第28話 10日目 

 ギュンターとヨハネスが、別々の道を歩み始めた頃。クラーヴでは、セレーナ・リーベルトの異端審問が始められ、今日で十日目を迎えていた。

 彼女が罪を認めたことで、決着は時間の問題かに思われたのだが、ここに来て想定外の横槍が入った。彼女に弁護士がついたのだ。エルヴィン・ウルリックという男は、ある日突然やってきて、彼女への情状酌量を声高に唱えたのだった。聞けば、パリの有名事務所に所属しているのだという。

 忌々しいギュンターの働きかけなのだろうが、一体どうやって弁護士とのつながりを持ったのかと、ゲオルグは不思議でならなかった。いくら仕事でも、大抵の者は異端審問の弁護などやりたがらない。もしや裏にオスヴァルトの影があるのか、と思いフリッツに調べさせたが、手がかりは得られなかった。

「まったく、いつまで続けるつもりだ。行き着く先はわかりきってるだろうに」

 酒を手に、愚痴を言わずにはいられない。今更情状酌量を求めるなど、意味のないことなのだ。なぜならセレーナ本人が、自らの容疑を大方認めているからだ。散々神を冒涜しておいて、宿命に抗い、救いを求めようとは、なんと穢れた魂か。

 にもかかわらず、周囲の反応は日を重ねるごとに勢いをなくし、所在無く揺らぎ始めていた。同じような内容ばかり議論されていれば、気分がだれてくるのは仕方がない。

 しかし、腹立たしいもうひとつの原因は、セレーナの毅然とした態度にあった。大抵の女が使うであろう、必死の懇願や、涙を流すという常套手段を、彼女は一切用いなかった。

「わたしは魔女ではありません」

 何度同じ尋問が繰り返されようと、この一点だけは決して譲らないのだ。生意気な目つきからは、一瞬の迷いも見られなかった。潔く真実を述べた上で、自分の意志を貫いている。そういう見方ができるよう、巧妙に仕組んでいるのだ。騙されてはいけない。

 そこでついに、ゲオルグは行動を起こすことにした。審問所の廊下で、オスヴァルトを呼び止める。

「論議もだいぶ煮詰まっただろう。このままでは埒が明かない。言っている意味はわかるかね?」

「承知しています」

 オスヴァルトはいつも通り、顔色ひとつ変えずに答えた。初めて会ったときから、彼が感情らしいものを見せることはほとんどない。こうして話していても、銅像と対面しているかのようだ。冷たいオーラを感じながらも、ゲオルグは一歩距離を詰める。

「それで、いつから始めるつもりだね?」

「以前申し上げたとおり、十四日間は審議のみです」

「あと四日間、ダラダラと続けるつもりか?」

「規則ですので」

 返事はにべもない。口調こそ丁寧だが、彼からは目上の者に対する敬意や畏怖の念が、微塵も感じられなかった。いつか覚えていろ、とゲオルグは内心で毒づく。どうせ今脅したところで、彼はびくともしない。実際に陥れて、必ず後悔させてやる。固く決意しつつ、ゲオルグは何とか平静を装った。

「真面目で結構なことだ」

 そうして耐え忍んだ四日目。ついに変化が訪れた。

 審議の場所は、審問所にある地下室へと変わった。弁護士には、セレーナが体調不良のため、審議を中断すると伝えてある。向こうもこちらの意図はわかっているだろうが、止める手立てはない。彼の無念そうな様子は、ゲオルグを久しぶりに晴れやかな気分にさせた。ここからが、本当の異端審問の始まりだ。

 初日はゲオルグとオスヴァルト含め、七人の男達が顔を揃えた。その中にはフリッツ・ビューローの姿もある。彼の若さでこの場に立ち会えるのは、滅多にない貴重な機会だ。今回はゲオルグの計らいだが、将来有望なのは疑う余地がない。

 フリッツは院に所属する二百名以上の修道士達の中で、群を抜く秀才だった。聖書の内容は、入所した当初から瞬く間に覚えてしまい、すらすらと暗証することができた。ラテン語を学び始めれば、あっという間に読み書きできるようになり、多くの本を読み、知識を取り込んでいった。生活態度も真面目であり、ゲオルグは早くから目をかけていた。唯一の汚点はギュンター・ヘルマンという悪友がついていることだったが、それも無事解消された。

 そしてこの度、異端審問官になりたいという彼の意思を汲み、セレーナ捕縛に同行することになったのだ。悪友と決別するいいきっかけでもある。

 地下室内は狭い上に、当然ながら薄暗く、じめじめしている。七人も人が入れば、隣の息遣いさえ耳障りなほどだ。

 やがてセレーナが連れてこられ、用意が整うと、オスヴァルトの声が冷たい石壁を叩いた。

「これより、被告人セレーナ・リーベルトの身体検査を行う」

 セレーナがぴくりと眉を動かすのを見て、ゲオルグは内心、にやりと笑った。これから彼女の身体は、男達によって隅々まで調べ上げられる。目的は、魔女の印を見つけるためだ。

 印となるのは、どす黒い痣がある場合や、太腿にほくろがある場合、などいくつか挙げられる。肝心なのは、悪魔と交わった痕があるかどうかだ。悪魔の力を手に入れるため、魔女は彼らとおぞましい契約を交わす。魔女とは、もっとも汚らわしい娼婦なのだ。

 二人の男が歩み出て、セレーナを両脇から羽交い絞めにする。検査担当の老博士が、彼女の服に手を伸ばした。

「触らないで」

 彼女は鋭く反発する。怯えて発するのとは違う、芯のある声だった。あまりに毅然とした態度なので、老博士は言われたとおり、手を引っ込めてしまった。彼女はヘルマン審問官の方を向いて続ける。

「自分で脱ぎます」

 室内が小さくどよめく。「さすが娼婦だ」とゲオルグが言うのを皮切りに、「自ら晒したいということか」「なんて淫乱な」と声が続いた。老博士も先程の失態を挽回すべく、肩をいからせ罵っている。

 オスヴァルトは少し間を置いた後、「好きにしろ」と短く言った。彼女を羽交い絞めにしていた男達が、手を離す。

 周りの視線を受けながら、セレーナは躊躇うことなくシャツに手をかけた。微かな衣擦れの音と共に、シャツが床に落ちる。続けてスカートが、最後に下着が上に重ねられた。白い裸体が露になったとき、隣の男が、ごくりと唾を飲み込んだ。他の者達も、食い入るように彼女を見つめている。美しい、と思わずにはいられなかった。男を誘うに充分な肉付きと、引き締まった四肢や腹部は、どこを見ても一切無駄がなかった。 

 セレーナは堂々と背筋を伸ばし、オスヴァルトへ挑むような視線を向けた。彼の指示で、老博士が再び前に進み出る。ちらりと彼女の顔を覗いつつ、手を伸ばす。今度は抵抗なく、検査が始められた。

 老博士はゆっくりと時間をかけて、彼女の身体を触診していった。度々手を止めては、気になる箇所があると、皆に確認させる。男達はすぐさま側に群がり、鼻がくっつきそうなほど身体に顔を近づけた。調べる振りをして、無遠慮に手を伸ばす者までいた。セレーナは唇を噛みながら、黙って前を見続けている。

 フリッツだけが、その集まりから少し離れて立っていた。彼は書記の立場上、魔女の印が確定されるまで、自ら視認する必要はない。しかし近づくのを禁じられているわけでもないので、ゲオルグは最初、彼が尻込みしているのだと思っていた。何せ初めての参加であるし、彼からすれば相手は同年代だ。

 だがよく見ると、どうやらそうではなさそうだ。彼はいたって平静で、むしろ冷めた目つきで様子を眺めていた。オスヴァルトの癪に障る無表情と、なかなかにいい勝負だ。

「ビューロー、こちらに来なさい」

 呼びかけに応じたフリッツに、ゲオルグは続けて指示を出す。

「何事も経験だ。魔女の印を探し当ててみなさい」

 他の者達が脇に退き、フリッツのためにスペースを作る。彼はセレーナの全身をざっと眺めると、一歩近づいた。そして手を伸ばす。彼が触れた先は、彼女の唇だった。長い指先を、下唇の形に沿ってなぞらせる。

「彼女は、パリで事件を起こしたときから、“紅アゲハ”と呼ばれていました」セレーナの目を見つめたまま、フリッツは語りだす。

「紅い血のついたナイフに、紅のドレス、そして紅い唇。先の二つは自らの行いによるものでしょうが、この傷だらけの唇こそ、悪魔と交わった証拠です。血が滲むほどの激しさに酔い、奴の言いなりになったのでしょう。といっても、その相手がギュンター・ヘルマンでなければの話ですが」

「無礼な!」

「ヘルマン審問官のご子息に対して、何たる言い草だ!」

 男達の中から、すかさず声が上がる。オスヴァルトの部下として、黙っていられなかったのだろう。彼らの剣幕に対し、フリッツは悪びれる風もなく、平然としている。

 一方のオスヴァルトも、動じる素振りは欠片もなかった。「静かに」の一声で周りを黙らせてから、セレーナを見遣る。

「被告人、ビューロー書記の言ったことは、真実か?」

「いいえ、違います」

 問いに対して、彼女は即座に答えた。その目は怒りに震え、フリッツを睨みつけている。どうやら、彼女の心を乱すのには成功したようだ。

「ならば、その傷は何だ?」

「自分でつけたものです」

「理由は?」

「あげればきりがありません。感情を抑えるための方法なんです。単なる癖です」

「無意味に自分の身体を傷つけるのも、罪になるのだぞ」ゲオルグが二人のやりとりに口を挟む。「魔女でなければ、主から授かった大切な身体なのだからな。無分別に男へ股を開くのも、また然り。やはり罪人とは、罪な仕事を好むものだな」

 そう言ってにやりと笑ってやると、セレーナは蔑んだ目でこちらを見返した。

「その仕事を必要としてるのは誰?あなたのような腐った男達でしょ?」

 どこまでも腹の立つ女だが、ここで感情を乱してはならない。自分が関わっているという証拠は無いのだ、とゲオルグは内心に思う。平静でいなければ。

「愚かな。ついに妄言を口走るまで追い詰められたか」

 彼女が言い返す前に、ゲオルグはオスヴァルトへ提案を入れた。

「証拠はあらかた揃ったでしょう。検査はこれで充分なのでは?」

 異存はなかったようで、終了の意が告げられる。

 セレーナは服を着るよう促され、おとなしく指示に従った。身支度をして、地下室を出て行くまで、男達の粘つくような視線が後を追っていたが、彼女は気にする素振りもなかった。娼婦という惨めな過去が、十代の少女を今強く支えているのかもしれない。

 とにかく午前の日程が終わり、午後からは審議員全員でだらだらと長丁場の協議に入る。早く切り上げたいものだ、とゲオルグは思う。いくら話し合ったところで、真実はひとつだけなのだから。


 審問所二階の中部屋で、中央に設えられた円卓を囲み、協議が始まった。今までの証拠をもとに、審問官が今後の方針を決断するときだ。しかしここに来て、ゲオルグの予想を裏切り、意見はまさかの二つに割れた。

 ゲオルグ率いる魔女肯定派は、一貫して被告人の血縁関係に重点をおいた。母親が魔女だったという事実は、どうやっても覆すことはできない。そして、その血は必ず子に受け継がれる。至極常識的なことだ。

 一方の疑問視派は、例の弁護士同様、セレーナの発言の正当性を主張した。彼女は一貫して、自己弁護などはせず、冷静に事実を述べている。それは聖書に宣誓したことから明らかであるし、彼女の態度からも、軽視するべきではない、という主旨だった。

 最終的な決定権を持つオスヴァルトは、意見が対立する様をしばらく無言で眺めていた。どちらに傾いているかは、やはり予想がつかない。互いの主張があらかた出尽くしたとき、ついに彼は口を開いた。

「二つの意見を吟味した結果、被告人セレーナ・リーベルトは――」

 部屋の空気が張り詰め、視線が一点に集中する。

「魔女の疑いが極めて高いと、判断した」

 ゲオルグは大きく安堵の息を漏らした。が、すぐに緊張していた自分が腹立たしくなり、当たり前だ、と胸の内で、疑問視派に罵る。いくらセレーナの発言が真実だと言い張ったところで、証拠も裏づけの証言もなければ、所詮意味のないことだ。全ては“悪魔による悪知恵”で片付けてしまえる。

「ならば早急に、次の段階へ移らなければなりませんな」

 ゲオルグの進言に、オスヴァルトが頷く。

「明日から午前と午後半刻ずつ、地下室での尋問を開始する」

 地下室で行われる尋問。つまりは拷問だった。魔女による被害を未然に防ぐため、異端審問官に与えられた特権のひとつだ。自分の罪を洗いざらい認め、新たな魔女の名を告げない限り、セレーナにとっての辛い日々に終わりはない。強気な彼女が心折れる様は、さぞ見ものなことだろう。

 恐らく一週間で落ちる。ゲオルグには自信があった。大抵の者が、すぐに音をあげ、涙ながらに自供するのを見てきたからだ。まだ大半が部屋に残るなか、ゲオルグは一足早くその場を後にした。フリッツもすぐについてくる。

「どこまで持ちこたえるでしょうか」

 フリッツの問いに、ゲオルグは肩を竦めて答えた。

「突っ張ってはいても、たかが小娘だ。全ては予定通りに終わるだろう」

 そうですね、とフリッツは相槌を打ち、微笑んだ。その端正な顔立ちが、なぜかナイフを振りかざすセレーナと重なり、ゲオルグは慌てて馬鹿げた想像を振り払った。とにかく明日からだ、と考えを切り替える。ゲオルグにとっての刺激的な日々が、これから始まるのだ。

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