第32話 戻ったはずの日常

 八雲は一人大学の構内を歩いていた。あの日以来、いつしか八雲は泰造たちからも浮き立った存在になっていた。八雲は精神異常者と思われていたし、八雲は八雲で、仲間に理解してもらえないいらだたしさを感じていた。いつも何をするにも一緒にいた五人だったが、次第に、付き合う回数も減り、八雲は一人でいることが多くなっていた。

 奇怪な行動をとった八雲は他の学生たちからも、奇異な目で見られていた。八雲が廊下を歩くと、そんな視線があちこちから八雲を捉えた。

 しかし、そんな視線も気にならないほど、廊下を歩く八雲の意識は呆けていた。何かが八雲の中で、切れてしまったみたいに。

 その時、八雲は、ふと、何か違う特別な視線を感じて振り返った。

「あっ、いつか」

 人ごみの中にいつかが立っていた。学生たちがごった返す廊下に、いつかがいた。八雲は慌てて駆け寄ろうと向きを変え、学生の溢れる人ごみにぶつかるように走り出した。しかし、いつかはそれと同時にというか、それよりも早く向きを変えると八雲に背を向けるような形で、そのまま歩いて行ってしまう。

「いつかぁ」

 八雲はその背中に叫んだ。何人かの学生が八雲を見た。八雲はそんな視線を無視していつかを追いかけた。しかし、上手く進めない人ごみの中、追えども追えどもいつかに追いつくことはできなかった。

「いつかぁ」

 再び八雲は叫んだが、いつかの後ろ姿が振り返ることはなかった。結局、いつかに追い付けないまま、いつかは消えるように人ごみの中で見えなくなってしまった。

「・・・」

 八雲はしばらく、人がぶつかっていくのも構わず、廊下の真ん中に立ち尽くし、いつかの去って行った人ごみを呆然と見つめていた。だがしばらくして、また、力なく歩き出した。

「結局あれも俺の幻覚なのか・・」

 八雲は、自分に言い聞かせるようにそう思った。


 ―――日々はたんたんと過ぎていった。八雲は相変わらず一人だった。何事もなく、当たり前の日常がそこにあった。あの時、必死で逃げていたあの時、八雲が望んでいたはずの平和な日常がそこにあった・・。

 八雲はその日常を生きようとした。しかし、それを生きるにはあまりに残った記憶にリアリティーがあり過ぎた。でも、だからといって八雲に何ができるわけでもなかった。

 八雲を信じる者は誰もいなかったし、八雲自身もう、自分を信じられないでいた―――。


 八雲は、気の抜けた意識で今日も大学にいた。授業を聞いても、全く上の空だった。何をしても虚しさしかなかった。何かふわふわと実感の薄い霧の中を生きているような、そんな感覚だった。

 八雲は次の講義のため、一人廊下を歩いていた。

「ん?」

 八雲は、背負ったバックの中で突然、何か熱のようなものを感じた。

「なんだ?」

 八雲がバックを下ろし、中を見ようとしたその時だった。バックが内側から赤く光っている。

「なんだこれ」

 八雲は驚いてバックのジッパーを開け、中を覗いた。それは布にくるんでバックの底に入れていた七支刀だった。それが、赤く光っていた。

「そうか、これを老師にもらって・・」

 八雲は完全に七支刀の存在を忘れていた。

「そうか。これがあったんだ」

 これがあるということは・・。

「おいっ」

 その時、突然背後で声を掛けられた。八雲が振り返ると、泰造がいつにない真剣な表情で立っていた。

「話があるんだ」

「なんだよ」

 あれほど仲の良かった泰造とも、純に絡んで投げ飛ばされたあの日から、なんだか気まずい関係になっていた。

「みんな心配してるんだ」

「ほっといてくれ」

 八雲はそのまま走り去ろうとした。

「俺たちの友情はそんなもんなのか」

 泰造が八雲の背中に静かに言った。八雲が足を止める。

「昔みたいに・・」

 泰造が言いかけた、その時だった。

「な、なんだ?」

 その時、天井が崩れるようなバカでかい音が校内に響き渡り、校舎が大きく揺れた。八雲が天井を見上げる。

「な、なんだ」

 泰造も天井を見上げた。

「エメラルダスだ」

 八雲が叫んだ。と同時に、大地も大きく揺れた。

「エメラルダス?お前まだ・・」

 激しい揺れの中、立っているのもおぼつかない泰造が、問い返すか否か、八雲はもう走り始めていた。

「お、おい」

「ついて来るな」

 八雲は叫んだ。八雲は泰造たちを巻き込みたくなかった。八雲は揺れる廊下を一人走った。

「ついに始まったんだ」

 何かが、何かが動き始めている。八雲はそれを肌でビシビシと感じていた。

「また、始まったんだ」

 八雲は走りながら、また、何かものすごく異常なことが起こり始めていると思った。

「何か決定的な何かが始まろうとしている」

 八雲はなぜか確信的にそれが分かった。

「やっぱり、やっぱり」

 八雲は興奮する自分を抑えられなった。何か自分の中にあったモヤモヤが晴れていくのを感じた。

「エメラルダス!」

 八雲は走りながら一人叫んだ。

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