第24話 仲間

 セレーナと父の姿が見えなくなると、ギュンターはようやく冷静さを取り戻した。

 騒ぎが収まり、周囲には重苦しい空気だけが残されていた。大半の野次馬達は、ギュンターを哀れむように見遣り、そそくさと立ち退いていく。

「かわいそうに」という呟きは、何の意味も持たず、宙に取り残されていった。

 最後までこの場を動かなかったのは、ギュンターを含め、フェスカ夫妻とヨハネスだけだった。

 肩を震わせているサブリナに、ギュンターは何と声をかけていいのかわからなかった。こうなった原因は自分のせいであり、説明すべきことは多くあるはずなのに。

 代わりに声を発したのは、彼女の主人、トルベンだった。「戻ろう」と彼女の背に手を回す。

 おばさん、と思わずギュンターが呼びかけると、トルベンは静かな怒りを込めた目で、こちらを睨みつけた。サブリナは背を向けたままだ。

「アンのこと、黙っててごめん」

 それだけ言うと、深く頭を下げる。近づいてくる足音を聞き、ギュンターは殴られるのを覚悟した。顔を上げると、目の前にはサブリナが立っていた。ばちん、と強烈なビンタを食らう。

「何で言わなかったんだい!二人で隠しとおせる問題じゃないのは、あんたが一番よくわかってるだろ?」

 サブリナはギュンターの両肩を掴み、乱暴に揺さぶる。馬鹿、考えなし、と罵りの言葉を受けながら、「ごめん」としか返せない自分が情けなかった。と、掴んでいた力が解け、その手にぽたり、と滴が落ちた。

「あたしはもう、あの子をどう思えばいいのかわかんないよ……」

 胸が締め付けられる思いだった。事情を知らないサブリナに、信じろという方が無理な話だ。かといって、今さら事実を伝えても、一層辛い思いをさせるだけだろう。ギュンターは顔を上げると、静かに言った。

「アンはアンだ。おばさんが見てきたのは、嘘じゃねえよ」

 すると目の前にトルベンが立ちはだかり、二人の会話を中断させた。ギュンターに対して口を開く。

「帰ってくれ。今後一切、その名前を口にするな」

 サブリナは彼の背後で黙り込んでいる。ギュンターは素直に踵を返した。これ以上ここにいても仕方がない、と思った。離れて様子を覗っていたらしいヨハネスも、迷った素振りをしていたが、結局後からついてくる。

 どちらも無言のまま、歩みを進めていく。フェスカ夫妻の姿が完全に見えなくなったところで、ギュンターは足を止めた。さっと振り向く。

「何だよ?」

 苛立ちから、口調がきつくなるのを抑えられない。今は誰とも話したくなかった。放っておいてほしかった。

「ごめん……。ただ、僕にも力になれることがないかと思って」

 ヨハネスのおどおどした態度が、ますます癇に障る。しかし先ほど彼の言動で気になったことを思い出し、ギュンターはひとつ息を吐いた。

「おまえさ、何でアンの名前知ってんの?」

「……あ、うん。セレーナとは前に会ったことがあるんだ。僕がまだ九歳のときで、本当偶然だったんだけど」

 そうしてヨハネスが語った話は、以前セレーナから聞いたものだった。彼女がいつも首に提げているロザリオが気になって、尋ねてみたときのことだ。

 ――「もらったの。全然嬉しくなかった」彼女は遠い目をして、ぽつりとそう言った。「でもあのときの気持ち、忘れちゃいけないと思って」

 ロザリオを握る手にどんな思いが込められているのか、結局ギュンターはわからずじまいだった。正直なところ、今日まで気にすることもなかったのだ。こうして奇跡としか言いようのない再会を目にした、今日までは。

「それで?力になるって何だよ?」

 ギュンターの問いに、ヨハネスはきっぱりと答える。

「もちろんセレーナを助ける方法を考えるよ。ギド、君に協力したいんだ」

「今さら助ける気になったのか?一度は見捨てたんだろ」

「そうだね……。ずっと後悔してきたんだ。今回会えたのは、天から与えられた定めだと思ってるよ。だから絶対に、諦めたくない」

「都合の良い考えだよな。最初に助けてさえいれば、あいつの人生は変わってた」

「うん……否定は、できないよね。ごめん。僕は君の大切な人を傷つけた。だから人生をかけて、償わせてほしい」

 ヨハネスはそう言って、深く頭を下げる。反論はいくらでもあるはずだった。けれども彼は、真摯に今と向き合おうとしている。ギュンターはすでにわかっていた。目を逸らしていたのは自分の方だ。ふっと息が漏れる。

「――謝んなよ。俺も同罪だ。中途半端に守ろうとして、結局親父に逆らいきれなかった。どっかで甘えてた。言われたとおりだよ。情けねえよな、俺達は」

 渇いた笑いは、喉に張り付いたように感じられる。ヨハネスは悲しげに微笑むと、ゆっくり首を振った。

「ギドは違うよ。ちゃんとセレーナの側にいたじゃないか。中途半端なんかじゃない。二人を見ればわかるよ。だから、こんなところで弱音を吐いちゃいけない」

 穏やかな口調だが、力強い言葉だった。腹立ち紛れに八つ当たりしていたのが、いつの間にか励まされているのがおかしかった。「そうだな」とすんなり頷いてしまう。

 ギュンターの表情が緩んだことに安堵したのか、ヨハネスも明るい笑顔を見せた。こんなときでも笑い合える。不思議だけれど、嫌ではない。

「じゃ、改めてよろしく」と手を差し出しながら、ギュンターは新たな希望を感じていた。


 詳しく話し合うため二人が向かったのは、ヨハネスの滞在するヘヴン亭だった。

 出迎えた主人は気まずそうな様子で、極力ギュンターの方を見ないようにしていた。話はもう広まっているのだろう。もしかしたら、彼も野次馬の一人だったのかもしれない。そう思うと複雑になり、ギュンターも足早にカウンターの前を通り過ぎた。

 二階にあるヨハネスの部屋は、小ぢんまりしていたが、どこもきっちり整頓されていた。というよりも、すでに彼の荷物は全てベッド脇のスーツケースに収められているらしかった。もうここを発つつもりだったのだろう。一通り見回してから、ギュンターは手近の椅子にどっかと腰を下した。続いてヨハネスもベッドに腰かける。一息ついて気が緩んだのか、座った途端、二人同時にお腹が鳴った。思わず笑いが漏れる。ヨハネスがすぐに立ち上がった。

「朝食、まだだったよね。部屋に持ってきてもらおうか」

 程なくして、テーブルにスープとパンが運ばれてきた。どちらも香り豊かな湯気を立てている。最後にチーズとリンゴの木皿を置かれ、用意が整うと、二人はようやく遅めの朝食を摂った。

 空腹が満たされたところで、話の本題に入る。

「僕達にできるのは一つしかないと思うんだ」

 ヨハネスが切り出す。

「殴り込みか?望むところだ」

「違うよ。こっちで弁護士を立てて、正面から立ち向かおう」

 ギュンターは舌打ちしたい思いをぐっと堪えた。

 無理だ、と内心で訴える声がある。父は今まで一度も、無実を言い渡したことはなかったからだ。だから周囲と同様、ギュンターも父を誤認逮捕のない優秀な審問官だと、誇りに思ってきた。きっと誰よりも、そう信じてきた。まさか真っ向から対立するときが来るなど、思いも寄らなかったから。

「――できんのか?俺達に」

「できるよ」ヨハネスは力強く頷いた。「実際に判例があるんだ。僕の師である人の話なんだけど――」

 彼の話を聞きながら、ギュンターの心中は言いようのない思いが渦巻いていた。

 判例と言われても、こちらとしては前代未聞なわけで、いまいちぴんとこない。そもそも審問がどういう形で行われるのか、見たことも聞いたこともない。果たして父の判決を揺るがすことなど可能なのか。父の輝かしい経歴に、傷をつけることが。

「――そうして先生は、ほぼ刑の決まっていた女の子を見事無罪にしたんだ。特別難しいことをしたわけじゃない。自白やこじつけから出た矛盾を、正しく指摘しただけなんだ」

 ここでヨハネスは、はっとしたように口を噤んだ。

「ご、ごめん。ギドのお父さんを否定するわけじゃないんだ。お互いの意見を出し合って、誤解が解ければいいなと……やっぱりごめん。偉そうなこと言って……」

 しゅんと項垂れる様を見て、ギュンターは心を決めた。彼だって迷っているのだ。答えが出なくても、動かなければならないときがある。一番大切なものを失わないために。

「アンは必ず助け出す。相手が親父でもゲオルグでも関係ねえ。だから変に気遣うなよ」

「――うん、そうだね。そうするよ」

 それから二人は具体的な方法について、話を詰めていった。

 まず弁護士はどうするか、という問題だったが、これはヨハネスが解決してくれた。頼れる当てがあるので、早速手紙を送るという。 

 そして何より大事なのは、無実となる証拠集めだった。

「セレーナの過去を知る人を、一人でも多く見つけよう」

 これがヨハネスの出した提案だった。彼女が犯した罪の真相を明らかにして、悪魔とは関わりがないことを証明しようというのだ。魔女の容疑以外の罪は償わなければいけないが、母親の処刑までわかってしまった以上、それ以外に道はない。

「何か手がかりがあればいいんだけど……。お父さんのこととか、話してなかったかな?」

「いや、家族のことはあまり話したがらなかったからな。遠くに姉さんがいるってぐらいだったな」

「そっか……。ちなみにお姉さんはどこに?」

「たしかオルレアンって言ってたな」

 するとヨハネスは、驚いたように目を見開いた。

「オルレアンなら、前に僕が滞在してた街だよ」

「お、それなら知らないうちに、どこかですれ違ってたりしてな」

 ギュンターは軽口のつもりだったのだが、ヨハネスは眉根を寄せてなにやら考え込んでいる。そして自信なさげに切り出した。

「セレーナの姓って、リーベルト、だったよね?」

「そうだよ。だから?」

「もしかしたら、会ったことがあるかもしれない」

「本当かよ!?」

「たぶん。たぶんなんだけど……。“ルイーダ・リーベルト”って名前じゃなかったかな?」

 ギュンターは唖然として「嘘だろ?」と呟いた。

「いやあ、自分でもびっくりしてて――」

 最後まで聞かぬうちに、ギュンターはがたんと立ち上がった。きょとんとしているヨハネスに言う。

「よし、じゃあ今から向かおう」

「え……え?」

「二回も言わせんなよ。オルレアンに行くんだよ。ほら、さっさと立て」

 こちらが本気なのを感じ取り、ヨハネスは慌てて、制止するように手を出した。

「ちょ、ちょっと待った!ルイーダさんに会ったのは本当に偶然で、名前以外は何も知らないんだ。オルレアンみたいな広い街じゃ、とても見つけられないよ」

「大丈夫だって。おまえの今までの強運を信じろ。手がかりくらいは見つかるさ」

「そうは言うけど、もし無駄足になったら……第一、まずは弁護士を確保しないと。せめて手紙の返事が来るまでは――」

「それなら手紙送って、返事はオルレアンで受け取ればいいだろ。宿でも知り合いのとこでも、融通利かせろよ」

「ああ……そっか」

 これには納得したらしく、ヨハネスは素直に頷いた。「でも」が繰り出される前に、ギュンターはさらに畳み掛ける。

「向こうで収穫がなくても、ここでぐだぐだ考えてるよりはマシだろ。行けるとこ片っ端から行こうぜ。一つでも多く証言を集めりゃいいんだろ」

「うん、そうだね」ヨハネスは迷いの振り切った声で、力強く答えた。「行こう、オルレアンへ」

 こうして彼が手紙をしたためる間、ギュンターは旅の準備をするため、一度家に戻ることにした。気乗りはしなかったが、母には会って話さなければいけないと思った。

 家では母が一人、不安げな顔つきで家族の帰りを待っていた。アンの話はすでに外で聞いていたらしい。目に涙を浮かべ、「辛かったでしょう」とギュンターを抱きしめた。母の腕の中では、強がることができなかった。顔を埋め、小さく頷く。

 少しの間その温かさに甘えた後、ギュンターは身体を離し、今朝の出来事からアンとの出会いまで、そしてこれからどうするつもりか、全てを包み隠さず話した。母は口を挟まず、穏やかな表情で聞いてくれていたが、その目はどこか悲しげだった。一層傷つけるのを承知で、ギュンターは告げなければならなかった。

「この件が決着つくまでは、もう家に戻らねえから。ないと思うけど、もし親父に聞かれたらそう言っといて」

 母はしばらく黙り込んでいたが、やがてぽつりと言った。

「お父さんのこと、憎んでる?」

 どんなときも父を悪く言うことのなかった彼女が、初めて口にした言葉だった。ギュンターは少なからずたじろいだ。正直に、「わかんねえ」と答える。

 憎んでない、とは言えなかった。審問で勝てなければ、父はきっとアンを処刑台に送るから。息子がどう思うかなど関係なく。けれどギュンターからすれば、そう容易く割り切る自信はなかった。相手が父ではなく、赤の他人だったらどんなによかったかと思う。状況は今と変わらなくても、ゲオルグのようにはっきり嫌悪できたなら。

「行く前に、話しておきたいことがあるの」

 母の真剣な眼差しに、ギュンターは黙って頷いた。

「あなたを深く傷つけるかもしれない。それでも――」

「今しかないと、俺も思う」

 何の話かは見当もつかなかったが、そう促していた。母とこうして向き合える機会は、これが最後かもしれない。そんな予感がしていた。

 母は少し声を震わせながら、一言一言噛みしめるように告げた。

「私は、あなたの本当の母親ではないの」

 胸の中が、一気にかき乱れていく。怒り・哀しみ――混乱・納得――。ギュンター自身把握しきれない感情の渦に揉まれる一方で、身体はどんな反応もすることができなかった。表情の浮かべ方すら、忘れ去ってしまった気がした。

「どういう、ことだよ?」

 乾いた唇から、勝手に言葉が漏れる。母は、いや、母だった人は、深々と頭を下げた。

「今まで黙っていてごめんなさい。父さんが――いいえ、あなたのお父さん、オスヴァルトさんが話さないのをいいことに、ずっと向き合うことから逃げてきたの。あなたを傷つけたくないなんて、ただの言い訳よね」

 ふっと自嘲気味に笑う姿に、どんな言葉をかけていいのかわからない。彼女は再び話を続けた。

「ギドの本当のお母さんは、オスヴァルトさんの本当の妻だった人よ。名前はリーネ。私の姉でもあった人」

 自分の母は名前も聞いたことのない人で、十八歳まで母だと思っていた彼女は、存在の有無すら知らなかった叔母だった。頭の中で整理しようと試みても、それは自分とは関係ない、どこか遠い話にしか感じられなかった。けれども偽りではない。母ではなくても、ずっと一緒にいたのだから何となくわかる。

「全てを話すわ。言いたいことはたくさんあるでしょうけど、最後まで聞いて」

 その声はもう震えていなかった。ギュンターもしっかりと頷く。彼女が覚悟を決めているなら、自分はそれに応えなければならない。

 通り雨が窓を叩きつける中、知られざる過去への扉が開かれようとしていた。




 時は四十年程前に遡る。オスヴァルトはフランス国王直属の由緒ある騎士の家に、三番目の子、次男として誕生した。

 家名を継ぐのは当然長男である兄となるため、彼には生まれつき聖職者としての道があてがわれていた。父親の思いに応えようと、彼は熱心に勉学を積み重ねてきた。すでに修道院の行き先も決まっており、歩みはいたって順調だった。

 しかしリーネとの出会いが、オスヴァルトの運命を大きく変えた。彼女は家に仕える新米侍女だった。明るく快活な性格で、誰からも好かれていた。どんなときでも疲れた顔や辛そうな様子は見せず、実家にいるという母と妹を気遣い、まめに手紙を書く優しい性格でもあった。

 ある日リーネが水汲みのため、両手に桶を一つずつ持って歩いていると、通りがかったオスヴァルトがつと足を止めた。

「手伝おうか」

 リーネは驚いた。ぶっきらぼうだが、初めて仕える主の息子から声をかけられた瞬間だった。彼女にとって、彼は会釈してすれ違う、遠い存在でしかなかったのだ。リーネは慌てて首を振る。

「オスヴァルト様にこんなことはさせられません。お気遣いありがとうございます」

「――その手」

「え?」

 言われて、自分の手を見下ろす。その手は氷と寒さに負けてひび割れ、関節の部分から血が滲んでいた。リーネは思わず微笑んだ。

「大丈夫ですよ。いつものことですから」

 そう言い終える前に、オスヴァルトはひったくるように桶を取ると、ずんずん先に歩き出した。

「あ、あの!」

「問題ない。誰も見てないから」

 彼とてリーネが慌てる理由をわからないわけではなかった。二人の間には大きな主従の壁がある。

「――ありがとうございます」リーネが深々と頭を下げる。「お優しいんですね」

 そうして二人はしばしの間無言で歩いていたが、やがてオスヴァルトが意を決したように口を開いた。

「前から思っていたんだ」

「はい、何でしょう?もしかして私のせいで、何かご不快な思いをされていましたか?」

「そうじゃない。――君がどうしていつも笑ってられるのか、聞きたかったんだ」

 リーネはきょとんとした顔で、目を瞬いた。一方のオスヴァルトは大真面目に続ける。

「他人の家の掃除や世話をする仕事は望んでやってるわけじゃないだろう?楽しめるのか?」

 彼の疑問を理解したリーネは、ひとつ頷いた。そして今まで目にしてきたことに、ようやく合点がいった。

 いつも見かける物憂げな表情。熱心に勉強する姿。そして人目を盗み行っている、剣術の練習。その腕は騎士の訓練を受けている兄と比べても、遜色なかった。直接教わったわけではなく、見様見真似でやっている彼には、確かな才能があった。本人も自覚していたのだろう。兄とは決して剣を交えようとせず、抱いてしまった夢を心の内に秘めていたのだ。

 そんな思いを知ったリーネは、知らず強張っていた肩の力を抜いた。

「そうですね。確かに今の立場は、小さい頃夢見た将来とは違います。広いお屋敷を掃除するのは大変だし、洗い物も毎日山のようにあって、うんざりしてしまいます。ただの愚痴になっちゃってますけど」

 ふふっと小さく笑う。侍女が主の息子に言っているのだから、とんでもない話だ。

「でも、その中にも楽しいことって必ずあるんです。今日は天気がいいなとか、いつもより掃除が早く終えられたとか、些細なことでも見つけるんです。そうするとこんな日々でも悪くないなって思えます。

 こうしてオスヴァルト様と話せているのも、私がここで働いていなければ実現しなかったことですし。だからよかったなと、思うんです。望みは完全に叶わなくても、幸せはいろんなかたちで、身近にありますから」

 自らの心を開くこと。それがリーネにできる唯一のことだった。現状は何も変わらないけれど、ただほんの少しでいいから、彼に安らぎを感じてほしい。いつの間にか、彼女はそう強く願っていた。そして、想いは伝わった。

「――ありがとう」

 彼女はその日、初めて彼の笑顔を見た。主従の壁に、小さな秘密の抜け穴ができた。


 その後二人は、周囲の目を盗んで度々会うようになった。場所は庭園の木陰だったり、屋敷内の使われていない部屋や地下にある食糧庫だったりした。

 そこで互いに様々な話を打ち明け合った。オスヴァルトは本当の望みが騎士になりたいということ、そのために兄を疎ましく思っている自分が、たまらなく嫌だということを。リーネは、父が早くに亡くなり、身体の弱い母の代わりに自分が働かなければならないこと、家のことはほとんどすべて妹が負担しているため、申し訳なく思っていることを。どちらも話してどうにかなる問題ではなかった。ただ話せる相手ができたことに、喜びを感じていた。

 二人の距離は次第に近くなり、どちらからともなく意識の変化を感じ取っていた。最初に手を触れたのは、リーネの方からだった。唇を重ねたのはオスヴァルトからだった。彼らの間に壁はもはや存在しなかった。

 そして取り返しのつかないことは、起こってしまった。二人の愛は、リーネの中にかたちとなって残った。それを察したとき、彼女は何も告げずにヘルマン家を去った。




「そして生まれたのがギュンター、あなただった」

 話に間が空いたところで、ギュンターはぽつりと言った。

「じゃあ俺は、誰からも望まれてなかったわけだ」

「そうじゃないわ。姉さんは、あなたを心から愛していた」

「適当なこと言うな」

「違うわ!あなたが生まれたとき、姉さんがどれだけ喜んだか。初めてはいはいしたときも、“ママ”って呼んだときも大はしゃぎだったわ。さすが私達の子だって褒めちぎってた。私は姉さんとオスヴァルトさん、両方と接してきたからわかるの。二人にとって、あなたは希望なのよ」

 なおも反論しようとするギュンターに、ユリアは首を振って制した。

「話はまだ終わっていないわ。最後まで聞いて」




 リーネが実家に戻ってから三ヶ月ほど経った頃。ある出来事が起きた。家の戸口に、小袋が置かれていたのだ。

 最初にそれを見つけたのはユリアだった。中を開けてみると、まとまった額の貨幣が入っていた。母と姉妹合わせて三人と、これから加わる一人が、一ヶ月は充分生活していけるほどの。しかし添え書きもなく、誰が何のために置いていったのかは明らかにされていない。

 小袋を手に姉へ報告すると、彼女は途端に涙を流した。そして言った。

「いい?これは神のお恵みよ。だから余計なことは考えちゃだめ。誰にも言わないでいて」

 ユリアは言葉の意図を察し、誰にも言わないと固く約束した。心の中で、姉の想い人に感謝の意を捧げながら。

 その後も小袋は度々届けられたが、頼ってばかりもいられないと、今度はユリアが働きに出た。リーネは無事に出産し、ギュンターと名づけられた男の子は、健やかに成長していった。姉妹の母も初孫の誕生を喜び、いくらかは体調もよくなったかに見えた。四人の生活はささやかだが安定し、充分に幸せだった。ギュンターの明るい笑い声が、皆を笑顔にしていた。

 同じ頃、修道院を出たオスヴァルトは異端審問所の専属書記官として任命された。まだ見習いながら、仕事はいくつかこなしているようだった。そんな話を街で耳にするたび、リーネは誇らしげに、眠っているギュンターへ語りかけた。

「あなたのお父さんはね、すごい人なのよ。でもこれはママと二人だけの秘密。だから口にしてはいけないけど、一緒に堂々と胸を張っていようね」

 しかし母子の約束は、子が理解する前に立ち消えてしまった。母リーネはある日突然、見知らぬ男に命を絶たれてしまったからだ。他にも四人の犠牲者を出した、通り魔殺人だった。

 男はその場ですぐに取り押さえられたものの、興奮状態から抜け出せず、まともな会話もできない有様だった。本人の供述が得られないので、検察が男の身辺を調べたところ、彼には以前も逮捕歴のあることが判明した。容疑は魔女との関係があったというもので、オスヴァルトが所属する審問所で取調べを受けていた。

 結局証拠不十分で釈放されたのだが、そのときに受けた拷問が原因で、性格が豹変してしまったらしい。とはいえ異端審問での拷問は合法的な手段のため、今回の罪が軽くなることはない。男は最後まで意味不明なことを喚き散らしながら、処刑台へと送られていった。

 しかし犯人が罰せられたところで、殺された者が戻ってくるわけではない。ユリアと母は幼いギュンターを抱きしめ、悲しみに暮れた。

 そんなとき。オスヴァルトが初めて家の戸を叩き、姿を現した。

「リーネを守れず、申し訳ないです」

 彼はそう言って、深々と頭を下げた。身分の差を考えれば、あってはならない行為だったし、それを除いても彼が頭を下げる理由などなかった。出迎えた母も当惑し、「あなたに責任はありません。どうか顔を上げてください」と言っても、彼は頑として姿勢を変えようとしなかった。

「無力も罪です」きっぱりそう断定し、母、ユリア、そして自身の息子ギュンターへと視線を移す。「償いにはならないが、あなた達のことは人生を懸けて守っていく。だから自分を信じて、ついてきてくれませんか」

「どこに、行くんですか?」

 困惑している母に代わって、ユリアが問いかける。オスヴァルトはこちらに目を移し、答えた。

「この街を出る。今すぐに」

 彼の目を見れば、冗談ではないことがわかる。話に聞いていたとおりだ、とユリアは思った。人を威圧するような外見とは裏腹に、内面には深い優しさを持っているのだと。姉はそんな彼を、心から愛していた。だからこそユリアは迷っていた。

 たしかにオスヴァルトが自分達の面倒を見てくれるなら、これほど心強いことはない。実際彼の贈り続けてくれる援助がなければ、生活は一気に苦しくなるだろう。しかし所詮他人でしかない自分が、差し伸べられた手に縋りつく権利はきっとない。本当に望まれているのは、ギュンター一人だけなのだから。

「お気持ちは嬉しいのですが……」

 母も同じ思いだったようだ。抱いていたギュンターを、オスヴァルトへ差し出した。

「あなたはまた新しい家庭を築けます。私達のことはもうお気になさらず。充分すぎるほどご恩を頂きました。どうかこの子を幸せにしてやってください。新しい母親を受け入れられる歳の内に」

 赤ん坊を抱くのは初めてだったのだろう。オスヴァルトは慎重すぎるほどの手つきで、ギュンターを受け取った。初対面でも屈託なく笑うギュンターに、彼の方が戸惑っているようだ。わずかな間、場は和やかな空気に包まれた。

 やがて新米父は、息子を見下ろしながらすっと表情を翳らせた。

「自分は生涯結婚しません。聖職の身を全うします」

 母は慌てて詫びようとしたが、「中には家庭を持つ者もいますが」とそれを遮り、続けた。

「愛していたのはリーネさん一人だけです。自分勝手でしかないのはわかっていますが、彼女が愛したものを、今度は自分が守りたい」

 ユリアはようやく気がついた。彼は今、心のよりどころを捜しているのだ。唯一愛した人を失ってしまったことで心に開いた穴を、何とか埋めたかったのかもしれない。

「お母さん。オスヴァルトさんについていこう」

 母が驚いた顔でこちらを振り返る。ユリアは改めて、オスヴァルトに向き合った。

「お役に立てることがあれば、何でも言ってください。このご恩に報えるよう、精一杯頑張ります。よろしくお願いします」

 一息に言ってしまってから、猛烈な後悔に襲われる。自分は卑怯だ。相手の罪悪感にかこつけて、のうのうと世話になろうとしている。彼が責任を負う必要などないのに。

 そのとき終始変わらなかったオスヴァルトの固い表情が、ふっと緩んだ。

「よろしく頼む」

 温かな眼差しがユリアを包む。それに呼応するように、ギュンターが元気な笑い声を上げた。




「それでクラーヴに越してきたのか」

 そうよ、とユリアは頷く。

「あなたが二歳のときにね。でも一年も経たないうちに、母は病状が悪くなって、亡くなったの。だから覚えてはいないでしょうね。物心がついた頃には、オスヴァルトさんは異端審問官になっていて、私はあなたの母親だと嘘をついてた」

「わかんねえよ。何で今まで――」

「ごめんなさい」

 ユリアは悲痛な面持ちで項垂れる。それ以上追求するのは躊躇われ、ギュンターも口を噤む。理由はどうあれ、今日まで育ててもらった事実は変わらない。責めるつもりは最初からなかった。だから「まあいいや」と言ったのも、自然と出てきたものだった。

「本当のこと、聞けてよかった。ありがとう」

 ギド、と言って伸びかけた腕が、躊躇いがちに下ろされる。当たり前だった母との距離が、ふと遠ざかったように感じられた。そう、自分にとって彼女は母なのだ。胸の中でわだかまっていた思いは、いつの間にか消えていた。今度はギュンターが腕を伸ばし、母を抱き寄せる。

「今までどおりでいいじゃん。俺はやっぱり、母さんだと思ってる。生んでくれた母さんと育ててくれた母さん、二人いたって問題ねえよ」

「――ありがとう、ギド」

 腕の中で、くぐもった声が届いた。やがて腕を解くと、ギュンターは努めて軽い調子で、「じゃあ行くわ」と言った。

「本当に行くのね?」

 母が哀しげに念を押す。父の過去を知った今、その言葉は一層重く響いた。

 大切な人を失った悲しみは、きっと計り知れないもので、一生消えることはないのだろう。だから父は自身が力の象徴となり、信念を貫いている。それに対峙するとなれば、相応の覚悟が必要だろう。守りたいものがあれば、男として譲れない意地がある。

「絶対に無実の証拠を掴んで戻ってくる。俺は、親父が間違ってると思うから」

 母に見送られ、決意と共に荷物を背負い、家を出る。もう帰ることはないかもしれない。そんな予感がした。


「悪い、遅くなって」

 宿に戻ると、ヨハネスはすでに準備を整え、ギュンターを待っていた。

「僕も今用意できたところだから」

 愛用のトランクを手に取り、「よし、行こうか」とヨハネスは朗らかに言った。

「そういやさ」

 ギュンターはそんな彼をしげしげと見る。「何?」と問いかける顔に、ずっと気になっていた質問を掲げた。

「前にオルレアンから来たって言ったよな?クラーヴまでは徒歩で来たのか?」

「うん、そうだよ。途中で旅芸人さん達に会って、近くまで同乗させてもらったりしたけどね」

「けどさ、おまえたぶん、いいとこのお坊ちゃんだろ?馬ぐらい買えたんじゃねえの?」

 何の気なしの素朴な疑問だったのだが、ヨハネスは目を丸くした。

「僕、家のこと話したかな……?」

「いや、ない。俺の勘」

 彼本人は驚いているが、ギュンターだけでなく他の者から見ても、それは一目瞭然だった。傷ひとつない白い手は、働く必要がなく、兄弟間で争うこともなかった証拠だ。一人息子で不自由なく暮らしてきたのだろう。身につけているものもシンプルではあるが、決して安物ではない。

「たしかに、生活が困るような環境じゃなかったよ。ホップの商人なんだ、父さんは。でも僕は後を継がないで、自分の道を進むって決めたから……できるだけ頼りたくないんだ。本当は馬を連れてきた方が今回の旅にもよかったんだろうけど……ごめん。足手まといにはならないようにするよ」

 しゅんと項垂れるヨハネスの背を、ギュンターは軽く叩いてやった。

「心配すんな。馬を借りるあてはある。まさか乗れないとかじゃなくてよかった」

 ヨハネスは身体をちぢこませ、小さな声で言った。

「そのまさかも……あるんだ」

「まじかよ?全く無理か?」

「ごめん。大きな動物が苦手で……」

「アルが聞いたらびっくりするぞ」

 アル?と首を傾げるヨハネスに、ギュンターはにっと笑いかけた。

「友達だよ。今から会いにいく。いいかヨハン、時間は限られてんだ。苦手だろうが何だろうが、馬には乗ってもらうからな」

 ヨハネスは自信なさげに頷き、重い一歩を踏み出した。


 牧場ではアヒムの両親や兄弟達が、各々作業に取り組んでいた。山羊や羊の群れがのんびり周囲を歩き、草を食む。今朝の騒ぎがまるでなかったかのような、平穏な雰囲気だ。

 しかし事情を知らないのは、家畜だけだったようだ。最初に気づいたアヒムの父、ゴードンは、ギュンターを見た途端顔を強張らせた。こちらが口を開く前に、固い声で阻む。

「悪いが帰ってくれないか。しばらくは、うちの息子にも会わないでほしい」

「おっさん――」

「頼む」

 にべもなく断られ、ギュンターは為すすべなく立ちすくんだ。

 今までどんなに馬を乗り回しても、アヒムと泥だらけになって家に上がっても、男の子は元気が一番だと笑っていたゴードン。当たり前のように受けてきた優しさがどれだけ尊く、儚かったか思い知らされる。セレーナが言っていた恐怖とは、このことだったのだ。異端審問は、全てを変える。奪っていく。

 けれどゴードンを責める気にはなれなかった。セレーナに出会っていなければ、ギュンターも間違いなく同じ立場だった。彼もまた別の恐怖があり、守るべきものがあるのだろう。

「――わかった。邪魔してごめん」

 それだけ言うと、ヨハネスを促し牧場を出る。

「しょうがねえ。歩いて行くか」

「うん、そうだね。隣町で良さそうな馬がいれば、買っていこうよ」

 こちらの気持ちを感じ取ったのか、ヨハネスも調子を合わせ、明るい声を出す。彼の気遣いが、今はありがたかった。

 しかし、気持ちは晴れそうになかった。道行く人々は、皆一様にギュンター達から目を逸らし、そそくさと通り過ぎていく。まるで目を合わせれば、災いが降りかかるとでもいうように。いつも通ってきた道が、とてつもない長さに感じられた。

 この対応がまだマシなことを、頭ではわかっている。もしギュンターが異端審問官の息子ではなかったなら、単なる無視では済まされなかった。あちこちで陰口を叩かれ、時には正面切って暴言を吐かれる。あらゆる場面で差別され、家を壊されるなどの嫌がらせも受ける。そんな光景を幾度となく見てきた。いや、実際に一員として加わってきた。相手がどんなに苦しもうと、後ろめたさは感じない。それは当然の制裁なのだ。魔女と関わった、という罪に対しての。

「ギド。堂々としていよう」

 隣からヨハネスの声が届く。

「僕達は正しいことをしてるんだから」

 ギュンターははっとして、ヨハネスの横顔を見た。彼の澄んだ瞳は、前をしっかりと見据えている。道を踏みしめる足音までが、自分とは違う気がした。馬に乗れないと弱音を吐いていたときとは大違いだ。頼もしいのか情けないのか、未だよくわからない。思わず、小さな笑みがこぼれた。

「言われなくたってわかってるよ」

 バシッと背中を叩いてやると、ヨハネスはよろよろとつんのめってしまった。ギュンターは構わず先に進む。

 過去を振り返っていても始まらない。そう、向くべきは今。自分達が未来を変えるのだ。当然が、過ちだと言える未来に。

 新たな決意を胸に、町外れの丘まで差し掛かったときだった。

「ギド!」

 よく聞き知った声だ。

「アル、何で――」

 振り返ると、アヒムがちょうど馬から飛び降りたところだった。急いで追いかけてきたのだろう、息を切らしている。

「間違い、なんだよね?」肩を上下させながら、縋るような目で尋ねてくる。

「アンは魔女なんかじゃないよね?」

「当たり前だろ」

 ギュンターは即座に答える。アヒムは安堵の息をつき、「よかった」と笑顔を見せた。こちらが拍子抜けするほど、あっさりとした感じだった。

「理由とかそういうの、聞かなくていいのかよ」

 思わずそう尋ねると、アヒムは迷うことなく頷いた。

「ギドが違うっていうなら信じるよ。それに、アンも友達、だから」

 友達だから信じる。子どものような、単純で、純粋な答え。だからこそ、ギュンターはたまらなく嬉しかった。

「やっぱアルはいい奴だ!」と言って、彼の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。アヒムは相変わらずにこにこ笑っていたが、思い出したように「あ」と声を上げた。

「馬、連れてきたんだ。必要かと思って」そして後ろを振り返る。「もう一頭も、そろそろ来る頃なんだけど……」

「二頭、わざわざ用意してくれたのか?親父さん反対したろ」

「大丈夫。ちゃんと話せばわかってくれるから。僕だって力になりたいんだ」

 ということは、まだ父の了解は得ていないということだ。まだ何も言っていなかったのに、気を利かせ駆けつけてくれたのだろう。

「助かる、ありがとう。アンは必ず助けるからな」

 二人が握手を交わしたときだった。

「ギドー、やっと追いついた!」

 新たな声が近づいてきた。二頭目の馬に、半ばしがみつくような格好で乗っているのは、デルトルトだった。

「素人を置いてくなよな、まったく」とアヒムに不平を言っている。

 彼が乗馬他、体を動かすこと全般が苦手なのは、仲間内で周知の事実だ。

「デル、おまえどうして……?」

 デルトルトはアヒムの手を借り、おっかなびっくり下馬しながら答えた。

「さっきアルに出くわして、巻き込まれたんだよ」

 そして上目遣いにギュンターを見ると、言いにくそうに続ける。

「――で?真相はどうなんだよ?もちろん今朝のこと、だけど」

「情報通のことだから、いろいろ聞いてはいるんだろ?」

「そりゃまあ……」

 彼はもごもごと言葉を濁し、顔を逸らす。先程町で受けてきた視線が、遠巻きのひそひそ話が、ギュンターの脳裏に蘇る。デルトルトに聞くまでもない。大抵は想像のつくものだ。

 空気が変わったのを感じ取ったかのように、馬がぶるると落ち着かなげに鼻を鳴らす。それがきっかけとなったのか、デルトルトは再び顔を上げた。そしてどもりつつ、言葉を並べていく。

「そう、僕は情報通だからね。単なる噂じゃ流されないよ。知りたいのは真相だからね。そして決めるのはもちろん、ギドのお父さんだ。だからそれまで、僕は中立を守るよ。結果次第では、その……どうなるかわかんないけどさ」

「わかった。ありがとうデル」

「あ、ありがとうじゃないよ。だから僕は――」

「まどろっこしいっつうの。もうわかったって」

 ギュンターが笑って遮ると、デルトルトもようやくつられて笑った。

 場が落ち着いたところで、ギュンターはアヒムとデルトルト二人の顔を交互に見た。もうひとつ、大切なことを伝えなければいけない。

 今朝フリッツに会い、剣を交えた話をすると、アヒムは言葉をなくしてしまうほど驚いた。一方デルトルトはある程度予想していたらしく、驚きはしなかった。ただ辛そうに目を伏せる。

「今回のことが決着つくまで、俺はあいつに会わない。だから、おまえらに頼みがある」

 二人は不安そうな顔で、ギュンターの次の言葉を待っている。

「リッツのこと、よろしく頼む。一人で悩んでるようだったら、力になってやってくれ」

「でも……いいのか?あいつはギドに――」

「だって仲間だろ、俺達」

 ギュンターが言うと、デルトルトは続きの言葉を飲み込み、頷いた。アヒムもそれに倣う。わかった、と言う声は明朗だ。

 事情を知っている仲間と、深い優しさを持った仲間が近くにいれば、フリッツも心強いだろう。

 アヒム達に見送られ、ギュンターとヨハネスは町を出た。別れ際、デルトルトがぽつりと漏らした一言を、胸に残して。

「あいつら、来なかったな」

 バルテル。ヴォルフ。コニー。彼らとはついに話せずじまいだった。もっと早く打ち明けるべきだったのに、機会を逃し続けてきた。今となっては、どんな顔で会えばいいのかすらわからない。遅かれ早かれ、事情は知ることになるだろう。いや、すでに知っているのかもしれない。動揺する彼らの姿が浮かぶ。

 けれどいつかは自分の言葉で説明しようと思う。そのうえで彼らなりの結論を出してもらいたい。

「ギドはいい仲間がいるんだね」

 ヨハネスが言う。ギュンターは心残りを奥にしまい、胸を張った。

「おう、最高の仲間だ」

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