第21話 迷い
酒場『オンリーヘヴン亭』のドアを開けると、ジョッキとテーブルが奏でる音や、盛大な笑い声が一気に押し寄せてくる。いつも通りの光景だ。ここに集う彼らにとって、仕事終わりの一杯はまさに唯一の楽園だった。
そんな喧騒にも負けず、ヴォルフが声を張り上げる。
「あ、ギドが来た!」
これもいつもの席、奥の方からだ。現在仕事中のコニー以外全員が顔を揃え、ギュンターが来るのを待っていた。
「悪いな、遅れて」
席に着くとコニーがジョッキを運んできて、残念そうに言う。
「アンは今日来ないんだ?」
「朝早いからやめとくってさ」
「そっか。サブリナさんとこのパン屋で働いてるんだっけ?偉いなあ、一生懸命で」
そう言って口元を綻ばせているのはヴォルフだ。アンが聞いたら「皆と同じく働いてるだけ」などと嫌そうな顔で言いそうだが、それは胸のうちにしまっておくことにした。仕事はきっと、ただの口実だ。人が集って賑わう場が好きではないのだろう。本人が口にしたわけではないが、見ていればなんとなくわかる。
「でさ、今日は俺からも二つ報告があってさ。先に話させてもらう」
四人で先に乾杯し、コニーの仕事が一段楽するのを待つ間、ギュンターが話を切り出した。
「俺、異端審問官になるのはやめた。ここでずっと、町役人として生きてく」
やや沈黙した後、バルテルが口を開いた。
「ま、いいんじゃねえの?自分で決めたことなんだろ」
ギュンターが頷くと、他の三人はこの決断を喜んでくれた。
「じゃあ堂々と肉を食べて、気兼ねなく結婚できるじゃん」
ヴォルフがそう言い添えてくれる。
「実は、それと関係なくもないんだけど――」もうひとつの話題は非常に話しづらい。アンがいなくてよかったと、このときばかりは思う。
「アンと、付き合うことにした。仕事が落ち着いたら、結婚しようと思ってる」
覚悟を決めて話したつもりだったのだが、周囲の反応は随分素っ気無いものだった。
「何だ、今さらか」
「とっくに付き合ってると思ったけど」
「だよなー」
アヒムだけがにこにこしながら、「よかったね、ギド」と祝福してくれる。
「よくないよ。これで俺は七度目の失恋だ」
いつの間にか席についていたコニーが、深々とため息をつく。それからヴォルフと肩を組み、互いに慰め合っている。
とにもかくにも全員が顔を揃えたので、デルトルトが待ってましたとばかりに立ち上がった。こほんとわざとらしく咳払いをし、注目をひきつける。
「それじゃ、ここで本題に入ろう。今夜は僕から重大発表があります。さて、何だと思う?」
「そういうのはいいから、さっさと言えって」
バルテルが面倒くさそうに返すと、他の者も次々に賛同の意を示す。その反応にデルトルトが大袈裟なほど肩を落とす。今日の集まりを提案したのは彼なのだ。主役気分で張り切ってきたのだろう。
「嬉しそうだから、きっといい知らせなんだね?」
気を遣ったアヒムが取り成すように言うと、彼はすぐに気を取り直し、得意げに頷いた。
「そうなんだよ。とっておきのことだ。これを聞いたら皆――」
「あーわかった。皆すっげー気になってるから、早く言え」
ギュンターが笑いながら遮る。デルトルトは肩を竦め、ようやく切り出した。
「実はさ、近々パリから司祭様がおいでになるっていうんだ。しかもついでに寄るとかじゃないぞ、この町が目的地なんだ!理由はわかんないみたいだけど、もしかしてギドの親父さん、パリの任務に昇格するんじゃないか?何かそれらしいこと聞いてないか?」
尋ねられ、今度はギュンターが肩を竦めた。
「いや、俺は何も聞いてない。仕事に関してはこっちから聞かない限り、ほとんど話さないからな」
異端審問官になる夢を振り切ってからは、父と一切仕事の話をしていない。ギュンターが町役人になると決めたときも、父は特に責めるわけでもなく、かといって後押ししてくれたわけでもなかった。一貫して無関心な態度だった。ギュンターの心は少なからず傷ついていたが、これも父の面目を潰した報いなのだと思ってきた。
しかし任地が変わるともなれば、話は彼だけのことだけに止まらない。さすがにギュンターの耳にも入るだろう。
そもそも父がクラーヴを離れること自体、考えにくいように思えた。修道院にいた頃、ギュンターは何度か聞かれたことがあるからだ。何故彼のように優秀な人が、小さな町の任務についているのかと。以前パリ任務の話を断ったこともあるという。理由は知る由もないが、あの性格を考えると、突然心変わりをするとも考えづらい。
その旨を話すと、コニーが「じゃあ何の用事で来るんだろう?」と首を傾げた。「案外ギドの知ってる人だったりして」
「ばか。パリにどんだけ司祭がいると思ってんだよ」
即座に否定したものの、ギュンターの胸の内には妙な不安が渦巻いていた。何か不吉なことが起こる前兆のような、かといって根拠もなく、どうすべきかもわからない。
突風が、がたがたと酒場の戸を叩いていく。雨も降り出した。
「今夜は荒れそうだな」
誰かが不安げに呟いた。
『オンリーヘヴン亭』を出てギュンターが家に帰り着いたのは、真夜中を少し過ぎた頃だった。すでに居間は暗闇に包まれていたが、父の書斎だけ小さな明かりが灯っているのは、外から確認済みだった。
父がこの時間まで起きているのは、特に珍しいことではない。仕事のためなら、寝る時間などいくらでも削ってしまえる人なのだ。いつもは邪魔にならないよう声はかけないが、二人でゆっくり話したかったギュンターにとって、今は絶好のチャンスだった。
ドアをノックすると、短い返答が来る。部屋に入るも父は顔すら上げず、机の向こう側から「何の用だ」と詰問口調で尋ねる。
「近く、こっちに司祭が来るんだって?」
「それがどうした?」
「珍しいことだから、何しに来るのかと思ってさ」
「職務上のことだ。おまえには関係ない」
冷たい声が胸を刺す。一時は、同じ職に就けばこの壁が取り除かれるのだと、希望を抱いた。その機会は永遠に失われてしまったのだ。
しかし、ここで感傷に浸っている場合ではない。ギュンターはめげずに食い下がる。
「誰が来るのかぐらいは教えてくれよ。修道院で会ったことのある人なら、一応挨拶とかあるだろ」
すると父は手にしていたペンを置き、初めて顔を上げた。射抜くような目が、こちらを見据えてくる。
「合わす顔などあるのか?修道院を出る発端となった相手だぞ」
一気に血の気が引いた。ゲオルグが、この町に来る。話を聞いたときから、まさかとは思っていた。アンと再会させてはいけない。絶対に。
渦巻く不安を押し殺し、ギュンターは強気な笑みをつくって見せた。
「悪いことをしたとは思ってないからな。逃げるつもりも謝るつもりもないよ。正面から堂々と向き合ってやるさ」
「余計なことはしなくていい」
父は即座にそう言ってから、突如ぐいと身を乗り出した。
「さっきから何を恐れてる?」
「は?言ってる意味がわかんねえけど。俺はゲオルグ司祭だろうと――」
「隠しても無駄だ。言え」
断定的な口調に、ギュンターの背筋を寒気が走った。擦れた声が、勝手に口をついて出る。
「何で……?」
「おまえのしたことは立派な罪だ。司祭に歯向かった以上にな。認めたほうが身のためだぞ。あの女に何を吹き込まれた?」
「アンは関係ない!」
「関係なければ、わざわざ捕まえには来ないだろう」
目の前が真っ暗になる思いだった。父は知っている。きっと修道院での出来事を。
「親父、聞いてくれ。あれは理由があっての事なんだ。全部話すから、アンを――」
「全ては司祭が決める。おまえはこれ以上罪を重ねるな」
「罪って……まだ決まったわけじゃないだろ」
「あの女に魔女の疑いがかかった時点で、決まったも同じだ。覚えておけ。世の中には、生まれながらに罪を背負った人間がいる」
父の声はいつも以上に冷酷だった。ギュンターは思わず、二人の間にある机を力任せに叩いた。ペンや書類が大きく跳ねる。
「ふざけんな!何も知らないくせに、偉そうなこと言ってんじゃねえよ!」
握った拳がびりびりと痛む。父は何事もなかったように、持っていたインク瓶をことりと机上に置いた。
「話は終わりだ。出て行け」
何か言い返そうとしたが、言葉が出てこなかった。ギュンターは怒りと悔しさを噛みしめ、部屋を後にした。そしてすぐに家を飛び出した。父の言葉を振り切るために走り出す。先のことなど何も考えていない。ただアンに会いたかった。アンのためなら、どんな理不尽な罪でも被ってやろうと思った。
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