16
ばたん、と勢いよくドアを開いて駆け込むと、トゥリアは形のいい眉を顰めて振り返った。行儀の悪さを咎める顔つきだ。しかしアティカはおかまいなしで、先手を打った。
「小言を言ってる場合じゃないですよ、姉さん。アンが逃げ出しました」
昨夜アンが起こした事件は、すでにどこの娼館でも話題になっていた。街全体に情報が漏れるのも、もはや時間の問題と思われた。しかし当の本人は事件の後、姿をくらましてしまったのだ。
散々ここで世話になっておきながら、なんて薄情なのか、とアティカは煮えくり返る思いだった。片やトゥリアの方は、涼しい顔で応える。
「知ってるわ」
「……はい?」
「明け方に戻ってきたのよ。部屋で荷をまとめて、すぐに出て行ったわ」
「どうして、止めなかったんですか?一声かけてくれれば、すぐにあたし達が――」
途中でアティカは怒りも忘れ、言葉をなくしてしまった。なんとトゥリアは、おかしそうにくすくす笑っていたからだ。
「私達全員で追いかけたって、あの子の足には適わないわ」
こんな大事になっていて、館主が何を呑気に、とアティカは思うが、何とか堪える。トゥリアはいつだってこうなのだ。
以前の事件でアンに容疑がかけられたときも、どこか他人事のように振舞っていたかと思えば、いつの間にか別の娼館の娼婦が、処刑台に上がっていたりする。何か裏取引があったのかと尋ねても、のらりくらりとはぐらかされてしまう。彼女とは長い付き合いだが、未だに何を考えているのかさっぱりわからない。ただ、その娼婦が子どもを孕んだという話は聞いていたので、きっとそれが関係しているように思う。よくある話で、相手が悪かったのかもしれない。
アティカは気を取り直し、一応提案を試みる。
「まだ街からは出てないかもしれません。男衆に追わせましょうか?」
「いいえ、その必要はないわ」
「何か連れ戻す方法があるんですね」
「いいえ、ないわ。もういいの」
「そんな――このまま逃がすつもりですか?」
アティカは今度こそ驚いた。どうして、と言いかけるのを、トゥリアがやんわりと遮る。
「心配しないで。後のことはどうにかするわ」
彼女がそう言うのなら、司祭の件については、きっとどうにかなるのだろう。でも、とアティカは思う。
「本当に、いいんですか?」
そう確かめずにはいられなかった。
トゥリアがアンを殊の外気に入っているのは、誰の目にも明らかだった。無理もない。認めるのは癪だが、アンはとびきり美しく、頭の回転も速かった。
思えば八年間、手塩にかけてきたのだ。常に周囲の嫉妬に晒されながら、小生意気なやせっぽちの少女は、充分に魅力を兼ね備えた女性に成長したのだった。
去年から客を相手にするようになり、顧客も増えてきたところだ。このまま手放すのは、館の経営を考えても、もったいないのではないだろうか。もちろん、それは騒ぎが収まってからの問題だが。
「いいのよ、本当に」そう言って微笑むトゥリアの顔は、少し寂しげに見えた。「自分から出て行ったんだもの。無理やり連れ戻したところで、あの子は決して諦めないわ。わかるでしょう?」
アンの頑なさもまた、アティカは肯定せざるをえなかった。今回の件がいい例だ。「そうですけど、でも……」と食い下がろうとするも、言葉は尻すぼみになって消えてしまう。
結局、溜息と共に愚痴がこぼれ出た。
「あいつったら、装身具もあるだけ持って行ったんですよ。ドレスについてるのまで、きっちり切り取ってっちゃって」
「宝石はお客からもらった物でしょう。ドレスだって、アンのために仕立てたものだもの。あの子にしか合わないわ」
たしかにアンといえば、紅のドレス姿が思い浮かぶ。近頃では、皆が同色を避けるようになっていた。彼女があまりに完璧に、紅を着こなしてしまうからだ。
加えてあの黒髪だ。アティカが最も気に入らない部分でもある。美しい金髪だとトゥリアに褒められていたにも関わらず、彼女はいつも真っ黒な鬘で、それを覆い隠してしまった。中に詰めるため、肩にも触れないほど短くしたまま。美しさを求め、日々努力しているこちらからすれば、嫌みに感じられたものだ。
ぶつけようのない苛立ちを募らせるアティカを他所に、トゥリアは窓の外へ目を向けた。
「紅アゲハの運命なのよ、あの子は」
「運命、ですか?」
意表をついた発言に、アティカの苛立ちはふわりと遠のいてしまう。
本業の傍ら、詩人としても名を馳せるトゥリアは、ときどき不思議な言い回しをする。“紅アゲハ”の名前をつけたのが彼女だということは、アティカを含めごく近しい者しか知らない事実だ。文学にほとんど縁のないアティカ達娼婦にとっては、理解のしようがない。「そうよ」と肯定されたところで「はあ」と腑抜けた返事しかできない。
「夜に紛れて、初めて羽を広げたのよ。まだ不安定なのにね」
「この先、どうなるんでしょうね」
「さあ、どうかしら。蝶の命は短いものよ。偽物の羽なら、特にね」
アティカはまた、「はあ」とあやふやな声を出す。話せば話すほど、彼女のペースに置いていかれる気がした。
館主としては尊敬しているが、ごくたまに、こういう掴みどころのないところが、恐くなったりもする。
「……なんだか冷たい言い方ですね。姉さん、あんなに可愛がってたのに」
「そうね。あの子のことは好きだったわ。でも別れてしまえば赤の他人。お互い前を向かなければね」
トゥリアはそう言って、いつもの妖艶な笑みを浮かべた。
「もう大丈夫。歩けると思う」
「おう、そっか」
ギュンターはアンを背から降りさせ、歩く様を確かめた。特に不安げな様子はなく、しっかりした足取りだ。痛みはだいぶひいたようだ。
「平気か?」と訊くと、アンはもう一度「大丈夫」と頷いた。
「ありがとう。大変だったでしょ、ごめんなさい」
こうして面と向かって言われると、何とも照れくさい。頭に手をやり、ついそっぽを向いてしまう。
「――大したことねえよ。おまえ軽かったし」
アンはそれには応えず、自分の荷を受け取ると、再び並んで歩き出す。まだ持っててやると言ったのだが、彼女は頑として譲らなかった。態度も一変、「いいから」と突き放すように言われると、もはや遠慮しているのか意地になっているのかも量りかねる。ただ以前より、感情らしきものを見せるようになったことはたしかで、それが嬉しかった。
旅の行程も九割方を過ぎた頃、遠くに懐かしい丘の頂が見えてきた。ここまで来れば、クラーヴまで二、三時間ほどで着く。後は川沿いに道を進むだけだ。
しかしここで、二人の間に一つ問題が生じた。
別の道を行った方が早いのではないかと、アンが言い出したのだ。彼女が指し示すのは、川を隔てた向こう側だった。湾曲する川に沿って迂回するより、真っ直ぐ突っ切れば距離を短縮できる、という主張だ。
「そりゃそうだけどよ」ギュンターは呆れて言い返す。「この川、どうやって渡るつもりだよ。近くに橋なんかねえぞ」
「あれで充分」
次に指し示されたのは、ちょうど川の真ん中辺りにある石だった。
たしかに勢いをつけて飛べば、届きそうな位置だ。といっても、人一人立つのがやっとな大きさの石だ。あれを足場にするのは、かなり切羽詰った状況にあるか、よほどの命知らずだけだ。
セレーナはギュンターを値踏みするかのように見つめ、訊いた。
「恐いの?」
「恐くねえよ!」
反射的に否定するも、命知らず少女の態度は冷ややかだった。目つきだけで、“いくじなし”と蔑まれている気がする。
「大体なあ、ちゃんと見てみろよ」今度はこちらがやり返す番だ。「向こう側は岩場が続いてるだろ。足場が悪いと、それだけ時間もかかる。多少遠回りでも、こっちのが絶対早いんだ。すぐ足挫くようなか弱い女の子には、なおさらな」
この一言がまずかった。アンの表情が変わる。
そう、と言うが早いか、川に向かって駆け出していく。
「おい、ちょっと待っ――」
制止の声にも耳を貸さず、アンは軽やかに宙を舞った。石に足をつけたのも束の間、向こう岸へふわりと降り立った。まるで彼女の周りにだけ、重力が存在しないかのようだ。
アンはさっと振り返ると、唖然として突っ立っているギュンターに、挑むような視線を向けた。
「そっちの道が早いって、証明してくれる?」
そして再び、返事も待たずに駆け出していく。
驚きを通り越し、ギュンターは呆れてその背中を見送った。全く、なんて強情なんだろう。
しかし勝負を挑まれて、黙って白旗を揚げる気はない。
「丘の頂上で待ってるからな!」
返事など端から期待していない。ギュンターも勢いよく走り出す。
アンの足の状態が気がかりではあるが、追っていってもろくなことにならないのはわかきっていた。第一本人が納得しないだろうし、追いつくどころか川に落ちたりしたら、とんだ笑い種だ。
なので一足先に、丘で待っててやるつもりだった。当然、負けるなどとは夢にも思っていない。アンほどの身軽さはないが、走力には自信があった。
一時間待っても来なければ、迎えに行こうと考える。アンはまた、“ありがとう”と言ってくれるだろうか。今度は背中越しでなく、面と向かって。
余計な妄想を追い払い、ギュンターはひたすら丘を目指したのだった。
「一時間三十分遅刻」
そんなギュンターを待ち受けていたのは、アンの澄ました一声だった。
「まじかよ……」
ぜえぜえと荒い息を吐きながら、ギュンターはその場にくず折れた。肩にかけていた荷を放り投げ、その場にごろりと寝転がる。
草が風にそよいで全身をくすぐっていくのが、心地よかった。負けはしたが、なんだか清々しい気分だ。
「俺が間違ってた、ごめん!おまえすごすぎ。完敗」
アンは意外そうにギュンターを見下ろし、目をしばたかせた。こんなときどんな反応をすればいいのか、迷っている風でもあった。いつもの氷の面が崩れると、見ているこちら側としては面白い。そして、ほっとする。
思わず笑みをこぼすと、馬鹿にされたと思ったのか、アンは怒ったようにそっぽを向いてしまった。
「なあ、座れば?疲れてねえの?」
「平気。ずっと待ってたから」
もっともな返答に、ギュンターは返す言葉もない。
上体を起こし、大きく伸びをする。眼下には、見慣れた町の風景が広がっている。のんびり回る水車と、風に揺れる小麦畑。仲間たちが暮らす牧場に鍛冶場。そして父のいる異端審問所。以前と何も変わらない。
「帰ってきたんだな……」
「ここが、クラーヴ」
「そ。俺の故郷へようこそ」
ギュンターは芝居がかった風に両手を広げ、おどけて見せた。それはアンにというより、自分自身を励ますためでもあった。
「……ここに来て、本当に良かったの?」
ぽつりと、アンが呟く。
「心配ねえよ。行くぞ」
ギュンターはすっくと立つと、歩き出す。足は棒のようになっていたが、気力で何とか前に進む。アンの視線の先にあるものを、遮ることはできなくても、今は目を逸らしてほしかった。
父に説明しなければならないこと、アンと話すべきこと。もう後回しにはできない、という思いが、ギュンターの心に重くのしかかっていた。クラーヴに戻ってくるのがよかったのかどうかなど、いくら考えても答えは出ない。ただ他に選択肢が浮かばなかっただけなのだ。
それでもアンは、ここまでついてきてくれた。きっと不安を抱えながら、よく知りもしない男と肩を並べて、見知らぬ土地に踏み入ろうとしている。
だから自分も進むしかない。隣にアンがいるのなら、いくらでも強がっていられると思った。
二年ぶりに、我が家の扉を叩く。
出迎えた母は言葉もなく、二人を交互に見遣った。戸を開いた姿勢のまま、瞬きもせず、ぴたりと静止している。
何か言わなければ、と思ったが、ギュンターの口から出てきたのは、「ただいま」の一言だけだった。
「――おかえりなさい」
母も間の抜けた声で返す。
「ちょっと、いろいろあってさ」
「そうみたいね」二、三度頷きつつ、母はアンに目を向けた。「この子は?」
「アン」
他に説明しようがなかった。“たぶん娼婦”などと言えば、初っ端から印象が悪くなる。“自称魔女”とは口が裂けてもいえない。出会った経緯もまた然り、だ。
「お友達?」
「まあ、そんなとこ」
母に「こんにちは」と声をかけられ、アンも小さく頭を下げる。二人の間に漂っていた緊張感が、少しだけ緩んだ気がした。それからようやく、母はギュンターに向かって微笑んだ。
「とにかく、無事に帰ってきてくれて嬉しいわ。二人とも疲れたでしょう。さあ入って」
その後二人は、久しぶりに手の込んだ料理を食べ、身体を洗うことができた。洗いたての衣服が、肌に心地いい。
自室に入った途端、ギュンターはベッドに倒れこんだ。旅の疲れが思い出したように、どっと押し寄せてくる。今頃はアンも母の部屋で休んでいるはずだ。一時の安らぎではあるが、今こうしていられることをありがたく思った。
枕に顔を埋め、目を閉じる。もう少しで眠りに落ちる、というときだった。
こつん、と窓に小石の当たる音がした。
がばと飛び起き、窓を開ける。外で手を振っていたのは、予想通りの懐かしい顔ぶれだった。ギュンターは疲れも忘れ、廊下を飛び出した。母の部屋の前で少し思案するが、結局そのまま階段を降りる。アンの紹介は、後日ゆっくりすればいい。
「ちょっと出てくる」とだけ母に告げ、家を出た。
すると、すぐさまバルテル達が駆け寄ってくる。
「おかえり、ギド!元気だったか?」
ヴォルフの甲高い大声も、久しぶりだと耳に心地よく響く。
「おう、見ての通りだよ。おまえらも元気そうじゃん。それより俺が帰ってきたこと、何でそんな早くわかったんだよ?」
ギュンターが笑いながら返すと、デルトルトが自慢げに胸を張った。
「僕の情報網を舐めてもらっちゃ困るね。すでに目撃情報多数、だよ」
「ギド、会いたかったよ。リーダー達がいないと、やっぱり違うね」
「そうそう、ブルじゃリーダーは務まらないんだよね」
アヒム、コニーも口々に話し出す。バルテルは「うるせえな」と文句を言ってから、ギュンターに向き直った。
「随分早い帰りじゃねえか。向こうで何があった?フリッツは?」
「デマじゃなければ、一緒にいたのはフリッツじゃなくて、見かけない女の子だって話だけど?」
デルトルトが続ける。ヴォルフとコニーが、同時に口笛を吹いた。アヒムは心配そうな顔で、ギュンターの答えを待っている。
「話すとちょっと長くてな――」言いかけて、ギュンターははっと遠くに目を留めた。「やば、親父だ」
まだ顔も判別できない距離だが、あの巨大さは間違いない。普段より随分早い帰りだ。ギュンターの帰りを、どこかで聞きつけたのかもしれない。ゆっくりながら大股な足取りで、ぐんぐんこちらに近づいてくる。
ギュンターは慌てて皆に言った。
「悪い。後でゆっくり話す。今夜ヘヴンで」
「わかった。席確保しとくよ」
コニーが頷いた。
町で唯一の酒場『ヘヴン亭』は彼の両親が営んでいるので、そのコネを利用して、ギュンター達は子どもの頃から自由に出入りし、周囲の大人たちからも黙認されていた。そしてギュンターの父オスヴァルトは酒を一切飲まないため、ここには決して現れない。まさに絶好の場所なのだ。
他の四人も了承し、それぞれ引き上げて行く。ただ一人、アヒムだけがその場に残り、不安げに尋ねた。
「大丈夫?」
父に殴られやしないかと、心配してくれているようだ。
「まあ、たぶんな」
ギュンターは苦笑しつつ、頭をかいた。たぶん、ではない。確実にやられる。それに今回は、拳だけで済まない問題だ。
「けど、心配ねえって。何とかなるさ。二年ぶりなら、向こうの拳も錆付いてるだろうしな」
今言えるのは適当な強がりだけだったが、聞いてくれる相手がいるのはありがたかった。
「逃げたくなったら、うちの馬使っていいからね」
牧場で生まれ育ったアヒムの心は、いつも真っ直ぐで、雄大だ。もし頼めば、馬の一頭や二頭、すぐに連れてきてくれるだろう。そしてアンと町を離れ、自由にどこまでも駆けて行くのだ。可能かどうかはともかく、それも悪くない、と思えるほどに、アヒムの提案は心温まるものだった。おかげで、張り詰めていた気持ちもいくらかほぐすことができた。
ギュンターはアヒムの頭に、ぽんと手を置いた。
「サンキュ。そのときは、よろしく頼むよ」
アヒムはにっこり笑って、頷いた。
家の前で、ギュンターは二年ぶりに、父との気まずい再会を果たした。父は無表情で、上からギュンターを見下ろしている。
「何しに帰ってきた?」
肌を刺すような、冷たい声だった。当然ながら、歓迎の色は微塵もない。
「司祭殴って、修道院から追放された」
「それは知ってる」
きっと修道院長からの手紙で、報告を受けていたのだろう。追及の手は緩まない。
「どの面下げて、ここにいるのか聞いている」
「他に行くとこねえんだよ。なんか、自分のやりたいことがわかんなくなった。少しでいいから時間がほしい。ちゃんと考えて、答え出すから」
「ふざけるな!」
父の固い拳が頬を打つ。口の中に、懐かしい血の味が広がった。
「どこまで親に恥をかかせる気だ。出て行け、目障りだ」
そのとき、二人の間にすっと割り込んだ者がいた。母ではない。アンだった。ギュンターに背を向け、父と対峙している。
「全部わたしが悪いの。彼はわたしを庇って、巻き込まれただけです。だから――」
「アン、下がれ!もういいから」
ギュンターは咄嗟にアンの腕を掴み、引っ張った。しかしアンは、すぐにその手を振り払った。思っていたよりずっと強い力だった。
「だから、親が子どもに、出て行けなんて言わないで」
しん、と場が静まった。いつの間にか、母も戸口から姿を現し、息を詰めて事態を見守っている。いつものごとく介入してくることはないが、こうして出てくることも珍しい。
アンは臆することなく、父を睨みつける。父は表情ひとつ変えず彼女を見下ろしながら、言った。
「この女は何だ」
「友達だよ」すかさずギュンターが答える。「旅の途中で会って。他に行くとこないらしいから、連れて来た」
「目障りなら、わたし一人で出て行きます」
「アン!」
「惨めだな。女に庇われるのは」
言い返す間もなく、父は二人に背を向けていた。待っていた母と目が合うが、何も言わずにすぐ横を通り過ぎ、家の中へ入っていく。
姿が見えなくなると、母は優しく微笑み、ギュンター達を迎え入れた。「いいの?」とギュンターが聞くと、「いいのよ」と頷く。先程の僅かなアイコンタクトで、片がついたようだ。ギュンターはほっと安堵の息を吐き、母に感謝した。そしてもう一人、戸口で複雑な表情を浮かべている、勇敢な友人にも。
「入れよ」振り返り、声をかける。「ちょっと驚いただろうけど、気にすんな。親父はいつもあんなだから」
それでもアンは、まだ何か言いたそうな顔だ。母が横から口ぞえする。
「さっきはギドを助けてくれてありがとう。あなたのことも、歓迎するわ」
母に背中を押され、アンは戸惑いつつも足を踏み入れた。そして緊張した面持ちで、「ありがとうございます」と頭を下げた。
「自称魔女って――マジかよ、それ?」
ギュンターの話を聞き、真っ先に声を発したヴォルフ以外も、皆が同じ思いのようだった。
その日の夜。約束どおり、ギュンター達は『ヘヴン亭』で顔を揃えた。コニーの母親が、にこやかに迎えてくれる。
「あら久しぶり。少し見ない間に、大きくなったわねえ」
六つのジョッキを軽々と運びながら、ギュンターに声をかける。店が混雑していたこともあり、「飲み過ぎはだめよ」と言い残し、さっさと席を離れていった。ヴォルフが真っ先にジョッキを手に取る。
「とりあえず、ギドが帰ってきたことに、乾杯!」
「乾杯!」
皆がそれに続いて、盛大にジョッキをぶつける。少しぐらい飛び散るほうが、気持ちもスカッとするものだ。一気に葡萄酒を煽ったところで、ギュンターはジョッキを置いた。
ここでなら、話をするには最適だ。周りは酔った大人たちでごった返していて、誰もこちらに興味は向けていない。ギュンターはこの席で、初めて包み隠さず、アンとの経緯を話したのだった。
父の耳に入れば厄介なことになるが、その点は心配していなかった。噂好きのデルトルトでさえ、仲間のためなら固く口を閉ざしてくれる。あえて口止めする必要もない。
「で、どうするつもりだ?」バルテルが口を開く。「異端審問官の息子が、魔女と一緒に暮らすつもりか?」
「あいつは魔女じゃねえよ」ギュンターはすぐに言い返す。「いつもロザリオを首に提げてる。悪魔が近づくのは無理だ」
今度は全員が、難しい顔をして考え込む。
「けど……自白したんだろ?」
コニーが言いたいことも、充分すぎるほどわかっている。
魔女と判断される基準の中で、自白は最大の決め手だ。他にも身体に不自然な痣があったり、大量の水を飲ませ、無理やり吐かせて異物が混じっていないか調べたりなど、地方によって方法は様々だが、唯一共通なのが“自白”だったのだ。だからこそ「私が魔女です」の一言を得るために、拷問まで行われる。
つまりアンは過程を飛び越えて、いつ処刑台に上がってもおかしくない状況にあるのだ。それについて、本人はどこまで自覚しているのだろう、と思う。
「とにかく、彼女が何者かはっきりさせないと」デルトルトがきっぱりとした口調で言う。「話し合うのはそれからだ」
「じゃあ、皆でアンに会ってみたらどうかな?」
アヒムの提案に、バルテルが顔を顰めた。
「気乗りしねえな。素性のわからない女だぞ。気味悪くってしょうがねえ」
「俺は会ってみたいなあ! 見てみたいじゃん。ギドが惚れた子だよ?」
「惚れてねえよ」
真っ先に賛成したのはヴォルフだった。一言余計だったので、ギュンターは即座に否定する。
「素性がわからないほど、女性は魅力を増すっていうしね。いつでも歓迎するよ。ブル、もしかして恐いの?」
続けてコニーも同意する。が、腹を立てたバルテルにヘッドロックをかけられ、哀れな声を上げた。
「僕もはっきりさせる意味で、彼女には興味があるね」
デルトルトの意見を聞いて、アヒムはにっこり微笑んだ。
「これで決まりだね」
「わかった。じゃあ明日、アンに話しとく」
ギュンターがそう言ってバルテルを見ると、彼も不承不承頷いた。話がまとまったところで、場は一気に明るくなった。皆が二年間の思い出話に花を咲かせ、豪快に酒を煽った。
帰り道はさすがに足がふらついたが、気持ちはすっきりしていた。クラーヴに戻ってきたのは間違いじゃない。ようやくそう思えからだった。
翌日。両開きの扉がついた窓から、細い光が差し込み、ギュンターは目を覚ました。窓を開くと、陽はすでに高く昇っていた。眩しさに目を細めながらも、空を見上げる。今日は雲ひとつない晴天だ。
「やっぱ、朝はこうでないとな」
陽が昇る前から活動を始める修道院生活は、ギュンターにとって辛い以外の何物でもなかった。いい加減慣れろよ、とフリッツに呆れられたのが、随分前のことに思える。
清々しい気分の中に、ちょっぴり苦い後味を感じつつ、ギュンターは身支度を整えた。部屋を出る頃には、気持ちも切り替え、これからのことへと向かっていた。
一階に下りると、母が「おはよう」と迎えてくれた。食卓にはすでに二人分の朝食が並べられている。
「ちょうどよかった。そろそろ起こそうと思っていたところよ」
「親父は?」と訊くと、もう仕事に行ったと言う。部下泣かせに、飛び切り早く出勤するのはいつものことだ。顔を合わせなくて済んだことに、内心ほっとする。
「アンは?」
「今二階の部屋にいるわ」
ということは、廊下の奥にある客室だ。
「わかった。じゃ、呼んでくる」
後ろで母がまだ何か言っているようだったが、気にせず階段を上がっていく。
あれからアンとはまともに話せず、ずっと気がかりだったのだ。父との件で、ここに来たことを早くも後悔しているんじゃないなど、色々考えてしまう。もしかしたら、すでに部屋から抜け出していて、一人でどこか遠くへ、なんてことも、彼女なら大いにありうる。
「アン、いるか?入るぞ」
ノックするのとほぼ同時に、ドアを開く。
アンはベッドに腰かけ、ちょうど靴を履いたところだった。昨日とはがらりと印象が変わっている。
青いロングスカートに、白の長袖ブラウスを腕七分丈までたくし上げた姿は、よく見かけるごく普通の町娘だ。紅いドレスを着ていたときの、どこか近寄り難い雰囲気は、幾分和らいでいる。ただ険しい目つきだけは、未だ健在だ。
「いきなり入ってこないで」
ぴしゃりと言い放つ。ギュンターは口を尖らせた。
「なんだよ。ちゃんとノックしたじゃんか」
「まだ返事もしてない」
「はいはい、そりゃ悪かったな」
ギュンターは肩を竦めた。いつものアンであることを、今は喜ぶべき、なのだろうか。
「ま、そんなことよりさ」気持ちを切り替え、本題に入る。「今日は町へ出よう。一通り案内してやるよ」
アンは不安げにギュンターを見上げ、「いいの?」と聞いた。
「当たり前だ。良いも悪いもあるか。用意ができたら、さっさと行くぞ」
今度は素直に「わかった」という答えが返ってくる。
「よし、じゃ下で待ってるな」
それから少し思い直し、一言添える。
「アンはさ、そういう色のがいいよ。ちょっとは優しそうに見えるから」
「それはどういう――」
最後まで聞かず、ギュンターは部屋を飛び出した。階段を駆け下りる足取りは、自然と軽やかになっていた。
朝食を済ませ、二人がまず向かったのは、朝の活気溢れる商店街だった。野菜や肉、豆類など、それぞれの露店が並んでいる。
歩いていると、店の主人や買い物客が、あちこちから声をかけてくる。
「あら、ギドじゃないかい?」
「よお、どうしたんだ? 修道院に入ったんじゃなかったのか?」
「あ、ギド兄ちゃんだ!」
ギュンター達の後を引き継ぎ、新たな“悪ガキ”となった子ども達も、こちらに駆け寄ってくる。
「おう、久しぶりだな」
子ども達の頭をわしゃわしゃと撫でてやり、大人達の質問攻めを適度に受け流しながら、ギュンターは先へ進んでいく。
好奇の視線に晒されているアンは、ずっと黙りこくったままだ。涼しい顔をしているが、きっと居心地が悪いのだろう。足取りがだんだん速くなっていく。
「おはようギド。何か買ってってくれよ!」
甲高い声で呼んでいるのはヴォルフだ。いくつか店を挟んだ先で、片手をメガホンにして、もう一方の手を上げる。彼の周りにはカラフルな果物たちが、所狭しと並べられていた。
「じゃあリンゴ二つな」
ギュンターは頭上で“2”と示し、お代のコインを投げる。まいど、と言って、ヴォルフはコインをキャッチし、リンゴを二つ投げてよこした。彼らの間にいる人々は、頭上を行き交うリンゴとコインを、呆れたように見やる。驚く者が一人もいないのは、すでに見慣れた光景だったからだ。
飛んできたリンゴの一つをアンに渡すと、ヴォルフが「あー!」と大声を上げてこちらを指差した。それから慌てて声を潜め、「ちょっとちょっと」と手招きする。
無視するわけにもいかないので、ギュンターは仕方なく果物屋の前まで赴いた。アンはすでに全身から、警戒心をむき出しにしている。
「リアクションがでかいんだよ」
何か言う前に、ヴォルフの頭を軽くはたく。が、反省の色は全くなく、彼の目はアンに釘付けだ。
「君が例の、あの――」
「アンだよ」とギュンターが代わりに答えてやると、「わかってるよ」とおざなりな返答が返ってくる。それからかちこちな態度で、アンに挨拶をした。
「初めまして。俺ヴォルフっていいます。ギドの友達で、君の、アンのことは話で聞いてて。その、まあとにかくよろしく!」
手を差し出すが、思い直したように引っ込め、ごしごしと服の裾で汗を拭ってから、もう一度握手を求める。その忙しない動きを、アンは冷めた目つきで見下ろす。そして説明がなかったことを責めるように、ギュンターを横目で睨んだ。ギュンターは肩を竦め、応えてやれよ、と顎先で促してやった。アンは小さく溜息を吐き、差し出された手を握り返した。
やり取りに気づいていないヴォルフは、心底幸福そうだ。この店で一番甘い果実を食べたとしても、ここまで口元が綻ぶことはないだろう。アンがすっとその場から離れてしまった後も、「かわいいなあ」と鼻の下を伸ばしきっている。
付き合いきれず、ギュンターは無理やり話題を変える。
「店番、一人でやるようになったんだな」
ヴォルフは得意げに胸を張った。
「ようやく一人前って、認めてもらえたんだ。いずれは次期店長だからな」
「頼もしいじゃん」
よく店番をサボり、親に怒られていた腕白小僧も、いつの間にか大人になったようだ。自分の店だと胸を張る姿が、今のギュンターには眩しく映った。
「そうだ、アンの歓迎会をしよう!」話は再びアンへと戻る。「またヘヴンに集まってさ。みんな絶対喜ぶよ」
ギュンターは活き活きとしたヴォルフから、距離を取って待つアンに目をやった。提案する側とされる側で、思いは正反対のようだ。それを認識したうえで、ギュンターは朗らかに言った。
「そうだな。よろしく頼むよ、幹事」
「おし、任せとけ!」
「わたしは――」
アンが抗議の声をあげようとするが、「じゃ、そろそろ行くわ」とすかさず遮った。手を振るヴォルフを後に、彼女の腕をとって歩き出す。
「どうして勝手に決めるの?」
果物屋が見えなくなり、腕を放した途端、アンは険のある声で訊いた。
「好意で言ってくれてんだから、素直に受けとけよ。それに、新入りは挨拶すんのが基本だろ」
ここまでついてきた手前、反論できなかったらしい。アンは不服そうな顔で口を噤んだ。いつも強気な彼女にそんな表情をされると、優越感があり、少し可哀想でもあり、なんとも複雑な気分になる。
「どうしても嫌だって言うなら、しょうがねえけどさ」
付け足すように言うと、少し間を置いた後、意外にも真っ直ぐな目で「行く」という答えが返ってくる。「よっしゃ」とギュンターが笑いかけると、すぐにそっぽを向かれてしまったが。彼女の本音が聞けるには、もうしばらく時間が必要らしかった。
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