第23話 運命
「おはようございます、ヨハネス先生!」
「おはよう。みんな早起きだね」
子ども達の爽やかな笑顔に元気をもらい、ヨハネスも挨拶を返す。
商店街の朝はいつも活気で溢れている。威勢のいい声があちこちで飛び交い、家計を守る女性達は品定めに余念がない。子ども達はそんな大人達の間を、楽しげに行き来している。
「先生が遅いんだよー」
「ほら、また寝癖ついてるもん」
慌てて髪を撫で付けるヨハネスを見て、子ども達は笑いを弾けさせながら、またどこかへ駆けて行く。
彼らの指摘どおり朝は苦手だったが、ヨハネスはこの商店街の雰囲気が好きで、こうして毎日足を運んでいる。おかげで以前に会った喧嘩兄弟とも、すっかり顔なじみになってしまった。
けれども今日でこの習慣は終わりだ。次の旅に出る準備は、すでに整っている。最後にこの町を回ろうと、今日はいつもより朝早く部屋を出てきたのだった。いろいろと世話になったギュンターへもお礼を言いに行くつもりだった。
歩いていると、商店から次々に声がかかる。
「おう、今日も眠そうな顔してんなあ。景気づけに葡萄酒買ってかないかい?」
「いや先生、買うならうちの肉を先に見てってくれ。精がつくよ」
「おいこら、横から割り込んでくるなよ。営業妨害だろ」
「今さら固いこと言うなよ。先生ならセットで買ってくれるだろ?なっ」
結局今日のように両方売りつけられてしまうこともあるのだが、悪い気はしなかった。そこには都会と一味違う、身近な温かさがあったからだ。気楽に声をかけてもらえるのは、ありがたいことだと思う。
葡萄酒と肉を抱えながら、パンがあるといいな、とヨハネスは考える。旅立ちの前に、ある程度食糧をまとめ買いしておきたかった。
店の戸を開くと、「いらっしゃい!」と威勢のいい声がかけられる。パン屋のサブリナだ。彼女の存在は、以前町を案内してもらったときに、ギュンターから聞いていた。実際に店に入ったのは、今日が初めてだ。ヨハネスを見ると、
「あら先生じゃないか、いらっしゃい」と大きな笑みを広げる。
店内は焼きたてのパンの香りでいっぱいだった。食パンにバターロールにフランスパン。渦巻きパンに揚げパンもある。ヨハネスの他にもすでに先客がいて、それらを物色している。
すると店の奥から、新しい焼き立てパンがトレイに乗って運ばれてきた。棚へと並べる店員の姿に、ヨハネスは思わず選んでいたパンを落としそうになった。
彼女が“アン”と呼ばれているのは知っている。道で会えば誰もが振り返るほど綺麗で、町中でも評判になっていた。
しかしヨハネスが彼女に対して感じていたものは、それとは少し違う気がするのだ。自分でも馬鹿げていると思い、結局口にしなかった問い。
――前に一度、会ったことがありませんか?
十年も前のことだ。当然顔立ちは変わっているだろう。どうしてあのときの少女だと思ったのか、自分でも不思議なくらいだ。出会ったのはここフランスではなく、故郷ローマ帝国だというのに。
しかし今再び同じ期待が芽生える。彼女には、確かな面影がある。これまで一度も忘れたことなどなかった。だからこんなありえない状況下でも、奇跡を信じられる。
こちらの視線に気づいたのか、彼女がぱっと振り向く。「いらっしゃいませ」と言いかけるが、ヨハネスの様子が普通ではないことに気づくと、途中で音を掻き消してしまう。ゆっくりと背筋を伸ばした彼女が、真っ直ぐな目で見据えてくる。
「何?」
その瞳に吸い込まれるように、ヨハネスは言葉を紡ぎだしていた。
「覚えていないかもしれないけれど、僕は、ずっと前に、君に会ったことがあるんだ」
少しの間、沈黙があった。一回、二回と心臓が待ちきれずに高鳴っていく。そして答えは、意外にすんなりと出された。
「ヨハネス、でしょ?子どもの頃に会った」
「覚えててくれたんだ……」
彼女はそっと微笑んだ。十年前には見ることのできなかった表情。あのときの辛かっただろう記憶を乗り越え、こうして向き合えたことにただただ感激し、どう応えればいいのかわからなくなった。
「あなたは覚えてる?」
そう言って彼女が取り出したのは、十歳のヨハネスが少女にあげたものだった。銀の十字架と、ルビーとサファイアの二つの指輪がついたネックレス。ずっと首から下げていたらしい。当時のことを思い、ヨハネスは堪らず目を逸らした。
「ごめん。こんな物で僕は……」
「いいの。謝ってほしかったわけじゃない」彼女はきっぱりと言った。「過去を振り返ってもどうにもならない。だから偽るのはやめたの。わたしの名前はアンじゃない」
「そう。君の名前は――」
そのとき。背後で勢いよく戸が開け放たれた。
現れたのは、厳しい顔をした数人の男達だった。不安げにざわつく客には構いもせず、四人が強引に店内へ入ってくる。
「朝からなんだってんだい、あんた達?」
カウンターの奥から出てきたサブリナが、臆せず彼らの前に立ちはだかる。
すると内の一人、年配の男が口を開いた。
「異端審問官だ。セレーナ・リーベルトは魔女の疑いがある。今すぐ引き渡せ」
どうやら彼が、ギュンターの父親だったらしい。
「な、何てことを言ってんだい!それにこの子はアンだよ、セレーナなんかじゃない」
「その女は間違いなくセレーナ・リーベルトだ。教会への放火及び聖職者傷害事件の容疑がある。どちらも神への明らかな反逆。証拠もすでに挙がっている」
“アン”の名前を否定したばかりの彼女は、目を閉じ、震える息を吐き出した。ヨハネスが事態を把握しようとしていた間の出来事だった。
「ごめんなさい、サブリナさん」
「え?」と戸惑うサブリナの横を通り過ぎ、彼女は検察達に向き合った。
「たしかに、わたしがセレーナ・リーベルトです」
凛とした声が、店内を一瞬静まらせる。口火を切ったのは審問官だった。
「連行しろ」
即座に部下が二人、セレーナの両脇を挟む。手首に拘束具を取り付ける音が、無機質に響く。そこで勇敢にも、サブリナが再び口を開いた。
「ちょっと待ちな!ちゃんと説明してくれないとわかんないよ、アン」
「騙してたの」セレーナの返事は素っ気無いものだった。「捕まるのが恐かったから。でも仲良しごっこはもう終わり。今までどうもありがとう、さようなら」
パンッと乾いた音がした。
いつの間にかパン屋の主人が厨房から出てきて、セレーナを怒りの表情で見下ろしていた。
「二度と戻ってくるな」と低い声で言う。
セレーナは打たれた頬を気にすることなく、黙って彼を見上げ、すぐに目を逸らした。
サブリナの嗚咽だけが聞こえるなか、検察達はセレーナを連れて店を出て行く。ヨハネスにはどうすることもできなかった。対抗する術を持たず、まして彼女の十年間を知らない自分は、あまりに無力だった。そして信じがたい容疑は、あっさり本人によって認められてしまった。
震える拳を握り締める。
――また、見捨ててしまうのだろうか。今目の前に、手の届く場所にいるのに!
悔しさと情けなさでへたれこみそうになる。そんなときだった。
「ふざけんな!アンは誰にも渡さねえぞ!」
聞き覚えのある声がした。外からだ。ヨハネスは弾かれるように店を飛び出した。
「来ないで!」
セレーナが鋭く叫ぶ。視線の先にいるのは、野次馬をかき分けて出てきたギュンターだった。セレーナの勢いに負けじと叫び返す。
「馬鹿、諦めてんじゃねえよ!おまえはずっとここで暮らすんだろ!」
「覚悟はできてた。わたしの罪が消えることはない。逃げるつもりもない。だからさよなら」
それだけ言うと、セレーナは口を引き結び、再び歩き出す。
「セレーナ……」
ヨハネスの小さな呟きは、当然彼女の元まで届かない。代わりに反応したのはギュンターだった。
「おまえ、何で名前――?」と言いかけるが、そんな場合ではないとばかりに、すぐヨハネスへ背を向け走り出す。向かった先は審問官だった。
「親父。どういうつもりだよ?」
「見ればわかるだろう。仕事の邪魔をするな」
火花が散りそうな親子の対面に、誰もが口を挟めずにいた。部下達は上司の息子を制止するのも躊躇われたらしく、罰の悪そうな顔をしている。
「アンは魔女じゃない。取り消せよ」
「証拠がある以上、取調べが必要だ。――二度目はないぞ。そこをどけ」
「言うことを聞いて、ギド。お願い」
セレーナの有無を言わせぬ口調は、ここにいる誰よりも意志の固いものだった。
ギュンターとセレーナは言葉を交わさぬまま、互いに見つめ合う。その様子を見て、ヨハネスは悟った。彼女はこの地で、大切なものを見つけたのだ。先行きが暗いとわかっていても、手を繋いでいたかった存在が。かけがえのない居場所が。
「悪魔に取り憑かれた女の方が、よほど物分りがいいじゃないか」
そのとき新たな声が、二人の間を引き裂いた。
ギュンターが険しい目を向けた先には、聖職者の格好をした大柄な男が立っていた。後ろに控える取り巻き達と、豪華な服装から判断するに、相当高位の人物だろう。彼は満足げな笑みを浮かべ、二人を交互に見遣る。
「ゲオルグ……!」
ギュンターが低く抑えた声で、彼の名前と思われるものを発する。
「無礼だぞ、司教様と呼べ」
すかさず取り巻きの一人が指摘する。ゲオルグ司教は余裕を思わせる仕草で、彼を下がらせた。
「仕方ないだろう。礼儀や教養がないから、聖職の道を外れたのだ」
そしてセレーナへと視線を向ける。
「やっと見つけたぞ、セレーナ・リーベルト。穢れた血を受け継いだ魔女め。ナイフを向けられて以来の再会じゃないか。さあどうする?今ここで泣いて懺悔してみるかね?」
セレーナは挑むような目つきで答えた。
「言われなくても全部話してあげる。教会に火をつけたときから、もちろんあなたがやったことまで」
司教の顔色がさっと変わる。
「妄言だ、話にならん。異端審問官はどこだ?」
怒りを含んだ声で、近くの者に問い質す。
「おい!まだ話は終わってねえぞゲオルグ!」
掴みかかろうとしたギュンターを制止したのは、先ほど躊躇した検察官達だった。今回は上司の鋭い指示が飛んだのだ。「放せよ!」ともがくも、彼らは両側からがっちりギュンターを取り押さえている。
そんな息子の姿には目もくれず、審問官は司教の前へと進み出た。頭を下げ、儀礼的な挨拶を述べる。司教は威厳を取り戻したことで落ち着いたのか、機嫌よくそれに応えた。
「私も会えて嬉しく思うよ、ヘルマン審問官。この辺りでは随分名を馳せているそうじゃないか。主も喜ばれていることだろう」
「身に余るお言葉。今後も一層精進いたします」
「期待しているぞ。しかし何だな、唯一の汚点は不出来な息子ぐらいか」
ヘルマン審問官はその嫌みをさらりと受け流し、話題を変えた。
「わざわざご足労いただき、光栄に思っております。後は私が責任をもって、審問を遂行させていただきます」
「いや、君を疑うわけではないのだが……唯一の家族を傷つけるのは、さすがに辛いだろうと思ってね。今回はこちらの力添えも必要かと思っているのだよ」
するとヘルマン審問官の顔が、わずかに強張ったように見えた。今まで一貫して冷静だった分、その変化は見ているヨハネスに違和感を残した。
しかしそれも一瞬のことで、彼は即座に「お心遣い感謝します」と返答していた。ゲオルグは満足げに頷くと、「ところで」と声音を切り替えた。
「もう用件はわかっただろう。そろそろ引き渡してもらおうか、その女を」
「パリまで連行すると?」
「その通りだ。先の理由も然り、そして事件の多くはパリで起きている。審問もこちらで行うのが妥当だろう」
ギュンターが何か言おうとするのを制し、ヘルマン審問官はきっぱりと言ってのけた。
「それはできません」
「――何だと?」
ぎょろりと司教が睨み上げるも、彼の態度は揺るがない。
「“魔女狩り解禁令”にも示してあるとおり、審問を取り仕切る権利は異端審問官に一任されています。僭越ながら、先にこの女を捕らえた以上、私がその任に就くものと考えますが」
言っていることはもっともだ、と思う。“魔女狩り解禁令”については、ヨハネスも大まかな内容は知っていた。そこには異端審問の形式について基本的なことが定めてあり、制定されたのはおよそ二百年前、法王ヨハネス二世によるものだ。つまり格式ある正式な法令であり、誰であろうと例外はない。
しかし、だ。同じ聖職でも高い地位にある司教へ反発するのは、普通ならば考えにくい。規律に厳格なのか、それともよほどの理由があるのか。
ヨハネスは改めてヘルマン審問官の横顔を見つめる。ギュンターの父親であり、有能な異端審問官。彼はセレーナに対して、どのような決断を下すのか。その真意を量り知ることは到底できなかった。
「――生意気な口を叩くと、後で後悔するぞ」
司教が低く脅しをかける。
「私は法を遵守したまで」
ヘルマン審問官の毅然とした態度で、決着はついたようだった。審問の間、司教はクラーヴに滞在し、重要な意見役兼見届け人となることで話はまとまった。司教の一団が立ち去ると、ヘルマン審問官はようやくギュンターへ目を向けた。
「三ヶ月だ」冷酷に言い放つ。「死刑は免れんぞ」
「だからこっちの話も聞けよ!アンは――」
すると彼は強い力で、ギュンターの胸倉を掴んだ。つられそうになった部下が慌てて、捕らえていた腕を放す。
「おまえのせいでこの女は捕まったんだ。そんなに守りたかったなら、どうして家に戻ってきた?守ってくれるとでも思ったか?――思いあがるな」
どんっと突き飛ばされ、ギュンターは後ろに数歩よろけた。この言葉は彼にとって、相当応えたようだった。顔には強い悔しさが滲んでいる。
ヘルマン審問官の「連れて行け」という指示で、セレーナは再びギュンターから遠ざかっていく。
「待てよ……!」
それでも前に進む姿は、不器用で、がむしゃらで、真っ直ぐだった。たとえそれを愚かだと言う人がいても、ヨハネスには眩しく映っていた。強く心を動かされていた。
「もうやめな、ギド」
いつの間にか外に出てきたサブリナが止めようとするが、その手は乱暴に振り払われる。手の空いた検察官達が、足を止めて身構えたとき、ヨハネスの覚悟は決まった。
「待つんだ」
彼らとギュンターの間に立ち、はっきりと言う。
周囲の空気が変わるのを感じる。戸惑いの表情を浮かべるサブリナ。後ろでざわつく検察官達。成り行きを見守るセレーナの視線。そして険しい目で睨みつけてくるギュンター。
内心尻込みしそうになりながら、なんとか勇気を奮い起こす。
「気持ちはわかるけど、早まっちゃいけない。本当にセレーナを助けたいなら」
「おまえに何がわかるんだよ。どけよ!」
「どかないよ。よく考えるんだ。ここで君が食い下がってどうなる?何も変わらないよ」
「だからって!――」
詰め寄るギュンターの前で足を踏ん張り、ヨハネスは声を張った。
「三ヶ月!」決して長い期間ではない。それでも。ほんのわずかでも希望があるのなら。「その間に無実を立証できればいい。ギドにしかできないことなんだ。彼女を知ってるからこそできる。――そうですよね?」
ヘルマン審問官へ答えを求めるが、彼は依然として表情を崩さず、無言を貫いた。ただ探るような目つきで、こちらを見据える。ヨハネスとしてはそれだけで、身の縮むような思いだった。しかしそれも短い間のことで、彼は何事もなかったかのように歩き出した。部下達もすぐさまそれに続く。
ギュンターはもう、後を追おうとはしなかった。目に強い光をたぎらせ、「アン!」と大きな声で呼びかける。
「必ず迎えに行く。だから負けんなよ。いいな!」
すると、初めてセレーナが、自ら足を止めた。ギュンターに向けて、鋭い視線を投げる。
「――馬鹿!」
空気が震えるほどの一喝だった。ギュンターは真っ直ぐな瞳で、彼女に言い返す。
「馬鹿でいいよ。またおまえと一緒にいれるなら」
唇を噛んだセレーナの頬を、隠しきれなかった本当の想いが、一筋伝って流れ落ちた。目を瞑り、小さく頷く。再び顔を上げた彼女の表情には、新たな決意があった。
「――待ってる」
「おう。信じろ」
セレーナはそれに応え、ひとつ頷いた。検察官達に促され、彼女は背を向け歩き出す。一度も振り返ることはなかった。その後姿を、ギュンターはしばらくの間見つめ続けていた。
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