どうしてが止まらない。

 どうしてみんなぼくに気がつかない?

 どうしてぼくはここにいる?

 どうしてぼくはこうなった?

 どうしてぼくは思い出せないことがある?

 どうしてぼくはここにいる?

 どうして彼女だけは、ぼくが見えたんだ?


 駅を出た。喧騒とは程遠い、駅前のロータリーが闇に沈んでいる。

 大学に行ってみようと思った。見覚えのある場所に行けばなにか思い出せるんじゃないかという安直な考えで。足を止めてしまえば不安に飲みこまれるという、直感で。

 でも、いいじゃないか。

 気持ちは何かに急いているけど、だからって急いでもなんにもならない。心だけは悟りを開いたように凪いでいる。なんだろう。自分自身が二つに分裂したみたいに、複数の思考が同時存在している。

 でも、さて、困った。どっちに行けば大学にたどり着けるのか、まだ思い出せない。

 あたりを見回すと、先ほどの女の子が道を歩いているのを発見した。

 よし、あの子に聞こう。

 彼女の後ろ姿に向かって跳躍。すぐ後ろに近づいてから、あ、これ不審者だわと思って前にまわりこんだ。

 でも、知らない人に突然後ろから声をかけられるのと、知らない人に突然前から声をかけられるのってどっちが怖いんだろう。

 目の前で靴音が止まる。案の定、街灯の下の彼女は真っ青な顔をしていた。

 ショートカットの髪。しっかり着込んだコート。きっちり巻いたマフラー。コートからのびる細い脚には黒いタイツ。かわいらしい女の子が、目の前でプルプル震えている。

 寒いのかな。引き留めて悪かったかな。

「あのう。」

 とりあえず安心させないと。

「あの、ぼくの事、見えてますか。」

「……はっ?」

 涙交じりの声がした。

 ……泣くほど怖かっただろうか。もうしわけない。

 でも、良かった。とりあえずぼくの言葉は通じるようだった。

「あの。東峰大学って、どっちのほうですか。」

 震えが収まらないのか、肩が小刻みに動いている。

 コートでよくわからないけれど、足の細さからして全体的に華奢なんじゃないだろうか。早く家に帰って温まった方がいい。じゃないと彼女にとってもぼくにとってもただただ寒いだけの時間が過ぎ去ることになる。

 寒さで回らないのか、彼女の声はひどく小さくて、不明瞭だった。

「……あ、あっちです。」

 すっと進行方向を指さす女の子。そちらを見ると定期的に街灯があるだけで、あとは先ほどと同じような線路わきの道路が続いてる。

「そっか。ありがとう。」

 これ以上引き留めても悪い。ぼくは早々に身をひるがえすと、彼女の指した方向へと足を向けた。今度は一歩ずつ歩いている。線路沿いをいけば、そのうち目的の最寄り駅に着くだろう。

 ちらりと振り向くと、女の子はもういなくなっていた。こんなに暗いのにどこかの路地にでも入ったのだろうか。不用心な。でも、早く家まで帰り着けるといいな。

 ぼくは薄暗い道を歩く。

 そうだ。今のうちに試しておこう。いちおう目を閉じてから、頭の中に大学の姿を思い描いた。

 駅からの道のり、校舎の形。友人たち。

「……。」

 何一つ、思い出せない。

 霧がかかってるなんてもんじゃない。白い画用紙に架空の街を想像するていどの無茶な気配がする。

 そもそもぼくはなにを思い出そうとしたのだろう。目を開ければ、そこは前と同じく淋しい道路の上。

 どうやらうすぼんやり憶えているくらいでは、目的の場所までとぶことはできないようだ。だとすると、一度しっかりと見てしまえば、どんなに離れていてもとべるのだろうか?

 ぼくは無意識に、コートの中に着ていたシャツの胸ポケットへと手をのばした。自然にペンと小さなメモ帳を取り出してから、実物を見て笑ってしまう。たしかにこれらはぼくの愛用の品なのだろう。

 メモ帳にはなにか文字が書いてあったが、ミミズが這いずったような跡にも見えた。もしかしたらこれは頭にもやがかかった景色で、ほんとうはしっかり何かが書いてあるのかもしれないけれど、今のぼくには読めない。

 そう、その客観的事実だけが、今のぼくにとってほんとうのこと。

「暗いから読めないな……。」

 とにかく、そういうことにしておこう。

 ぼくは何の気なしに白いページを開き、万年筆のような形状のペンで「二〇七〇年二月七日夜十時。迷子。大学を目指す」と書きつけて、 大人しく、出したものをコートのポケットに、大事にしまう。いつかちゃんと、すべてが読めるときがくると信じて。


 一時間ほどのんびり歩いて行くと、見慣れた駅が見えてきた。その駅を知っているということを思い出せたことにほっとした。

 人はまばら。そりゃあそうだろう。もう終電の時間は過ぎている。

 このあたりは見るからに、企業の入るビルなどが乱立しているオフィス街。夜の人口は極端に減る。さっきの駅とあまり離れていないのにえらい違いだ。

 闇に沈むビルはどれも輪郭がぼやけていた。ぼくの足と同じ、というわけではない。街灯のかすかな光が、生い茂る樹木を黒く照らしている。

 ありとあらゆるビルが、蔓や細い幹に覆われていた。もちろん朽ちるような雰囲気はなく、きっちりと管理された壁面緑化の結果で、窓や入り口はしっかり光を取り込めるように空いている。

 計算された伸び方で。ただし、自然に見えるように。

 駅前通りを歩いていると、既視感をひしひしと感じる。今のぼくにとっては初めて歩く道のはずなんだけどな。

 ふと、ぼくはあるビルの前で足を止めた。知っているビルだ。まったく思い出せなかったことのはずなのに、その事実が真実であると根拠もなく理解してしまう。

 ぼくはこのビルに入っている会社に勤めていたことがある。

 ゼミの教授からの推薦で入った会社だった。仕事はデータの解析が主で、大学でやっていた研究の延長のようなもの。

 大学院に行くよりも、専門の機関に所属したほうがいい。確か教授にそんなことを言われたような気がする。ぼくの研究は学術的に見るとそこまで重要視されていなかったから。

 そこまでのことを思い出せるのに、教授の顔も、学部も、研究の内容もさっぱり思い出せない。

 試しにビルの中に入ってみた。自動ドアをするりと透り抜ける。

 電気はすべて消えている。試しにエレベーターのボタンを押してみたら動いた。

 ぽん、と音がして明るい光がこぼれる。

 エレベーターの中に入ると、慣れた動作で五階のボタンを押していた。

 会社のことで思い出したのは、ぼくの他に研究員が五人、事務員が二人いたってことだけ。顔なんてもってのほか。

 記憶に残るような思い出はなにもない。

 エレベーターが五階に止まる。

 暗い廊下は非常灯の緑色の光の中にうすぼんやりと浮かんでいる。すぐ目の前にはドアが二つ。

 一つは事務所への扉。もう一つがぼくらの研究室への扉。

 ぼくは研究室への扉を透りぬける。

 中にはブースに区切られた四つのスペースがある。

 ……四つ?

 一番奥、ぼくの机があるところへ向かう。しかしそこにぼくの机はなかった。置いてあったはずのパソコンや紙の資料、大学の研究室からそのまま移してきた鉢植えたちも、なにもない。

 部屋を間違えたのだろうか。いや、そんなはずはない。他のブースは物の動きはあるものの記憶の中と配置は変わっていない。

 どういうことだ? ぼくは、もうここにいないのか?

 そこでぼくははっと気がつく。今さっきぼくは、このビルを見てなにを思い出したのか。「勤めていたこと」だ。

 ぼくはもうこの会社にいない。そのことを確信したのに、じゃあ今のぼくがどこにいるのかは全く思い出せなかった。

「……いや。今はどこにもいないのか。」

 ぼくは自嘲気味に自分の足を見下した。

 うん。視えない。

 こうなった以上、もう社会のどこにも所属しているわけがない。

 しかし面白いもんだ。まったく根拠がないのに、思い出した記憶に関してはそれが記憶違いや妄想の類ではないと謎の自信がある。一体この自信はどこから来るんだろう?

 その時、外で音がした。

 非常階段のほうから光がゆらゆらと近づいてきて、研究室の前にやって来る。どうやら光源を持った人のようだ。がちゃがちゃと音がして、扉の鍵が開けられた気配。

 ぼくは隣の机の下にすべりこんだ。

 扉が開いた。

 かつ、かつと慎重に歩く音。ふらふらと光が揺れる。懐中電灯だろうか。

 光の後に男の足が見えた。ぼくのほうを照らすが、「おかしいなあ。」と呟いてそのまま去ってしまう。

 どうやら警備員だったようだ。

 なんだったんだろう。まあ、いいか。ぼくもさっさと外に出ることにした。

 エレベーターの前まで来た。警備員は帰りも階段を使ったようでエレベーターは五階にいるままだ。他に使う人もいないから当たり前か。

 ぼくは「あ。」と声を上げる。

 ぼくは今、特定の人にしか見えないようになっているようだ。つまり見えない人からしたら、エレベーターがひとりでに動いたように見えたのではなかろうか。警備員だったら監視カメラくらい見ているだろう。

 ひやひやしていたのはぼくばかりではない、ということだ。

 案外、世の人々が遭遇する心霊現象というのは、こうやって発生するのかもしれない。……や、まだぼくが幽霊になったという確証もないのだが、

 静かに階段に足を向ける。これ以上警備員の仕事を増やすのはしのびなかった。


 大学への興味はなくなっていた。先ほどいた駅を思い浮かべると、二歩先はもう駅の中だった。

 時間は深夜をおおきくまわっていた。終電の終わった駅は電気が消えて不気味に闇に沈んでいる。

 こういう光景を見たことがある気がした。自分の体験談、ではないはず。確かぼくはあの時座っていたような。なんだっけ。夜中の線路を歩く、昔の映画。

 改札をすりぬけても、おじさんみたいにはひっかからない。

 駅員も帰った後なのだろう。がらんとしたホームに人気はない。

 なんのためらいもなく、線路に飛び降りた。

 線路を歩く。方角が合っているなら最初に彼女と出会った駅へ帰ることができるはずだ。線路は映画のようにまっすぐ伸びているわけではなかった。枕木の上を選んで歩いているうちに、目の前を花びらのようなものが横切った。

「……雪か。」

 残念ながら、温度は感じていない。雪が降るほどの凍てついた空気を、もうぼくは感じられないのだ。息をしているのかも定かではないが、白い息を吐けることもない。

 元の駅に戻るころにはレールにうっすらと雪が積もっていた。住宅地は点々とある街灯以外闇に包まれているが、白い雪のおかげで明るさが増している。

 これは明日の朝、雪かきする程度に積もるかもしれないな、と思いながらひらひらと舞う雪を目で追った。

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