雲はふわふわとした淡い世界にいた。そこには形が無かった。光も色も時間も空間も、ありとあらゆる概念化できる要素が何も無かった。そこには、ただ暗黒の流れのような感覚があるだけ・・。八雲はその中に溶けるように漂っていた。

「俺は・・」

 八雲自身がうまく自分自身の実態を掴めなかった。

「いったい・・、俺は・・」

 ただ、八雲はその流れの中いた。ただそれだけだった。だが、しかし、八雲は消されるべき存在だった。存在してはいけない存在だった。闇の中で、ただそんな存在として、八雲はあった。

「俺は・・」

 そのことだけがなぜか八雲には分かった。

「僕は君を愛し続ける」

 八雲の頭の中に言葉が浮かんだ。いや、それが言葉なのかさえよく分からなかった。ただの想いなのか、ただの記号としての記憶なのか、ただの波なのか・・、ただの空気のような気もした。

「愛?」

 八雲の胸の奥に何か淡い感情があった。それはとてもとても大切な何かだった。とても大切な・・、何か・・・

 

 八雲が目を覚ますといつかの泣き顔が目の前にあった。

「お、俺・・」

「よかったぁ」

 いつかが八雲を思いっきり抱きしめた。

「俺・・・」

「あなたはずっと気を失っていたのよ」

「そうだったのか」

 八雲はまだ意識がぼーっとしていた。

「泣いてんのか」

「えっ」

 八雲がいつかを見上げると、いつかは慌てて涙を拭った。

「んなわけないでしょ」

 いつかは乱暴に八雲を膝から突き落とした。

「いったぁ、何すんだよ」

「いつまでも寝てんじゃないわよ」

「なんだよ。もう、全く」

 八雲は頭をさすりながら上体を起こした。その時八雲の目に、いつかの手に握られているいつかのちぎった濡れた袖が見えた。

「お前、わざわざ俺のために?」

「ち、違うわ。な、何言っているの」

 いつかはいつになく動揺して言った。

「ただ仕事だから、あなたを守っているのよ」

 いつかは怒って持っていた袖を投げつけた。

「いってぇ」

 それを慌てて八雲は手で受け止めようとしたが、至近距離でそれも叶わず、顔面の真ん中に命中した。

「ほんとお前は手加減を知らんな」

 濡れた袖を顔面から引きはがしながら、八雲が呟くように言った。そんな八雲を見て、いつかは笑った。

「まったく」

 そう言いながら八雲もつられて笑った。

「いててて」

 笑ったとたん八雲が顔をしかめた。

「大丈夫?」

 いつかが心配そうに顔を近づける。二人は見つめ合った。

「・・・」

「・・・」

 二人は無言のまま見つめ合い、自然と顔が近づいていった。

「・・・」

「・・・」

「バカ」

「いってぇ」

 もう少しでというところで、いつかの平手打ちが八雲の頬を打った。

「今どきの女子高生はそんなに安くないのよ」

「いってぇ、だから、ちょっとは手加減しろよなぁ」

 八雲が頬を抑え不満を漏らす。

「さあ」

 いつかは八雲に手を差し出した。

「ああ」

 八雲はそれをしっかりと掴んだ。いつかが八雲をその手を引っ張って八雲の上体を起こした。

「俺たちは結局こうだよな」

 八雲が言うと、二人は笑った。


「閉じ込められたのか?」

 笑いが消えると、八雲が周囲を見回した。

「ええ、完全に」

「・・・」

 八雲は、改めて薄暗い瓦礫まみれの廊下を見回した。純はいなかった。八雲にはなぜかそれが何か寂しいことのように思えた。散々襲われているにも関わらず・・。

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