05:「格好良かった」

 ――くすくす。


 私が何かするよりも早く、耳が信じられない音を捉えた。

 反射的に振り返る。

 ほとんどの生徒たちは心配そうに江藤さんを見ているのに、斜め前方にいる三人組の女子たちが笑っている。


 クラスメイトじゃない、他のクラスの女子たちは、あからさまな悪意を唇に滲ませていた。


「だっさ……」

「鼻血出してるよ」

「転んで鼻血って、お前いくつだよっつー、ねえ?」

「ふふ」

 侮蔑に満ちた笑い声を聞いた瞬間、胸中に熱い炎が湧き上がった。


 この人たちは何を笑ってるんだろう。

 他人の不幸がそんなに楽しいの?


 燃え上がった激昂の炎はたちまち私の全身を支配した。

 頭のてっぺんから足のつま先まで、焼かれるように熱くなる。


「何がおかしいのよ!!??」


 カッとなった私は衝動のままに立ち上がり、腹の底から叫んだ。

 転んで傷ついている人を嘲笑う女子たちに向かって。

 背後に江藤さんを庇い、足を踏ん張り、肩をいからせ、全身全霊の怒りで以って怒鳴りつけた。


 他人の目など、自分の立場などいまこのときはどうでも良かった。

 とにかくこの不愉快な笑い声を止めなければ気が済まない。


 怒気を放ちながら睨みつけると、女子たちは気圧されたように怯み、「行こ」と足早に立ち去った。


 息と共に怒りを吐き出してから、私は再び江藤さんに向き直って屈んだ。


「気にしなくていいからね、あんなの」

 ぽかんとした顔でこちらを見上げている江藤さんの前で膝をつき、鞄からポケットティッシュを引っ張り出す。


「はい、これで拭い……て?」

 私はポケットティッシュを差し出した格好で止まった。


 教室内では表情一つ動かさず、涼しげな顔で本を読みふけり、実にクールな様子だった江藤さんが。

 まるで水道の蛇口を一気にひねったかのように、だばーっと。

 両目から滝のような涙を流したからだ。


「!!???」

 これには私も仰天した。


「え、ど、どうしたの。そんなに痛いの? 大丈夫?」

「な、なんでもないわ。別に、こんなの、どうってことないわよ」

 江藤さんは照れ隠しのように私の手からティッシュを奪い取り、鼻を押さえた。


「その、なんていうか、ありがとう。借り一つね、忘れないでおくわ」

 江藤さんは鼻血を拭き取ると、手首で荒っぽく目元を擦い、使い終わったティッシュを丸めてスカートのポケットに突っ込んだ。


「借りなんて、そんなの気にしなくていいよ」

 返されたポケットティッシュを鞄に戻しながら言う。

「さっきのは私が黙っていられなかったから怒鳴っただけだし、いまだって、私が勝手に江藤さんを心配してるだけだし。本当に大丈夫? 開いてるかどうかわからないけど、一応保健室行く?」

「大丈夫よ、もう止まったわ」

 江藤さんは、ほら、とでもいうように、小さく顎を上げた。

 確かにもう血は出ていない。


「そっか。良かった」

 安心して笑うと、江藤さんは顔を伏せ、上目遣いに私を見た。


 大いに気にしてはいるけれど、それを気づかせたくないのか、ちらちらと見てくる。

 見たいなら堂々と真正面から見れば良いと思うんだけどなあ。

 減るもんじゃないし。


 試しにこちらからじっと見つめてみると、江藤さんは慌てたように目を逸らした。

 鞄を拾ってはたき、立ち上がって背中を向ける。


「いえ、あなたがどう解釈しようと、これは立派な借りよ。してほしいことがあるなら言いなさい。できる範囲で叶えるから」

「うーん? 本当に気にしなくてもいいんだけど……それじゃあ一つ」

「何!?」

 弾かれたように江藤さんがこちらを振り向く。


 その目は隠しようもない輝きを放っていた。

 何でも叶えるわ、任せて! といわんばかりの食いつきっぷり。

 江藤さんに重なって、犬が全力で尻尾を振っている幻覚が見える。


 思わず吹き出しそうになった。


 ああ、やっぱり。

 江藤さんって、相当に面白い人だ。


 クールな完璧美少女だと思っていたけど、それは私の思い込みだったらしい。


「良かったら明日のお弁当、一緒に食べない?」

「なんだ、そんなこと。いいわよ別に」

「やった。じゃあさ、この後暇? 喫茶店でも行かない?」

「いいわよ。好きなものを好きなだけ食べるといいわ、私が奢るから」

「え、いやそれは」

「いいのよ、これもお礼のうちなんだから異議は認めないわ。ちょうどおいしいお店を知ってるのよ、ついてきなさい」

 言うが早いか、江藤さんは歩き出した。

 一人で歩いていたさきほどとは違い、足取りが妙に軽やかだ。


 なんだ。

 友達なんて要らないって顔をしてたけど、本当は凄く友達が欲しかったんじゃないの。

 笑みを噛み殺し、彼女の後についていこうとした、そのとき。


「格好良かった」


 と。

 後ろからやってきた誰かが、私を追い抜く瞬間、耳元で囁いた。


 驚いて見れば、追い抜いて行った背中は赤石くんのものだった。

 彼は片手を上げて、小さく振り、すぐに下ろした。


 ……見てたのか。

 ってことは、あの後すぐに教室を出たのかな。

 見るからにうんざりしてたもんね。


 いや、そんなことより。

 いま気にすべきは、彼が私に言った言葉だ。


 格好良いなんて、初めて言われた。


「…………」

 胸に、じわじわと胸に喜びが広がっていく。

 格好良かった――それは、私の行動を評価し、賞賛する言葉。


 どうしよう。

 嬉しすぎて、顔が笑ってしまう。


「ちょっと山科さん、何してるの」

 前方で江藤さんが振り返り、怪訝そうな顔をしている。


「ごめん。いま行く!」

 私はにやける口元を苦労して結び、駆け出した。

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