7 きっかけ

 レイカさんのスタジオに着いてから、既にかなりの時間が経っていた。


 レイカさんも最初は「そのうち来るでしょ」と言って、あたしにベースの弾き方を教えてくれていた。だけど、時間が経つにつれ「おかしいね」と呟くようになった。

 何度かレイカさんに断って、エリに電話してみたけどつながらなかった。


 レイカさんは、小さなアンプの上に腰かけていた。あたしのために家でも練習できるようにと用意してくれたものだった。アンプには黒字にピンクの文字が書いてあるステッカーが貼られていたが、今はレイカさんが腰かけているから見えない。

 それと、ベースも貸してくれると言って持ってきてくれた。ベースにも同じステッカーが貼ってあった。

 よくよく見てみると、無造作に置かれたギターやドラムセットにも同じステッカーが貼ってあった。レイカさんの趣味で好きなステッカーなのかもしれない。


 ベースやアンプを貸してもらえるのはとても嬉しかった。買うには何ヶ月もお小遣いを貯めないといけない。

 だけどエリと連絡が取れない今は手放しで喜ぶことができなかった。


 エリが一向に姿を現さず、連絡もつかないという状況に、妙な胸騒ぎを覚えていた。

 レイカさんは「もう少し待ってみよう」と言ってあたしのことを落ち着かせようしてくれた。


「確かにアカネはさ、ドラムが大好きでここに来るのを休んだことなんかないんだけどさ、あの子、あぁ見えて突拍子もないこと言いだしたり、やりだしたりするからね」


 レイカさんが独り言のように言った。あたしは、そわそわとベースの弦に触れたりピックで軽く弦を弾いたりしていた。


「そうそう。あの子が私のところに来るようになったきっかけの一つってナナカ、あんたなんだよ」


 そう言われてあたしは、驚いて顔を上げた。レイカさんの顔を真正面から見る。


「あの子ってさ、内気で引っ込み思案でしょ? だからさ、私のところに来るまで一年くらいうじうじ悩んだんだってさ。だけど、あんたの影響で来るって決めたんだって」


 あたしには全く心当たりがなかった。


「あの、それってどういうことですか? エリがドラムを習い始めたのって、そんなに最近のことなんですか?」


 あたしがきっかけでドラムを習い始めたというのなら、あの委員会のとき以降ということだろうか。それでも何かきっかけになるようなことをしたり、話したりした覚えはなかった。


「う~ん、あの子がここに来だしたのは、確か二年前の夏。ちょうど夏休みに入った日かなんかじゃなかったかなぁ?」


 ますます心当たりがない。二年前というとあたしたちが一年生のときのことだ。


「え!? そのころってあたしとエリは何の接点もなかったと思いますけど。クラスも違ったし。あたしとエリって、今はそれなりに仲良く話すようになりましたけど、この前レイカさんのところに初めて来たときから本格的に仲良くなったというか……。つい最近まで挨拶をする程度で。こう言っちゃなんですけど、あたし、たぶん一言もエリとまともに会話なんかしたことなかったですよ」


 レイカさんの話に頭が混乱していた。でも、おかげでエリへの心配が少し和らいでいた。あたしを気遣ってわざとそういう話題を選んでくれているのだろうか。


「そうみたいだね」


 レイカさんは短くそう言った。レイカさんが続きを話すのを待つ。


「でもね、あの子はそのずっと前からあんたのことを知ってたみたいだよ。コウジロさんはね、コウジロさんがねって、いつも私に話してたから」


 意外だった。自分で言うのもなんだけど、あたしはそこまで目立つタイプではない。

 たしかにエリカのような目立つグループの子たちとも普通に話すし、遊んだりもする。けど、そのグループに属しているかと言われればそんなことはない。

 きっと何の特徴もない女子というのが外からの正しい評価だ。


「あの子、あんたのことナナカって呼び捨てにするでしょ? それがいつからか当ててあげようか?」


 あたしは曖昧に頷いた。


「二回目にあんたと話したときに呼び捨てになったはずだよ」


 当たっている。あのエリが下の名前を呼び捨てにしたことに少なからず驚いたから記憶にある。


「どうして分かるんですか? エリから聞いたんですか?」


 レイカさんはゆっくりと首を横に振ると言った。


「私がそうしろって言ったからだよ」


 そう言われて、レイカさんも二回目にあたしを呼ぶときには『ナナカ』と呼び捨てになっていたことを思い出した。


「あの子が話すことと言ったらドラムのことか、あんたのことだけだったんだから。それならそのナナカって子、連れてくれば? って言ったとこがあったんだけど、そしたらあの子一度も話したことないって。どうしたら仲良くなれるかな? って言うからまずは勇気を持って話しかける。話題がないなら事務的なことでもなんでもいいから。そのあとできるだけ早く下の名前を呼び捨てにしてみること。そうしたら仲良くなれる。って言ってやったんだよ。私流のおまじないで深い意味はないんだけどさ」


 エリはそれを忠実に守った、というわけか。


「アドバイスしてから半年後くらいかな? やっと話せたって嬉しそうに言ってたよ」


 その姿は簡単に想像できた。少し前だったらこんな風にエリがいないところで、エリのことを考えることはなかった。ましてやエリのリアクションや行動を想像することなどできなかった。


「そうだったんですか。言ってくれたらもっと早く話したりできたのに……」


「それができないのが、あの子なんだよ」


 レイカさんは苦笑いを浮かべた。


「それはそうなんですけど……。でも、それで、レイカさんにドラムを習うきっかけっていうのは何だったんですか?」


 最も気になるところだった。今の話とドラムを習うこととがいまいち繋がらない。


「あんたたちが中学に上がって少ししてからの話みたいだけど。アカネはいじめを受けていたみたい。もしかしたら今も、なのかな。特に小学校の頃は酷かったみたいで、中学に上がるのをきっかけに少し落ち着いたみたいだけど」


 あたしとエリは違う小学校の出身だ。エリがいじめられていたという話を聞いたことはなかったけど、心当たりが全くないわけではない。


「あるときアカネが何かの用事で教室に遅くまで残っていたらしいんだ。用事も終わって帰ろうと教室から出たとき、隣の教室から話し声が聞こえてきたんだって。それはアカネの悪口だったみたい。具体的には『ムカつく』とか『ぶりっ子』とかそういうものだったみたいね」


 そう言われているのは何となく想像がついた。


「聞いてしまったアカネは、中に入って行って文句を言うことはもちろんできない。かと言って、その場から逃げることもできなかったんだって。その場で立ち止まって、その悪口を聞いていることしかできなかったみたいね。私なら、なんだと! このヤローって、怒鳴り込んで胸倉でも掴むんだけどさ」


 レイカさんは小さく笑ったが、すぐに真顔になって続けた。


「それでその悪口を言っている子たちの一人が、アカネについてどう思うかを他の子に訊いてたんだって。アカネはそうやって悪口に花が咲いて、あっという間に広がっていくことを嫌というほど知ってたから耳をふさごうとした。だけど、最初に聞こえてきたのは意外な言葉だったそうよ」


 なんだと思う? と問うような目でチラリとあたしを見た。何も思いつかなかった。


「どう思うか聞かれた子は、『あたしは桜澤さくらざわさんのことはよく知らないから、ムカつくとは思わないかな。あ、でも小さくてカワイイ子だよね』って。他の子が色々と悪口を言っても、その子だけはどんなに同意を求められても決してアカネの悪口は言わず、最後には『あたしは自分にウソついてまで思ってもないことは言えないな。ごめんね』って言ったんだって。それをきっかけに場が白けちゃって、そのまま別の話題になったから、アカネはその場から立ち去ることができたって、そう言ってた」


 レイカさんはそう言うと「ふぅ……」とため息を吐いた。そして、少し間をとって言った。


「その場を白けさせた子がナナカ。あなただったんだって」


 全く記憶がなかった。


「エリはどうして、それがあたしだって分かったんですか?」


 率直な疑問としてレイカさんに訊いた。


「うん。そのアカネの悪口を言ってた子たちがナナカって呼んでたって。珍しい名前だし、通りすがりにチラッと顔を盗み見ることができたから、次の日たまたま体育で授業が一緒だった時にしっかり確認したって言ってたよ」


 確かに一学年にクラスが多いあたしたちの中学は、二クラスが合同で行う授業がいくつかあって、その一つが体育だった。

 あたしは、一年のときエリが隣のクラスだったことすら、記憶になかった。


「そうだったんですか。申し訳ないというかなんというか……あたし、記憶にないです」


 レイカさんに謝っても仕方ないのは分かっていた。


「あはは。それはあんたが根っからのそういうやつだから、あんたにとっては当たり前のことなんだよ。だから記憶になくても私は不思議じゃないと思うよ」


 腑に落ちなかったけど、悪い気はしなかった。


「そうなんですかね? だけど、そのこととエリがレイカさんのところに来るようになるのとどう関係があるんですか?」


 まだ、まったくピンときていなかった。


「うん。あの子はね、ナナカが悪口を言わなかったことが嬉しかったみたい。あなたにはそのつもりがないかもしれないけど、そんな風に自分を庇ってくれた人はそれまでいなかったんだって。それだけじゃなくて、そうやって周りに流されないで自分の意見をハッキリ口にしたナナカをカッコイイと思ったんだって。だから自分もナナカみたいになりたいって。だから一年以上もどうするか悩んでたのに、その週の土曜日、勇気を出して私のところに来たんだってさ」


 あたしにはよく分からなかった。たしかに習い事を始めるのは多少勇気がいるだろうけど、そこまでのことなんだろうか。


「そんなことで、エリはレイカさんのところに来るって決めたってことですか?」


 レイカさんは優しく微笑んだ。


「ナナカにとってはそんなことでも、アカネにとっては、それくらい大きなことだったんだよ。だからあの子はあんたにすごく感謝してるし、尊敬もしてるみたいだよ。当時、神城こうじろさんに救われたって大げさじゃなくそう言ってた。あ、この話、私がしたって言ったらアカネは怒るかもな」


 いたずらっ子みたいに舌を出すと、大きく伸びをして、レイカさんは立ち上がった。


「それにしてもアカネ、遅いね。今日はもう遅くなっちゃったから、ナナカ、あんたはもう帰りな。送って行くからさ。アカネには私の方からも連絡してみるから」


 そう言われて随分と時間が経っていることに気がつく。エリはどうしてしまったのだろう、とまた心配になる。


「大丈夫。あの子のことだから、何か変なこと思いついて、今日は来ないことにしたんでしょ」


 レイカさん自身も思ってもいないことを言っているのが分かった。あたしを安心させようとしているのだろう。あまり嘘が得意な人ではないようだ。


「ほら、行くよ。また次の金曜日にね。今度はアカネと一緒においで」


 心配だし、本当はここでずっと待っていたかったけど、そうもいかないことは分かっていた。何よりレイカさんの優しさを無駄にはできないと思って、素直に従うことにした。


 レイカさんは律儀にあたしを家まで送ってくれ、お母さんに「遅くまでお嬢さんを連れ回してすみません」と謝罪までしてくれた。そして、お母さんと二言三言交わすと丁寧にお辞儀をして帰っていった。


 その夜、あたしはなかなか眠ることができなかった。

 結局、エリからはその夜も次の日も連絡がないままだった。


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