第30話 独房
身体検査から一週間。審問所地下の拷問室では、連日身の毛もよだつような絶叫が響き渡っていた。それは室内に留まらず、地下全体をも震わせていた。
フリッツはそんな地獄へと続く階段を、淡々と下っていく、すでに拷問への関心は失せていた。かといって抵抗があるわけでもない。ただ単純に、こんなものか、という思いだけがあった。
被告人が痛めつけられ、それを喜ぶ下賎な男達。もちろんゲオルグも含めてだ。彼らは至って厳格な顔を装いながら、鼻息が荒くなるのをほとんど隠しきれていない。身体検査ではおどおどしていた老博士も、今では積極的に意見を述べ、被告人を限界まで苦しめるのに、大いに貢献している。
そんな毎日が続くなか、今日の予定は水攻めだった。被告人に大量の水を飲ませ、無理やり吐き出させる、という行為を幾度も繰り返す。一見地味だが、やられる側は相当辛く、自白を引き出しやすいため、拷問ではよく使われる手法だ。身体の外傷がつかないというメリットもある。
セレーナが足元につくった水溜りに対して、男達の中から声が上がった。
「掃除ついでだ。もう一度舐め取らせてしまえ」
そのときフリッツは思った。この無意味な時間は、一体何なのかと。今の道を歩んでいけば、自分もまた、彼らのように腐っていくのかと。
しかしただ一人、この場には例外がいた。異端審問官、オルヴァルト・ヘルマンだ。彼だけは拷問を楽しむでもなく、哀れむでもなく、ただ事務的に指示を行っていた。その先にどんな考えがあるのか、表情からは読み取れない。がむしゃらで、驚くほどわかりやすい息子とは、見事に正反対だ。
フリッツが目指す理想とは、無論ギュンターではなく、オスヴァルトのような姿だった。愚かな感情に流されず、自分が一度信じた道を、最後まで突き進む姿。将来、自分があの拷問室の現場にいるとしたら、彼のようでありたい。そのためなら、何でもする覚悟だった。たとえ家族を失おうが、かつての親友を裏切ることになろうが構わない。とにかく力が欲しかった。裁かれる側ではなく、裁く側の権力を。ずっとこびりついていた呪縛から、解き放たれるために。
そうして次の日もまた、暗い階段を下っていく。毎日足を運んでいると、地下への距離がどんどん狭まる気がする。拷問部屋からは、鞭を振るう鋭い音。ゲオルグ達がどんな顔をしているかは、容易に想像がつく。
フリッツはドアの前で、小さく溜息をついた。同じ顔ぶれ、同じ光景。いつまで続くのかは強情な彼女次第だ。あの全てに挑みかかるような目の光が消えたとき、自分は、そしてギュンターはどう変わっていくのか。
「恐いのか?リッツ」
今にもそんな声が、聞こえそうな気がする。そうしてきっと、ギュンターはいつものように不適に笑うのだ。
不思議とついていきたくなるような、リーダーの素質が彼にはあった。自分も、背後にいた一人に過ぎなかった。それを楽しんでいた自分は、あまりに愚かだった。もっと憎むべきだったのだ。殺したくなるぐらいに、強く。
フリッツは髪をかきあげ、気持ちを切り替えてから、鞭と悲鳴が響く室内へと足を踏み入れる。目の前には、予想していた光景が広がっている。いや、現実はもう少しひどいかもしれない。かつての親友が守りたがっていた想い人は、すでに血に濡れ、天井からぐったりと吊り下げられていた。
あとどれくらい時間が経てば、朝が来るのだろう。新人看守のハイニは、今日何度目かの溜息をついた。
ただでさえ暗い地下牢で夜勤ともなれば、自然気分もどんよりしてくる。加えて、暗い独房からは魔女が時折呻き声を上げるものだから、聞いてる側は不気味で堪らない。今日は背中を鞭打たれたらしく、彼女は寝ることすらままならないようだった。
気は進まなかったが、定時になったので、ハイニは規則どおり独房へ近寄り、魔女の様子を覗う。
彼女は藁の上で、左肩を下に横たわっていた。顔の前に投げ出された両手は、爪が剥がされ、赤く染まっている。血はすでに固まっているが、まだこの光景を見慣れないハイニからすると鳥肌ものだ。
拷問が開始された最初こそ、今回の魔女は珍しく気丈に振舞っていたが、ロープで吊り下げ肩を脱臼させられ、焼鏝で身体のあちこちに焼け爛れた痕がついてからは、すっかりおとなしくなった。それでも彼女は他の魔女達のように、泣いたりのたうちまわったりはしなかった。相当に我慢強いことは認めるが、ハイニとしては愚かな行為としか思えなかった。拷問で延々と苦しむぐらいなら、さっさと処刑された方が楽に違いないのだ。
にも関わらず、魔女は何を問われても頑なに沈黙で堪え続けた。聞けば彼女の母親も、最期まで自分が魔女であることを認めなかったという。その先に絶望しかないと知りながら、この親子が何を貫こうとしているのか、ハイニには量りかねることだった。小さなプライドなど、何の得にもならないのだから。
せめて泣いて許しを請う方が、女としてまだかわいげがあるだろうに、とぼんやり思っていたときだった。
不意に階段の方から気配がして、ハイニの背中を寒気が走った。慌てて警棒を手に振り返ると、そこには二人の人影があった。よく見ると、どちらもここでの先輩職員だ。
「あ、お疲れ様です。どうしたんですか、こんな時間に?」
しかし二人は答えることなく、ハイニの横を黙って通り過ぎた。すれ違いざま、片方が「誰にも言うなよ」と囁くように言った。え、と聞き返そうとしたときには、腰に提げた鍵束が取り上げられる。
鍵を手に彼らが向かった先は、例の魔女が横たわる独房だった。鉄格子が軋む音で、魔女も異変に気づき、僅かに顔を上げる。そして二人組みと目が合うと、警戒の色を強め、後ずさろうとした。
しかし彼らは、それを許さなかった。一人が彼女に覆いかぶさり、腕を掴んで仰向けにさせる。押さえつけられ、背中に激痛が走ったのだろうが、悲鳴をあげる前に口を塞がれてしまい、彼女は声を上げることすらできなかった。
男達の荒い息遣いが、独房の前に立ち尽くすハイニのところまで届く。握り締めたハイニの手に汗が滲む。これから何が起きようとしているのか、すでにわかっていたが、動くことができなかった。生真面目に職務を全うするなら、止めなければならない。けれど先輩達から余計な恨みを買うのは避けたかった。
ハイニがそうして内心葛藤している間も、彼らは着実に目的を遂行しつつあった。覆いかぶさる男の手が、魔女のぼろぼろの服へと伸びる。上から強く胸を掴み、もう一方の手がスカートの下をまさぐる。魔女にはもう、抵抗する力など残っていなかった。震える唇を、きつく噛み締めている。
ぐっと、ハイニの喉が音を鳴らしたときだった。背後に影が射し、気づいたときには乱暴に押しのけられていた。ふらつきつつ、ハイニは影の正体を目にして、はっと息を呑んだ。
こちらの異変に気づき、先輩職員達が振り返ったときには、全てが遅かった。
一人が外に引きずり出され、鈍い音と共に床へと転がった。続いてセレーナに跨っていた方も、顔を殴られ、壁に激突する。痛みと恐怖におののく部下を、異端審問官オスヴァルト・ヘルマンは、いつもより一層冷徹な目で見下ろしている。
助けられたかたちとなった魔女は、安堵と戸惑いを混ぜ合わせたような表情を浮かべている。それはそうだろう、審問官以外ここにいる誰一人、この状況についていけていなかったからだ。
審問官は魔女の方に目もくれず、房の中で伸びている部下に、容赦なく張り手を食らわせた。頬を赤く腫らせながら、何か言おうとするところへ、さらに二発めの張り手が襲い掛かり、やられた方も先に引きずり出された方も、もはや何もできず、がたがた震えるばかりだった。審問官は有無を言わさぬ口調で、房の外を指差した。
「出ろ」
その一言で職員は飛び上がり、転がるように房から出た。すぐ後に審問官が続く。
通路では、もう一人が青い顔で縮こまっている。「鍵を出せ」と審問官に言われるや、びくっと反応し、慌ててポケットをまさぐった。差し出された鍵を受け取ると、審問官は即座に、二人へ退出するよう命じた。
彼らがいなくなった後、地下はハイニと審問官の二人と、魔女だけになり、静寂が訪れる。ゆっくり上半身だけ起こす魔女を、審問官は黙って見下ろしている。鉄格子を境に、裁判の最高権力者と、刑がほぼ確定した被告人の二人が、向かい合う。ハイニは完全に蚊帳の外だったので、邪魔にならないよう、仕事に戻るふりをしながら、二人の様子を覗った。
魔女が先に口を開く。
「どうして……?」
「被告人の持つ権利だからだ」
「権利?」
「犯した罪以外の事で、被告人の身に害が及ぶことはない」
異端審問官として、それ以上のものはない、完璧な答えだった。こういったことを黙認している所もあるという噂を聞く中で、ヘルマン審問官はなんて立派な方なのだと、ハイニは改めて彼に対して尊敬の念を抱いた。たとえ人間でなくても、神が定める法の下、彼は公平を保ったのだ。
しかし魔女はそれに対して、何の感慨も持ってはいないようだった。
「わたしが魔女でないとわかったら、この傷はどうなるの?審問官の命令で行われた拷問は、害にならないとでも?」
すっと目を細め、審問官は冷ややかに言い放った。
「無駄な希望は持たないほうがいい。おまえの有罪は、すでに決まっている」
「いいえ、まだ終わってない」
「刑の執行が長引くだけだ」
「そんなこと、誰にもわからない。たとえあなたでも」
審問官はふっと息を漏らす。「いい目だ」と言う声は、いつもの冷徹な声に比べて、少しだけ温かみが感じられた。ハイニは内心驚いていた。常に彫像のように無表情だった顔が、微かに笑っているように見えたからだ。
今更ながら、審問官がギュンターの父親でもあるのだということを思い出す。彼はどんな思いで、彼女と向き合っているのだろうか。
笑顔に見えた表情はほんの僅かで、審問官はまたもとの厳しい表情に戻る。その変わりの早さは、やっぱり見間違いだったのではないか、と思ってしまうほどだ。鉄格子を通して、審問官らしい宣告が下される。
「二ヵ月後、おまえは処刑台に立つ。覚悟しておけ」
「いいえ、わたしは自由を手に入れる。そのためなら痛みも耐えられる」
魔女の内心に燃える火は、まだ消えていないようだった。彼女の強さの裏にギュンターの存在があるのかと思うと、ハイニはなんとも複雑な気分になる。
審問官は「そうか」としか言わなかった。
「ありがとう。助けてくれて」
最後に魔女が言ったが、彼は聞こえていないかのように、鉄格子へ背を向けた。
去り際、審問官は初めてハイニへ目を向けた。瞬間、ハイニは姿勢を正す。どんな罰が下されるのか、恐くて仕方がなかったが、逃げ出すわけにもいかない。
が、どうやら鉄拳制裁は下されないようだった。
「自分の責務を全うする覚悟はあるのか?」
「は、はい!今回のことは、その――すみませんでした」
「迷うな。動かなければ、おまえのいる意味はない」
「はい――!」
かっこ悪くしゃくりあげるのを、止めることはできなかった。審問官はそれ以上何も言わず、階段を上がっていく。
姿が見えなくなると、ハイニは袖で乱暴に涙を拭った。あのとき何もできなかった自分が、ただ悔しかった。審問官のようでありたいと、強く思った瞬間だった。
被告人強姦未遂で、審問所職員二名が辞職した後も、拷問は休みなく続けられた。審問官はいつもと変わりなく指示を下し、どんなに中途半端でも時間きっちり切り上げる。当然、残った職員の負担は重くなる。
そのため、ハイニも看守以外に様々な雑用を言いつけられ、忙しい日々を送っていた。けれど以前のような不満は欠片もなかった。異端審問官の鑑であり、絶対的な存在であるヘルマン審問官に、自分達部下はただ信じて、ついていけばいいのだ。
しかし魔女もまた、頑なに抵抗を続けていた。悲鳴をあげ、苦痛に呻きながらも、魔女だとは決して認めようとしなかった。
同じような日々が、一週間経ち、二週間を過ぎた。季節は初夏を迎え、本格的な暑さがじわじわと迫ってきていた。
房内では羽虫や蛆虫が活発に動き回り、地下故の湿気のせいで、悪臭も強烈なものになる。二十年勤めてきたベテラン看守も、ここ最近は顔を顰め、始終不機嫌だ。
息苦しい毎日のなかで、ある日ちょっとした変化が起きた。拷問が終わると、いつも死んだように動かない被告人が、感情を露に跳ね起きたのだ。きっかけは、昨夜耳に入ってきた町の噂だった。ギュンター・ヘルマンの帰還。それは判決がほぼ確定した今、取るに足りないことのように思われた。
しかしギュンターは、一人で戻ってきたのではなかった。魔女の家族を連れてきたのだ。すでに弁護士もついているので、一応審問で争う体勢は整ったことになる。前代未聞の親子対決に、審問所内でも話題の種になっていた。だからハイニも、深く考えることなく、その話を口にしたのだった。
「先輩、今ですね、面白いことが起きてるんですよ」
相手は昨晩から勤務していた、ベテラン看守だった。ずっと地下に詰めていたので、知らないだろうと思ったのだ。
案の定、彼は欠伸交じりに「何だよ」と聞き返してくる。大した興味もなさそうだが、ハイニは構わず先を続けた。
「ヘルマン審問官の息子が、町に帰ってきたんですよ。しかも魔女の家族を引き連れて」
その瞬間、ガシャン、と大きな音が鳴り響いた。
「その話、本当!?」
鋭い声が、二人の間に割って入る。
ベテランが苦々しい顔で、「この馬鹿。場所を考えろ」と叱る。ハイニは首を縮ませて「すいません」と謝った。ここが地下牢で、この話が魔女にどんな影響を与えるかまで、考えが及ばなかった。
ベテランは不満げに鼻を鳴らし、魔女の方へ歩いていった。そして警棒を取り出すと、鉄格子を掴む手に、容赦なく振り下ろす。棒はちょうど爪の剥がれた指先に当たり、苦痛の呻き声があがった。うずくまる魔女に対し、ベテランは冷めた目で言い放つ。
「審問官の息子をどう手なずけたのか知らんが、何をしようと無駄だぞ。判決はもう決まってんだ。皆おまえが火に炙られるのを、歯食いしばって見てるしかないだろうさ」
しかし彼女の希望が潰されることはなかった。
「――よかった。本当に、来てくれた」
ゆっくりと伝い落ちる涙に、ハイニの心は一瞬揺れた。彼女が魔女であるのは間違いなかったが、今の姿は純粋に誰かを想う、普通の少女にしか見えなかった。しかし迂闊にもそんなことを口にすれば、先輩達に未熟者だと笑われるのは目に見えている。
余計な感傷に浸る前にと、ハイニは彼女へ背を向けた。早く決着がついてほしいと、切に思う。この仕事は思った以上に複雑で、厳しいものかもしれなかった。
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