6 体育祭

 例年通りというべきか、体育祭の日は雲一つない快晴だった。なぜか運動会や体育祭の日はいつも晴天だ。

 あの日以来、エリとあたしは放課後、毎日走る練習をしていた。


「体育祭が終わるまでは、ドラムを習いに行けない」と連絡した時、レイカさんは相当驚いていた。どうやらエリが「行かない」と言ったのは、初めてのことだったらしい。

 すぐに電話を代わってもらい、あたしも行かないことを伝えた。レイカさんは驚いてこそいたが、特に深く理由までは訊かなかった。


「そう? ナナカもなの? それなら二人とも一ヶ月くらいは来ないわけね。う〜ん……」


 レイカさんは少し考えてから、続けて言った。


「そうだ。体育祭は再来週の日曜日なんでしょ? それなら体育祭終わった後そのまま来る? その日なら私は一日オフだからさ。もちろん疲れてなければだけど、あんたたち若いんだから大丈夫でしょ?」


 通話口を塞いでレイカさんの言ったことをエリに伝えると、エリは嬉しそうにぶんぶんと首を縦に振った。


「やったやった。それならいつもより長くドラム叩ける!」


 この様子だと疲れて行けないなんてことはありえなさそうなので、あたしは「必ず行きます」と言って電話を切った。


 それから三週間。毎日、リレーの練習をした。

 あたしはジャージを着ていたが、エリはより本番に近い状態ということで、半袖にハーフパンツ姿だった。

 陸上部が練習をしているすぐそばで見よう見まねで、反復横跳びをしてみたり、合図に合わせて走る練習をしてみたり、様々な練習をした。毎日嫌がらせのようにそばで練習するあたしたちを見かねた同じクラスの陸上部の子が簡単な練習方法を教えてくれたりもした。


 何度も何度も繰り返し繰り返し走ったが、エリがあたしより早くゴールラインにたどり着くことは一度もなかった。

 それでも練習成果の確認のために計り始っていたタイムは、少しずつ良くなっていった。


 けれど、やっぱりエリがリレーを走って、あたしたちのチームが一位になるのは難しいように思われた。


「やれることはやったと思うよ。ナナカにも毎日付き合ってもらって。だからあとは本番で頑張るだけだよね」


 体育祭前の最後の金曜日、エリはそう言って笑った。その顔には達成感が浮かんでいた。


 そうして迎えた体育祭当日。


 各競技を終えて、あとはクラス対抗リレーを残すのみとなっていた。

 うちの中学の体育祭は、一年生から三年生までの各クラスがチームとなって、各競技の順位によって得られるポイントを競う。一学年が六クラスあるため六チームに分かれてポイントを競い合う形だ。

 最終的に一番多くのポイントを獲得したチームの総合優勝。

 中でもクラス対抗リレーは体育祭のトリを飾る競技で、獲得できるポイントが他の競技に比べて高い。


 あたしたち六組は、一位の二組と僅差の二位につけていた。

 クラス対抗リレーの出走前に発表された途中経過では、リレーで二組に勝てば優勝という状況になっていた。そんな状況を受けてあれほどやる気のなかったクラスの連中がにわかに色めき立つ。


 エリは良くも悪くもいつも通り、目立たない位置でボーッと突っ立っていた。あたしはエリの側に行って声をかける。


「エリっ! 頑張ってね。練習通りに走れば大丈夫だから」


「うん。頑張るよ。ちょっとストレッチしたら身体もほぐれたし、うん、大丈夫」


 エリはそう言って胸の前で小さく両手でガッツポーズをした。


「これより、最終競技、クラス対抗リレーを始めます。選手の皆さんはトラックの中に入ってください」


 出場選手に集合を促すアナウンスがかかる。あたしはいつものようにエリの背中をポンッと軽く叩いて送り出した。

 あたしから少し離れたところで、何人かの女子がエリに声をかけていた。

 その中にエリカの姿もあった。何を言ったのかまでは聞き取れなかった。


 クラス対抗リレーは、一年生から男女の順番にトラック半周を走る。エリはアンカーを務めることになる。

 エリの足はいくら練習したとはいえ、はっきり言って並以下だ。つまり、順位の行方はエリに繋ぐまでに前の選手たちがどれだけのリードを付けられるかにかかっていた。


 あたしのいる応援席の目の前が最終的なゴールになっていて、今は男子が出走を待っている。

 女子はトラックを挟んで向こう側だ。エリもそこで待機していた。


 しばらくすると第一走者の一年生男子がスタート位置につき、向こう側では一年生女子がスタンバイを始めた。そして、小さなピストルを持ったスターターが台に登る。


 校庭が静寂に包まれた。


 スターターは緊張からか、すこし強張った表情で左手で自分の耳を塞ぎ、ピストルを持った右手を空高く突き上げた。そして、スタートの合図を放った。


 パンッという乾いた音とともに六人が一斉に走り出す。ドドドドドッと大地を蹴る音と、ワーッとかキャーッとかいう歓声が一気に起こった。

 一年生男子は、あっという間に半円の向こう側まで駆けていった。そして、向こう側でバトンを女子に渡す。

 男子よりもいくらかスピードは劣るが、それでもリレーに出るくらいだ。女子選手も結構速い。


 我らが六組は一位で一年生女子走者を終えようとしていた。二位は二組。その差はそれほど大きくない。


 このままエリに回ると確実に追い抜かれてしまう。あたしは、祈るように戦況を見守っていた。


 あっという間に二年生走者にバトンが渡る。六組チームの二年生は男子も女子も共に凄く足が速かった。二年生二人で二組の選手との差をみるみる広げていった。


 三年生男子にバトンが渡る頃には、ほとんど独走体制といってもいいくらいに差を広げていた。

 三年生男子もクラスで一番足の速いサッカー部の男子が選ばれていた。差を大きく縮められてしまうことはないだろう。


 三年生にバトンが渡ると一際大きな歓声が上がる。あたしは祈るように組んだ手を額に当てていた。


 顔をトラックに向けると向こう側でエリがバトンを受け取るところだった。スムーズにバトンを受け取ったエリは、そのまま勢いを殺すことなくスタートを切った。かなりいい感じの出足だった。


 オリンピックでスピードの劣る日本チームが、バトンの受け渡しを工夫して世界と戦ったという逸話を思い出して、最後の一週間はバトンの受け渡しの練習もしていた。その甲斐があったようだ。


 スピードを殺さずにスタートしたエリは、そのままのペースで走り続けた。他の選手に比べたら目に見えて遅かったけど、このまま行けば一位でゴールできるのは間違いなさそうだった。


 しかし、そのままコーナーを曲がりきろうというところでエリの脚はもつれ、大きく前のめりに転んでしまった。砂煙が舞う。

 かなり盛大に転んだせいか、なかなか起き上がらなかった。エリがようやく起き上がる頃には、二位につけていた二組の選手に追い抜かれてしまった。


 その後もエリは懸命に走ったが、さらに二人に抜かれ、結局四位でクラス対抗リレーを終えた。


 エリは泣きそうなのを懸命に堪えているように見えた。それを見てあたしは胸が張り裂けそうになった。一所懸命に練習するエリの姿が浮かぶ。

 目頭にじんわりとしたものを感じた。エリは泣いていないのに、いつのまにかあたしの方が泣いてしまっていた。


 エリは泣くのを必死に我慢して、「ごめんね、ごめんね」とだれにともなくみんなに謝っていた。同じチームで走った子たちからは「しょーがないよ」とか「気にしないでください」といった声がかかる。

 それまでどうしたもんかと思索していた他の子たちも思い思いに慰めの言葉をかけていった。


 エリカもエリの肩に手を置いて慰めの言葉をかけているようだった。ひと通り声をかけられ、謝り倒したエリの周りが落ち着いた頃、エリと目があった。

 エリは泣き笑いのような顔であたしの方に近づいてくると言った。


「毎日練習付き合ってくれてたのにごめんね。本当にごめん。みんなにも迷惑かけちゃったし。わたし最悪だ……」


「そんなことない。一所懸命やった結果でしょ? わざとじゃないんだし、エリはよく頑張ったよ。あたしが保証する」


 どんどんと涙が溢れてくる。自分のことのように悔しくて、我慢ができなかった。


「どうしてナナカが泣いてるの?」


 エリは首を傾げながら言った。


「そうか。わたしの分まで泣いてくれてるんだね。ありがとう」


 そう言うとエリは抱きついてきた。しっとりと汗で湿ったエリの肌は、驚くほど冷たかった。

 落とした視線の先には、エリの膝があった。痛々しく真っ赤な血が溢れていた。


 結局、六組の逆転はならず、二組の優勝で終わった。


 そこまでやる気のあるクラスだとは思っていなかったが、あと一歩のところで優勝を逃したのはやはり悔しかったのだろう。女子のうち何人かは泣いていた。あたしもきっとそのうちの一人だと思われていただろう。


 優勝チームの発表の後は一度教室に戻り、担任の先生の総括のあと解散となった。

 まだ少し胸がチクチクと痛んだが、いつまでも悲しんでいても仕方がない。それに一番辛いのはエリだ。気持ちを切り替えてさっさとレイカさんのところに行こうと決めた。

 一度深呼吸をしてエリの席まで行こうと立ち上がったところで、エリの方があたしの席までやってきた。


「ごめん、ナナカ。この後ちょっとだけ用があるからレイカさんのところ、先に行ってて。すぐ追いかけるから」


 そう言うとあたしの返事も聞かずに手を小さく振りながら離れて行った。あたしは、離れていくエリの背中に小さく手を振ると教室を後にして、レイカさんのスタジオに向かうことにした。


 教室を出たところに、エリカがいた。


「最後残念だったねぇ〜。けど、ナナカがこういうので熱くなって泣くタイプだとは思わなかったよ〜」


 エリカは茶化すように言った。


「中学最後だし、気持ち入ったのかな? 自分でもビックリしたけど」


 あたしはそう言っておどけた。何故だか本当のことは言わないでおいた。


「そうなんだぁ。でも、逆に忘れられないって言うか、いい思い出になったよね〜。あ、それじゃ、うちユキたちのところ行かなきゃだから、またね。バイバ〜イ」


 適当に別れの挨拶を返して下駄箱に向かう。その前にトイレに寄って顔を洗おうと思った。涙の痕がついた顔をレイカさんに見られたくなかった。きっとエリカのように茶化すに決まってる。そう思うと自然と笑みが溢れた。やっとベースに触ることができる。

 またエリと一緒に音楽ができると思うとさっきまでのチクチクは自然となくなっていた。


 心なしか足取りも早くなる。駅に着くともうすでに来ていた電車に急いで飛び乗った。すぐに発車のベルが鳴り、動き出す。


 一度しか行ったことがない場所だけど、以前エリが心配したように場所が分からないなどということはなかった。

 レイカさんのスタジオに近づけば近づくほど、ウキウキした気分とワクワクした気持ちが身体中に溢れていった。


 エリが来るのはきっとあたしの一本後の電車になるだろう。エリが来るまでのわずかな間にレイカさんに何かエリが驚くようなことを教われないだろうかと考えて、さらに顔中に笑みが広がるのを感じた。

 あたしは、あたしが思う以上にベースに惹かれていて、そして、エリにも惹かれている。


 しかし、その日、エリがレイカさんのスタジオに現れることはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る