20

 暖かな日差しが、草原に満遍なく光を降り注いでいる。春の到来を喜ぶクロッカスの花が、踊るように白や黄の花びらを左右に揺らす。それをできるだけ潰さないようにしながら、ヨハネスは旅行鞄を足元に置いた。

 眼下にはのどかな町の風景が広がっている。風車がゆっくりと回り、教会の鐘の音が心地よく響き渡る。旅の疲れを癒すには最適な環境だった。

 柔らかな草原に腰を下ろし、胸いっぱいに新緑の香りを吸い込む。長く都会にいたこともあり、自然を感じる喜びもひとしおだ。

「ここがクラーヴか……」

 感慨深く呟く。現場の医療を学ぶ旅に出て、三箇所目の滞在目的地だ。フランスから始まり、久しぶりに母国へ戻ってきたのだ。実家からも四百ヤード、大体徒歩一週間ほどの距離にあるので、母は何よりもそのことを喜んでくれた。

 しかしクラーヴへの滞在を選んだのには、別に大きな理由がある。人口約七百と、他の町と比べても標準的な規模でありながら、ここには医師が一人もいなかった。未だ呪術が薬草と並び、主な治療法となっている。医術という概念すら、まだ受け入れられていない地なのだ。山や丘に囲まれた土地柄、閉塞的になってしまっているのだろうか。この辺りでは、盛んに異端審問が行われているという噂もある。

 ここに来るまでの不安は数知れなかったが、それでも今日ここに辿り着いた。鞄一つと、この先に待つ大きな決意を胸に。

「よし、行こう」

 愛用の鞄を手に立ち上がる。この坂を下りていけば、町はもうすぐそこだ。

 大きく最初の一歩を踏み出した、そのときだった。足先ギリギリのところに、そいつはいた。ヨハネスの天敵、毛虫だ。

 つんのめりそうになるのを全力で堪え、派手に尻餅をつく。拍子に鞄が投げ出され、運悪く留め具が外れてしまう。当然中身は散乱し、大切な医療器具と薬瓶のいくつかが坂を転がり落ちていく。

「ああ、だめだ待って!」

 ヨハネスは慌てて後を追う。しかし立ち上がる間に、それらとの距離は随分開いてしまった。

 ――諦めるものか。

 坂の力を使い、ヨハネスは全速力以上で一気に駆け下りて行った。




 その頃ギュンターは母の頼みで買出しをして、ちょうど家に戻る途中だった。足元に転がってきた物に首を傾げつつ、彼はそれを拾い上げた。透明な小瓶の中には白濁色の液体が入っていて、開けるとなにやらつんとした匂いがする。

「何だこれ」

「すいませーーーん!」

 突如振ってきた声に、ギュンターはぎょっとして辺りを見回した。すると坂の方から、猛烈な勢いで駆けてくる人物が目についた。見たことのない顔だ。何が何だか全く理解できないが、どうやら彼にとっては非常事態が起こっているようだ。

「どうしたー!?」

 呼びかけると、彼はまだ走り続けながら、ギュンターの手にある瓶を指差した。

「それ、全部拾ってくださあぁぁい!後他のも!川に、落ちる前にいぃぃ」

「いや、たぶん粗方ここにあるけど」

 ギュンターは足元に集まった物をちらりと見やった。一応彼の要望どおり、最後にゆっくり転がってきた用途不明の器具も拾っておく。ここはすでに平地なので、心配は不要な気もするのだが。

「――おまえの方が危ないんじゃねえか?」と言った直後、彼は何かに蹴躓いて、川へと落ちた。切ない結末を嘲笑うように、派手な水しぶきが上がる。




「おい、意識あるか?」

 暗闇の中、くぐもった声が聞こえる。ほんの少し前、耳にした声だ。

 ヨハネスはゆっくりと目を開け、突如激しく咳き込んだ。耳にも鼻にも水が入ったのだろう、痛くて涙が滲む。

「おまえさ、鈍くさいにも程があるぞ」

 男は笑いながら、背中をさすってくれている。

「迷惑かけて、申し訳ないです……」

 擦れた声でようやくそれだけ言うと、ヨハネスは顔を上げた。

 助けてくれたのは、やはり先程の青年だ。同年代のようにも見えるが、もう少し若いかもしれない。陽に焼けた肌に、明るい茶色の髪と同色の人懐こそうな目。今は屈んでいるが、背丈はヨハネスの頭ひとつ分以上あるだろう。そして全体から、少年のような活き活きとした躍動感が感じられる。色白小柄な側からすれば、全てが羨ましい限りだ。

「おーい、まだぼーっとしてんのか?どこか打ったんじゃねえかな」

 そう言われ、ヨハネスははっとして頭を振った。身体のあちこちを触ってみたが、特に以上はなさそうだ。その旨を伝えると、「そっか。運が良かったな」と青年は屈託なく笑った。これには苦笑するしかない。医師が運で命拾いするとは。なんとも出鼻を挫かれるスタートになってしまった。

 そう思ったところで、ヨハネスは「あ」と声を上げた。青年はすぐに合点がいったようだ。「ほら」と瓶や器具を差し出す。

「これで全部か?」

「ありがとうございます。後はきっと、まだ丘の上に――」

 フラフラと立ち上がろうとするヨハネスを制して、「取ってきてやるよ。ここで待ってろ」と青年が気さくに申し出た。

「あの、でもこれ以上迷惑をかけるわけには……」

「気にすんな。別に急ぐ用もないからさ」

 そう言うと、彼は一旦丘に向かいかけたが、ふと踵を返して近くにある家の戸を叩いた。そしてすぐにこちらへ駆けてくると、手に抱えたものを投げて寄越した。タオルに包まれていたのは、着替え一式だった。

「借りてきた。待ってる間着替えとけよ」

 そして再び、慣れた足取りで丘を登っていった。戻ってくるのもあっという間で、ヨハネスが着替え終わって濡れた服を絞っている頃には、鞄を手に戻ってきた。中を改めると、無事残りの全てが収まっている。ヨハネスは再度丁寧に礼を述べた。

「っていうかさ」青年が目を細めて、こちらを見据える。「おまえ何者?」

 そういえばまだ自己紹介をしていなかったと、ヨハネスは今さらながらに気づいた。青年の側からすれば、見慣れないものばかり持ち運んできた余所者を、不審に思うのも無理はない。

「名乗り遅れました。僕はヨハネス・ヴァイヤー。医師を目指して、学びの旅をしています」

「ふーん、医師ねえ。よく知らないけど、意外とすごいんだな、おまえ」

「いやいや、まだ資格もやっと取れたばかりで、僕なんか全然です。だから一度旅に出て、この目で医療の実態を見ようと思いまして。それでここに来て、ちょうど一息ついたところだったので、町を眺めたくなって、丘に登ってみたんです。それで――」

「転げ落ちたわけだな」

 青年に笑われ、ヨハネスも照れ隠しに笑って頭をかいた。

「にしても、初めて見るもんばかりだな」

 笑いが収まると、青年はまだ開いたままの鞄から器具のひとつを手に取り、物珍しそうに眺めた。小さな筒状で、片側だけ末広がりに作られているため、一方から覗き込んだりしている。

「それは聴診器です。こうやって患者さんの体内の音を聞いて、悪いところがないか調べるためのものです」

 ヨハネスが手振りでやり真似をしてみせると、青年は「へえ」と感心したように呟いた。その素直な反応が嬉しくて、「それで、こっちにあるのが――」とさらに説明しようとするも、「ああ、もういいよ。どうせ覚えらんねえし」とあっさり断られてしまった。そして聴診器を置くと、手を差し出した。

「俺はギュンター・ヘルマン。ギドでいいよ。ここにどんだけいるつもりか知らないけど、ま、頑張れよ。よろしくな」

「はい、頑張ります」

「あ、それと、いい加減敬語はやめろよな。たぶん同年代だろ、俺ら」

 互いの歳を確認すると、ヨハネスが二つ上だということがわかり、「俺のが年下かよ」とギュンターは朗らかに笑った。どうやら言葉遣いを改める気はないようだ。彼のようなタイプは初めてだったが、嫌な気は全くしなかった。むしろこの気さくな距離感には好感が持てた。

 頃合を見計らってか、ギュンターがひょいと立ち上がる。

「とりあえず、今日はゆっくり休めよ。泊まるならヘヴン亭だろ?あそこに見えるのがそうだから、すぐわかるだろ」

「そう、だけど、でもどうして僕が泊まる所を?」

「この町には宿があそこしかないんだよ。都会とは違うってことだ。

 じゃ、またな」

「はい、じゃなくて、うん、ありがとう」

 ギュンターはヒラヒラと手を振り、その場を去っていく。

 するとさらに先の方で、一人の女性が姿を現した。遠くてはっきりとは見えないが、立ち姿の綺麗な人だった。恋人かな、とギュンターの背を見ながらヨハネスは思う。

 しかし彼女の方は、どうやら少し不機嫌なようだ。遠くにいるので会話までは聞こえないが、ギュンターが彼女に向けて詫びるような仕草をしている。もしかしたらヨハネスのせいで時間が遅れて、責められているのかもしれない。

 行って事情を話すべきかどうか迷ったが、どこか微笑ましい光景だったので、大丈夫かなと思い直す。二人が並んで歩き出すのを見送ってから、ヨハネスも踵を返した。


 翌日。町を歩き回っていたヨハネスは、再びギュンターに出会った。向こうもすぐに気がつき、「よお、元気か」と先に声をかけてくる。

「うん、おかげさまで」応えながら、ヨハネスは目の前の建物を見上げた。「ここって――」

「町役場だよ。一応見習いとして働いてんだ」

「町役人だったんだ、立派だね」

「うーん、ま、そこはノーコメントで」

 ギュンターは笑ってごまかしつつ、さらりとその話題を流した。

 互いに進路が同じだったので、二人は並んで歩き出す。

「どうだ、歩き回ってみた感想は?」

「うん――いい所だと思うよ。でもほら、僕はまだ来たばかりだから……」

 今度はヨハネスが言葉を濁す番だった。

「何だよ、もう弱気になったか?」

 何となく察しがついているのだろう。ギュンターの軽い口ぶりには、さりげない気遣いが感じられた。その好意に甘えて、ヨハネスは実情を吐露することにした。

「何人かと話してみて、思ったんだ。みんなここにいる呪術師さんを本当に頼りにしてて、今の生活に不自由することはないんだなって。だから医療なんかこの町には必要ないってきっぱり言われちゃって。やっぱり今までになかったものは、想像もできないから、あえて取り入れようとは思わないよね」

「ま、そんなとこだろうな。しょうがないさ。医療なんて、俺たちにとっちゃ未知の領域だからな。実際目には見えなくても、呪術のほうがよっぽど身近で信頼できるんだよ」

「そっか、そうだよね……。本当はどっちも大切で、全くの別ものなんだけどな。わかってもらうには、まだまだ時間が必要だってことだね」

「言いながらため息つくな。説得力ねえぞ」

 ギュンターに背中を叩かれ、ヨハネスは思わずよろけそうになる。そんな自分が情けなかったが、今はこうやって笑い飛ばしてくれる存在が、心からありがたいと思った。そしてもうひとつ、彼は嬉しい提案を申し出てくれた。

「よし、じゃあ明日、俺が町を案内してやるよ。少しは力になれるかもしれないしな。」

「本当?それはありがたいな。ぜひお願いするよ」

「おう、任せとけ。結構顔広いんだぜ、俺。まずは呪術師のアリ先生に挨拶だな」

「そうだよね、僕も話を聞いてみたいと思ってたんだ」

 具体的に話が進んでいったところで、ヨハネスはふと足を止めた。目に入ったのは、背の高い石造りの尖塔と、大きな十字架だった。

 先程見かけた教会に比べ、全体的に黒っぽく、荘厳な雰囲気がある。大きな窓枠には貴重なステンドグラスが嵌め込まれ、アーチ型の入り口には神々の像がずらりと頭上に並び、地上を見下ろしている。門の前には厳格な文字で、『異端審問所』と掲げられていた。

 ギュンターが得意げに言う。

「立派だろ。大きな街でも見劣りしないぜ」

「――そうだね」ヨハネスはつと建物から目を離し、ギュンターに向き直った。「ギドは、この町で生まれ育ったの?」

「そうだけど?」と答えが返ってくる。ヨハネスはさらに問いを重ねた。

「生まれたときから異端審問が身近にあるっていうのは、どういう気持ちなんだろう」

「いや、どうって言われても……ありがたいことだろ。魔女を排除してくれてんだからさ。別に珍しくもないだろ」

「それは地域によって様々だよ。僕の故郷では、異端審問が行われることは滅多になかった。子どもの頃は言葉の意味すら知らなかったんだ」

「へえ。そんなとこもあるんだな」

 ギュンターは意外そうに呟いた。ヨハネスは頷いて先を続ける。

「一概には言えないけど、都市と地方を比べても、地方の方が多く処刑を行っていたりするんだ。都市では無実になる例も三割程度あるのに対して、地方では九割が死刑になる」

「――何が言いたいんだよ。ここは魔女が多い町だってか」

 ギュンターの声に険が混じる。ヨハネスは慌てて「そうじゃないよ」と否定した。

「魔女は元々いたんじゃなくて、後から作られてしまったんじゃないかなって思うんだ。日々の生活の不満とか、将来への不安とか、恐怖とか、そういう人々の負の感情から。そこに悪魔がつけこんでくるんじゃないかって」

「つまり魔女が、本当は魔女じゃないってことか?」

「あくまで僕の推測なんだけどね。だから実際に確かめるために、各地を旅してるんだ。あ、でも第一の理由は、医師として皆の役に立ちたいってことなんだけどね」

 とってつけたような言い方になってしまったが、内容は全てヨハネスの本心だった。

 ここまで力説したのは、アグリッパに対して以来だ。唐突にこんなことを言えば、たちまち警戒されてしまうのは容易に想像できた。噂が広まってしまえば、師のように、危険な思想の持ち主だと追放される恐れもある。だからこの問題は慎重に、時間をかけて行うべきなのだ。

 それが異端審問所を見た途端、つい熱くなってしまった。ヨハネスは内心頭を抱えた。

 なんて軽薄なんだろう。ここに来て初めて、親しくなれた人なのに。

「言ったからには、ちゃんと証明してみせろよ」

 はっと我に帰ると、ギュンターが挑むような目つきをこちらに向けていた。

「……え?」

「え、じゃねえよ。ちゃんと納得できる答えを出せって言ってんだ」そして彼は、にっと不敵な笑みを浮かべた。「そうでないと、俺の親父は耳すら傾けないぜ」

 ヨハネスは開いた口が塞がらなかった。ギュンターと異端審問所を交互に見やり、恐る恐る尋ねる。

「もしかして、ギドのお父さんって……」

「そ。異端審問官」

 一瞬頭が真っ白になった。つい先程の自分の発言を、ゆっくり思い返してみる。途端にヨハネスは青くなった。

「あ、ごめん本当に。知らなくて。いや、君のお父さんを否定したわけじゃないんだ!僕が言いたいのはその――さっきのことは全部本気なんだけど、でも、いや、だから、違うな、何て言えばいいか……」

「変な奴だな、おまえ」

 ぷっとギュンターが吹き出す。そして言葉をなくしたヨハネスに背を向けた。

「じゃ、俺こっちだから」

 それだけ言うと、さっさと歩き出す。

「あ、あの!」

 ようやく声を上げると、ギュンターはくるりと振り返った。しかしやはり、何を言えばいいのかわからない。しどもどしていると、向こうが先に声をかけてきた。

「明日、広場な」

「……え?」

「だから、え、じゃねえって。やるって言ったろ。案内」

「あ――うん。お願いします」

 おう、と短く返答すると、ギュンターは再び歩き出した。その背に「いいの?」と問おうとして、思い直す。

「ありがとう!」

 ギュンターは前回同様、ひらりと手を上げた。


 その日の夜。ヨハネスが宿の部屋で休んでいると、階下が俄かに騒がしくなった。誰かが声荒く話しているようだったが、それも短い間で、今度は足音も荒く二階へ駆け上がってきた。ヨハネスも落ち着かなくなり、ベッドから起き上がると、戸口に立ち、外の気配に耳を澄ませた。そのとき。

 バタン、と勢いよくドアが開き、目の前に火花が散った。一瞬、何が起こったのかわからなかった。見上げると、目の前にギュンターが息を弾ませて立っていた。そこでヨハネスはようやく、自分が彼の開いたドアにぶち当たり、尻餅をついたことを理解した。

 聞き耳を立てたからこうなったのは仕方がないとして、どうして彼がここに?その疑問を口にする前に、ギュンターは強い力でヨハネスの腕を掴んで立ち上がらせた。

「おい、あんた医者って言ってたよな?」

 剣幕に圧され、ヨハネスは曖昧に頷いた。

「じゃあ治してくれよ、早く!」

「あ、あの、でも……」

 僕は見習いだから、まだ医師の資格も取ったばかりで、もし難病だったらどうしようもないかもしれなくて――。

 腕を取られ、半ば強引に連れて行かれる道中、ヨハネスはそんなようなことを、言い訳がましく繰り返していた。するとギュンターは突然立ち止まり、掴んでいた手を乱暴に放した。

「やるのかやらないのか、はっきりしろよ。医者が診る前から怖気づいてどうすんだよ!」

 ヨハネスははっと口を噤み、ようやく冷静さを取り戻した。平手打ちを食らった気分だった。彼の言うとおりだ、と思う。医者を目指した理由は、誰かの役に立ちたいからだった。目の前に自分を必要としてくれる人がいる今、何もしないでどうする。

 目を瞑り、両手で自分の頬をパンと叩く。目を開くと、ヨハネスはギュンターに「ごめん」と先程の態度を謝った。

「診るよ、僕が診る。だから道案内、頼んでもいいかな?」

「当たり前だ。そのために来たんだからな」

 ギュンターはにっと笑って頷いた。


 着いた先の家では、中年の男性がベッドに横たわっていた。その周りを囲んでいた家族が、縋るような目をこちらに向けてきた。少し離れたところでは、呪術師が面白くなさそうな顔で立っている。どうやら彼では効果がなかったため、ヨハネスが呼ばれる運びとなったようだ。家族に対して一礼すると、ヨハネスはベッドの側へ歩み寄った。

 先程ギュンターから聞いた話では、その男性は商人で遠方へ行くことが多く、つい先日も長旅から帰ってきたばかりなのだという。今朝になってから突然悪寒を訴え、その後高熱で寝込んでしまったらしい。

 男性の外観と照らし合わせると、原因はほぼ確定していた。

「これは――チアノーゼ症状、つまりペストと呼ばれるものですね」

 皮膚のあちこちにある青黒い痣は、数日後男性を死に至らしめることになるだろう。ここまで病状が進行してしまっては、もう治療の術はない。

 どう告げればいいのか思い悩んでいると、小さな手がヨハネスの服の裾を引っ張った。見下ろすと、まだ小さな女の子が大きな目でこちらを見上げてくる。

「ねえ、パパは病気治る?」

 ヨハネスは言葉に詰まり、震えそうな唇を引き結ぶことしかできなかった。その様子に、ギュンターは何かを感じ取ったようだった。側にいた子ども達の母親に、短く囁きかける。母親は青ざめた顔ながらも頷いた。

「さあ、パパはこれからゆっくり休まないといけないから、あなた達も部屋に戻りましょう」

 母親に背中を押され、子ども達は階段へと向かったのだが、先程の女の子はまだその場に残りたがって駄々をこねた。何とか母親が説得し、承諾したのだが、女の子はさらにこう言った。

「パパにおやすみのキスをしてもいい?」

 母親は表情を固くして、ギュンターとヨハネスへちらりと視線を寄越す。ヨハネスが反応するより先に、ギュンターが素早く首を横に振った。女の子は悲しそうな顔で、とぼとぼと二階へ上がっていった。

 母親が子ども達を部屋へ連れて行く間、その場には横たわる男性とヨハネス、ギュンター、呪術師、そしてもう一人、ヨハネス達とほぼ同世代の青年が残された。ヨハネスはてっきり彼が子ども達のうちの長男かと思っていたので、ここにいることが意外だった。目が合うと、彼は少し慌てた様子で挨拶をしてきた。

 彼は名前をデルトルトと名乗り、ギュンターの友人なのだと付け加えた。そしてベッドで横たわる男性は、彼にとって叔父にあたるらしい。つい先程、叔母から話を聞いて駆けつけたのだという。

「見た瞬間に思ったんです、よくない病気だって。だから父さんと母さんには、家で待ってるように言ったんです。だってほら……」

 そこでデルトルトは、叔父の寝顔を見やってから、続けた。

「ペストって聞いたことあります。不治の病、なんでしょう?家にも小さな弟妹がいるから、移ったら大変だと思って……」

「その判断は正しいです。同じ立場だったら、僕もきっとそうすると思う」

 ヨハネスがそう言うと、デルトルトはほっとした表情を浮かべた。

「なあ、ペストって何だ?俺らにもわかるように説明してくれよ」

 ギュンターが口を挟み、隣で呪術師も賛同の声を上げる。わからない者同士、いつの間にか結託したようだ。

 ちょうど母親も子ども達を寝かしつけて戻ってきたので、ヨハネスは三人にペストについて簡単に説明した。この病気は感染症であり、別名“黒死病”と呼ばれていること。皮膚が黒ずんでくるのが特徴で、高熱に見舞われ、数日後には死に至る可能性が高いこと。話を聞く母親の頬を絶望が伝い、筋を作った。

「主人はもう、助からないんですね」

 尋ねるというよりは、確かめるような口調だった。ヨハネスは力なく目を伏せた。

「すみません……今の医学では、治す方法がまだ見つかっていません」

「これ以上感染を防ぐ方法はないのか?」

 そう言ったのはギュンターだ。デルトルトや呪術師が“感染”の言葉に反応し、男性から一歩距離を取る。一方母親は胸の前で手を組み、祈るようにこちらを見る。彼女の瞳には、子ども達を守りたいという決意があった。今は妻から母親へと気持ちを切り替えたのだろう。

「――ひとつだけ、効果があるといわれる薬があるんですが……」

「あるけど、何だ?」

「薬、持ってないんですか?」

「すぐに用意できるものではないんでしょうか?」

 皆が口々に尋ねる。ヨハネスは肩を落とした。

 その薬はあくまでも噂の段階であったため、はっきりとした研究成果は報告されていない。当然医師の資格を取る試験でも、それが問題に出るわけはなく、早急に覚える必要はなかったのだ。まさかこんなに早く、実践で使うときが来るとは思わなかった。書き留めてもおかなかったことが悔やまれる。

「“四人の盗賊のビネガー”ってよばれてるものなんですけど……材料が、思い出せなくて……すみません」

「その調合方法なら、知ってる」

 声が上がったのは、予想外のところからだった。皆が一瞬目をしばたたかせ、ついで戸口の方を見やった。そこにはいつの間にか、一人の女性が立っていた。美しい人だ、とヨハネスは思った。輝くような金髪、意志の強そうな瞳、そして真っ直ぐな佇まい。まるで王族のような気高さを纏っているようにすら感じられた。

「アン!何でここに――」

「町の人に聞いたの、ここに入っていくのを見たって」

 ギュンターの驚きとは真逆の冷静さで、彼女は答えた。

「じゃなくて、何でついてきたのかって訊いてんだ」

 ギュンターの声に苛立ちが混じる。場にぴりりとした緊張が走った。ギュンターは気まずそうに顔をゆがめると、「話は外で聞く」とアンの腕を掴んだ。しかしアンは、その場を動こうとしなかった。そして強い口調で言った。

「特別扱いしないで」

「おまえな、状況がわかって――」

「わかってる。だからギドがいるなら、わたしも残る」

 にらみ合う二人の間に、デルトルトが恐る恐る割って入った。

「とりあえず、ここは話を聞いたらどうかな?薬を作れるなら、アンには協力してもらった方がいいわけだし、ね」

 それで多少落ち着きを取り戻したのか、ギュンターは不服そうに頷いた。

 アンはそれから、次々に薬の材料を上げ、家で用意できるものは母親が、その他薬草類は皆で手分けして調達することになった。幸い必要なものは、セージやナツメグなど、手に入りやすいものばかりだったので、そう時間はかからなかった。集めたものをアンが手際よく調合し、無事薬は完成したのだった。

 まずは全員がそれを服用し、残りは男性の仕事仲間や近所の家を中心に配ることになった。その頃には、いつの間にかデルトルトの他にもギュンターの仲間達が駆けつけていて、薬配りに協力してくれた。

 大きな一仕事を終え、解散となったのは、陽もすっかり昇った頃だった。男性はあれから幾度か目を覚まし、苦痛を訴えたが、今は一時の深い眠りに落ちている。残された時間を家族で穏やかに過ごせるよう、ヨハネスは母親に痛み止めの薬を渡していた。それぐらいしかできることがなかったのだが、彼女は大事そうに薬を受け取り、礼を述べた。ヨハネス達は言葉少なに、別れの時が近づく家を後にした。

 帰り際、ヨハネスはアンと呼ばれていた女性を呼び止めた。どうしても訊かずにいられなかったのだ。

「あの薬の調合方法を、どこで知ったんですか?」

 もしかしたら彼女も医学を学んだことがあるのでは、と思ったのだが、答えは違うものだった。

「小さい頃、母が作るのを見ていたから。町を出る人や旅人達に、よく渡してたの」

「あなたのお母さんは医師だったんですか?」

「医師――」呟くと、アンは肩を竦めた。「たぶん違うと思う」

 そのときふと、ヨハネスは彼女に対して既視感をおぼえた。以前どこかで、会ったような気がする。だが、そこですぐに思い直す。そうだ、ギュンターと初めて会った日に、迎えに来ていた人だ。小さな偶然をまるで運命のように大袈裟に考えているのだから、記憶など当てにならないものだ。

「おい、そろそろ帰るぞ」

 ギュンターの呼びかけで、アンはぱっとそちらへ駆けていった。爽やかな残り香も、朝のひんやりした風にさらわれ、すぐに立ち消えてしまう。

 ヨハネスはそれ以上考えることをやめ、大きく伸びをした。

「ご苦労。医師などというものも、いて悪いものではないな」

 びっくりして声の方を見ると、いつの間にか側に呪術師が立っていた。

「あ、ありがとうございます」

 慌てて返すも、それには答えず、呪術師は早足でその場を立ち去っていった。


 あれから数日後。医師という職業が理解されず、ほとんど相手にされなかった現状は、変わりつつあった。最初は近隣の人と会釈をするぐらいだったのが、今では言葉を交わすようになり、市場に出れば声をかけられることも増えた。

「よお、あんた医者なんだって?」

「病気も怪我も両方治せるのかい?」

「実はうちの嫁がさ――」

 ヨハネスはそれらの問いかけに対して丁寧に答え、相談には熱心に耳を傾けた。ひとつひとつの出会いが大切な瞬間だと、かつての師、アグリッパから学んでいたからだ。

 周囲の態度が変わったのには、ギュンターが約束どおり町を案内してくれたり、ヨハネスの話を広めてくれたのも大きく影響していた。なので中には、

「来て早々川に落ちたんだって?災難だったねえ」

「走ってて止まれなくなって、自分から突っ込んでったんだろ?おもしろいね、君」などと、余計なことまで伝わっていたりする。

 苦笑するしかないのだが、仲良くなるきっかけにはなっている。これはこれでいいのだろう。今のヨハネスには、そんな気がしていた。

「ねえ、もしかして、新しく来た“医師さん”って人?」

 驚いて周囲を見回すと、すぐ側で数人の子ども達がヨハネスを見上げていた。

「うん、そうだよ。あ、いや、医師さんって名前じゃないんだけどね」

「悪いとこを何でも治せるって本当?」

 別の子が声を上げる。四人組の中で一番小さな男の子だ。くりくりとした大きな目が、ヨハネスに向けて好奇心いっぱいに見開かれている。

 ヨハネスは腰を屈めて目線を合わせ、少年に微笑みかけた。

「医師は病気や怪我を治すんだよ。だから身体の悪いところがあれば、頼ってほしいんだ」

 少年は小首を傾げると、すぐにふるふると首を振った。

「大丈夫だよ。全部ママが治してくれるもん」

「馬鹿だなあ。ママはおまえがいつも小さなことでピーピー泣くから、慰めてくれるだけだろ」

 口を挟んだのは、背の高いにきび面の少年だった。どことなく、男の子と顔のつくりが似ている。兄弟なのだろうか。

 男の子はふくれっ面で、負けじと言い返す。

「すぐ泣くのは兄ちゃんじゃないか!昨日だってパパに怒られて――」

「あーっ!言ったな!」

 話はあらぬ方向に発展し、あっという間に激しい兄弟喧嘩が始まった。残る二人は喧嘩を止めるどころか、面白がってやんやと囃し立てている。ところ構わず叩き合い、引っ張り合う経験のないヨハネスは、どうしてよいやらわからず、ただおろおろするばかりだ。

「二人ともだめだよ、そんなことしたら」と言ってはみるも、全く聞き入れてもらえない。そのときだった。

「おい、うるせえぞ」

 突然轟いた声で、場が一瞬にして静まり返る。兄弟も互いの髪を掴み合ったまま、ぴたりと動きを止めた。そんな二人の頭上に、大きな影が落ちる。そしてがっしりした腕が二つの襟首をむんずと掴み、兄弟はされるがまま引き剥がされた。

「騒ぐならもっと広いとこへ行けって、何度も言ってるだろ」

「ごめんなさーい……」

 子ども達は気まずそうに反省の弁を述べ、そそくさと散っていった。一人残されたヨハネスは、突然現れた男をぽかんと見上げた。

 ごつい体格と黒く煤けた顔は、人を威圧するのに充分だった。ヨハネスなど額に指を弾かれただけで、飛んでいってしまいそうだ。視線に気づいた彼は、顰め面のまま低い声で問うてくる。

「誰だ、おまえ」

 ヨハネスは慌てて、ぺこりと頭を下げた。

「ヨハネス・ヴァイヤーといいます。医学の勉強をしていまして――」

 すると男は合点した顔で頷いた。

「ああ、ギドの知り合いか」

 共通の話題ができたことに、ヨハネスは少し安心する。

「そう、そうなんです。いろいろと助けてもらっちゃって」

「あいつは馬鹿なほどお人好しだからな」

「気さくで優しい人ですよね」

「ああそうかい」

 男はそう言って顔を顰める。ただ荒っぽい口調とは裏腹に、表情は幾分和らいで見える。きっと長い付き合いの中で培ってきた関係なのだろう。

「あと数日はここに滞在する予定なので、もしよければ――」

「悪いがやめとくよ。余所者は信用できない性質なんでな」

 男はあっさり言いのけ、ヨハネスから背を向けかけた。

 そのとき新たな声が、二人の間に割り込んできた。

「やあブル。あれ、そちらのお兄さんは?」

 こちらに歩いてきたのは、ブルと呼ばれた彼とは間逆の外見をした男だった。色白で、顔も体型もほっそりしている。

「前にギドが話してた奴だよ」

「ああ、お医者さんか」

 細面の男は愛想よく笑いながら、ヨハネスに向き合い、手を差し出した。

「どうも。俺は酒場“オンリーヘヴン亭”のコニー。よろしく。うちに泊まってくれてるのは聞いてたけど、なかなか会う機会がなかったね。ペストの件で、だいぶ活躍したんだって?」

「いやいや僕は全然。アンさんに知恵を貸してもらって、情けない限りです……」

「そんな謙遜しちゃって。面白いね君」

 コニーに促され、ブルと呼ばれた男も素っ気無く自己紹介をする。

「鍛冶屋のバルテルだ」

 すかさずコニーが補足を入れる。

「ブルって呼んでいいよ。どうしてブルっていうかわかる?ほら、この顔よく見て。ブルドッグに似てるでしょ」

 ぷふーと吹き出すコニーにつられそうになるのを、ヨハネスはなんとか寸前で堪えた。人の外見を笑うのは良くないことだ。とは思うのだが、仏頂面になったバルテルは、もうあの犬にしか見えない。

「調子のるなよ」

 言うやいなやバルテルが拳を振り上げたので、ヨハネスは思わず頭上に手をかざした。

「ご、ごめんなさい!笑うつもりじゃ――」

 しかし拳の振り下ろされた先は、コニーの方だった。彼は慣れた素振りで、それをひょいとかわす。まるで事前に打ち合わせていたかのような、絶妙のタイミングだった。

 バルテルは依然ぶすっとしているが、それ以上攻撃する気はないようだ。コニーは悪びれる風もなく、また笑い声を上げた。

「大丈夫だよ、ヨハネス。初対面の相手に殴りかかるほど、ブルは野生的じゃないから」

 ヨハネスがどう返せばいいのか困っているうちに、コニーは「そろそろ行かなくちゃ」と踵を返した。じゃあまたね、とあっという間に走り去っていく。

「――ったく。どいつもこいつもうるせえな」

 バルテルは誰にともなくぼやくと、彼とは反対方向にゆっくり歩き去っていく。「じゃあ」とも「また」とも言われなかったが、背中越しに軽く手を上げてくれる。

 そして辺りは、先程の喧騒が嘘のように、平和を取り戻していた。変化についていけなかったヨハネスが、ぼんやり突っ立っていたときだった。

「あのう、すみません……」

 今にも消え入りそうな、か細い声がした。立っていたのは、一人の若い女性だった。二十代後半くらいだろうか。毛布にくるまれた大きな荷を背負っている。

 彼女の切羽詰った表情を見て取り、ヨハネスはすぐに気持ちを立て直した。診療鞄は常に持ち歩いていたので、とりあえず彼女の家で診させてほしいと頼む。

 家に着いてからも、あえてゆったりとした口調を心がけながら、微笑みかける。

「大丈夫です、できる限りのことをさせていただきます」

 女性は少し躊躇った後、今度はしっかりした声で話し出した。

「娘の具合が悪いんです。二日前からずっと熱が下がらなくて、何をしてもだめなんです。口にするものは片っ端から吐き出してしまうし――」

「わかりました。まずは娘さんを診せていただかないと。今はどこに――あ、もしかして」

「はい、ここに」

 解かれた荷から出てきたのは、五、六歳の幼い少女だった。赤い頬をして、ぐったりと目を閉じている。小さな口は半開きで、荒い呼吸が繰り返される。

 ベッドに寝かせ、一通り症状を診ると、ヨハネスは母親に向き直った。

「脱水症状が進んでいますね。暑い日が続いたので、身体がついていけなかったんでしょう。今解熱剤を調合しますね。熱が下がれば、食べられるようになりますよ」

「あの、感染したりはしませんか?」

「あ、はい。心配はありませんよ」

 すると母親は肩の力を抜き、「よかった」と呟いた。娘の額にかかった髪をのけてやりながら、「本当によかった」と繰り返す。

 ヨハネスは調合した薬を手渡しながら尋ねた。

「流行り病かと恐れていたんですね」

「――ええ。うちは農家なので、今年は作物も不作なうえに、家の者が病で流行っていると知れたら、何かあるのじゃないかと気味悪がられます。売れるものさえ売れなくなってしまいます。さらに病気が広がれば、と考えるだけで恐くなってしまって。とても呪術師さんのところへは連れて行けませんでした」

 ヨハネスは少しひっかるものを感じたが、「そうでしたか」と言うに留めておいた。話し終えた後の母親が、どこかばつの悪そうな顔をしていたからだ。

「安静にしていれば、すぐによくなりますよ。お大事にしてください」そう言ってヨハネスは微笑み、寝ている少女にも「もうちょっとだけがんばろうね」と小さく声をかけて、家を出た。母親の表情が幾分晴れやかになったのは、ヨハネスにとっても救いだった。

 きっと数日後には、病気も不安も拭い去って、母娘で笑い合える時が来る。ヨハネスは心からそう願った。


 クラーヴに滞在してから一週間程が過ぎた。ヨハネスの噂は口伝えで少しずつ広がり、診療を頼まれる回数も増えてきていた。幸いペストが広がる気配はなく、熱を出した少女も今ではすっかり回復し、母娘仲良く手を繋いで挨拶に来てくれた。

「治してくれてありがとう、先生」と言われたとき、たまらなく嬉しかったのは言うまでもない。

 しかしそろそろ旅を再開しなければ、と考えていたある日。思わぬ訪問者が現れた。

「医者。あれから結構な評判だそうじゃないか」

 彼は町のベテラン呪術師だった。今更ながら、彼がアレクサンダーという名前なのだと、このとき初めて知った。訪問というよりは、乗り込んできたと言ったほうが適切なのではないかと思うほど、威圧的な剣幕だった。

「い、いえ。僕なんかまだまだ未熟です」

「ふん、当然だ若造が」

 そうですよね、と神妙に頷きながら、この人は一体何しに来たのだろうとヨハネスは考えた。

 彼とはペストの件以来、顔を合わせていない。最後に一言話しかけてもらってはいたが、結局距離を縮めるまでにはいたらなかった。元々気難しい爺さんだとギュンターから聞いている。何かが気に入らなくて、ついに今日文句をつけに来たのかもしれない。

 おどおどするヨハネスを他所に、アレクサンダーはずかずかと部屋の中に入ってくる。そしてケースに収納してある医療器具を手に取って、しげしげと眺めだす。

 ヨハネスは口を挟むことなく、彼の行為を後ろでそっと見守った。そのうちアレクサンダーはちらりと一瞥をくれた後、今度は近くの椅子にどっかと腰を下ろした。机上の書類を、見るともなくぱらぱら捲る。

「あの……コーヒーでも淹れましょうか?」

 ヨハネスが声をかけると、「いやけっこう」とにべもない答えが返ってくる。

「わしが何をしに来たと思っている?」

 唐突な詰問口調の問いに、ヨハネスはますますしゅんとなる。

「見当もつきません……」

「医術と呪術の違いは何だ?」

「……はい?」

 アレクサンダーは苛立たしげに、同じ問いを繰り返す。考える間もなかったので、ヨハネスは仕方なく素直な思いを述べた

「医術は人が編み出した技術です。薬品を使い、施術をして身体の病を取り除きます。まあ簡単に言えば、なんですけど。呪術については素人なので、恥ずかしながら詳しいことはわかりません。ただ目には見えない特別に授けられた力で、心身の病を祓うんですよね?人にとって、両方とも必要不可欠なものだと思います。きっとお互いにできないことを補い合えるんじゃないかと――」

「それなら話は早い」

 そこで唐突に、ヨハネスの答弁は打ち切られた。首を傾げるこちらを他所に、アレクサンダーはやはり怒り口調のまま話し出す。

「うちに来た者で、呪術では解決できないのが数人いる。試しに医術とやらで診てもらいたい」

「あ、はい!もちろん喜んで――」

「と、言いたいところだが」

 ヨハネスはつんのめりそうになりながら、何とか踏みとどまった。一体彼の本題はどこにあるのだろう。

「訳のわからないものに、大事な顧客を預けるわけにはいかん」

「あ……はい」

「つまり、わしに医術を説明しろということだ。わかりやすく、簡潔に」

 ようやく視界が開けた。彼は知らぬ間に、手を差し伸べてくれていたのだ。

 ヨハネスはにっこりと微笑んだ。

「わかりました。喜んで。おこがましいのですが、僕からもお願いしたいことがあります。ぜひ呪術についても教えてください。都合のいいときで構いませんから」

 アレクサンダーはふんと鼻を鳴らし、「本当に知りたいのかね?」と皮肉っぽく言う。「若造には一生縁のない力だ」

「僕に特別な力がないのはわかっています。た知識だけでも持っていたいんです。そうしたらあらゆることに対応することができますから。――それにしても嬉しいです、こうして来ていただいて。よろしくお願いします!」

「……おかしな奴だ」

 呆れたような口ぶりは、どこか面白がっている風でもあった。

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