第26話 異端審問

「これより、被告人セレーナ・リーベルトに対する異端審問、第一日目を開廷する」

 白髪の判事が、重々しく宣言する。

 審問席の中央では、異端審問官オスヴァルトが厳しい顔つきで腕組みをしている。彼の周囲には、判決を下す重要参考人達が顔を揃えている。神学を専攻する博士や神父など、いずれも教会側の人間ばかりだ。ゲオルグ司教も中央よりの場所にしっかり席を構えている。フリッツはその隣についていた。

 判事に促され、被告人セレーナが証言台の前に立つ。正式には弁護人をつける権利があるが、そんな無謀なことをする者などいないので、彼女は一人で立ち向かわなければならない。結末が決まっている戦いに。

 全員が揃ったところで、宣誓が行われた。皆が各々の聖書に手を乗せる。証言台にも聖書が差し出され、判事が後に続くようセレーナに命令した。彼女は最初拒否するかに見えた。気の強そうな目が、一瞬鋭く光ったからだ。しかし面白い展開にはならず、彼女は結局素直に従った。“生きる”と言っていたとおり、感情より理性を優先したらしい。

 セレーナが目を瞑ると、判事はもったいつけた調子で、この審問が神の名のもとで平等に行われることを宣誓した。異端だと捕らえておきながら、自分達の信じる神に誓えと言う。フリッツも周りに倣いながら、内心で思う。信仰によって人々を分かち、弱者を排除しようとする神の、どこに公平があるというのだろう。

 宣誓を終えると、信仰は本題へと入っていく。

「これより尋問を開始する。問いには偽りなく答えよ。黙秘は全て、肯定とみなす。――それではヘルマン審問官、お願いします」

 オスヴァルトがゆっくりと腕組みを解く。

「被告人、セレーナ・リーベルト」

 重厚な低音に、場内をぴりりとした緊張が走る。射抜くような鋭い視線がセレーナに向けられる。彼女は怯むことなく背筋を伸ばし、真っ直ぐに見つめ返した。

「おまえは魔女の疑いがある。それは真実か?」

「いいえ、違います」

「おまえが魔女だという、三つの証拠がある。まずひとつに、おまえは一五二四年九月十五日、神聖ローマ帝国ネーデルラントにて、メビアナ教会に火を放った。それは真実か?」

「――はい、そのとおりです」

 セレーナが答えた直後、周囲にざわめきが広がった。「なんと恐ろしい」「これで魔女だと認めたも同じだ」互いにひそひそ交わすやり取りは、幾重にも重なり、さざなみとなって彼女を襲う。

「静粛に。まだ尋問は終わっていない」

 オスヴァルトによって、再び静けさが戻る。

「この放火により、建物の正面右側の壁面及び窓枠の一部に損傷を与えた。それを意図しての行いか?」

「抑えきれない感情があって実行したのは事実です。損傷の度合いについては、当時考える余裕がありませんでした。今は心から申し訳ないと思っています」

「嘘をつけ!適当なことをぬかしおって!」

「悪魔にとり憑かれた発言だ!」

 場は一気に怒号に包まれた。周囲は色めき立ち、口端から泡を飛ばさんばかりに彼女を罵倒する。フリッツの視界の端で、ゲオルグがほくそ笑んでいるのが見えた。

 オスヴァルトはそんな場内の様子を黙って見守っていた。表情は彫像のように無表情だ。そのまますっと息を吸い込む。

「静粛にと言っている!」

 見事なもので、場内は水を打ったように静まり返った。

「今後不要な発言をした者は、裁判の妨害行為と見なして退場いただく」

 皆の表情が一様に強張る。ゲオルグは苛立ちを隠さず、小さく舌打ちした。

 異端審問で場内が罵声に包まれるのは、何も珍しいことではない。それは魔女に対して当然の報いであり、手っ取り早く追い詰める手段としても有効に使われている。大抵の異端審問官は体裁上咎めるものの、本気で止めようとはしない。

 オスヴァルトの公正さはかねてから知っていたので、フリッツは特に驚かなかった。ただ賢明な判断ではないな、と思う。ゲオルグの機嫌を損ねれば、今後思わぬ横槍が入るだろう。彼の執念深さは筋金入りだ。それを肯定するかのように、ゲオルグは荒い鼻息を吐き出した。

「尋問に戻る」

 何事もなかったかのように、オスヴァルトは元の声音で言った。

「次に一五三〇年七月二八日、おまえはミネルバ修道院に不法侵入し、ゲオルグ司教を持参したナイフで殺害しようとした。それは真実か?」

「はい、そうです。ただ不法侵入とは違います。司教は事情を知ったうえで、敢えて部屋に呼び入れました」

「魔女の作り話に騙されてはいけませんぞ、ヘルマン審問官」

 黙っていられなかったのだろう、ゲオルグがすぐさま立ち上がり、口を挟む。

「この件は、被害者である私が真実だと保証する。それでは不十分ですかな?」

 冷静を装ってはいるが、後ろで組んだ指は彼の焦りを抑えきれず、忙しげなリズムを刻んでいる。

 セレーナの異端審問をパリで行おうとした理由がここにあることを、フリッツは知っている。パリでなら懇意にしている審問官に、都合よく進行してもらえるからだ。

 今も暗に圧力をかけようとしているのだが、オスヴァルトの視線は冷ややかだった。

「ゲオルグ司教、あなたの証言は明日の予定です。今日は被告人の供述を傾聴していただきます」

 丁寧な口調ではあるものの、そこには有無を言わさぬ響きがあった。これ以上反抗すれば、本気でつまみ出されかねない。

 ゲオルグは鼻息を吐き出し、大きな音を立てて席に着いた。理不尽な重みを受けて、椅子が軋んだ泣き声をあげる。

 その後もいくつか尋問が続き、セレーナは淀みなくそれに答えていった。追い詰められた立場でありながら、彼女は実に冷静だった。自分の犯した罪も躊躇いなく認め、ゲオルグが隠したがっていた事実もあらかた話してしまった。明日の原稿には大幅な加筆修正が必要だろう。ゲオルグお抱えの弁護士が頭を悩ませる姿を想像し、フリッツは内心苦笑した。

「最後の証拠だ」審問の初日は、早くも終盤を迎えつつあった。「おまえの母親マリア・リーベルトは、一五二四年五月二十四日、異端審問で魔女だと判決され、火刑に処された。それは真実か?」

 そのとき初めて、彼女の表情が苦しげに歪んだ。当時の光景が蘇ったのだろうか。いや、思い返さない日など一日もなかったに違いない。失ったのは世界でただ一人の母親なのだ。彼女の凛とした姿の裏には、脆くくず折れそうなもうひとつの姿があるのかもしれない。

「……はい、その通りです」

 噛みしめるような答えが出た途端、方々から安堵の溜息が漏れる。決まりだ。セレーナ・リーベルトの罪は、これで確定した。誰もがそう思ったことだろう。ゲオルグが機嫌を取り戻したのは、見なくても想像がついた。

 世の中には、生まれたこと自体罪になる者がいる。生き残るためには、一生事実を隠し続けるしかないのだ。

 オスヴァルトが容赦なく追い討ちをかける。

「おまえは間違いなく、異端の血を受け継いでいる。ならばなぜ、自分が魔女ではないと言いきれる?」

「確かに母は魔女だとされました。長い間調合してきた薬は毒だと言われ、今まで病を治した実績はなかったことになりました。いろんな人達が後から証言を加えていって、その間もずっと拷問が続けられました。

 それでも母は、最期まで容疑を否認しました。だからわたしは母を信じます。誰が何と言おうと、わたし達は魔女ではありません。償うべき罪は、放火と傷害未遂の件二つです」

 彼女の一徹した態度は、周りの空気を少しだけ変えつつあった。彼らが反応しあぐねていたのは、オスヴァルトの威力だけではないだろう。

「以上で、被告人への尋問を終了する」

 オスヴァルトが切り上げたため、閉廷が告げられる。セレーナは再び二人の刑務官に挟まれて、法廷から出て行った。ゲオルグが執拗にその姿を目で追っていたが、彼女がこちらを見ることは一度もなかった。

 次にオスヴァルトが席を立ち、ゲオルグ、フリッツ、補佐達が後に続く。廊下に出るや、ゲオルグは大股でオスヴァルトに歩み寄った。フリッツは少し距離を置いて、さり気なく後ろにつく。

「第一日目ご苦労でしたな、ヘルマン審問官」

 オスヴァルトが足を止め振り返る。立場上邪険にするわけにはいかないのだろう。義務的に頭を下げる。

「労いの言葉、ありがとうございます」

「いや実に驚いた。まさか列席した有識者方をことごとく黙らせてしまうとは。ご自分の判断によほどの自信がおありのようだ」

 嫌みにも眉ひとつ動かさず、オスヴァルトは即座に返した。

「野次をたしなめただけです。意見は拝聴しますが、最終的に自信のある判決を下せなければ、審問官は務まりません」

 ゲオルグは顔を顰め、「それは結構」と唸るように言った。しかし彼はまだ引き下がらなかった。

「ところで、今回の審問は何日を要する見込みかね?いや何せ、私にも予定というものがある。あまりのんびりしているわけにはいかないのでね」

「滞りなく進めば、十四日間を予定しています」

「そうか、二週間か……」

 周囲に人気がないのを確かめてから、彼は一歩オスヴァルトへ近づいた。声のトーンを下げ、低く問いを投げかける。

「それで、もし被告人が罪を認めなかったらどうする?」

「自白をするよう促します」

「どのように?」

「教本の手順に基づいています」

「手段はいろいろあるだろう?具体的に何を行う?」

「最初は鞭打ちから。次に爪を剥ぎます。以降は被告人次第で道具を変えています」

 この返答に満足したのか、ゲオルグはぱっと顔を離し、笑顔になった。「それならよいのだ」と、明るい声で言う。

「あの女は貴方の息子と付き合っていたんだろう?いくらベテランのヘルマン審問官といえども、情が移ってしまうんじゃないかと思いましてね。どうやら要らぬ心配だったようだ」

「自分の責務はわきまえておりますので」

 オスヴァルトの顔には動揺の欠片もなかった。どんな言葉も、彼の心を揺さぶることはないように思われた。

「それは結構」

 二人は互いに視線をぶつけ合ったが、それもわずかの間だった。これ以上話がないと見て取ると、オスヴァルトは軽く頭を下げた。「そろそろ失礼します」と告げるやいなや速度を上げ、大股で歩き去る。彼の姿はあっという間に遠ざかっていった。

 残されたゲオルグがぎりりと歯軋りする。その背後でフリッツはこっそり溜息をついた。先が思いやられそうだ。

 結局宿に戻って各々の部屋に入るまで、ゲオルグは延々と今日の愚痴を言い続けたのだった。

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