第2話 僕は思い知る。

変化が現れたのは翌日の事だった。


いつも通り僕が起きるとテーブルの上には朝食が出来上がっており、すでに父は食べ始めていた。母は洗い物をしていて、まだキッチンにいる。


そういえばいつからだろう。この家でおはよう、ただいま、おかえりなどといった挨拶を聞いていないのは。


父は新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる。これもいつも通りの光景だ。


しかし僕が箸をとり、いただきますと口にしたとき妙な声が聞こえた。最初は声ともわからない、何か小さな音のようだった。


父が朝食の最中、僕に何か話しかけたことはほとんどなかったのだが、もし何か言っていたとして無視するのはまずいと思い僕は聞く。


「父さん、今何か言った?」

「いや、何も言っていないが・・・」


父は僕をいぶかしむような眼で見た後、また新聞に目を戻した。


なんだろう、何か聞き間違いかなと食事を再開しようとしたその時。


「おかしなやつだ」


たしかに聞こえた。はっきりと父の声が聞こえた。


「・・・」


僕はもう一度、父の表情を窺ったがさっきと何ら変わらない顔で新聞を読んでいる。


いや、聞き間違いなんかじゃない、はっきりとこの耳に聞こえてきたのだ。


まだ半分も減っていない朝食にろくに口もつけないで考え込んでいると、キッチンから洗い物を終えた母がテーブルについた。


いつも通り、三人でとる朝食、特に会話もなく静かに食事は進んでいく。


しかし僕にとって、その日の朝食はまるでいつも通りでなく、また静かでもなかった。



その日一日は、僕にとって人生最大の転機だったと言っても過言ではなかった。


朝の朝食から始まり、通学路、学校、そしてまた通学路。


いつも通りの一日だった。


そして僕はそのいつも通りが、今まで自分を取り巻く環境が、日常が、とてつもなくぎりぎりで危ういものだということが嫌というほどわかってしまった。それがいつ破綻してもおかしくないものだということも。


音が聞こえた。


声が聞こえた。


それは人の声だった。


人の、心の声だった。


それが自分が前日に神社で神様にお願いしたことだったと気づいたのは学校が終わってからだった。


学校では終始膨大なまでの声、いや心の声、すなわち思いが僕の耳に頭に流れ込んできた。


本来静かなはずの授業中でさえ、僕にとっては祭りの中にいるような感覚だった。


普段はそれほど苦に思っていない学校なのだが、その日は学校にいる一分一秒がとてつもない苦痛に感じられた。


学校が終わり、僕は昨日と同じくあの小さな神社に寄り道をした。


昨日と同じく神社に人はいなかったので、僕の耳には誰の声も聞こえない。それは恐らく、今日初めて訪れた一人の時間。


今日片っ端から人の心の声を拾いまくっていた僕の耳にはとても心地の良い静寂だった。


僕は、今まで人の顔色を窺い、心を読もうとして、他人に対してしないように生きてきた。


それが昨日、特に何があったわけでもないのだが、人に接するとき常に気を張っていた僕の心はどうやら疲れていたらしい。


帰り道、フラっと立ち寄ったこの神社でこぼれた僕の戯言を、この神社の神様はあろうことか叶えてしまったらしい。


「人の心の声が聞こえたらどんなに楽だろうか」


そんなようなことを言った気がする。


確かにそれは普段から思っている本音だ。


人が本音を口にすることは少ない。みんな思っていることとは別の言葉を並べて会話を成立させようとする。


人間とはそういう生き物なのだ。


だから僕みたいな相手の思考をいちいち考えて話をしているような人間は、相手の言葉をそのまま真に受けられないのだ。


人に嫌われたくない、良い印象を与えたいという理由で僕らは普段から人の倍気を張って生活している。


ひどく疲れる生き方だ。


相手の本音を考えるのが疲れるのなら、本音が聞こえたら、本心がわかってしまえばどんなに楽だろうか。ずっとそう思って生きていた。


しかし今日、僕はこの考えを改めなくてはならないだろう。


人の心の声が聞こえれば話が楽?


冗談じゃない。


人の心の声が聞こえてしまったら、本心がわかってしまったら、人を信じられなくなる。


今まで仲良くしてきたクラスメート、あまり話さないクラスメート、担任も含めて。


本心をそのまま口に出してるやつはほとんどいなかった。


友達だと思っていたクラスメートとの会話が心にもないような内容だったり。


優しかった担任が僕たち生徒にどういう感情を抱いているかだったり。


本心を知ることは人の秘密を問答無用で漁ることと同義だ。


逆の立場だったらどうだろうか、僕は自分の秘密をすべて把握しているような奴と気兼ねなく会話できるだろうか。それは無理だ。


僕はこの耳を得たことによって、ただ表面上の会話さえ取り繕うこともできなくなってしまった。


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