第27話 姉妹

「お、街が見えてきたぞ。もうちょっとだヨハン」

「……やっと着いた」

 弱々しい声が、遠く背後から届く。ギュンターは足を止め、後ろを振り返った。ヨハネスは足を動かすのもやっとなのだろう、引きずるようにして何とか歩を進めている。こちらの視線に気づくと顔を上げ、力なく微笑んだ。心配かけまいとしているのだろうが、今にも倒れそうなのが一目瞭然だ。

 ギュンターは肩を竦め、近くの木に馬の手綱を括りつけると、もと来た坂道を引き返す。そしてヨハネスが引いていた手綱を取ると、背を叩いて励ましつつ、再び坂を上る。

 今日まで旅をしてきて五日間。乗馬に不慣れなヨハネスは出発早々股擦れを起こし、始終痛そうな様子だった。さらに道の悪いところや急な坂道では馬を下りなければならず、歩くしかないのだが、今度はすぐに息が上がってしまう。つまり、恐ろしく体力がないのである。とても旅の経験者とは信じがたかった。

 しかし彼は、今日まで弱音を一切吐かなかった。ギュンターが歩調を合わせたり手を貸したりすれば、息も切れ切れになりながら、毎回律儀に感謝の意を述べた。そして遅れを取り戻そうと、一層頑張りすぎてしまうのだった。何度か無理するなと言ってはいるのだが、「大丈夫」と首を振るばかりだ。意外に頑固なのかもしれない。

 そんな姿を見ていると、一際やりにくかったセレーナとの旅を思い出す。最初の頃は険悪な空気が拭えず、いつ気が変わってナイフが出されるかもしれなかった。あのときに比べれば、今回の旅はほとんど苦にならなかった。さすがに大の男を背負う羽目になる事態は避けたいところだが。

「ギド、なんか楽しそうな顔してるね」

「は?そうかあ?」

 ヨハネスの指摘に、ギュンターは顔を顰めてみせた。そう言うヨハネスこそ、疲れも忘れたようににこにこしている。

「セレーナのこと、考えてたでしょ?」

「違えよばか」

 即座に返したものの、他の人なら避ける話題をさらりと出してきたことが意外であり、むしろありがたかった。だからつい気が緩んだのかもしれない。言ったところでどうしようもない思いが、ぽつりと口からこぼれ出る。

「――思い出し笑いなんかしてる場合じゃねえのにな」

 ヨハネスはわずかに首を傾げてギュンターを見上げると、「いいんじゃないかな」と朗らかに言った。

「落ち込んでいたって、何かが変わるわけじゃないし。元気でいこう、笑っていようよ。その方がギドらしいよ」

「そっか。そうだよな。――ま、今にも倒れそうな奴が言っても、何か格好つかないけどな」

「あはは、そうだよね。ごめん」

「よし、じゃあ俺の元気分けてやるから、あとひと越え、気合で乗り切れ」

 そう言いながら、バシッと背中を叩く。ヨハネスは危なっかしげによろけながら、へなへなと笑った。




 無事にパリの城壁をくぐり抜けた二人は、手近な宿屋でようやく一息つくことができた。柔らかなベッドに対する感動はひとしおだ。 

 温かい食事を堪能した後、倒れ込むように寝転がり、ヨハネスは思わず顔を歪めた。度重なる野宿のおかげで、体の節々が悲鳴をあげていた。楽な姿勢を模索してみるものの、なかなか心地よい眠りは訪れない。隣のベッドからは、既にギュンターの大いびきが聞こえる。今のヨハネスにとっては耐え難い騒音だった。

「別々の部屋にすればよかった……」と思ったところでもう遅い。

 何とか眠りについたものの、朝が来るのは残酷なほど早く、あっという間に叩き起こされてしまった。

「いつまで寝てんだ?もうとっくに朝だぞ」

 目を開けると、ギュンターの晴れ晴れとした顔がある。ヨハネスは溜息を噛み殺し、布団を目深に引き上げた。

「お願い、もう少しだけ……」

「何言ってんだよ、時間は待ってくれないぞっと」

 しっかり掴んでいたはずの布団が、容赦なく剥ぎ取られてしまう。おかげで冷たい朝の空気が、寝惚けた頭を徐々に目覚めさせていく。ヨハネスはのろのろと起き上がり、ぼやけた目を手の甲で擦った。

「ずいぶん疲れた顔してんな。寝不足か?」

「いや、大丈夫。充分休んだよ」

「そうか?ならいいけど」

 いびきがうるさくて眠れなかったとは言いにくく、ヨハネスはベッドを降りて身支度を始めた。ただ次に宿で泊まるときは、絶対別々の部屋にしようと胸に誓う。

 一足先に準備を終わらせたギュンターが手持ち無沙汰にベッドへ腰かけ、軽い口調で言う。

「そういや今朝のヨハンのいびき、すごかったぞ。俺びっくりして目覚めたもんな」

 ヨハネスは唖然として言葉もなかったが、不思議と今度はおかしくなってしまった。急に吹き出す様を見て、ギュンターは訝しげな顔をしている。ヨハネスは笑いながら言った。

「お互い様だったんだね」

「はあ?何がだよ?」

 その後理由を聞いたギュンターも、「なんだ俺もか!」となり、笑い合ったのだった。


 外に出ると、既に街は華やかな活気に包まれていた。通りは人と馬車が行き交い、高い建物がずらりと建ち並ぶ。大都会の様相に、ヨハネスは圧倒される思いだった。ここならきっと、まだ知らない医療の技術や知識が多くあることだろう。

「おい、まずはどこに向かえばいいんだ?」

 ギュンターに訊かれ、ヨハネスは慌てて住所の書いたメモを取り出した。

「講堂の近くにあるってことだから、そこを目指して行こう」

「了解」

 果たして目的の法律事務所は、街の中心となる一角に、堂々と看板を掲げていた。受付に用件を伝えると、すぐに彼が出迎えてくれた。

「ヨハン、久しぶりだな!元気そうでよかった」

「ハリー、君こそ。会えて嬉しいよ」

 七年ぶりの再会に、ヨハネスは改めて月日が経ったことを実感した。ハリーの愛嬌あるにきび顔は、今や青年の凛々しい顔つきに変わっている。彼はヨハネスが退学した後無事に卒業し、在学中に見つけた夢を実現させるため、苦手だったはずの勉強にひたすら打ち込んできた。そして昨年、弁護士の卵として今の事務所に入社したのだ。

 その間もヨハネス達は手紙のやり取りを欠かさず続け、今日の再会へと至った。話したいことは山ほどあるが、それは次回、二人とも一人前になったときまで取っておこうと心に思う。

 ギュンターとも互いに紹介を済ませ、一息ついたところで、ヨハネスから切り出す。

「ところで、今回の件なんだけど――」

 ハリーも表情を引き締め、すぐに頷く。

「ああ、わかってる。とりあえず入ってくれ」

 二人が通されたのは、事務所の一角にある小規模なブースだった。長机と椅子が四脚置かれてあり、ヨハネス達は先にここで待っているように言われた。

 興味深そうに周りを見渡していたギュンターが、こちらに顔を寄せ、小声で尋ねる。

「なあ、あいつがアンの弁護するつもりなのか?」

「ハリーが?いや、それは難しいんじゃないかな。まだ新人だし、いきなり異端審問ってのは荷が重いと思うよ」

「そっか。ならいい」

 すっと身を引いたギュンターに「何か気になることでもあったの?」と尋ねると、彼は大真面目に言った。

「だってあいつ、弱そうだろ。親父と対決しても敵わねえよ」

「いやいや、喧嘩するわけじゃないから、そういう問題ではないかと……」

「同じようなもんだろ。弱気になったら終わりだ。立派な勝負だって」

「そうだね。君のいうことにも一理ある」

 会話に割り込んできた第三の声で、二人は同時に顔を上げた。ハリーを従えて現れたのは、眼鏡をかけ、温和な顔をした中年男性だった。

「弁護士のエルヴィン・ウルリッヒだ。よろしく」

 彼は意外に強い力で二人と握手を交わすと、向かいの席に腰を下した。

「ハリーから話は聞いている。魔女の容疑がかかった友人を助けたいんだってね」

「ああそうだ。できるか?」

 不躾なギュンターの態度を気にする風もなく、エルヴィンは冷静に答えた。

「できるかどうか判断するには、詳しい状況を聞かせてもらわないとね」

 そこでヨハネスは、ギュンターに補ってもらいながら、今までの経緯を語った。エルヴィンはところどころで質問を挟みながら聞いていたが、次第に険しい顔つきになっていった。

「正直に言わせてもらえば、この容疑を晴らすのはかなり厳しいだろうな」

「そこをどうにかしてほしいから、こうやって頼んでんだろ!」

 納得いかないのだろう、ギュンターがすかさず食らいつく。それを宥めるヨハネスも、気持ちは沈んでいた。言われることは覚悟していた。エルヴィンの言い分はもっともだ。ひとつはやはり、家族に魔女の判決を受けた者がいたこと。そして実際に、セレーナ自身がいくつかの罪を犯していること。

「だからといって、不可能と言ってるわけじゃない。今の状況では難しい、ということだ。勝算のない勝負をしても意味がないだろう?異端審問の場合は特にね」

 眼鏡の奥で、エルヴィンの目つきが厳しいものに変わる。無罪の生か、有罪の死か。それはとても単純で、あまりに残酷だ。

 落ち着きを取り戻したギュンターが、真っ直ぐな目で問いかけた。

「今俺達にできることは、何だ?」

 ヨハネスも祈る思いで答えを待つ。エルヴィンは二人を交互に見やると、ひとつ頷いた。

「彼女の過去を知る者の証言が必要だ。ヨハネス君と会ってからギュンター君に会うまでの期間を、どう証明できるかが鍵になってくるだろうね。それからご家族の協力も不可欠だ。どこにいるかは知っているのかい?」

 ギュンターは表情を曇らせた。

「あいつ、親父さんに見放されて、もう帰る場所はないって言ってた。あのときはそれ以上聞けなかった」

「そうか――。他に彼女の知り合いや、もしくは他の親戚などは?」

「知り合いはわかんねえけど、姉ちゃんが一人いるって言ってたな」

「そのお姉さんはどこに?」

「たしか、オルレアンだ」

「オルレアン?」

 ヨハネスは驚いて口を挟む。

「なんだよ知ってんのか?」

 ギュンターに尋ねられ、ヨハネスは今更ながら、学生のときオルレアンにいたことを話した。短いながら、有意義な日々だった。学校の講義は充実していたし、資料も豊富。そして街中にはジャンヌ・ダルク像があり、そこに――。

「――あ」

「次は何だよ?」

「いやまさかね。ありえないよね」

「おいこら、一人で処理しようとすんなよ。気になるから言えって」

 しびれを切らしたギュンターが、苛立った声を上げる。それでもすぐには言葉が出てこなかった。

 信じられない思いだったが、納得できる気もした。どこか面影のあった、ジャンヌ・ダルク像を見つめる一人の女性。彼女もまた、妹がいると言っていなかったか。

「あのさ、確認したいんだけど……セレーナの姓は何だったかな?」

「リーベルトだよ、セレーナ・リーベルト。あ、もしかして姉ちゃんのこと知ってんのか!?」

「うん……もしかして、かも」

 曖昧だった記憶が、次第に引き出されていく。そう、彼女の名前は、ルイーダ・リーベルト。ヨハネスは今度こそ、確信を持って頷いた。




 そして二人は早速、オルレアンへと向かうことになった。

 ヨハネスは前より乗馬をこなせるようになり、相棒との仲もすっかり深まったようだ。馬から下りる度鼻の頭を撫でながら、「ありがとう、お疲れ様」と声をかけたりしている。

 ギュンターは自分の馬を近くの木に繋げると、野宿の用意を始めた。今日で二泊目、明日には目的地へ着く予定だ。

 火を囲みながらくつろいでいると、ヨハネスの方から話題を振ってきた。

「もしよかったら、セレーナの話、聞かせてくれないかな」

 ギュンターは枝を火の中に放り投げながら、「って言われてもな。審問に役立つかどうか」と言った。

「あ、いや、そうじゃなくて。ただ個人的に気になっただけなんだ。僕はまだ小さかった頃のセレーナしか知らないから……」

 そういうことならと、ギュンターは思いつくままにセレーナとの日々を語った。旅の途中で言い争いになったことや、クラーヴに来てからの生活。時折見せる優しさや、相変わらずの負けん気の強さを象徴したエピソードに、ヨハネスは興味深く聞き入っていた。そしてしみじみと言った。

「そっか。セレーナにもいろんなことがあったんだね。だからあんなに変わったんだ」

「そりゃ何年も会ってなかったら、変わってんのも当然だろ」

「うん、でもそれだけじゃなくて。セレーナは前よりずっと明るい表情になった。ギドの話を聞いて納得したよ。よかった、本当に」

 過去の出会いを思い出したのか、微笑むヨハネスの目はわずかに潤んでいる。そこまで彼女のことを想っていたのかと感心する一方、ギュンターとしてははっきりさせたい部分がある。

「ヨハン、おまえ惚れてたろ」

「え?――あ!違うよ!あのときまだ僕は十歳だったし、向こうはもっと幼かったんだ、恋愛感情とかそういうのとは違うよ。ただ友達になりたかっただけで……」

 慌てふためく様子がおかしくて、ギュンターは笑いを噛み殺し、意地悪な質問を重ねる。

「で、今は?あいつも随分変わったんだろ?」

「うん、すごく綺麗になってた。でもそうじゃなくて!今も変わらないよ、いつか一緒に笑い合えたらいいなって、本当それぐらいで。ギドとセレーナが付き合ってることは、嬉しく思ってるよ。幸せになってほしいんだ、二人とも」

 そう言ってヨハネスは朗らかに笑った。いい奴だな、と改めて思う。こんな風に裏表のない笑顔は、久しぶりに見た気がする。ギュンターは軽く頷いてから、「ま、俺らはまだ付き合ってるわけじゃねえけどな」と率直に付け加える。

「え!?そうだったんだ、てっきり――」

「けど俺は、アンが好きだ」

 前から気持ちは決まっていた。将来を共に歩むのは、彼女しかいないと。

「そっか。じゃあ本人に伝えないとね」

「言われなくてもわかってるよ。ヨハン、後から好きになったって言っても手遅れだからな」

「うん、わかってるよ」

 自分の言動に気恥ずかしくなり、ギュンターは「寝る」と言ってごろりと背を向けた。後ろからヨハネスが、「おやすみ」と返してくる。そして静かに、木の枝を火にくべる音がした。


 翌日、二人は予定通りオルレアンに到着した。ヨハネスはあちこち見渡しながら、「懐かしいなあ」と声を上げている。

 やがて大きな広場に出ると、彼は足を止めた。

「ここでルイーダさんに会ったんだ」

 見上げる先には、鎧を身につけた少女の像がある。ジャンヌ・ダルクというオルレアンの英雄らしいが、ギュンターは今まで聞いたことがなかった。というのも、彼女は異端者として処刑されていた。修道院で学ぶ歴史の授業では、出てこないわけだ。異端の真相は定かでないが、女の道を捨て軍隊を率いた十四歳の娘が、常人だとは思えなかった。軍の統率者達にとっては、ある種の脅威だったのかもしれない。

「ま、そんなことはどうでもいいけどな」

 ギュンターは像について考えるのを打ち切り、早速ルイーダ・リーベルトの家を探すため、聞き込みにかかった。ここの近くに住んでいるなら、先程通ってきた商店街をあたっていくのが近道だ。

 しかし情報はさっぱり得られない。家はこの辺りでないのか、もしくは苗字が変わったか。二人で肩を落としかけたときだった。

 視界の端で、小さな影が動いた。ギュンターが目を留めるより先に、それは素早くヨハネスにぶつかっていった。案の定ヨハネスは一、二歩よろけつつ、「あ、ごめんね」と謝ろうとしている。すでに察しがついていたギュンターは手を伸ばしたが、すんでのところで影には届かない。

「これ頼む!」

「え、どうかしたの?」

 戸惑うヨハネスに自分の荷を押し付け、走り出す。相手との距離は、まだそれほど離れていない。

 脇道に入って少ししたところで、小さな背中に追いつく。ギュンターは再び手を伸ばし、今度こそ跳ねるシャツの襟元を掴んだ。ぐっと引っ張ると、相手はバランスを崩して後ろへ転がった。

「おい、俺のは盗ってかなくていいのか?」

 ふてくされた顔はまだ幼い少年のものだった。十歳になるかならないか、というところだ。

「いらないって言ったら、見逃してくれんのか?」

 声変わり前の高い声が、いけしゃあしゃあと言い返す。ギュンターが彼の額を拳で小突いてやると、「いてっ」と顔を顰める。

「そんなわけねえだろ。さっさと財布返せ」

 ちっと舌打ちすると、少年は渋々ヨハネスの財布を取り出した。

「大丈夫かソレン!」

 新たな声に、ソレンと呼ばれた少年はぱっと顔を輝かせた。渡しかけていた財布は、寸前で彼の懐に戻ってしまう。

 後ろに気配を感じ、ギュンターはさっと横に飛びのいた。もといた場所に、振り下ろされた棍棒が掠めていく。顔を上げると、ソレンの仲間らしき少年達が周りを取り囲んでいる。ソレンを含めて五人。見たところ年齢はばらばらだ。薄汚れた外見と、染み込んだ独特の臭いから察するに、彼らはまともな生活もままならない、孤児らしき集団かと思われた。皆で協力し、こうしてすりなどをはたらいていたのだろう。

「財布を諦めれば、無事に帰してやるぞ。どうする?」

 一人の男が、ソレンを庇うように立ちはだかる。背が高く、他の少年達より頭ひとつ分飛びぬけている。この中では最年長に見えるが、ギュンターとはほぼ同年代だろう。どうやら彼がリーダー格のようだ。数で勝っていても、油断なくギュンターとの間合いを計る様は、長年この生活を続けてきたことが窺い知れた。

 ギュンターは敢えて笑みを浮かべ、一人ひとりを睨みつけてやった。

「諦める理由なんかねえぞ。なんなら全員まとめてかかってこいよ。たった五人で俺に勝てると思うなよ」

 半分ふざけた脅しだったのだが、少年達には効果があったようだ。おまえが行けよと互いに目線で促しあったり、不安げにリーダーの顔色を伺う者もいる。ただ一人、リーダーだけは冷静だった。腰に携えていたナイフを抜き、短く声を発する。

「散れ!」

 それが合図だった。少年達が一斉に、二方向へ分かれて走り去る。ソレンだけは逃すまいと、ギュンターは足を踏み出すものの、リーダーの突き出す刃に阻まれてしまう。「くそっ」と悪態をついたとき、向こうから新たな人影が現れた。

「ああギド、こんなところにいたんだ」

 ヨハネスがそう言ったのと、ソレンがぶつかっていったのはほぼ同時だった。二人は受身も取れないまま、その場に転がった。ソレンの手にあった財布がすっぽ抜けて、ヨハネスの側に落ちる。

「いてて……ごめんね、君怪我はないかい?あ、それと何か落としたよ。――って、あれ?これ僕の財布とよく似てるね?」

「馬鹿、おまえのだよ、間違いなく」

 呑気な友人に呆れつつも、それ以上構ってはいられなかった。リーダーはまだナイフを手に、闘志を燃やしている。

 再び刃が宙を切り裂く。ギュンターが後ろにひいて距離を取ると、彼は深追いしようとはしなかった。そして突如踵を返す。向かう先にはソレンとヨハネスがいる。最初から助けに行くつもりだったのだ。

 しかしギュンターに背を向けたことが、彼の命取りとなった。走れば三歩ほどの距離、ギュンターにとってはハンデにもならない。後ろから飛び蹴りを食らわし、ナイフの持ち手を捻り上げたところで決着がついた。落ちたナイフをすかさず蹴って、遠くへ飛ばす。

「ディータ兄ちゃん!」

 何とか財布を盗ろうともつれ合っていたソレンが、それを放棄してすぐさま駆け寄る。ディータと呼ばれたリーダーは、手首をさすりながら苦笑した。

「悪いな、かっこ悪いとこ見せちまって」

 ソレンは泣きそうな顔で首を振る。彼にとっては尊敬する兄貴分だったのだろう。この場面だけ切り取れば、どうしてもこちらが悪者に見える。ギュンターはこっそり肩を竦め、飛ばしたナイフを拾いに行った。

 するとどこに隠れていたのか、先程逃げたはずの少年達が、一斉に飛び掛ってきた。

「兄貴をいじめるな!」

「おまえなんかから逃げてたまるか!」

 かろうじてナイフは拾ったものの、彼らに向けるわけにもいかない。適当にあしらいながら、振り下ろされた棍棒を空いた手で掴む。

「もういい。やめとけ」

 静止をかけたのはディータだった。少年達は不服そうだったが、渋々ギュンターから引き下がる。

 ディータは前に進み出ると、唐突に尋ねた。

「おまえ、どうしてナイフを使わなかった?」

「ガキどもに使えるかよ。それこそ、かっこ悪いどころじゃねえだろ」

 ギュンターがそう言ってナイフを返すと、彼はそれを受け取り、わずかに口元を緩めた。そしてもう一方の手で、懐から新たなナイフを取り出した。こちらに向けるわけではなく、手元で柄をくるりと回して見せる。

「おまえがもしナイフを使ってたら、これでそいつをやるつもりだった」

 突然刃で指し示されたヨハネスは、「ええっ!?」と今更ながらに驚いている。これにはギュンターも、用意周到なリーダーに恐れ入る。

「まじかよ。おっそろしい奴」

「生きていくための手段だ。恵まれて育った奴には、縁のないことだろうけど名」

「だろうな。なりたくもねえし」

「ギド、そういう言い方は、ちょっと……」

 ヨハネスがおずおずと口を挟む。しかし後半の方は尻すぼみになって消えてしまった。最後は何を言うつもりだったのか。いずれにしても、結果はディータ達の心を逆撫でするだけだろう。身分の違いは、想像以上に溝が深いものだ。変にわかり合おうとするより、潔く違いを認めてしまったほうが話は早い。

 ディータは二人の発言を気にする風もなく、さっさとナイフをしまい込んだ。

「行くぞ」と言いかけたのを、「待てよ」とギュンターがひきとめた。

 怪訝な顔をしている彼に、数枚の硬貨を握らせる。受け取りこそしたものの、その表情は引き攣っていた。吐き捨てるように言う。

「同情かよ」

「仕事を頼みたい。嫌なら返せ」

 これは意外だったようで、ディータは一瞬躊躇したが、「何だ?」と訊き返してくる。

「人を探してんだ。手伝ってくれ」

「名前は?」

「ルイーダ・リーベルト」

「わかった」

 返事は拍子抜けするほど早かった。その後外見の特徴などを訊かれ、ヨハネスがそれに答えていく。ソレン達弟分も、やる気満々だ。

「よっしゃ、じゃあおまえらと俺ら、どっちが先に見つけられるか勝負な!」

 ギュンターの誘いにも乗り気で、「勝ったら何かくれんの?」と調子づく者までいる。ディータは四人をペアに分け、担当する区画を手際よく指示した。彼らは返事もそこそこに、元気よく走っていく。

「助かるよ、よろしく頼む」

 そうギュンターが声をかけると、ディータは軽く頷き、大通りへと出て行った。

「俺らも行くぞ」

「うん、行こう」

 ヨハネスは嬉しそうに頷いた。


 数時間後。ギュンターとヨハネスは、集合場所である裏道に戻ってきていた。結局有益な情報は得られなかったので、ディータ達が頼みの綱だ。

 しかし、まだ誰一人戻ってこない。もしや逃げたのではないか、という思いが頭を掠める。先に金を渡したのは信頼を得るためだったのだが、それで裏切られたならなんとも皮肉なものだ。

「あの子達、遅いね」

 ヨハネスが不安げに呟いたときだった。

 曲がり角の影から、ディータが姿を現した。後ろには弟分達が全員顔を揃えている。いつの間にか、別の場所で合流していたようだ。

「わかったぞ」ディータが開口一番に言う。「結婚して姓が変わってた。今はルイーダ・ベーレンス。家はここからそう遠くない」

「俺が最初に情報掴んだんだ!」

 ソレンが得意げに口を挟む。ヨハネスは「ありがとう」と丁寧に礼を言って、彼にチップを渡している。ギュンターはディータに尋ねた。

「案内、頼めるか?」

「わかった」

 頷くと、ディータはすぐに歩き出した。

 後に続きながら、ギュンターは彼らに出会ったことをよかったと思った。一度はスリに遭いかけたのだから、何とも不思議な縁だ。けれど仲間を守ろうとするディータの姿に、彼の本質を見た気がした。もっと早くに、別の場所で出会っていれば、仲良くやれていたかもしれない。

「おまえみたいのは初めてだ」不意にディータが話しかけてくる。「俺らを対等に扱ってくれたこと。正直嬉しかった」

「スリなんかやってるからだろ。真っ当に働けよ。おまえなら、あいつらもっと幸せにできんじゃねえの?――ま、俺が偉そうに言ってもしょうがねえけど」

「――そうだな。けど実際は、簡単に言えるほど甘くない。頼るつてもなければ、特にできることもない。あるのはこの身ひとつだけだ」

「立派な労働力だろうが。しかもひとつじゃない、頼もしいのがあと四つあるだろ」

 ディータは後ろを振り返り、弟分達を見渡した。その横顔は、最初に会ったときより幾分明るく、柔らかい表情に見えた。そして、初めて笑みをこちらに向けた。

「呆れるほど前向きなんだな」

「うるせえな、守りたいもんがあれば、何でもできるってことだよ」

「無謀な人探しとか?」

 一拍おいて、ギュンターは素直に頷いた。

「大事なやつを助けるために、協力を頼みに来たんだよ」

「そうか。助けられるといいな」

 深く追求せず、それだけ言ってくれたディータの気持ちが嬉しかった。

「おまえやっぱ良いやつじゃん」

 そう言ってギュンターはディータの肩辺りを拳で軽く小突く。ディータは顔を顰めたが、その口元は笑っていた。

 目的地に着いたところで、ギュンターは道案内の礼を言い、互いに握手を交わした。次いで弟分達にも別れを告げる。ソレンが「また会いに行くよ、財布をもらいに」と性懲りもなく言うので、最後の一発を頭にくれてやる。

 彼らが引き上げていくと、ギュンターとヨハネスは揃って目的地の建物を見上げた。そこは広場の近くにある、四階建ての集合住宅だった。街の景観を意識して建てられたのだろう、周りはほぼ同じ様式で、赤茶色に統一されていた。彼女の部屋は三階とのことだった。そこからなら、広場にあるジャンヌ・ダルク像がよく見えることだろう。

 階段を上がり、ドアノッカーを鳴らす。

「はーい!」

 聞こえた声があまりに幼かったので、二人は顔を見合わせた。こちらの戸惑いを他所に、たたたと小刻みな足音がして、ドアが開け放たれた。

 出迎えたのは、最近歩き回れるようになったのではという年頃の、小さな男の子だった。赤い頬をして、目をくりくりさせている。男の子はギュンター達に驚いたようで、はっと息を呑むと、回れ右して駆け戻ってしまった。

「ママー!知らない人―!」

「テオ、そういうときは“どちら様ですか?”って訊くのよ」

 奥で母親らしき優しげな声がして、すぐに女性が姿を見せた。テオと呼ばれた男の子も、後ろにぴたりとくっついて、好奇の目をこちらに向けている。

「ごめんなさい、失礼をおかけして」

「あ、いえ。僕たちが驚かせちゃったものですから。あの――ルイーダ・ベーレンスさん、ですね?」

 ヨハネスがそう尋ねると、彼女は僅かに首を傾げた。

「ええ、そうですけど……あなた方は?」

「ヨハネス・ヴァイヤーです。彼はギュンター・ヘルマン。僕は以前あなたにお会いしてるのですが、覚えて……ませんよね?」

「ヨハネス・ヴァイヤーさん……」

 ルイーダは少し考えた後、ぱっと顔を輝かせた。

「ジャンヌ像の広場で、ですね?」

「はい、そうなんです!あの時はお世話になりました」

 挨拶を済ませたところで、「実は……」と本題に踏み込む。

「妹さんであるセレーナのことで、お話ししなければいけないことがあるんです」

“セレーナ”の一言で、彼女は大きく目を見開いた。

「セレーナは、今どこに?」と尋ねる声には、期待と不安が半分ずつ込められていた。両手は腹の辺りで、きつく組み合わされている。なぜセレーナのことを知っているのか、どういう関係なのかを問い質すより、真っ先に居場所を尋ねたことは、彼女がどれだけ妹に会いたがっていたのかを知るのに充分だった。

 ヨハネスは束の間躊躇っていたが、真っ直ぐに彼女を見て、ゆっくりと告げた。

「セレーナさんは今、魔女の容疑で捕まって、クラーヴという町の異端審問所に拘留されています。助けるにはルイーダさん、あなたの助けが必要です」

 ルイーダの目がふらりと宙をさまよった。倒れるかと思い、ギュンターは腕を伸ばしかけたが、彼女は何とか自力で踏みとどまった。

「ママー、大丈夫?」

 背後に隠れていたテオが、心配そうに呼びかける。理由はわからずとも、漠然と不安が伝わったのだろう。その声に応えようと、ルイーダは弱々しく微笑んだ。

「大丈夫よ、何ともないわ。お願いテオ、ママはこれからこの人達とお話しするから、自分のお部屋で遊んでてくれる?」

 テオはそわそわしながら、母とギュンター達を交互に見遣る。ギュンターは側に屈むと、その小さな頭にぽんと手を置いて言った。

「心配すんな。ママをいじめたりはしねえから」

 母親似の大きな目でじっとこちらを見返してから、テオは素直に従うことにしたようだった。駆けていった先で、ドアの閉まる音がする。

 その後すぐにルイーダが、「どうぞ入ってください」と二人を家の中に招き入れてくれた。居間へ通され、ソファに腰かけると、彼女は少しだけ待つよう二人に告げ、キッチンへと向かった。そして三つのカップをトレイに載せて戻ってくる。ヨハネスは申し訳なさそうに礼を言った。

「すみません、気を遣わせてしまって……」

「いいえ、遠くから大変だったでしょう。とりあえず、どうぞ」

 トレイがテーブルに置かれると、湯気と共にハーブの香りがふわりと漂った。少しでもこの場の空気を、和らげようとするかのように。

「少し、私の話をしてもいいですか?」

 そう前置きして、ルイーダは語りだす。

「私達の母が処刑されたことは、もう聞いていますか?あのときから、妹は変わってしまいました。元々人見知りで、自分から人と関わることは少なかったんですが……母を失ってからは、完全に心を閉ざしてしまいました。父でさえ、どうすればいいのかわからないように見えました。

 家を離れるときも、妹は悲しい顔ひとつしませんでした。ただとても恐い目で、父を睨みつけていました。父はそれから避けるように、私達とは目を合わせてくれなくて。母が亡くなった日、二人の間に何かが起きたんだと思いました。その時広場に行かず、弟のディアスと待っていた私にはわからないようなことが」

 ギュンターはセレーナが処刑の様相を語ったときのことを、思い出していた。母親を失った悲しみは同じでも、現場を見ているのといないのとでは、きっと大きな違いがある。セレーナは心を閉ざしたのではなく、打ち明ける先が見つからなかったのではないか。どんな理由があるにしろ、父親から遠くに行けと言われれば、“捨てられた”と思い、心のよりどころを完全に失ってしまった。だから代わりに、憎しみで自分を奮い立たせた。

「その後、親戚の家から何度か妹に手紙を送ったのですが、返ってきたのは一通だけでした。書きなぐった文字で、〈全てが嫌い。叔母さんも、アーネムの人達も、偉そうなおじさん達も、父さんも、姉さんも、ディアスも、人間全部。何もできないくせに、手紙なんて寄越さないで〉って。

 それから少しして、父からの手紙で、妹が叔母の家を出て行ったと知りました。ああもう私には、何もできないんだと思いました。きっともう会うことのない、遠く彼方へ行ってしまったんだって。だから、あなた達からこうして話を聞けるのが、まだ信じられないような気持ちで。――どうか、全て話してください。妹がどのように生きてきて、何故今になって、ひどい扱いを受けているのか」

 そこで二人は、セレーナと出逢った経緯を順に話した。

 ルイーダは静かに頷きながら耳を傾けていたが、不意にその頬を涙が伝った。彼女は拭うことなく目を瞑り、感情が溢れるに任せた。

「そうでしたか。シェリーはあなたのような人と一緒に歩む道を、選ぶことができたんですね。――なのに、過去に阻まれてしまうなんて……!」

 肩を震わせるルイーダに、ヨハネスがそっとハンカチを差し出す。彼女はそれを受け取ると、端の方で目元を拭った。

 ギュンターは励ますつもりで言った。

「落ち込んでる場合じゃねえぞ、ルイーダ。あんたが法廷で証言してくれれば、アンを、いや、セレーナを助けられんだ」

 しかしルイーダの反応は、期待に反するものだった。

「……それは、できません」と答える彼女の声はか細く、顔色は蒼白になっていた。理由を問い質そうとするギュンターを制し、「理由を、教えてもらえますか?」とヨハネスが落ち着いた調子で尋ねる。ルイーダはちらりと二人の顔色を覗い、すぐに目を伏せた。

「母が捕まったとき、私は父がどれだけ手を尽くして救おうとしたか、側で見ていました。親戚中をあたって、母の無実を訴える嘆願書を作成したり、弁護士を探したり、挙句はなけなしのお金をはたいて、裏で陪審員を説得しようとさえしました。けれど嘆願書は効果なく、弁護士や陪審員達には相手にされませんでした。それどころか、母の死後は悼む間もなく、魔女を匿った懲罰金として、ほぼ全財産を奪われました。村で頼れるあては、もうどこにもありませんでした。あの時私達は、人生のどん底を味わったんです!」

 そこでルイーダは、肩で大きく息をした。

 母の声が聞こえたのか、部屋の戸が細く開き、テオが心配そうな顔を覗かせる。そして意を決したように駆け出してくると、勢いよくギュンターに飛びついた。小さな拳を、交互にぽこぽことぶつけてくる。

「ママをいじめるな!」

「いや苛めてねえから。っていうか、何で俺なんだよ」

 隣では、ヨハネスが控えめに苦笑している。ルイーダは両手を広げて息子を呼び、胸に抱き寄せた。「ありがとう」と彼女が言い、「うん」と答えるテオの声は、少しだけ大人びて聞こえた。天然のくしゃくしゃした髪を撫でてやりながら、話が再開される。

「ご覧の通り、今はもう新しい家族がいます。私が妹を庇うことで、周りの目が変わるのが恐いんです。この子に辛い思いはさせられません。主人もきっと反対すると思います。――力になれなくてごめんなさい」

「……ふざけんな」

 ギド、と隣で止めようとする声は、もう耳に入らなかった。バンッと拳でテーブルを叩く。沈黙の中で、カップがガチャリと騒ぎ立てる。

「アンだって家族だろ。あんたが信じてやらないでどうすんだよ。自分が巻き込まれないで済むなら、母親と同じ目に遭おうが関係ないってか?」

「そんな言い方はやめて!」

 ルイーダの声は悲鳴に近かった。腕の中では、テオが怯えてすすり泣いている。

「ギド、やめよう」

 ヨハネスがギュンターの肩に手を置く。ギュンターはそれを乱暴に振り払った。

「うるせえ!何もしないうちから諦めてんじゃねえぞ!周りの目が何だよ、それで殺されるわけじゃねえだろ!アンが今まで、どんな思いで生きてきたかわかるか?悩んで、苦しんで、それでも何で生きようとしたか?あいつはただ普通の幸せを探してた。あんたみたいに居場所がほしかっただけだ。けどあいつすっごい不器用だからさ、そういうこと言えねえんだよ。拒絶してるように見えて、本当はずっと助け求めてたんじゃねえのか?」

 ルイーダははっと息を呑み、ようやく顔を上げた。その目を見て、ギュンターの怒りは徐々に鎮まっていく。心配でない、わけがないのだ。姉が妹を想う気持ちもまた、変わってはいなかった。セレーナが生まれたときからあった絆は、遠く離れた今も、確かにある。そう気づいたとき、ギュンターは自分が何に怒っていたかを悟った。

「俺がどんなにアンを信じてたって、過去であいつの側にはいてやれねえんだよ。……頼む、ルイーダ」

 膝に手をつき、頭を下げる。無力な自分にできるのは、今これだけだった。

「お兄ちゃん、どこか痛いの?」

 テオがこそっと母親に問う。しかし問いに対する答えはなく、部屋は沈黙に包まれた。この場に終止符を打てるのは、ルイーダだけだった。

「――顔を上げてください」

 その言葉に従うと、意外に穏やかな表情の顔と、目が合った。

「ずるいです。あなたにそこまで言われたら、動かないわけにいかないじゃないですか。その代わり、約束してください。必ず、魔女の疑いを晴らすと」

 ギュンターは「わかった」と力強く答えた。差し出された手を握ると、ルイーダは優しく微笑んだ。

「ギュンターさん、でしたね。妹を愛してくれて、ありがとう」

 正面切って言われるとなんとも照れくさかったので、「おう」と短く返す。ヨハネスまで嬉しそうにこちらを見ているのだから、たちが悪い。

「お兄ちゃん、耳が赤くなったよ?」

「余計なことばっか言うな、チビ!」

 ギュンターはテオの小さな身体を捕まえ、空いた手でくすぐってやる。テオは身をよじって大笑いした。頬に残した涙の跡など、本人はすっかり忘れているようだ。腕の力を緩めると、彼はすぐに飛び出していき、母親に抱きついた。その顔に、もう怯えの色はなかった。子どもの切り替えは早いなと、おかしなところで感心してしまう。それは、ルイーダの固く組み合わされた両手や引き結んだ唇が、ちょうど対比になっていたからかもしれなかった。


 それでも、その後のルイーダの行動に迷いはなかった。仕事から帰った主人と話をつけ、手早く旅支度を済ませる。留守にする間、テオは義母の家へ預けられることになり、大泣きして母親を大いに困らせた。

 根気よく宥め、ようやく寝かしつけてから、旅立つ三人は再びテーブルを囲み、今後の方針を話し合った。

 ヨハネスが弁護士と打ち合わせた内容を話すと、ルイーダは「わかりました」と頷いた。

「実家に行きましょう。アーネムという小さな町にあります。ここから、徒歩で四日ほどの距離です」

 馬で行けば一日は縮められるか、とギュンターが考えていたときだった。

「実は、ルイーダさんと話していて、ひとつ思いついたことがあるんだ」とヨハネスが控えめに切り出した。

「何ですか?聞かせてください」

 ルイーダが促すと、彼は躊躇いがちに言った。

「嘆願書を、作ってみるのはどうでしょうか。セレーナは長い間、ルイーダさんの知らないところで生きてきました。僕はもちろん、ギドだってそうだ。もしかしたらその間、他にも絆を感じてくれる人がいるかもしれない。空白期間を埋めるためにも、多くの協力をお願いするべきではないでしょうか」

「なるほど……そうですよね。やってみる価値はあると思います」

「けど、前に嘆願書出したときは相手にもされなかったんだろ?今回も時間の無駄になるんじゃねえのか?」

 ルイーダの賛同に、ギュンターが口を挟む。

 ヨハネスの言っていることは確かに正しく、無実を訴える声は断然多い方がいい。しかしセレーナの移動距離は、ヨハネスと出会ったネーデルラントから国を越え、フランスの首都パリ、そしてクラーヴまで及ぶ。彼女の軌跡を辿るには、多大な時間と労力がかかる。さらに知り合いが見つかったからといって、署名をもらえるとは限らない。可能性は、とてつもなく低いのだ。ルイーダもその点はわかっていたのだろう、口を噤んだ。

 しかしもう一人の方は、まだ諦めていなかった。

「いや、やってみないとわからないよ。できることは、全部挑戦してみるべきじゃないかな」

「そんな悠長なことできるか。審問はもう始まってんだぞ」

「ギドのお父さんが言ってた期限まで、まだ二ヵ月半はある。これから始めても遅くないよ」

 こちらの反論に対して、ヨハネスも引くつもりはないようだ。ギュンターは苛立ちを抑え、溜息をついた。

「ヨハン、二ヵ月半ってのは刑が執行されるまでの期限だ。俺の言ってる意味、わかるか?」

 返答に窮する様子から、やっぱりな、と思う。実際に見たことのない彼は、審問の実体を知らない。容疑者から自白を引き出すため、審問官達がどんな手段を用いるか。

「拷問、されるんですね」

 ルイーダが青い顔で言う。途端にヨハネスも顔色を変えた。「そんな――」と呟くも、それ以上は言葉が続かないようだった。

 ギュンターは思わず「くそっ」と吐き捨てた。父が拷問に用いる手段も、開始する時期が数日後に迫っていることもわかっていて、自分には止められないのが悔しかった。大抵の容疑者は、五日もあれば自白する。どんなに骨のある者でも、もって二週間だ。一度罪を認めてしまえば、判決は二度と覆らない。

「じゃあ、こうしよう。僕が一人で嘆願書を作る。だからギドとルイーダさんは、アーネムでお父さんの協力を頼んで、すぐにクラーヴへ向かって。必ず、間に合わせるから」

「おまえ、何でそこまで……?」

 その問いに、ヨハネスは笑みで答えた。

「後悔だけは、したくないから」そしてギュンターとルイーダを交互に見る。「僕達には、それぞれできることと、できないことがある。だから皆で、ベストを尽くそう」

 ギュンターはようやく、彼が決断した意味に気がついた。できないことをいくら悔やんでも仕方ない。証言の他にも、ギュンターだからこそクラーヴでできることがある。ヨハネスもまた、自分が進むべき最善の道を見つけたのだろう。セレーナを助けたい想いは同じだ。一見無駄に思える支流でも、合流すれば必ず本流の幅は広がる。

「――わかった。嘆願書はヨハンに任せる。それでいいな、ルイーダ?」

「はい。ヨハネスさん、よろしくお願いします」

 ヨハネスは背筋を伸ばし、「頑張ります」と頷いた。


 早朝、まだ暗いうちから、三人は誰からともなく支度を始めていた。ヨハネスは珍しく口数が少なく、朝食を囲んでも会話はほとんどなかった。

 ギュンターは食後に出してもらったコーヒーを一口飲み、カップの中で揺れる波をぼんやり眺めていた。こうして、波立つ気持ちをカップに閉じ込めてしまえたら、と思う。今まで、拷問のことはできるだけ考えないようにしてきた。しかしいざ口に出してしまうと、秒針が休みなく時を刻むように、恐ろしい想像が頭の中で繰り返されるようになってしまった。

 そのとき、カップを持つ手に温かな白い手が重ねられた。顔を上げると、正面に座っているルイーダと目が合った。彼女は腕を伸ばしたまま、熱を込めて言った。

「大丈夫です。妹は簡単に屈したりしません。小さい頃から、一度こうと決めたら、決して自分の考えを曲げない性格なんです。一緒にいれば、きっと実感しているでしょう?あの子は強いんです。最期まで罪を認めなかった母のように。生きる希望を見つけたのなら尚更です。あなたが信じてあげなくてどうするんですか」

 ルイーダの顔が、徐々にセレーナと重なっていく。連れて行かれる間際、“待ってる”と言った彼女の目。あの時ようやく、心が通じ合えたと思った。二人の約束を果たすために、共に戦うと決めたのだ。

 彼女は今も、たった一人で戦っている。異端審問という戦場で、父とその他大勢を相手にして。

「馬鹿だな、俺。凹んでる場合じゃなかった」呟いて、バシッと両手で頬を叩く。「よし、もう切り替えた。俺らならできる!やるぞ!」

「よかった。いつものギドに戻ったね」

 気づけば、ヨハネスが言葉通り安堵の笑みをのぞかせていた。

「何だよ、おまえだっていつもと違ったじゃねえか」

「だって、ギドが恐い顔してたから、ちょっと話しかけづらくて」

 どうやら今朝の空気の重たさは、自分が原因だったらしい。

「一緒に行動してる仲だろ、今更恐がってんじゃねえよ。仏頂面してたんだったら、感じ悪いってはっきり言え」

 そう言ってヨハネスの肩を軽く殴ると、彼は「うん、ごめん」と朗らかに応えた。なんとも調子の狂う笑顔だ。こちらまで気の抜けた顔になってしまう。気づけばルイーダも、楽しそうに二人のやり取りを眺めている。

 不思議だった。こんな状況でも、三人なら笑っていられる。そして今この時間が、新たに歩き出す力になる。

「そんじゃ、行くか」

 ギュンターのかけ声に、ヨハネスとルイーダは揃って頷いた。

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