19

 故郷に戻ってから、ようやく平穏な日々が訪れた。何日か経つと、住民達もギュンターがアンと連れ立って歩くことを、すっかり見慣れたようだ。今ではアンに対しても、気軽に声をかけたりする。

 アンの方もここでの暮らしに慣れてきたように見える。ギュンターの母ともだいぶ打ち解けて、家の中には彼女達の笑い声が増えた。時々サブリナのパン屋に出向いて、店の手伝いもしているらしい。

 一方ギュンターには、少しずつ選択のときが迫っていた。もう一度異端審問官を志すか、別の道を進むか。

 父の力があれば、他の修道院へ入ることなどいとも容易いだろう。長年の夢を掴むチャンスは、まだ残されている。それなのに。決断の一歩が踏み出せない。

 彼女に出会ってしまったから?いや、違う。今まで信じて揺るぎなかったものに、わずかな疑問が生じたからだ。無視して一蹴することはできず、確かめる術は一つだけ。たとえ傷つく結果になっても、知らなければいけない。

 アンが突如切り出したのは、そう思っていた矢先のときだった。

「この町を、出ようと思う」

「……なんだよ急に?」

「前から考えてたの」アンはそう言うと、ギュンターを見据えた。「ギドには本当に感謝してる。ありがとう」

 澄んだ夜空の下、影が彼女の顔を覆い、再び仄かな月明かりが照らし出す。二人が座っているのは、風車小屋の屋根の上だった。高い所で星空を見上げるのが、いつしか共通の楽しみになっていた。まさか今日、こんなことを言われるとは思ってもみなかった。

 しかし彼女にとっては、そうではなかった。考えた末での決断だということが、表情からも伝わってくる。どうして気づいてやらなかったのだろう、という思いと、今まで打ち明けてもらえなかった悔しさが、同時に込み上げる。

「――勝手に決めんなよ」

 アンの肩がぴくりと動く。こちらを見る目つきは、まるで初めての相手に対するときのように感情を殺し、警戒の色で染まっている。縮まっていたはずの距離が、また少しずつ遠ざかろうとしている。

「そんなに俺が信用できないか?」

 返事は返ってこない。ただ僅かに表情が歪む。

「何かあったなら言えよ。最後まで全部聞いてやるから。ちゃんとした理由があるなら応援してやれるけど、今のじゃ全然納得できねえよ」

 それっきり沈黙が訪れた。冷たい風が二人の間をすり抜けていく。すぐ隣にいるのに、彼女の存在が感じられない。互いの姿を見え隠れさせながら、風車だけが時の進行を告げていた。

 少しして、アンが口を開く。

「ギドのことは信用してる。何度も助けてくれたし、一緒にいれば毎日が楽しかった」

「じゃあ何で――」

「信じられないのは、わたし自身なの」

 膝の上にある彼女の両手が、微かに震えている。ギュンターはその手の上に、自分の右手を重ねた。

「アンはアンだ。代わりに俺が信じてやる」

 するとようやく、アンは少しだけ微笑んだ。ただどこか悲しげで、今にも壊れてしまいそうな儚い笑みだ。「長くなるけどいい?」と聞かれ、「おう」と応える。実際朝までかかろうと望むところだった。

 すっと息を吸うと、アンは静かに語りだした。

「始まりは、母が殺されたことだった。検察達がいきなり家に押しかけてきて、母を無理やり連れ出していったの。どうしてなのか、彼らが何者なのかも、まだ理解できない年頃のときに。

 そのときはただただ恐くて、でも離れたら一生会えなくなる気がして、わたしは母にしがみついて泣き叫んでた。誰かに無理やり引き剥がされて床に投げ出されるまで、ずっと。

 もう一度立ち向かっていこうとしたら、母が“来ちゃだめ!”って必死に叫んでて、気づいたら姉がわたしの服の裾を掴んで、首を振りながら泣いていた。大声で泣く弟を腕に抱えながら。もうどうしたらいいのかわからなかった。呆然と立ってたら、検察達に言われたの。“おまえらの母親は魔女だ”って。だから処刑されて当然だって」

 時が止まった気がした。何かの間違いだったんじゃないか、という否定が喉元まで出かかる。

 しかし考えてみれば、予想はできたことだった。自分が魔女だと言った理由も、司祭に向けた憎しみも、それで辻褄が合う。

「そう。わたしは魔女の子どもなの」

 ギュンターの動揺を感じ取ったかのように、アンが言う。

 ――魔女の血を受け継ぐ者には、充分注意することです。

 かつて修道院で、そう教わったことが脳裏をよぎる。

 ――一見普通に見えても、奴らの邪悪な血がいつ目覚めるかわかりません。どんな些細なことでも、容疑者として捕らえるには充分でしょう。

 ギュンターはアンと握る手に力を込めた。誰かに教わる不確かなことより、今確かに触れている一人を信じたい。

 ギュンターが話の先を促すと、アンは話を再開した。

「最後に母に会ったのは、処刑されるときだった。最後まで魔女の容疑を認めなかった母の身体には、努力と苦痛の痕がたくさん刻まれてた。磔にされて、火刑の準備が進められる間、辺りはずっと怒号に包まれていた。近所で毎日顔を合わせるような人も、母が以前友達と言っていたはずの人も、大声で母を罵るの。周りは知ってる人ばかりなのに、皆今まで見たこともない顔をしてた。怒りをぶつける振りをしながら、笑ってるの。――楽しんでいるの。早く処刑しろ、火あぶりを見せてって声が溢れかえってきて。恐くてたまらなかった」

 そこで言葉を切ると、アンは目を瞑りひとつ息を吐き出した。彼女は今、過去を言葉にして紡ぎだすことで、自分自身と闘っていた。

「足元に火がつけられる直前、母がわたしを見つけた。そして悲しそうな顔をしたの。“どうして来たの”って言いかけたところで、火がつけられた。母が絶叫するのと、わたしがパニックを起こしたのは、ほぼ同時だった気がする。

 それから後のことは、あまりよく覚えてなくて。ただとてつもなく長い時間だった。熱くて恐くて、苦しくて絶望的で。心がばらばらになって、見ているうちに母と自分の感情がごちゃ混ぜになってた。

 気づいたら父が側にいて、無理やり家に連れ帰された。ひとつだけ覚えてるのは、母を失った途端、父がわたしを見捨てたということ。数日後には家を出されて、遠い叔母の家に引き取られた。そこにわたしの居場所なんてなかったのに。

 それにどこにいたって、あの日の恐怖が心に焼き付いて離れない。夢の中でも、母は火をつけられて同じように殺される。何度も、何度も。――あいつらのせいで。醜い人間達のせいで」

 アンの目つきがすっと変わる。最初に出会った頃の、凍るような冷たい目つき。

「だから復讐してやろうと思った。生き残った魔女として。教会に火をつけたときは快感だった。あいつらの大事なものを壊してやったって思った。本当に簡単なの。火が勢いづいたら、燃えるのなんてあっという間で。声を上げるたびに炎が揺れて、まるで本当に魔法を使ってるみたいだった。それが最高に楽しくて、でも虚しくて。心に開いた穴は、広がる一方だった。

 それからは、ずっと失敗続き。聖職者を何人か襲ったけど、結局かすり傷しか与えられなかった。いつも最後の最後で躊躇ってしまう。

 そんなとき、聖職者襲撃の件で、一人の女の人が逮捕された。その人は、わたしの雇い主が身代わりに差し出した生贄だった。ギドも見たでしょ?あのときの処刑」

 ギュンターは黙って頷いた。忘れるはずがない。あのときが、全ての始まりだった。

「どうしてわざわざ見に行ったのか、自分でもよくわからない。身代わりになった人を想って、っていうわけじゃない。同業者ではあったけど、会ったこともなかったし。雇い主が勝手に決めただけで、わたしは助けてほしいなんて言ってないから。

 もしかしたら、同じように死にたかったのかもしれない。あの場をめちゃくちゃにして、観衆の中心で自分に火をつけるの。誰もが忘れられなくなるような、凄惨な姿を見せてやるって。

 でも結局、何もできなかった。木の上にいるのが見つかって、一目散に逃げ出しただけ。今度こそって思いで司祭を殺しに向かったら、また同じ人に出会って、救われた。――ギド。あなたがいたから、わたしの生き方は変わった」

 顔を上げたアンは、真っ直ぐな目でギュンターを見据えた。互いの視線が絡み合う。しかし途端に、繋がりは断ち切られた。アンの手はギュンターの元から離れ、二人の間を冷たい風が通り過ぎる。

「でもね、復讐の思いが消えたわけじゃない。魔女とか異端とかいう言葉を耳にしただけで、心の奥底がざわざわするの。いつまた、この暗闇が暴発するかわからない。苦しいの、ここにいると。だから旅に出ようと思う。もう帰る場所は必要ない」

「本当に、そうか?」

 ギュンターの問いに、アンは迷わず頷いた。

「これが一番良い方法なの」

「もう誰も憎まないで済むから、か?」

 返事のないことが彼女の答えだった。ギュンターはそれで、確信を持つことができた。今まで自分は、あまりにアンのことを知らなすぎた。彼女の闇は、想像以上に深かった。

 けれど事実がどうであれ、今日まで一緒にいた日々が偽りとなるわけではない。ずっと見てきた。想ってきた。だから信じられる。

「この町の奴らが好きだから、傷つくのが恐くなったんだろ?逃げるなよ。ちゃんと向き合え」

「逃げてない」

「いや逃げてる。アンは人を憎もうとしてるだけだ。醜い部分があるってわかってても、本当は信じたいんじゃないのか?」

「違う」

「無理に復讐しなくたっていい。もう充分苦しんだろ。アンの母さんだって、そんなこと望んじゃいない」

「知ったようなこと言わないで」

「じゃあ自分で気づけよ。母さんに言われたか?代わりに復讐しろって。人とは一生関わるなって」

 アンは鋭い目つきでギュンターを睨んだ。噛んだ唇から血が滲み出る。まるで目から流れるのを拒否され、行き場を失った涙のように。

 重い沈黙を挟んで、ギュンターは言葉を重ねた。

「母さんの代わりに幸せになってやれよ。今までほんのちょっとでも笑った瞬間、思い出せよ。俺はアンの笑顔知ってるぞ。本当は優しくて繊細なとこがあるのも、やたら頑固で眩しいくらい真っ直ぐなとこも知ってる。全部がアンだ。暗闇だけじゃない、乗り越えられる力をちゃんと持ってる」

「違う、違うちがう!わたしは――」

「俺は、そんなアンが好きだ」

 彼女がはっと息を呑むのと、ギュンターが抱きしめたのはほぼ同時だった。

「俺がアンを幸せにしてやる。だからどこにも行くな」

 冷たい手とは裏腹に、アンの華奢な身体は温かかった。ずっとこうしていたいと思うほどに、心地よかった。

 くぐもった呻き声は次第に大きくなり、最後は純粋な泣き声になった。どこまで我慢していたらそうなるのかと思うほど、涙はとめどなくギュンターの胸元を濡らしていく。

 けれどしばらくして顔を上げた彼女の顔に、もう涙はなかった。最初から泣いてなどいなかったかのようだ。ギュンターのシャツに残った温かな染みが、唯一の痕跡だった。

「ありがとう、ギド」

 正面切って言われるとやはり気恥ずかしいが、今回は目を逸らさずに言えた。

「よし、じゃ帰るか」

「うん」

 アンは小さく息を吸い、吐き出してから、「うん」ともう一度頷いた。


 帰りの道中、アンがぽつりと言った。

「わたし、実はアンじゃないの」

「……は?」

「本当の名前。アンじゃなくて、セレーナなの」

「ああ、そういうことか」

 またもや衝撃的な発言が出て身構えていたギュンターは、その一言で胸を撫で下ろした。反応を覗っていたアンが訝しげに尋ねる。

「まさか気づいてたの?」

「いや全然。ただ一気にいろんな事聞きすぎて、感覚マヒしただけだよ。今さらアンじゃないって言われても、けっこう呼び慣れちゃったしな。もうこのままでいいんじゃねえの?まあニックネームってことで」

「……勝手にすれば」

「いや、何怒ってんだよ?」

「べつに」

 なぜか機嫌を損ねたらしいアンは、すっと歩く速度を上げ、ギュンターを追い抜いた。黒髪が向かい風に乗ってふわりと流れる。彼女が風を遮るように手をかざしたときだった。不意にぐらりと頭が揺れて、後ろに大きく傾いた。

 倒れる、と思ったギュンターは慌てて抱きとめようとする。しかし伸ばした腕は虚しく空を掴んだ。足元で散らばった大量の髪の毛に、ギュンターはぎょっとして飛びすさった。顔を上げると、予想外の真相に「うおっ!?」とさらに後ずさる。

「鬘……だったのか」

「自分を偽るのは、もうやめる。わたし自身が変わらないと、意味がないから」

 気を取り直したギュンターは、首筋まで短くなったアン、もといセレーナの金髪をしげしげと眺めた。髪型ひとつで随分印象が変わるものだと、改めて思う。顔を覆う影がなくなった今、彼女の表情は軽やかで、活き活きしているように見えた。

「こっちの方が似合ってんじゃん――セレーナ」

「ありがとう」

 セレーナは眩しい笑顔で、にっこり微笑んだ。

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