第29話 家族
そうして数日後、ギュンターとルイーダの二人は、セレーナ達の故郷、アーネムへと辿り着いた。
「ここへ帰ってきたのは、ちょうど十年ぶりです」
ルイーダが感慨深げに呟く。そして寂しそうに「あまり、変わってませんね」と付け加えた。言いたいことは、ギュンターも何となく察しがついた。
日中にも拘らず、町は閑散としていた。ぽつぽつと建つ家はどこも簡素で、店も少なく、景気のよくない生活が窺い知れた。時々すれ違う人も、どこか表情が翳っているように見える。見知らぬ自分達に対しても、関心はないようだった。
「十年もこんな感じだったのか」
耐えられないな、と思った。もしギュンターがこの町で生まれ育ったなら、一刻も早く町を出たいと渇望したことだろう。
「アーネムは、貧しい町なんです」
歩きながら、ルイーダが声を落として語る。
「私が生まれる少し前、旱魃のせいで、この地は作物が育たなくなってしまったそうです。かつてはオリーヴが名産だったと聞いたので、きっと大きな打撃だったでしょう。戦争の影響で、他の町や市から物資を得るのも、困難だったと思います。自然に踊らされ、飢えに苦しみ、子どもの私でもわかるほど逼迫した状況でした。……皆、限界だったんです。これは呪いだ、悪魔のせいだと、思いたくなるほどに」
だから魔女狩りが活発化した、母は殺されたのだと、その目が語っていた。決して薄れることのない悲しみを湛えて、彼女は家々を、そしてその先にある異端審問所を見上げた。
視線の先を確認したギュンターは、「そうか」と言うに留めた。どんな言葉も、今は口にすべきでないような気がした。ギュンターの生い立ちについては話しているので、ルイーダもそれ以上話を掘り下げようとはしなかった。
「実家は、あの奥に見える建物のさらに先、町外れにあります」と、話題を変える。
「買い物には不便そうな場所だな」
「父が農業をやっていたものですから。土地はもうなくなってしまいましたけど」
異端審問で判決が下れば、容疑者本人だけでなく、その家族にも、罰金の形で厳しい制裁が加えられる。所有していた土地が没収されるのは、何ら珍しいことではなかった。
「それでも家が残ったのは幸いだと思います。父はどんな顔をするかしら。なんだか緊張するものですね」
「まあ十年ぶりの再会だから、まずは驚くだろうな」
「そうですね。また会う日が来るなんて、思ってなかったでしょうから。……もしかしたら、私が行ったところで受け入れてもらえないかもしれません。そのときには、申し訳ありませんが――」
ギュンターは気落ちしているルイーダの肩に、ぽんと手を置いた。
「会う前からそんなんでどうすんだ。怖気づいてやっぱりやめるとかはなしだぞ」
「いえ、私は……もちろん会いたいです。ずっと、ずっとそう思ってたんですから」
「じゃあその気持ち、堂々と親父にぶつけてやれ」
「――はい」
彼女が頷いたところで、二人はちょうど家の前に辿り着いた。先程見てきたのと同じく、必要最低限の材木で組まれた、小さな家だった。この一軒だけが、住宅地から離れた場所でひっそりと建っている。表札はなく、窓は全て閉めきられているため、家全体が人を拒絶しているように感じられた。
ルイーダはひとつ息を吸い、吐く。そして拳で直接、ドアをノックした。
返事はない。それどころか、物音ひとつしない。
「お父さん、私です。ルイーダです」
変わらず反応はない。
「……いないんじゃねえの?」
ギュンターがしびれを切らしたときだった。
突如ドアが細く開かれ、ぎょろりと目玉が覗いた。「うおっ!?」と飛びのくギュンターにはお構いなく、暗闇から声が漏れる。
「本当に、ルイーダなのか?」
「ええ、そうです。私のこと覚えていますか?」
ルイーダの目からは、今にも涙がこぼれ落ちそうだった。
すると今度は大きくドアが開かれた。出てきた人物はルイーダを引き寄せ、しっかりと抱きしめた。
「忘れたことなど一度だってあるものか。おかえり、愛するイーダ」
「ありがとう。ただいま、お父さん」
十年ぶりの親子の再会を、ギュンターは少し離れたところで見守っていた。普段の大人びた雰囲気は影を潜め、父の腕の中で泣きじゃくるルイーダは九歳の少女に戻っていた。
二人の背後では、薄暗い家の中に、陽の光が差し込んでいる。テーブルや椅子、棚、ベッド以外には余計な物のない、殺風景な部屋だった。かつて家族五人が住んでいた形跡は、どこにも見られなかった。テーブルの周りにある椅子も二脚しかない。
ルイーダが身体を離すと、父親が初めてギュンターに関心を向けた。というより、敵意を向けた、というのが正しい表現だろう。彼の目には、警戒の色がありありと見えた。他人に関わるのを嫌悪し、恐れる目。出会った頃のセレーナと同じだ。親子なのだな、とギュンターは思う。彫りの深い顔立ちや、白いものが混じってはいても、艶やかな金色の髪。ただ、目元や口元に刻み込まれた皺が、長く経てきた年月を物語っていた。
「お父さん、私達とても大事な話があって来たの。彼はギュンター・ヘルマン。シェリーの恋人です」
父親は信じられないものと遭遇したかのように、ギュンターを見つめた。
「そうか……シェリーは、生きていたか」
呟くと、ぐっと喉を上下させ、「ブラントだ。よろしく」と握手を求めてきた。恋人の件を説明するタイミングを逃したまま、ギュンターも手を伸ばす。間近で感情を堪えている様を見ると、次の事実を突きつけるのに一瞬躊躇ってしまう。
「ブラントさん、アンは、セレーナは確かに生きてる。けど、この先どうなるかはあんたにかかってんだ」
意外にも、ブラウンはそれほど動揺を見せず、ただ黙って頷いた。もしかすると、彼はいつかこうなることを、予期していたのかもしれなかった。セレーナが叔母の家を飛び出したときに。もしくは母の最期を見たという、あの日から。
「聞かせてもらおう。入りなさい」
ブラントに促され、ギュンターは部屋の中央にあるテーブルについた。ルイーダが三人分のコーヒーを淹れてくれる。椅子は二脚しかなかったので、彼女は閉めきった窓の縁にもたれかかり、「ここで、こうしてるのが好きだったの」と微笑んだ。それからふと、奥の部屋へ視線を向ける。ブラントは尋ねられる前に答えた。
「ディアは今出かけてる。まだ帰ってはこないだろう」
「弟のことか?」
ギュンターが訊くと、ルイーダが頷く。今年十三歳になるらしい。父親に協力を頼む以上、末っ子のディアスにも事情は話さなければならない。とはいえ、母が亡くなった当時は三歳の幼児だ。きっと顔も定かでない家族に、どんな気持ちを抱いているのだろう。記憶にない母の存在を知ったギュンターにとって、他人事とは思えなかった。
ブラントに促され、ギュンターはセレーナの現状とその経緯を話した。ブラントは最後まで黙って話に聞き入った後、一呼吸置いて口を開いた。
「結局、こうなってしまうのか。恐ろしいな、人の憎しみというのは」
低い呻きとともに、肩を震わせる。
「不甲斐ない。私は何もしてやれなかった。アーネムから遠ざけることでしか、娘を守る方法が思いつかなかった。わからないんだ、今でも。どうすることが正しかったのか」
「お父さん……」ルイーダが目に涙を浮かべ、呟く。
重い空気を取り払うべく、ギュンターは言った。
「わかんないんだったら、直接本人に聞け。今が動くときで、嘆いてる暇がないことはわかってんだろ」
ブラントは一瞬顔を強張らせたが、ふっと表情を緩め、頷いた。
「君に言われるまでもない。息子に話をしたら、すぐに行こう」立ち上がったブラントは、ルイーダの肩に手を置いた。「イーダ。おまえは残りなさい」
「どうして、お父さん?私も行くわ、そのためにここまで来たんです」
「証言は私だけで充分だ。戻るまで、ディアを頼む」
「そんな……」
そのとき、がちゃりとドアが開かれた。
ディアスは見知らぬ二人と父とを、交互に見遣った。父が他人を家に上げるのは初めてではないだろうか。そもそも、誰かと話していること自体が珍しい。経緯はわからないが、この状況が和やかでなさそうなのは明らかだ。どの顔も険しく、女性の方は目を潤ませている。
「えっと……」
どうしていいかわからず、入り口で固まっていると、父より先に女性が声を発した。
「――ディア?」
その声で、ふっと懐かしさに包まれた。最初浮かんだのは、母のことだった。顔はほとんど覚えていないが、声はとてもよく似ている気がする。
「――姉ちゃん?」
上の姉、ルイーダの方だ。彼女が答える前から、そう確信があった。十年ぶりで、すっかり大人になった姉から、「もう別人ね。当然なんだけれど」と言われてハグされるのは、なんだか不思議な気分だった。
しかし、再会の感慨に浸る余裕は与えられなかった。もう一人の男性が自己紹介し、二人がここに来た理由が語られて、ディアスはようやく状況を把握することができた。同時に、激しい怒りも感じていた。十年経ち、ようやく訪れていた平穏な日々を、彼らはまさに壊そうとしているのだ。それも、突然行方をくらました身勝手な姉のために。
「出てけよ」低い声で言う。「知るかよ、捕まったのは自業自得だろ。今更巻き込むな」
「やめるんだ、ディアス」
沈痛な声で遮ったのは、今まで黙っていた父だった。
「けど父さん――」
「もう行くと決めたんだ。必ず戻るから、その間留守を頼む」
「勝手なこと言うな!」
ディアスは抱えていた袋を力任せに床へ叩きつけた。市場で買ってきた一か月分の食糧が、足元から散乱していく。僅かながら手に入れた果実は、潰れてしまったかもしれない。この状況でそんなことを思う自分が情けなかった。
物心がついたときから、父と二人、ずっと厳しい生活をしてきた。
最初の頃は、ずっと泣いていたように思う。まだ母の死が理解できず、いつか帰ってくると信じていた。そのうえ姉達までいなくなり、暗い雰囲気に耐えられなかったのだ。
あるときついに父が逆上し、母と姉達が使っていた物を全て投げ出し、外で燃やしてしまったこともあった。そしてディアスを抱きしめ、こう言ったのだった。
「もう誰も帰ってこない。これからは父さんと二人で生きていくんだ。わかったな?」
父の腕の中で、ディアスは頷くしかなかった。あの時初めて、泣くのがどれだけ無意味なのかを思い知った。
その後、ほとんど売れなくなった畑の作物は、結局父が嫌気を差し、全て枯らしてしまった。それからは廃品回収で細々と暮らす日々だった。ディアスも常について回っていたため、いつの間にか仕事を覚え、手伝うようになっていた。
そして自分達が周囲からどんな目で見られているのか、気づくようにもなった。“魔女”という単語がタブーになっていること、亡くなった母は忘れ去られるべき人で、自分達もまた汚らわしく、哀れな存在であること。冷たくされるのも、同情されるのも苦痛だった。時だけが唯一の救いで、人々から過去の記憶を薄らげ、いくらか態度を軟化させてくれた。
それなのに。また同じ、いやそれ以上の苦しみを味わわなければならないとは、あまりに理不尽だ。
「勝手なことを言ってるのはわかってる。すまない」
頭を下げる父が、ずるいと思わずにいられなかった。ディアスがどんなに言ったところで、どうにもならないのだ。自分はこの町から一生離れられず、父と同じ負担を背負うだけ。むしゃくしゃしたこの思いを、誰かにぶつけずにはいられなかった。
「姉ちゃんはいいよな、逃げ帰る場所があって。本当は偽善者ぶってるだけだろ?父さんさえ動かせればいい話だもんな」
ルイーダは濡れた目を見開き、こちらを見た。ディア、と彼女が言いかけるのを止めたのは、事の元凶に最も近い存在だった。
「おい。姉貴にあたるのは違うだろ」
鋭い眼差しがディアスを射抜く。「おまえに何がわかる!」と食ってかかりたいのと、全く正論だと認めてしまう気持ちに挟まれ、ディアスは結局彼から視線を逸らした。
この場にいるのが耐えられなくなり、家を出ようとしたときだった。
「ディア、聞いてほしいことがあるの」
肩に置かれた手を、振り払うこともできた。けれど、できなかった。そうしたくはなかった。
足を止めたディアスの後ろで、ルイーダが話を続ける。
「覚えてないかもしれないけれど、シェリーはあなたをとても大切に思ってたわ。普段はあまり自分から関わろうしないのに、あなたが年上の子達にからかわれてるのを見ると、シェリーったら一人で喧嘩を挑んでいっちゃうの。男の子三人相手にね、全員負かしちゃったこともあるのよ。そして言うの。“ディア、もう泣かない。お姉ちゃんが守ってあげるから”って。とてもかっこよかったわ。でもその後、ぼろぼろの姿で家に帰って、お父さんに“女の子が喧嘩なんかするな”って怒られちゃったんだけどね」
「女の子らしく育ってほしかったんだ。今思えば、頭ごなしに叱りつけるのは間違っていたな」
ブラントが控えめに弁明をいれる。ルイーダはくすりと笑って頷いた。彼女と違い、もう一人の姉は随分と男勝りだったようだ。ギュンターと名乗った男も、「あいつらしいな」と言って表情を和らげた。三人の様子を見ていると、自分だけが置いていかれた気分になる。それを察したかのように、ルイーダが向き直り、微笑みかけてきた。
「私達は、離れていても姉弟なの。だから、もしあなたが何か困難に遭っていると知ったら、私とシェリーはきっとできる限りのことをするわ。思い出の多さは関係ない。強い絆があるもの。お父さんとお母さんの愛で、私達は結ばれている。この事実だけは、皆同じでしょう?」
「姉ちゃん……」
今まで、知ろうともしなかった。自分を大切に想ってくれる人が、いることに。椅子が減ってしまっても、五人で食卓を囲んだひと時が、確かに存在していたことに。
ふと父を見ると、彼は片手で目を覆い、肩を震わせていた。泣いている姿を見るのもまた、初めてだった。もしかしたら、本当はずっと堪えていたのかもしれない。それが父なりの優しさだったのかもしれないと、そう思えたとき、ディアスの中で荒ぶっていた感情が、徐々に静まっていった。
「早く帰ってこいよな。それまでは、一人で何とかやるから」
「いや、イーダもここに残って――」
「嫌よ、お父さん。わたしも一緒に行きます」
父の困った顔を見て、ふっと懐かしい思いにとらわれた。母がいた頃、父は時々、こういった表情を見せていた。一家の主として強く振舞ってはいたが、実際のところ母に対しては頭の上がらない人だった。こうしていると、改めて家族なのだな、と思う。
「父さん、俺は大丈夫だよ」
「いや、しかし……」
「何を言ったって、姉ちゃんはたぶんついてくと思うし」
ルイーダが「そうです」と大きく頷き、ついに父の方が折れた。
「わかった、じゃあ頼む」
目を伏せたまま、ブラントが応える。けれどその声から充分、気持ちは伝わってきていた。ディアスは次に、ルイーダへと目を向ける。
「今度はセレーナ姉ちゃんも連れてきなよ。椅子も人数分用意しておくから」
ルイーダはこの提案に、喜んで賛同してくれた。会話に区切りがついたところで、横からギュンターがすっと割り込んでくる。何かと身構えていると、彼は突然手を差し伸べてきた。
「あいつのことは、俺らが絶対助ける。誰にも魔女なんて言わせねえからな。信じて待ってろよ」
「あんたにわざわざ言われなくてもわかってる」
手を握りながらも言い返してやると、意外にもギュンターは朗らかに笑った。
「かわいくねえな。そういうとこ、姉弟そっくり」
「……それはどうも」
まだ会って間もないが、彼のことは苦手だと思った。何をしてくるか予測がつかないし、ずけずけとした物言いも気に入らない。けれど、彼を信じたいと思った。一筋の希望に縋りつくのは、きっとそんなに悪くない。大切なものに、気づくことができたのだから。
「行く前に、妻の墓へ寄ってもいいだろうか」
旅支度を終えたブラントの提案で、四人は裏庭へと足を運んでいた。ギュンターは辞退するつもりだったのだが、「君も会っていってほしい」と言われれば、断る理由はなかった。
マリア・リーベルトと刻まれた小振りの石碑は、かつて薬草を取りに行っていたという山の近くに、ひっそりと建っていた。ブラントはその前に屈むと、花束を添え、静かに祈った。それからルイーダの方に振り返り、こちらに来るよう促す。
「マリア、ルイーダだ。こんなに立派になったんだぞ」
石碑に向かって、彼は嬉しそうに言った。
ギュンターが二人のやり取りを少し離れたところで眺めていると、隣にいるディアスがぽつりと言った。
「あそこには、何もないんだ」
「どういうことだよ?」
「石碑だけって意味。母さんの遺体は引き取れなかったんだってさ。魔女は骨まで穢れているから、埋葬すると土地が枯れるらしい。父さんは、すごい悔しかったと思う。だからああやって墓作って、周りからどんな目で見られても、この家に留まってた。他の町に移った方が、まだマシな生活になったかもしれないのに」
言葉とは裏腹に、ディアスの口調は穏やかなものだった。父親の想いは、彼なりに受け止めているのだろう。
「強いな」
「強いよ、父さんは」
「親父さんだけじゃなくて、おまえもだよ、ディアス」
ディアスは戸惑った表情を浮かべ、「意味わかんね」とそっぽを向いた。その横顔は、やはりどことなくブラントに似ていた。二人で耐え抜いてきた日々が、一足早く彼を大人びた雰囲気に成長させたのだろう。当時の自分とはえらい違いだな、と思う。逃げ出したくなるときもあっただろう。悔しくて堪らない思いをしたのは、ブラント一人ではない。
「全部落ち着いたら、おまえも俺の町に来いよ。いいとこだぞ。いつでも歓迎してやる」
「……いつもそういう感じなの?」
「何が?」
「何ていうか、予測不能なこと言う感じ」
「アイデアマンなんだよ。尊敬していいぞ」
軽口で返すと、ディアスはふっと鼻で笑った。それから少し目を逸らして、「気が向いたら行くよ」と答えた。
墓での挨拶も済ませ、三人は新たな気持ちで家を出た。
町外れまでの道中、何人かすれ違いはしたが、ブラントを見ると、皆が視線を逸らしていった。
本人も、特に気にする様子はない。彼にとってはいつものことなのだろう。
だから町外れの空き地で声をかけられたときには、ギュンターもルイーダも驚いた。馬車から降りてきたその人物は、敢えてこちらを待ち受けていたようだった。ブラントと同世代くらいの女性で、シンプルな黒いドレスを纏っている。彼女に呼び止められた途端、ブラントはなぜか表情を強張らせた。
「何の用ですか?」
「久しぶりね、ブラントさん」
「今更話すことはないでしょう」
丁寧な口調ではあるが、ブラントのその声には強い嫌悪と拒絶が含まれていた。
ギュンターは声を潜めて「誰?」とルイーダに尋ねた。しかし彼女は話しかけられたことにすら気づいていないらしく、女性から目を離さない。
女性はちらりとルイーダを見やり、すぐブラントへ視線を戻した。
「冷たいのね。この茶番劇、最後まで見届けてあげようと思って、わざわざ足を運んできたというのに」
「――随分な悪趣味だ」
これ以上ブラントを刺激するのは危険だと判断したのか、彼女は次にギュンターへ目を向けた。
「あの子を助けたいの?」
「おまえ誰だよ?」
事情はわからずとも、何となく嫌な雰囲気のする女性に対して、ギュンターもつっけんどんに返す。しかし彼女は、むしろそれを楽しんでいるかのようだ。
「そういう態度はあまりよろしくないわね。私の一言で、あの子が助かるかもしれないのに」
「そうやって弄ぶのが楽しいか!」
ブラントが声を荒げ、彼女へ掴みかかろうとする。ギュンターは咄嗟に間に割って入って、ブラントを制止した。彼女を守るわけではないが、とりあえず話は聞いておいた方がいいような気がした。何かが引っかかっていたのだ。彼女は饒舌に喋ってはいるが、全ては台詞じみていて、空疎に感じられた。まるで、時折垣間見える、フリッツのような。
「私はヘルタ・クラウゼン。マリア・リーベルトを魔女と告発したのは私よ。重要性がわかっていただけたかしら?」
「――なるほど、な。で?ただ見物するためについてくるって言うのか?」
「そうよ。いけない?」
「勝手にしろよ」
ブラントとルイーダが揃って反論しかけるが、ギュンターはそれを押しとどめた。
たしかに二人からすれば、ヘルタは家族を奪った張本人であり、決して許すことはできないだろう。二度と会いたくなかったに違いない。しかし普通に考えれば、ヘルタもまた、会いたくないという点では同じであるはずなのだ。人から恨みを買ってまで、嫌がらせを続けたい理由があるのか。それとも、他に別の思いが隠れているのか。何にせよ、セレーナにとっても別な意味で決着がつくのではないかと、そう思ったのだった。
大きな賭けであるのはわかっている。ヘルタが気まぐれを起こして、証言台に立とうとするかもしれない。そのとき発するのは、希望か絶望か、全ては結局彼女次第になる。だから淡い期待を抱けば、大怪我をすることになりかねない。彼女の申し出は断るのが無難だ。いや、そもそもが取り越し苦労で、連れて行ったところで結局物見遊山に終始し、ただその存在に苛々するだけかもしれない。
けれど。後悔だけはしたくない。絶対に。
結局二人は、ギュンターの押しに負け、不承不承ヘルタの同行に同意した。
「勝手にさせていただくわ。よろしくね、皆さん」
ヘルタに返事をする者は、誰もいなかった。彼女もはなから期待などしていなかったらしく、行き先を聞くと、さっさと馬車に乗り込んだ。
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