5 音が鳴らない

 ユリハ会長と別れてからも、母さんの歌を俺が完成させるべきだ、というユリハ会長の言葉が頭から離れなかった。

 完成させるというのが、正しい表現なのか分からない。母さんの歌は俺の記憶が正しければ、あの時点ですでに完成していたように思う。だけど、ユリハ会長は「完成させるべき」と言った。

 そのことに何か意味があるような気がした。


 完成以前に母さんの歌をしっかり再現できるか分からなかった。ましてや完成など。できるかは未知数だ。

 けれど、やっぱりユリハ会長の言うとおり、俺はあの歌を完成させなければならないのかもしれない。


 あの時、一瞬だけど瞼の裏に浮かんだ母さんの顔を思い出す。記憶の奥に埋もれてしまったあの顔は、それでも口元だけはハッキリと思い出すことができた。

 その口で母さんは俺に何かを伝えていた。それは、母さんの歌と関係がある。

 根拠もないのにそう確信していた。


 特に手がかりやとっかかりがあるわけではなかったが、まず真っ先にナビゲーターに触れたいと思った。

 いつも母さんが弾いていたナビゲーター。


 父さんは一度、母さんのナビゲーターをその辺のやつに二束三文で売ろうとしたことがあった。

 ちょうどこの街に越して来た頃のことだ。

 母さんのことを忘れて、新しく自分の人生を歩もうという父さんなりの決意の表れだったのかもしれない。俺は母さんのナビゲーターを手放すなんて大反対だった。


 値段的な価値なんかどうだってよかった。

 母さんが弾いていたこと。

 母さんと一緒にあの歌を聞かせてくれたこと。

 それが俺にとっては何よりも価値のあるものだ。そんな大事なギターを売ろうとした父さんを、俺は一時期許すことができなかった。

 今となっては父さんの気持ちも分かるし、父さんとの関係は修復済みだ。


 家に帰るや否やナビゲーターを手にとった。

 あっという間にチューニングを終えて、プラグインヘッドホンアンプをジャックに差し込む。ボリュームつまみを回したとき、いつもはない違和感を覚えた。


 音が鳴らない。


 何度弦を弾いてもヘッドホンから音が聞こえてこなかった。

 しばらくギターのつまみを回したりヘッドホンのつまみを回したりしたけれど、何をしても音が鳴らない。他のギターを持って来て、同じことを試してみると今度はちゃんと音が鳴った。


 ということは……母さんのナビゲーター側のトラブルということだ。


 俺はすぐさま母さんのナビゲーターをケースにしまって、父さんがやっている『UCHIDA楽器』に向かった。店なら父さんかあっくんがいる。あの二人ならトラブルの原因が分かるかもしれない。


 店に着くと俺の予想に反して、父さんもあっくんもいなかった。

 シャッターが下ろされており、鍵がしっかりかけられていた。肝心な時に店を閉めてやがる。俺も合鍵を渡されているから開けることはできるが、開けたところでここに来た目的は果たせない。

 がっかりして店の前で途方に暮れていると、聞き慣れた声に名前を呼ばれた。


「あれ? ケイガ。何してるの?」


 声の主は、ケイだった。


「ケイ? お前なんでこんなとこにいんだよ」


 俺がそう訊くとケイは一瞬気まずそうに顔を背けたが、すぐに俺の方を向き直して笑った。


「ちょっとこの近くのスタジオでね。秘密の特訓」


 この辺にスタジオなんかあっただろうか。

 この辺にあるものと言ったら、このチンケな商店街くらいのものだ。それにスタジオに行っていたと言う割には手ぶらだ。自慢のSGは持っていない。

 疑っても仕方がないので聞き流すことにする。正直、今はそれどころではない。


「ケイガの方こそどうしたの? お店に来たはいいものの開いてなくて入れないとか?」


「そんなんじゃねぇよ。俺、合鍵持ってるし」


「それじゃあなんで入らないの? 何か他に困ったことでもあった? 例えばそのギターが壊れちゃったとか?」


 ケイの鋭い質問に動揺する。ユリハ会長といい、こいつといい、どうしてこう俺の周りには洞察力に優れた奴が多いのだろう。

 ひとまず余計なことを考えるのはやめる。藁にもすがりたい思いで、ケイに家であったことを説明した。


「なるほど。音が鳴らなくなっちゃったのか」


 ケイはそう言ってしばらく考え込んだ。何を考えているのか見当もつかない。ケイにどうにかできるわけがないと思うと説明した意味があったのか疑問に思えてくる。


「絶対そうだって断言はできないけど、もしかしたらなんとかなるかもよ」


「おい、マジかよ。お前、直せんの?」


 ケイのまさかの発言に驚きを隠せない。


「お前、そんな知識いつの間につけたんだよ」


「ちょっと、落ち着いてよ。修理できるかは分からないよ。もしかしたらってだけだから……」


「どっちでもいい!! とにかく、今、店開けるから直してくれ!!」


「落ち着いてって……」


 興奮した俺をなだめようとするケイを無視して店のシャッターを開ける。

 ガラス張りのドアから見える店内は薄暗かった。もう夕方も暮れそうな時間だということを思い出す。

 鍵穴に鍵を差し込んで回すと、カチャリと無機質な金属音が鳴った。急いで店内に入り、照明を点ける。

 ケイも店内に入ったことを確認すると、俺はギターケースから母さんのナビゲーターを取り出してアンプに繋いだ。

 ボリュームつまみを回し、ほんの少しだけ、音が鳴ってくれるんじゃないかと期待を込めて弦をピックで弾く。やはり音は鳴らなかった。

 自然とため息が漏れる。このギターに何かしらのトラブルがあったんだという疑いが、確信に変わる。

 ケイは俺の様子を最初から最後まで黙って見ていた。俺が「はぁ……」ともう一度小さくため息を吐いて、肩をすくめるとケイはようやく口を開いた。


「ホントだね。音が出ない。シールドを刺した時もノイズがなかったよね。念のため確認するけど、違うシールドは試してみた?」


「当たり前だろ。他のシールドでも同じだ」


「アンプの電源は入ってるもんね。アンプの方のボリュームもちゃんと上がってるし、ギターの方も回してる。エフェクターとかはかましてないし……そうなるとやっぱり、ギターそのものの問題か」


 いちいち分かり切ったことを確認するケイに少しイラついた。けれど、藁にもすがらなければならない俺は、そのイライラを今ここでぶつけるわけにはいかない。


「それじゃあ、やっぱりギターの修理が必要だね。きっと配線関係だと思うんだよね。ボディの裏にあるビスを外して見てみようか」


 ケイはサラリと言ってのけたが、すぐに「そうしよう」と応じることができなかった。

 そんなことして大丈夫なんだろうか。余計に壊れてしまっては困る。


「おい、そんなことして大丈夫なのか?」


 俺は感じた不安をそのままケイにぶつけた。


「ケイガ、楽器屋の息子なのに修理の知識ないの? 俺もそんなに詳しいわけではないし、素人がやるべきではないのかもしれないけど、開けて見るだけなら壊れたりしないだろ? 見てすぐに分かる異常があれば俺たちでも直せるかもしれないし」


 なんとなく挑発されている気がする。ケイは俺の性格をよく知っていた。こんな風に挑発されると「できない」とは言えない。

 それでも大事な母さんのナビゲーターの命運がかかっていると思うとすぐに「やろう」とは言えなかった。


「どうする? そのうちケイガのお父さんとかあっくんが来るかもしれないからそれまで待つ?」


 おそらく今日は来ないだろう。この時間に店を開けていなかったのだから、店は休みだったのだと思う。

 そうするとあっくんは休みを取っているはずだ。

 父さんは元々店にあまり顔を出さない。

 そうなるとギターを直せるのは明日以降になる。俺はどうしても今日、なんなら今すぐにでもこのナビゲーターを弾きたかった。


「よし、やろう。ドライバー持って来るからちょっと待ってろ」


 ナビゲーターを鳴らしたいという欲求を思い出すと、さっきまで主導権を握っていた不安が小さくなった。


「ここでやるの? 向こうの作業台でやったほうがよくない?」


 ケイは冷静に店の奥の作業台を指差した。ケイのいうとおり、作業台の上でやったほうが落とす心配などなくて安心できる。

 俺は一度だけ頷くと、シールドを抜き取って作業台までギターを運んだ。ステッカーだらけの裏面を上にして作業台の上に乗せる。


「ここの蓋みたいなのを外せばいいんだな?」


 俺は分かり切ったことを確認する。ケイを共犯者にしてしまいたいと思った。


「うん。そこを開けたら、たぶん配線が見えるはず」


 ケイもさっきまでよりもいくらか緊張しているように見える。

 俺はケイの言葉を合図にドライバーをビスの頭に合わせて、ゆっくりと回した。長い間回されていなかったであろうビスは、最初こそ抵抗があったものの、すぐに滑らかに回りだし、あっという間に最後まで回し切ることができた。


 四点留めのビスをすべて外し終えて一息つく。ビスを回し始めた時よりも、蓋を開ける今の方が緊張している。


「開けるぞ?」


 確認するとケイは、無言で頷いた。ケイも俺と同様、緊張しているようだった。

 ゆっくりと蓋を持ち上げると、何かカサカサと音が聞こえた。


 そこには小さく折りたたまれた紙が入っていた。

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