第22話 親友
遠くの空で、暗闇がほんのり薄らいできた頃。まだ眠りに包まれた町中には、ギュンターの足音だけが響いていた。パン屋への最短距離を選び、教会の前を横切ろうとしたときだった。
「久しぶり、ギド」
懐かしい声がした。笑みを含んだ柔らかい声。ギュンターは立ち止まり、辺りを見回した。
教会の石段で、ゆっくりと影が動く。黒い修道服に身を包み、フードを目深に被っているが、間違えようがない。
「リッツ……!」
彼はフードを下ろし、以前と同じようににっこりと微笑んだ。
「三ヶ月ぶりだね。元気そうでよかった」
「おまえ、何でここに――」
「仕事だよ。ゲオルグ司祭の付き人としてね。どうして来たかは、もうわかってるみたいだけど」
フリッツの笑みに、すっと影が差す。目の前に立っているのは、長い付き合いである親友のはずだった。しかし気づけば、彼は完全に向こう側にいる。約束を破り、道を逸れたのはギュンターの方だ。
「リッツ、聞いてくれ。アンは魔女じゃない」
「気持ちはわかるよ。魔女に惚れたなんて、、認めたくはないだろうね」労わるように言ってから、フリッツはさらに畳み掛ける。
「目を覚ませギド。見かけや言動に騙されちゃいけない。彼女は実際、罪を犯してるんだ」
「ゲオルグから聞いたのか?」
「司祭に頼まれて、俺が調べたんだよ。一五二四年、神聖ローマ帝国ネーデルラントでメビアナ教会に放火。その後フランスに移り、パリで聖職者の住居三軒に放火。七名の聖職者に傷を負わせた。一五二九年、ミネルバ修道院に潜入し、ゲオルグ司祭を殺人未遂、修道士一名と共謀し、逃走――。何か間違いはあるかい?」
噛み合せた歯に力が入る。アンがどんな心情だったのであれ、やったことに変わりはない。背景の事情を取り払えば、それは紛れもない事実だ。
「それでも俺は、アンを信じる。周りが何て言おうと関係ない」
「じゃあどうする?ギドが言ってることは、ただの現実逃避だ」
「うるせえ。どけよ」
「どかないと言ったら?」
「力ずくでも通る」
互いの視線がぶつかり合う。一歩も退くつもりはなかったし、向こうも同様なのが伝わってくる。
フリッツは不敵な笑みを浮かべ、腰帯に手を伸ばした。長い指が柄をしっかりと握り、すらりとそれを引き抜く。鈍い輝きを見てもなお、ギュンターは剣を向けられたことが理解できずにいた。
「好きな女を守りたいんだろ。命、賭けてみれば?」
「――何言ってんだよ」
立ちすくむギュンターの足元に、一振りの剣が放られた。石の床に当たり、がらんと大きな音が響く。鞘がついたままの剣を見て、ようやく悟る。フリッツは最初から、こうするつもりだったのだと。一介の修道士が、護身用の剣を二振りも携える必要はない。
「……本気かよ」
「こっちも人生懸けてるからね。簡単に通すわけにはいかないんだよ」
「真剣勝負の意味わかってんのか?俺との対戦、忘れたわけじゃないだろうな」
二人の力量はほぼ互角。向こうが本気でかかってくれば、手加減する余裕などない。最悪の場合、どちらかが命を落とすことになる。
きっとそれがわかったうえで、フリッツは涼しげに言ってのけた。
「早く抜かないと、こっちから行くよ」彼の顔から、すっと笑みが消える。「今日は勝たせてもらう」
言うが早いか、二人の距離が瞬時に縮まる。頭上から剣が振り下ろされ、ギュンターはすんでのところで右へ飛びのく。耳のすぐ側で、ひゅん、と風が鳴った。迷いのない、殺意のこもった音だった。わずかにあった希望の糸も、ぷつりと切れる。
横に払われた一撃をかわし、足元の剣を拾い上げる。そして鞘を抜く間もなく、新たな一撃を受け止める。ぎいん、と耳障りな音が響いた。
フリッツの顔が間近に見える。ギュンターはふと懐かしい思いにとらわれた。こうして剣を交えるのは、本当に久しぶりだ。
以前は木剣を使い、頻繁に決闘していたものだ。挑むのはいつもギュンターの方だった。互いに意見が食い違ったとき、白黒はっきりさせたいギュンターと違い、グレーのままでも構わないフリッツは、あっさり引き下がってしまうことが多かったからだ。それが気に食わず決闘を申し出ると、彼はいつも苦笑しつつ、必ず応えてくれた。
本当は望んでいたんじゃないかと思う。普段話しているときはクールなくせに、戦っているときのフリッツは妥協なしで全力で、むしろ活き活きしているように見えた。
ギュンターが力で押そうとすれば、フリッツはしなやかな動きでかわす。フリッツが機敏な攻撃を仕掛けてくれば、ギュンターは持ち前の反射神経で防御する。仲間の声援を受けながら、二人は時が経つのも忘れ、互いの剣を打ち鳴らした。
フリッツの本心が剣を通して伝わってくる。怒りや苛立ちの波を受け止め、こちらも負けじとぶつけ返す。その瞬間が最高に爽快で、心地よかった。
勝敗がつくと、勝った方が相手に手を差し伸べる。目の前にいるのは、健闘を称え合うべきライバルであり、唯一無二の親友だ。それを当然だと思っていた日々が、確かにあった。
そして現在、これがきっと最後の決闘だ。
切っ先がギュンターの頬を掠め、熱を帯びる。勝敗の先に待っているのは、初めて見るだろう結末だ。
不思議と恐怖は感じなかった。このままずっと続いてもいいと思った。何度も受けてきた太刀筋や癖は、今も昔も変わらない。立場が変わっても、そこにいるのは確かにフリッツなんだと感じられる。言葉にされることのなかった思いはすぐそこにある。次に来る一撃が、見えた。
相手の突きをかいくぐり、ギュンターは一気に間合いを詰めた。持ち手の向きを変え、フリッツの剣を弾き飛ばす。そして彼の首筋にぴたりと切っ先を当てた。
時が止まったかのように、どちらも動かなかった。互いの荒い息遣いだけが聞こえる。
ふうっとフリッツがため息をつく。降参の合図に彼が両手を挙げると、ギュンターは剣を収めた。緊張が解け、時が緩やかに流れ始める。どちらからともなく、二人はその場に腰を下ろした。ぼんやりと空を眺めるフリッツの横顔は、穏やかな雰囲気を取り戻していた。
「九十七回目の負けか」
ぽつりと出された呟きに、ギュンターは思わず吹き出した。
「数えてたのかよ」
「当然。七十五勝、九十七敗、百五分。悔しかったからね。忘れるわけない」
フリッツがギュンター以上に勝敗を気にしていたことが、何だかおかしくもあり、胸に沁みるほど嬉しかった。
「楽しかったよな、あの頃は」
返事はなかったが、ギュンターはそれで充分だった。あの頃二人で駆け抜けてきた日々が、決して消えることはない。かけがえのない真実は、間違いなくあった。だからこそ今日まで避けてきた問いが、自然と出せた。
「いつから俺のこと、憎んでたんだ?」
フリッツはわずかにこちらを向いたが、再び遠くへ目をやった。
「――正確に言えば、出会う前からかな」
「マジかよ。恐っ」
「立派な親を持って、さぞ鼻高々なんだろうなって思いながら見てたよ。誰が相手でも物怖じしないし、何の悩みもなさそうだしね。話す前からギドが嫌いだった。だから近づいた。仲良くなろうなんて、微塵も思ってなかった」
「で、会ってからの印象は?」
「ほとんど変わらないよ。しいて言えば、もっと向こう見ずで単純だった」
「ひでーな」
二人は短く笑った。当時の記憶が、懐かしく思い出される。最初に話しかけてきたのはフリッツの方からだった。
町の要職者達が集まるパーティーに、父が連れて行ってくれたときのことだ。腹も満たされ、すっかり退屈したギュンターは、一人で外に出ていた。他にも同年代の子ども達は来ていたのだが、坊ちゃん気質の彼らとは全く反りが合わなかったのだ。
「パーティーは苦手?」
振り返ると、見知らぬ少年がいた。端正な顔立ちに、完璧な微笑を浮かべて。
「おまえ誰?」
「君、ギュンターでしょ?ヘルマン審問官の息子だね」
「知ってんのかよ」
「いや。でもすぐわかったよ。他とは何か違うから」
フリッツと名乗る彼は、町役場の役職者である父に連れられ、今日ギュンターと同じくパーティーの出席していた。ただ早い段階で抜け出してきたため、顔を合わせる機会もなかったのだという。
「喧嘩、強いんだってね」
ふっかけられれば、ギュンターとしては俄然やる気になる。
「おう。おまえとなんか、五秒で決着つくぜ」
「じゃあ試してみる?」
「望むところだ!」
そうして二人は薪の山から手ごろなのを二本くすねてくると、思う存分やりあったのだった。その後揃って親からこっぴどく叱られる羽目になったのだが、新しい友人との関係が崩れることはなかった。十年後、真剣を交えて戦うなどとは知る由もなく。
「――なあ。俺達もう戻れねえのかな?」
二人で笑い合えた日々に。感情を共有し合えた瞬間に。今の彼になら、そんな無謀に思える問いが自然と出せる。
フリッツは何か言いかけたが口を閉じ、小さく首を振った。
「――昨日家に帰ったら、知らない女がいた」
唐突な話題についていけず、ギュンターは思わず聞き返してしまった。それに答えるフリッツの口調は、まるで他人事のように淡々としたものだった。
「結婚したのかもしれないし、ただの愛人かもしれないけど。父さんが何か言う前に出てきたから、結局わからずじまいだった」
「おまえ、それ――話聞かなくていいのかよ」
フリッツはこちらを見ることなく、ふっと小さく鼻で笑った。
「今更息子面したって喜ばないよ。もうあそこは他人の家だから」
「そういう問題じゃなく――」
「そういう問題なんだよ」
強い口調で遮られると、ギュンターはそれ以上何も言えなかった。フリッツは諭すように続ける。
「もう無理だよ、元に戻るのは」そして哀しげに微笑んだ。「俺が欲しいのは権力だけ。後は全部捨てていく。ギド、君には絶対わからない」
「――そっか」
ギュンターは短くそう言うと、先に素早く立ち上がった。まだ座ったままのフリッツへ、手を差し伸べる。決闘の勝者が敗者に対して行う、二人のルールだ。
「けど、俺達が親友だったときもあった。そうだろ?」
フリッツの戸惑う顔を見るのは、なかなか珍しかった。最初の決闘後と、ほとんど同じ光景だ。あのときギュンターがかけた言葉は、「おまえ強いなあ。俺達が組んだら最強だぜ」だった。そして、フリッツの返答は。
「――そうだね」
十年前も今も、変わらなかった。そしてギュンターの手を掴み、立ち上がる。
明るみ始めた空が、互いの顔を映し出す。フリッツは太陽が昇り始めたのを見て取ると、表情を引き締めて言った。
「もう行ったほうがいい。司祭は今日のうちにも、彼女を連れて行くつもりだから」
「わかった」とギュンターは頷く。「リッツはこれからどうすんだ?」
フリッツはその問いに答えず、感情の殺した目を向けた。
「話すのはこれが最後だ。次に会ったときはどっちかが死ぬときだってこと、忘れるな。――二度と会わないことを祈ってるよ」
言いたいことも聞きたいことも、まだ山ほどあった。ギュンターはその全てを飲み込んで、親友から背を向けた。後ろを振り返ることなく走り出す。
家々の通りには、すでにぽつぽつと人の姿が見える。水汲みの女達や、仕事に出向く男達。それを手伝う子ども達。彼らにとっては普段と変わらない一日が、ギュンターにとっては大きく運命を揺るがす一日が、始まろうとしていた。
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