第25話 対抗

 審問所の玄関ホールを抜けると、奥に地下へと続く階段がある。自分の足音が響くのを聞きながら、フリッツは一人その階段を下っていた。すでにゲオルグから、審問所内を自由に回れる許可が下りている。名目上は、異端審問官が正しい職務を行っているか、監視する役目だ。オスヴァルトの方も、特に異論はないようだった。さすがにゲオルグの顔を立てたのだろう。

 あのときオスヴァルトが間に割って入ることは、何となく予想していた。審問官の中でも一際厳格で知られる彼とて、親の情はあったというだけの話だ。後は、どこまでやれるか。尋問から拷問、そして判決。残された時間は、そう長くない。

 やがて、階段を下りきった先に、地下牢が現れた。五つある房のうち、使われているのは一つだけだが、地下全体にすえた匂いが漂っている。過去に入れられた者達の分が蓄積されているのだろう。こんな所に半刻もいれば匂いは体にこびりつき、心もすっかり陰気になってしまう。

 牢番と軽く挨拶を交わし、魔女の様子を見にきたと告げると、彼はすぐに承諾した。

 フリッツは示された房へと向かう。彼女は一番奥の房で、来訪者を待っていた。こちらと目が合うや、すっと立ち上がる。服装は布切れ同然のものに替えられ、手錠で束縛されていてもなお、彼女は凛々しく、美しかった。

「こんばんは」と声をかけるが、警戒の色は崩れない。

「誰?」

 鋭い問いが向けられる。

「フリッツ・ビューロー。これからいろんな場面で会うことになるから、よろしく」

「ギドの友達……?」言いながら、セレーナは形のいい眉を顰める。「前にあなたを見かけた。パリの、あの広場で」

「よく覚えてたね」

 フリッツはそう言って笑いかける。

 魔女とギュンターが初めて出会った日。今でも鮮明に覚えている。彼らが見つめあう瞬間を、フリッツは少し離れたところで眺めていた。彼女はすぐに姿を消してしまったが、ギュンターはしばらく樹上を見上げていた。間違いなく、彼はあのときから恋をしていた。

“彼女はやめた方がいい”

 友人の立場ならそう忠告しただろう。あんな場所で思いつめた顔をしていれば、訳ありなのは明白だ。しかし一方では、面白い展開になるのを望み、欺いてやろうと企む本心があった。そして事態は、驚くほど上手い具合に好転していった。彼はもうすぐ、大切な人を目の前で失うことになる。

「まさかこんなかたちで再会するとはね」

「何しに来たの?」

 感慨に浸る気はないらしく、彼女の問いは単刀直入だ。フリッツは肩を竦める。

「話したかっただけだよ。――どう?ギドをたぶらかして、父親に捕まった気分は?」

「たぶらかしてない」

「君にそのつもりがなくても、あいつの両親はどう思うかな?君にさえ会わなければ、あいつは異端審問官になってた。自覚してる?君が、その夢を奪ったってこと」

「わかってる。それでもギドは、側にいてくれた。わたしはその想いに応えたい。だからご両親に、あなたにどう思われようと、約束は守る」

「約束?」

「必ず、生きて帰る」

 声は狭い房の石壁を叩き、強く反響した。フリッツは彼女の決意を微笑で受け流した。

「最期がどうなるかはわかってるよね?自分の母親で経験しただろうから。穢れた血を受け継いだ君も、同じことになる」

「母は穢れてない」彼女は冷静に、きっぱりと否定する。「母の無念は忘れない。だから穢れた血なんかじゃないって、わたしが証明してみせる。きっと違う結果になるって信じてる」

「ギドがいるから?」

 頷く姿に、フリッツはふと、冷水を浴びせてやりたいような衝動に駆られた。

「――そう。でも残念だったね。ギドはもういないよ」反応を覗いながら、先を続ける。「街を出て行ったらしい。相変わらず逃げ足は速いね。結局、あいつは父親に逆らえないんだ。忘れた方がいい」

「信じるって決めたの。恨みや絶望は何も生まなかったから。どのみち傷つくなら、信じたい人を信じて傷ついた方がいい。その方が、後悔しなくて済む」

 鉄格子を挟んで向き合っているうちに、一瞬どちらが房の中にいるのかわからなくなる。馬鹿らしい。フリッツは自身を嘲笑った。冷やかしに来たはずなのに、逆に惑わされそうになってどうする。

「楽しみだね、これからどうなるか」

 それだけ言うと、フリッツは房に背を向けた。牢番に声をかける余裕もなく、足早に階段を上がる。彼女との会話が霧のように頭の中を覆い、まとわりついて離れない。これも魔女の呪いなのだと思えたら。神の裁きを、と声高らかに言えたなら。そのために異端審問官を目指しているのに、道はまだ遠く、未だに暗闇の中を歩き続けている。

 ――生きる約束、か。

 内心に呟く。いくら希望をもったところで、結末は変わらない。たとえギュンターが、何か考えがあって町を離れたのだとしても。

 彼女が処刑されたとき、自分は何か変わるだろうかと考えてみる。きっとすぐに町を去り、二度と戻ることはないだろう。友も故郷も、血の繋がりも全て断って、新しい人生を歩む。今回の処刑は、そのための儀式なのだ。ギュンターの心をへし折ってでも、必ずやり遂げてみせる。

 すでに仕事は終えていたので。地上に上がるとそのまま外へ出る。日はとっくに暮れていて、地下から出てきた身には月の光が心地よかった。新鮮な空気を肺に取り込み、澱んだ息を吐き出す。ようやく歩調を緩め、審問所の門を出たときだった。

「リッツ。久しぶり」

「ああ、やっと出てきた」

 懐かしい声に、足が止まる。そこにいたのは、もうすぐ断つはずの友だった。

 二度と会わなくていい、はずだった。デルトルトのふてくされたような顔は、きっと照れ隠しだ。アヒムの無垢な笑顔は、以前と少しも変わっていない。彼らと過ごした日々は、簡単に振り切れるようなものではなかった。ほぼ毎日一緒で、飽きもせず走り回り、肩を組んで笑い合った。

「――久しぶり」

 しかし二人が何か言う前に、フリッツはさっと片手を出して遮った。

「ごめん。急いでるから」

 顔を見合わせる二人の脇を抜け、振り返ることなくその場を後にする。彼らも追ってくる気はないようだった。背後でデルトルトが「おい、いいのか?」と小声で言うのが聞こえる。一方アヒムの声は聞こえない。耳をそばだてている自分に嫌気が差し、フリッツは再び歩調を速めた。

 だいぶ距離が開いたか、というときだった。

「僕達、リッツと話せるの待ってるから!ブルも、ヴォルも、クルーもだよ。それにギドも、ううん、ギドが一番、ずっと心配してたんだ。落ち着いたらまた皆で会おうよ。きっと楽しいよ」

 歩みは止めなかった。アヒムの願いは絶対に叶わない。そうわかっていたからだった。




「……ギド、本当に食べるの?」

 ヨハネスが恐々聞いてくる。今にも泣きそうな顔だ。

「食うよ。じゃなきゃ捕った意味ないだろ」

 ギュンターが手にしているのは、一匹の兎だった。耳を掴んでいるため、ギュンターの動きに合わせて体がぶらぶらと揺れる。ヨハネスは腕に縋りついて、放すよう懇願してきそうな勢いだが、兎はとっくに息絶えているのだ、何をしたところで意味がない。

 クラーヴを出てから三日目。この日は近くに宿場もなく、初めての野宿となった。ギュンターは巡礼の道中幾度か経験していたのだが、ヨハネスにとっては初めてのことも多かったらしい。

 水場を探し当てたり火をおこしたりする度、いちいち感嘆の声を上げる。馬に乗ってちょっと駆ければ「かっこいいなあ」と羨望の眼差しを送ってくる。

 それでつい調子に乗って、旅の醍醐味を教えてやる、と息巻いた挙句、今の状況になったのだった。茂みの中で罠を仕掛けたところ、見事に獲物が引っかかったのだ。ギュンターは焼きたての肉が食べられると喜んでいたのだが、ヨハネスにとっては相当ショックな光景だったようだ。とはいえ、まだ捌いてもいないのだが。

 こうしていてもきりがないので、ギュンターは少し語気を強めて言う。

「あのな。どうしたってもう手遅れなんだ。このまま放っておいて腐らせるより、俺たちはこいつの命をありがたくいただくべきなんじゃないのか?」

「うん……そうだよね」

 この説得は功を奏し、ヨハネスはようやく了承した。そして皮を剥ぐときも火にくべるときも、恐々ながら目を逸らさず、祈るように行程を見守っていた。最後食したときには、「ありがとう」と涙を零した。こんな様では医者に向かないのではないかと、ギュンターは少し心配になる。

 ゆっくり完食したヨハネスは、骨を集め、墓を作るといってその場を離れていった。罠を仕掛けた所に戻るつもりらしい。

「この子の家が、近くにあるかもしれないから」

 彼はそう言って微笑んだ。

 火の番をしながら、ギュンターは懐からナイフを取り出した。ナイフを研ぐ音が、夜の空気を切り裂くように、鋭く響く。父にもらってから、ずっと肌身離さず持ち歩いてきた。

 誇らしい気持ちは今も変わらない。柄に施された繊細な彫刻や鋭利な切れ味。どこをとっても申し分なかったが、何より嬉しかったのは、父が武器を与えてくれた、ということだった。この先父との関係がどう変わろうと、このナイフを手放すことはないだろう。ただの物ではないからこそ、捨てられない。

 小さな焚き火が、忙しなく揺らめきながら燃えている。夜の暗闇に負けじと、必死に抗っているようだった。

 ギュンターは側にある小枝を火の中に放り込んだ。誰かが側で木をくべていれば、火が消えることはない。どんなに小さくても、そこに光はある。

「――負けんなよ」

 それに応えるように、火がパチパチと大きく爆ぜた。

 やがてヨハネスが戻ってきて、火を挟んだ向かいに腰を下した。朱に照らされた顔は、ようやく悲しみから立ち直ったかに見えた。墓を作ったことで、多少は吹っ切れたのかもしれない。なのでギュンターは兎の件には触れず、大きく話題を変えた。

「なあ、今さらだけどさ。ヨハンは何でまた、医者になろうと思ったんだ?」

 ヨハネスは嬉しそうに答えた。

「誰かの役に立ちたかったから、かな」

「役に立つ仕事なら、他にいくらだってあるだろ。おまえみたいなお坊ちゃんがわざわざ選ぶほどのもんなのか?だって医者なんてさ、まだ全然知られてねえだろ?王家や貴族の専属にでもならない限り、なかなか報われねえじゃん」

「だから、だよ」ヨハネスは声に自信を漲らせて続ける。

「知られてないからこそ、これから広めていくんだ。やりがいのある仕事だよ。医学はどんどん進歩してるから、そのうち医者を志す人も増えてくるんじゃないかな。不治の病も、いつか不治じゃなくなる日がきっと来る。病の原因がわかれば、周りの理解に繋がる。治療ができれば、病を恐がる必要はなくなる。

 ――そうしたら、異端審問だって。こんな哀しい殺戮は、一刻も早く終わらせないと。魔女が生まれる原因を見つけて、治療法を探すんだ」

「ちょっと待てよ。じゃあ魔女も、何かの病気だってことか?」

 ギュンターの追及に、ヨハネスは考え深げな顔になった。

「うーん、まだわからないんだけど。しいて言えば、異端審問に関わった全員に、問題があるんじゃないかな」

 そう言ってからヨハネスは、しまったというように口を噤んだ。ギュンターは自分の感情を脇に押しやって、先を促した。ここで父のことを言ってるのかと怒ったところで、話は先に進まない。

「病気っていうか、身体に問題があるわけじゃないよ」慌てた前置きがついてから、話は再開される。

「集団心理じゃないかなって思うんだ。例えば集団の中で、ある問題が起きたとする。自然災害とか、飢饉とか、それこそ原因不明の病気とか。いつ終わるかもわからないと、皆不安になるよね。だから手っ取り早く原因を作って、無理やり解決しようとする。誰かが一言言ってしまうんだ、“全部あいつが悪いんだ”って。そうすれば困ってる人達は次々に賛同する。“あいつがいなくなれば呪いは解ける”。何の根拠にもならないけど、安心できるよね」

「安心、か……」

 単語だけ見れば聞こえはいいが、あまりに残酷な言い分だ。異端審問について改めて指摘されると、火の側にいながらうっすらと寒気を覚える。残酷なのは自分だって変わらない。処刑には安心だけでは済まされない、人を惹きつける魔力がある。見たことのないヨハネスには、きっと理解できない感情が。

 子どもの頃のギュンターは、周囲の大人達が抱える恐怖や不安とは、ほとんど無縁だった。それでも彼が毎回処刑を見物に行っていたのは、単純に“見たい”からだった。父の雄姿と、魔女が火に焼かれる様を。認めたくはないが、あのときの自分は興奮していた。熱に浮かされたように正義を叫び、魔女を罵った。大人達との不思議な一体感を感じながら。処刑は、町民が一致団結して呪いを振り払う、一大イベントなのだ。

「ヨハン。正直に答えてくれ」ギュンターはヨハネスを真っ直ぐに見据えた。「異端審問がなくなる日は、来ると思うか?」

「来るよ」ヨハネスの答えは明確だった。「絶対に来る。僕も医者としてできることなら、何でもやるつもりだ」

「――そっか」

 強いな、と思った。誰もが無理だと言うことに、堂々と自論を述べられる勇気。実情を知らないから、とも言えるが、彼ならもしかしたら、と思えるような何かが、その瞳にはあった。そんなときギュンターの前にも、自然と道が開けた。

「俺もなくしたい。異端審問」

 全世界で、とまでは思わない。一つの国のほんの一部分、クラーヴだけでいい。セレーナにとって不安のない、幸せになれる居場所にしたい。だから異端審問は、あの町には必要ない。胸の奥にあるおぞましい感情は、ないのが当たり前になれば、きっと封印できる。

 ギュンターの思いを受け止め、ヨハネスはにっこり頷いた。

「できるよ、僕達になら。人と人が傷つけ合わない、平和な世の中にしよう」

「――だな」

 ギュンターもにっと笑い返すと、ごろりとその場に寝転がった。仰向けになって初めて、今夜は満開の星空だったことに気づかされる。

「――すげえな」

「ん?何が?」

「星空」

 半分嘘だったのだが、ヨハネスは「わあ本当だ」と素直に感動している。本人は自分がすごいことを言ってたなどと、思ってもいないのだろう。

 訪れた眠気に抗うことなく、ギュンターは目を閉じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る