第32話 帰還
ギュンター達が無事クラーヴへ辿り着いた頃、ヨハネスも故郷ネーデルラントに到着した。実に七年ぶりの帰還だ。
まず出迎えてくれたのは、満面の笑みを湛えた母だった。目にはすでに涙が浮かんでいる。「おかえりなさい、ヨハン」と言うやいなや、強く抱きしめる。
「ただいま、母さん。とても会いたかった」
“けど、ちょっと苦しいよ”と言うのは、心の内に留めておく。そこにさらに、大きな巨体が被さってきた。父もヨハネスの帰りを待っていてくれたのだ。
胸がじんわりと温かくなる。アグリッパへの弟子入りや、初めての診療など、毎日が慌しく過ぎてきたが、改めて家族と離れた月日の長さを実感した。
ようやく父と母から解放されると、少し離れたところにもう一人、会いたくてたまらなかった人物と目が合った。両親に促され、マテューはこちらに近づいてくる。
「久しぶり、マテュー」
「おかえりなさい、坊ちゃま」
主人の手前、マテューは恭しく礼をする。
「坊ちゃまはやめようよ。僕だってもう十九だよ」
「私にとって、坊ちゃまはいくつになっても、坊ちゃまです」
ヨハネスが「参っちゃうなあ」と苦笑すると、マテューは控えめに、悪戯っぽい笑みを浮かべた。七年の歳月を経た彼は、体格的に大きな変化を遂げていたが、そのえくぼの浮かぶ表情は、十代の頃とちっとも変わっていなかった。
その後、ヨハネスは父の自室に呼ばれ、二人で話を交わした。これまでに至る経緯や、これからのことまで。そして例の件についても協力をお願いしたいのだと、頭を下げた。
父は険しい顔で、ヨハネスを見据えた。
「ヨハン。自分のやろうとしていることが、わかっているかい?どれだけ危険なのかを」
「はい、わかっています。それでも――」
「これからの人生全てが、変わってくるかもしれないことだ」
「僕自身で選択した人生です。責任は取ります。家に迷惑はかけません」
「そういうことじゃない。自分の人生を大切にしろと言ってるんだ」
ヨハネスは胸が熱くなり、言葉に詰まってしまった。父の想いが素直に嬉しかった。そして自分の浅はかさが悔やまれた。
確かに今までの七年間は、自分で道を選択し、突き進んできた。だがいつも一番に応援し、支援してくれたのは、両親だ。学問に励むための資金と、心の込められた手紙が、常に気持ちを前へと向けてくれた。彼らがいなければ、自分はきっと前に進むことさえできなかった。
ヨハネスは涙を堪えながら、真っ直ぐに父を見返した。
「覚悟は、できています」
心臓の鼓動が、部屋に数回響いた気がした。父は目を瞑り、椅子の背にもたれかかった。長い溜息が漏れる。
「――わかった。それなら、もう言うことはないな」目を開くと、いつもの優しい眼差しがあった。「できる限り、力を貸そう」
「父さん……ありがとうございます」
「たしか五年前になるかな、あのとき手紙に書いたとおりだ。おまえが正しいと思う道を進みなさい」
「はい!」
元気よく返事をすると、ヨハネスはいてもたってもいられず、部屋を飛び出していった。やるべきことは山ほどある。
それは五年前、学長室を飛び出したときと、同じ心情だった。あの時は新しいスタートの始まりだった。多くの期待でいっぱいだった。
今だってそうだ。この先に、今度は新たな希望を作り出すのだ。
それから父は、一時的に仕事を部下に任せ、ヨハネスのため精力的に動いてくれた。マテューも独自の情報網を活かし、街中を駆け回ってくれている。
ヨハネスは一人、小さなメモを手に、ある場所へ向かっていた。そこはセレーナと初めて出会った路地裏から、七、八マイルほど離れた場所にあった。当時少女だった彼女からしたら、随分遠く感じたことだろう。
玄関のベルを鳴らす。中から顔を出したのは、仏頂面をした中年女性だった。彼女がセレーナの叔母、コルドゥラ・デンホフだろう。顔も体格もひょろりと細長く、切れ長の目が警戒心からさらに細められている。
「どなた?」
発する声も想像通り、高く尖っている。ヨハネスにとっては、この上なく苦手なタイプだ。
できるだけ丁寧に挨拶し、自己紹介するも、彼女は胡散臭そうに思っているだろう表情を隠そうともしない。細い指はいつでもドアを閉められるよう、ノブに固く巻きついている。
ヨハネスは慌てて、「セレーナさんのことで話があるんです!」と唐突に切り出してしまった。
彼女は一層表情を強張らせ、冷たく返す。
「知らないよ、そんな娘は。うちに厄介ごとを持ち込まないでちょうだい!」
「お願いします、話だけでも聞いてください!彼女の命がかかってるんです!」
ドアが閉まる寸前で、コルデラはぴたりと動きを止めた。
「どういうこと?」
そこでようやく、話はあらかた聞いてもらうことができた。むっつりと引き結んでいた口から出てきた感想は、一言だけだった。
「あたしには関係ないね」
「関係ないって……。姪っ子さんじゃないですか」
「だから何だってのさ?親みたいに責任取る義理はないよ」
結局、それ以上話し合う機会は与えられなかった。鼻先でぴしゃりとドアが閉まる。
ヨハネスは溜息を飲み込み、踵を返した。彼女には、きっといくら訴えても無駄だろう。共に住んでいた頃の証言があれば心強かったのだが、仕方がない。
そのときだった。
「あの……今の話、本当ですか?」
振り向くと、家の陰に隠れるようにして、少女が一人立っていた。歳は十代のちょうど半ばくらいだろうか。
「君は?」
尋ねると、おずおずとこちらに近づいてくる。
「コリーナ・デンホフ、です」
言われてみれば、細い顔立ちや体型は母親と同じだ。ただ彼女からは、尖った印象を感じない。内気な性格なのか、そばかすの散った頬を赤く染め、ばつが悪そうに俯いてしまう。
「こんにちは、コリーナ。君はここの家の子なのかな?」
コリーナは小さく頷くと、泣きそうな声で「ごめんなさい」と言った。ヨハネスは彼女の肩に手を置き、首を振った。
「謝ることなんかないよ。コリーナは、セレーナのことを覚えている?」
「もちろん、覚えてます」
おさげにした髪をもてあそびながら、コリーナはつっかえつっかえ話し出す。
「セレーナのことが、恐かったです。無口で、笑うこともなくて、それでいて真夜中に大声を出したりするのが不気味で。何を考えてるのかわからなくて、だからあのときは……本当に、魔女なんじゃないかって、思ったりもして……」
そこで彼女は、声を詰まらせた。自分の中に渦巻いている思いと必死に戦う様子が、傍目からでも見て取れた。ヨハネスは震える彼女の手を握り、優しく声をかける。
「大丈夫。少しずつ、ゆっくりでいいから」
気持ちが落ち着くのを待っていると、ぽつりぽつり、話が再開される。
「それで、兄と一緒になって、セレーナに嫌がらせをしました。ひどいことも、たくさん言いました。だって、だって……知らなかったんです。セレーナのお母さんがあんなになって、ずっと辛い思いをしてきたなんて、一言も言わなかったから……。父も母も、何も話してくれなかったから。……ごめんなさい。言い訳、ですよね」
きっと優しい子なのだろう、とヨハネスは思った。だから彼女を責める気にはならなかった。アグリッパが聞いたら、また鼻で笑うかもしれないが。
けれど完璧な人間など存在しない。心は日々不安定に揺れ動き、一度決めたことでも、ちょっとしたきっかけであやふやになってしまう。いくら過去の過ちを悔い、反省したところで、現実は何も変わらない。それがわかっていても、誰かを想って涙を流すのを、愚かだとは思わない。傷つき、人を想いやれた瞬間に、今度は新しい未来が開けるはずだから。
「話してくれてありがとう、コリーナ。この気持ち、ちゃんとセレーナに伝えよう」
「あの……今からでも、間に合いますか?あたしでも、力になれますか?」
今にも消え入りそうな声だった。心に灯った小さな火は、少しでも風が吹けば途端に消えてしまいそうなほど、儚げに揺らめいていた。この風を阻止することはできなくても、とヨハネスは思う。彼女自身が火を灯したのだということを、どうか忘れないでほしい。
「もちろんだよ。君の力が必要なんだ」
するとコリーナは初めて、控えめな笑顔を見せた。そばかすを魅力に変える、柔らかい笑みだった。
それから三日後。数々の協力の下、裁判に臨む材料は整った。後は一路、クラーヴへ向かい、ギュンター達と合流するだけだ。
母の用意してくれた大量の荷物に、内心辟易しながらも、何とか馬の背に積み込んだ。護衛も二人つけてもらったので、道中も安全だ。
馬車も用意しようかと父が勧めてくれたのだが、今回は断った。愛馬で駆けるのが、今はすっかり気に入っていたからだ。体力こそ消耗するが、風を直に感じることのできる心地よさに比べればどうとでもない。
決意も新たに、ヨハネスは再び出発した。この先の道程には、また足元の悪い岩場や、寝心地の悪い野宿が待ち受けている。けれど不安はなかった。根拠のない自信が、全身に漲っている。ギュンターと一緒にいるうちに、影響を受けたのかもしれない。
――俺らならいける。待ってるからな、ヨハン。
「今行くよ。終わらせよう」
目指す先を見据えて、ヨハネスは一人呟いた。
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