17

 商店街を抜けると、賑やかさも次第に遠のき、比較的閑静な地帯に入る。道の両側には、質屋や工房などがぽつぽつと建ち並ぶ。集団で騒ぐのを嫌う、気難しい職人が多いため、この辺りは子ども達もあまり近寄らない。

 ギュンターも昔工房の主人に、金槌を振り回しながら怒鳴られたことがある。今でこそ笑い話にできるが、当時はあまりの迫力に、うっすら命の危機を感じたものだ。脅かすつもりはなかったのだが、話を聞いたアンは、さっきから心持ち声を落としている。

 そのうちギュンターは、ある一軒の前で足を止めた。アンに向かって、口の前で人差し指を立てて見せる。それから中を覗くよう促した。

 アンは少し緊張した面持ちで、そっと身を乗り出した。扉は開け放たれていて、中からはむっとした熱気が漂ってくる。同時に金属と金属を打ち鳴らす音が、壁に反響しあいながら次々と外に飛び出てくる。

 音源を辿ってゆくと、その先でバルテルが腰掛に座っていた。台の上にナイフを置き、とんかちを振り下ろしている。ナイフの刃は真っ赤に熱を放っていて、打たれるたびに火花が飛び散る。彼は額から流れる汗を、首にかけたタオルで拭いながら、またとんかちを振り上げる。その腕は飛んでくる火花に襲われ、ところどころ黒く煤けていた。

 アンはその様子をしばらく眺めてから、問いかけるようにギュンターを見た。

「あいつも俺の友達」ギュンターは小声で紹介する。「小さい頃からずっと鍛冶屋に憧れてて、自分から弟子入りしたんだ。短気なくせに、仕事のときの集中力だけは半端なくてさ。熱さなんかものともしないで、ずっと鉄と向き合ってる。けど俺達の前では、仕事の話はしたがらないんだ。なんかよくわかんねえけど、照れくさいのかもな。だから今のことも内緒な」

 汗に濡れ、黒く汚れていても、彼の目は少しも翳ることなく輝いて見えた。二人の友人が働く姿を目の当たりにして、ギュンターは複雑な気持ちになっていた。悠長に遊んでいた時代は、遠く過ぎ去ってしまったのだと、改めて思う。こうしている間も、時は残酷に刻まれていく。

「――行くか」

 ギュンターは努めて明るい声を出し、歩き出す。さりげないアンの視線を、隣に感じながら。


 左手に大きな建物が見えてきたとき、アンはふと足を止めた。建物自体は特に装飾もなく、灰色に統一されている。唯一十字架が掲げられているのが特徴だが、教会でないのは一目瞭然だ。門の前で『異端審問所』の看板を見上げるアンの拳は固く握り締められ、微かに震えていた。

 もし彼女が何食わぬ顔でここを素通りしたなら、ギュンターも何も言わないつもりだった。内心、そうなることを願っていた。

「恐いか?」そっと尋ねる。

 アンははっと目を見開き、それから黙って首を振った。

「ずっと、言うべきだとは思ってたんだけどさ」

 思い切って切り出すと、アンはゆっくりと顔を上げた。目と目が合う。

「ここ、親父の職場。異端審問官なんだ」

 思いの外、アンは冷静にこの事実を受け入れたようだった。もしかしたら、ある程度予測していたのではないか、と思う。旅の道中、ギュンターが父の話題を避けてきたこと。事情があったとはいえ、司祭を殴っておきながら、特に罰を受けることなく、追放だけで免れていること。普通なら体罰は避けられなかっただろう。

 アンがどこまで考えていたかはわからないが、ギュンターは今さらながら後悔した。もっと早く打ち明ければよかった。自分の思いを、声に出して伝えるべきだったのだ。そうすれば、こんな傷ついた顔をさせなくて済んだかもしれない。

「前にわたしが訊いたこと、覚えてる?」

 アンの問いが何を指しているかは、嫌でもわかる。

 ――「もしわたしが魔女だったら、どうする?」

 あのときは、彼女の持つロザリオのおかげで、その場を乗り切ることができた。けれど。

「何度でも言ってやる。アンは魔女じゃない」今度は、確信をもって言える。

「慣れない靴履いて足挫いたり、ちょっとしたことですぐむきになったり、おまえのいろんなとこ見てきたからわかる。親父に差し出したりなんか、絶対しねえから。だから過去に何があったか知らねえけど、今は前向いて生きろ」

 向き合う二人の間に、沈黙が下りる。全て伝えきったギュンターは、祈るような気持ちで、アンの答えを待った。ほんの数秒のはずが、一分にも十分にも感じられる。

「――わかった」アンが小さく頷く。「もう言わない」

 ギュンターは「よし」と言って笑いかけた。

 アンの過去が気にならない、と言えば嘘になる。彼女は何者なのか。そして、何に恐れているのか。聞くことで、彼女の背負っているものも少しは軽くなるのではないか、とも思う。でもきっと、アンはそれを望んでいない。今自分にできるのは、ただ傍にいることだ。

「もしまたナイフを握りそうになったら、まず俺に言え。代わりにぶん殴ってやるから」

 ゲオルグも一発入れてやればよかったかと、殴ったときのポーズをしてみせる。

 アンはくすりと笑って、素直に頷いた。ギュンターはパンチを叩き込んだ体制のまま、「あ」と声を上げた。

「やっと見れた」

「何が?」アンが怪訝な顔をする。

「笑顔!おまえ笑わなすぎ」

 自分でも気づいていなかったのか、アンは一瞬虚を衝かれたようだった。喜ぶギュンターを呆れた目で見遣り、「変なの」と呟く。けれどその口ぶりは、どこか楽しんでいる風でもあった。


 いつの間にか陽は高く昇り、じりじりと容赦なく照りつける。暑さに辟易する人々を、上から面白がっているかのようだ。

「もう昼ごろか……」

 ギュンターは恨めしげに太陽を見上げた。

「暑い!避暑地、行くか。いや、まずは食料だな」

 言うが早いか、アンの返事も待たず、早足で突き進む。目指すは煙突からもくもくと煙を昇らせる、ギュンターにとって馴染みの店だ。

 ドアを開けると、焼きたてのパンの匂いが二人を包む。ちょうど空いていた頃合らしく、店内にいる客はギュンター達だけだ。

「おばさん、ただいま!」

「あらあ、ギドじゃないか!」

 店のカウンターから、その体躯に相応しい大声が響き渡る。まん丸の顔には、満面の笑みを広がっている。

「ちょっと帰りが早まってさ」

 おどけてそう言うと、カウンターから出てきた彼女に、思い切り抱きしめられた。やめろよ恥ずかしい、と抵抗するも、話そうとしない。相変わらず女性離れした強さだ。

「それでいいんだよ。困ったときは、いくらでも親を頼んな。あたしら大人も、友達にも、遠慮なく甘えたらいいのさ。帰ってきてくれて嬉しいよ。おかえり、ギド」

「――うん」

 優しさが、胸にじんわりと沁みていく。大きな腕の中にくるまれているのが、本当は心地よかった。

 そのとき、「あら?どこのお嬢さん?」という声とともに、ぱっと抱擁が解かれた。それでようやく、ギュンターはアンの紹介に移った。両親に話したのと同様、旅の途中で偶然出会い、身寄りがないので連れてきた、という内容だ。

「そうかい――いろいろと大変だったろうねえ?」

 同情のこもった目で話しかけられ、アンは曖昧に頷いた。

「まあ、でも安心しな。こう見えてギドは、責任感のある男だからね。結婚後も、しっかり支えていってくれるさ」

「……結婚?」

「だあー!どいつもこいつもうるせえな。違うっつの!俺らはそんな関係じゃねえの!」

 ギュンターの抗議などそ知らぬふりで、彼女はアンへ親しげに挨拶する。

「初めまして。あたしはサブリナ。見ての通り、旦那と二人でパン屋をやってる。ギドのことは赤ん坊の頃から知ってんだよ。これからよろしくね、アン」

「よろしくお願いします」

 アンが丁寧に挨拶を返すと、サブリナはにこにこしながら、ギュンターを振り返った。

「かわいい娘じゃないか。よかったねえ」

 何がよかったのかわからず、煩わしいが、ギュンターは黙ってやり過ごすことにした。とりあえず彼女がアンを気に入ったようで、よかったと思う。これからも、きっといろいろと気にかけてくれるだろう。

 一方無視されたサブリナは、さっさとギュンターに見切りをつけ、アンとの話に興じようとしている。一度おしゃべりにエンジンがかかると、途中で切り上げるのは非常に困難になる。礼儀正しい聞き役がいるときなどは、尚更だ。

 その前にと、ギュンターは急いで口を挟んだ。

「俺達、これから丘に行くんだけど」

「なんだい、もう行くのかい?」

 サブリナは残念そうな顔をするが、有無を言わせず、きっぱりと頷く。そしていくらか硬貨を差し出した。

 まだ名残惜しそうにしていたものの、彼女は「ちょっと待ってな」と言い置き、店の奥から手提げ籠を取り出してきた。その中に次々とパンを詰めていく。最後に牛乳瓶を二缶入れて、上からハンカチで覆い、ギュンターに渡した。

「釣りはいらねえよ」と澄まして言ってやると、

「馬鹿言ってんじゃないよ。サービスしすぎてマイナスだよ」と向こうも言い返してくる。それからギュンターの空いている手に、渡した同額の硬貨を押し付けてきた。

「でも今回は特別、あたしからのプレゼント。二人とも、またいつでもおいでね」

「さすがおばさん、太っ腹―。見た目だけじゃないんだな」

「まったく、この子は!素直にありがとうと言えないのかい!」

 振り上げる拳をひょいとかわし、ギュンターは颯爽と店を出て行った。代わりに頭を下げつつ、後からアンも続こうとする。

 そのときサブリナが、こっそりと彼女を呼び止めた。ドアは開けたままだったので、ギュンターから二人が話しているのはわかるが、内容までは聞き取れない。わざわざ戻っていくほど空気が読めなくはないので、ギュンターはそのまま、離れて待っていることにした。

 やがてサブリナが、ぽん、とアンの肩に手を置いた。それが合図だったかのように、アンはくるりと踵を返し、こちらに駆けて来る。

「話、終わったか?」

「終わった」

 そう答える彼女の顔は、心持ち晴れやかだった。


 次に着いたのは、町外れにある広い牧場だった。一面に囲まれた柵の中で、羊の群れが長閑に草を食んでいる。牧羊犬も少し離れたところで寝そべり、一時休憩中だ。羊の群れを横目に進んでいくと、その先に母屋がある。

 するとちょうどいいタイミングで、牧場主ゴードンが出てきた。ギュンター達に気づくと、「よっ」と手を上げ、「おや?」と首を傾げ、「ああ」と一人合点する。どうやらアンのことも、話に聞いているようだった。くるくる表情が変わるのは、朗らかな彼のチャームポイントだ。

「久しぶり、ゴードンさん。こいつがアン。で、この人は俺の友達の父さん」

「やあ、こんにちは」

 にこにこしながら、ゴードンがアンに挨拶する。その笑顔も柔らかな口調も、親子そっくりだ。

「アル、今いる?」

「いるよ。たぶんいつものとこだな」

「わかった。ありがと」

 いつもの場所といえば、アヒムの場合は厩になる。町一番の動物好きといわれる彼にとって、馬は特別愛して止まない存在だ。乗馬の魅力をギュンターに教えてくれたのもアヒムだった。それらを語るときの彼は、普段よりちょっぴり饒舌になるのだ。

「アルー、いるか?」

 厩に入って呼びかけると、

「いるよー」という声とともに、アヒムが馬の影から顔を出した。そして「あ」と顔をほころばせた。「君がアン?」

 流れる汗を手の甲で拭いながら、アヒムはこちらに近づいてくる。おかげで頬に薄黒い汚れがつくが、これはいつものことだ。

「こんにちは。僕はアヒム。よろし――」

 そう言って手を出したアヒムだったが、不意にぱっと手を引っ込めた。恥ずかしそうに顔を赤らめる。

「ごめん。今ちょっと、手が汚れてるから……」

 苦い思い出が、ギュンターの胸をちくりと刺した。アヒムが他人へ触れるのに二の足を踏むのは、理由がある。

 まだギュンターと知り合う前の頃、彼はいじめられっ子だった。いつも動物と接していたため、いじめっ子たちから「臭い」「汚い」とからかわれたのだ。ときには水溜りに落とされたり、虫を食べるよう強要されることもあったという。

 そんなとき、偶然出くわしたギュンターとフリッツが、いじめっ子たちをぼこぼこに蹴散らしたのが、出会いのきっかけだった。フリッツが取り巻き二人をあっさり倒し、ギュンターがボスとの激闘の末、完全勝利を収め、いじめは終結を迎えた。

 その後いろいろあったものの、気づけば全員、打ち解ける仲になっていた。そしてそのいじめっ子たちこそ、バルテル率いるヴォルフ、コニーの三人組だったわけだ。今でこそ互いに仲良くやっているが、過去に受けたアヒムの傷が消えることはないのだろう。

 気まずい空気が流れかけた、そのときだった。アンがすっと手を差し出した。

「汚いなんて思わない。それは、馬が生きてる証でしょ」

 アヒムは目を見開いて、差し出された手とアンの顔を交互に見た。相変わらずにこりともしないので、どうすべきか量りかねているようだ。

 けれどギュンターには、それこそが他意のない現れであるとわかった。なので横から「ほら握手」とアヒムを小突いてやる。アヒムは照れくさそうに、そして心底嬉しそうに握手を交わした。その感激ぶりに今度はアンが戸惑っていて、見ているギュンターとしては面白かった。

 一息ついたところで、「でさ、アヒム」と用件を切り出そうとすると、アヒムは心得顔で頷いた。

「馬でしょ。いいよ、もちろん」

「サンキュ。いつも悪いな」

「ううん。たくさん走れて、この子達も喜ぶから」

 そう言いながら、アヒムは通路を歩いていって、一頭の手綱を取った。

「マッカーでいいよね?」

 指しているのは、黒い毛並みが艶やかに光る、若い牡馬だった。中でも一番気性が荒く、扱いが難しいのだが、足の速さも群を抜く、ギュンターお気に入りの馬だ。異論などあるはずもない。

「アンは、乗れる?」

 不安げに馬を見つめる彼女に、アヒムが問いかける。首を振るのを受けて、ギュンターが提案する。

「じゃあ、一緒に乗るか」

「マッカーは止めたほうがいいよ。二人乗りはさせたことないし」

「平気だよ。な?」

 話を振ると、アンは気丈に頷いた。不安よりもプライドが勝るところが、やはり彼女らしい。

 まだ何か言いたげなアヒムを制し、ギュンターはアンの手を引いて、マッカーの前に立った。

「こいつは俺の友達。アンだ。今から一緒に乗せてくれ。いいな」

 マッカーは初対面の人物が現れたことに警戒し、鼻息を荒らげる。

 対峙するアンとマッカーを見て、ギュンターはふと、似ていると思った。まずは相手に威嚇から入る辺りなど、そっくりだ。気むずかし屋同士、案外気が合うかもしれない。

 そんな思いを知ってか知らずか、マッカーは次第に気を鎮めていった。どうやら了承は得られたようだ。得意げに振り返ると、アヒムは仕方ない、というように肩を竦めてみせた。

 早速ギュンターが馬上に乗り、アンを自分の前に引っ張り上げる。

「手綱しっかり持っとけよ」と声をかけると、アンは硬い声で「わかった」と答えた。まだ緊張しているようだったが、いざバランスを崩しても前にいれば支えてやれるので、ギュンターはさほど気にせずマッカーに前進の指示を出した。

 待ってましたとばかりに、軽快な足取りが開始され、馬上がリズミカルに揺れる。スピードを抑えつつ辺りを周回するうちに、アンもようやく周囲を見渡す余裕が出てきた。

「よし、そろそろ慣れてきたな」

「ちょっとギド、まだ早いんじゃ――」

「駆け足行くぞー!捕まれアン!」

 アヒムの忠告をさらりと無視して、ギュンター達は颯爽と牧場を飛び出して行った。


 駆ける二人の視界を景色がびゅんびゅん過ぎ去っていき、距離も時間も感じなくなった。ギュンターにとって、これが最高の瞬間だ。マッカーの強靭な足が生ぬるい空気を切り裂き、新鮮な風へと作り変えていく。

 アンはマッカーの流れるようなたてがみを、そっと撫でた。しっかり捕まってろと言ったのに、もうすっかり緊張が緩んでしまったようだ。けれど悪くない。これはこれで、悪くない。

 このまま一緒に、どこまでも行けそうな気がした。この道の果てまで。まだ見ぬ未知の世界へ。その思いに応えようとするマッカーの脈動が活き活きと伝わってくる。

「どうだ?初めて乗馬した気分は?」

「悪くない」

 素っ気無さを装ったアンの声に、ギュンターは思わず吹き出してしまう。

「何?」

「いやべつに」

 素直じゃないのはお互い様だ。

 目的地の丘までは、あっという間だった。そこはアヒムの牧場を取り囲むようにして広がる、丘陵地帯だった。ギュンター達が町に入ったところと、ちょうど逆の位置にあたる。こちらの方が高さがあるので、町が一望できるのはもちろん、旅してきた道のりまで、広大な景色が見渡せる。

「いい眺め」アンが呟くと、

「だろ?」とギュンターが得意げに胸を張った。「ここからの景色が一番いいんだ。俺らの特等席。町が手ですくえそうなぐらい小さくて、ちょっと偉くなった気分だろ?」

 そう、とアンは小さく笑った。

「わたしも好き。高い場所」

 この町に来てから、彼女は少しずつ変わり始めている。もしかすると氷のようだった表情の裏に、元々潜めていた部分なのかもしれない。

「さ、じゃあ昼飯にしますか」

 そう言うと、ギュンターはひらりと芝生に飛び降りた。それからもったいつけた仕草で、アンに手を差し出す。

「足元にお気をつけて、姫」

 アンは呆れた顔で笑いながらも手を預け、軽やかに下り立った。乗馬初心者とは思えない身のこなしだ。さすが、高さに慣れているだけある。

 二人は芝生の上に並んで腰を下ろした。サブリナが用意してくれたバスケットの中には、サンドイッチやクロワッサン、くるみパンなどが、いっぱいに詰められていた。焼き立てだったパンは、表面の熱が冷めても中身はまだほんのり温かく、どれもおいしかった。ギュンターにとっては、二年ぶりの懐かしい味だ。アンも手でちぎった欠片を食した途端、「おいしい」と呟き、やがて次のパンへ手を伸ばした。

 二人で綺麗に完食し、新鮮な牛乳を流し込むと、ギュンターは満足して芝生に寝転がった。

「あー食った。もう食えね。おばさん入れすぎだっつーの」

「――サブリナさん、優しい人なんだろうね」

 アンがぽつりと呟く。

「んー、まあ、大体な。ちょっと口うるさいとこあるけど」

「仲がいいからでしょ」

「付き合いが長いだけだし。第二の母さん面して、面倒くさいことも多いんだよ」

「そうかな。それって幸せなことだと思う」

 反論しかけて、ギュンターはふと口を噤んだ。アンの横顔が、どこか寂しげに見えたからだ。以前彼女が、『帰る場所がない』と言っていたのを思い出す。

「家族、いないのか?」

 アンの過去について、今までそれとなく聞くのを避けてきたのだが、今なら聞いてもいいような気がした。

 僅かに間を置いた後、アンはどこか遠くを見ながら答えた。

「どうかな。わからない」

 それははぐらかしているのではなく、本心から言っているようにギュンターには感じられた。何か複雑な理由があるのか、それとも彼女自身の問題なのか。それ以上続ける気配がないので、ギュンターも「そっか」と言うに留めておいた。けれどひとつだけ、言えることがある。

「じゃあさ、アンもここに住めよ」思いついた先から、言葉が口をついて出る。「ま、改めて言うのもなんだけど。長くいれば、そのうち皆家族みたいな付き合いになるさ。俺もたぶん、ここで仕事探すことになると思うし。なんならいっそ、うちの家族になるか?」

 アンが驚いた顔で、まじまじとこちらを見つめる。自分で言い出しておきながら、ギュンターは急に恥ずかしくなった。

「べ、別に変な意味じゃないぞ。自分家だと思って暮らせよってことだ。母さんは女の子が増えて喜ぶだろうし、親父も俺が働きさえすれば文句は言わないだろうし。まあとにかく、アンが心配するようなことは何もない!」

 その慌てぶりがおかしかったのか、アンはくすっと吹き出した。それから表情を改め、「ありがとう」とゆっくり噛みしめるように言った。

「――おう」

 二人の会話が途切れたところで、タイミングを見計らったようにマッカーがブルルと鼻を鳴らす。

「邪魔すんなよな、真面目なとこなんだから」

 ギュンターの文句にも、マッカーはそ知らぬふりだ。言ったこちらも脱力してしまい、どちらからともなく笑いが漏れる。和やかな時間が、二人の間に流れていた。


 その翌日には、ヴォルフの召集でさっそくアンの歓迎会が開かれた。ギュンターとアンが『ヘヴン亭』に着いたときには、すでに全員が顔を揃えていた。

「遅いぞギド!そして待ってたよ、アン!」

 ヴォルフは杯を持ち、すでに赤ら顔で二人を迎え入れた。席に着くと、コニーがすかさず杯を運んで来てくれる。しかし彼はアンを目にした途端、その場で棒立ちになった。そして惚けた声で「運命の出会いだ……!」と呟く。

「出たよ、常套句」

「それ七回目」

「いい加減気色悪いんだよ」

 一斉に否定されたコニーはさすがに傷ついたようで、「なんだよ、人の恋路にケチつけるなよ」と口を尖らせた。

 一方当のアンは彼らではなく、目の前の杯に関心を寄せている。

「もしかして、酒飲むの初めてか?」

 ギュンターが尋ねると、アンはあっさり首を振った。

「いいえ。ただ、これが初めてだっただけ」

「ああ、ビールか。うまいぞー。一気にぐっと煽るんだ。あ、でも最初はちょっとずつ飲めよ。俺らは慣れてるからいいけど、アンは酔っ払って倒れるかもしんないし」

 この忠告は逆効果だったようだ。アンの目が僅かに細められる。挑発を受けて立ったときの顔だ。きっと彼女は今夜、初めてのビールを心行くまで楽しむことだろう。

 全員が席に着いたところで、ヴォルフが改めて乾杯の音頭をとった。歓迎の言葉とともに、七つの杯が一斉に打ち鳴らされる。木樽が互いに重みのある音を立て、ビールの飛沫が舞った。

 アンは皆と同様、手や顔に水滴をつけたまま、豪快に一気で飲み干した。周りの客達からもいつの間にか注目が集まっており、喝采の声が上がる。彼女はいつもの涼しい顔で、ギュンターに目配せしてみせた。それからはアヒムやヴォルフ、デルトルトに囲まれ、自然と話の輪に溶け込んでいる。とはいえ、それも表面上の話で、当の彼女はかつての仕事で培ってきた笑顔で完全武装し、デルトルトの質問攻めを巧みにかわしている。この様子じゃ心配なさそうだ、と判断したギュンターは、そのまま放っておくことにした。

「かわいいなあ」

 隣でコニーが呟く。視線はすっかりアンに釘付けだ。

「やめとけ。クルーの手には負えねえよ」

 親切で言ったつもりなのだが、コニーは大袈裟なほど肩を落とした。

「ギドの女に手出せるかよ。命懸けじゃないか」

「うるっせえな、どいつもこいつも――」

「じゃ、俺は“お友達”としてアンに挨拶してこようっと」

 いち早く身の危険を察したコニーは、さっさと席を立って移動してしまった。

 拳のやり場を失ったギュンターは再びビールを煽り、溜息をつく。けれど内心では、少しだけ安堵していた。仲間達がこうしてアンを迎え入れてくれたことが、素直に嬉しかった。

 酒も回って絶好調のヴォルフとコニーが、二人立ち上がって歌とダンスを披露し始めた頃、それまで口数の少なかったバルテルが、ギュンターの隣にどっかと腰を下ろした。

「向こうで何があったか、そろそろ話してくれてもいいんじゃないのか」

 彼からそう言われるのは覚悟していた。聞いているのはもちろん、フリッツとのことだ。

 他の仲間達はフリッツが一人修道院に残ったのを寂しがってはいたものの、それほど驚いてはいないようだった。向こうでギュンターを戻す作戦を考えているのだろうと、期待してのことだった。

 ギュンターはその可能性がないのを気づいていながら、打ち明けることができずにいた。まだフリッツから、直接決定的な何かを言われたわけではない。一番根拠のない期待を抱いているのが自分だと自覚しているからこそ、上手く伝えられる自信がなかったのだ。バルテルは最初から、それを何となく感じ取っていたのだろう。

 大まかな話を終えると、バルテルは腕組みをして「なるほどな」と頷いた。

「それで、どう思うんだ?」

「――さあ。何か変なのは、前から感じてはいた。けど俺が訊いてもはぐらかしてばっかりで。魔女関連のことなんだとは思う。だから俺には話しにくかったんだろ。ブルにはそんなようなこと、何か言ってなかったか?」

「いや。あいつはそもそも、悩みを打ち明けるようなやつじゃなかったろ。おまえにすら躊躇うことを、俺らに話すと思うのか?」

「だよな……」

「俺は今回のこと、意外だとは思わねえぞ」バルテルは周囲を確認し、声を低めた。「ずっとこういう機会が来るのを、狙ってたんじゃないのか?おまえが挫ければ、あいつはこの町の異端審問官になる、とかな」

 全ての不安要素を投げ捨て、ギュンターはきっぱりと言いきった。

「リッツはそんなやつじゃない。それだけは言える」

 バルテルが言うことは、的外れではないのかもしれない。けれど理屈を抜きにして、今の彼の発言が許せなかった。

 二人が睨み合っていると、険悪な空気を察知したヴォルフが、素早く間に割って入ってくる。

「はいはいお二人さん、楽しい歓迎会の席でおっかない顔しない。そんな隅っこで飲んでないで、一緒に踊ろうぜ」

「俺はやめとく。主役が行ってこいよ」

 そう言うバルテルは相変わらず無愛想だが、声音はいつもの調子に戻っていた。ギュンターも気持ちを切り替えて立ち上がる。

「しょうがねえ。期待に応えて、一肌脱いでやるか」

 その後場は最高潮に達し、コニーが派手な音を立てて倒れこんだところで、ようやく会はお開きになった。テーブルの上の皿や杯をひっくり返し、呑気に大いびきをかいている彼を両親に託し、ギュンター達は店を後にした。

 結構な量を飲んだにもかかわらず、隣を歩くアンの足取りは案外しっかりしている。

「今日はどうだった?楽しめたか?」

 二人になってから尋ねてみると、彼女は少し考えた後に答えた。

「わからない。歓迎されたのが初めてだから、どんな顔すればいいのか、何を話せばいいのか、ずっと考えてた」

「何だそれ。考える必要なんかねえよ。自然にしてりゃいいじゃん」

 アンはちらりとこちらを見たが、何か言いかけ、結局口を噤んでしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る