15
「ここがオルレアンかぁ……」
馬車から下り立ち、とりあえず目的地へ着いたことに、ヨハネスは安堵の吐息をついた。
フランスへ行け、とだけ言われ、迎えに来た馬車が向かった先は、大都市パリではなく、商業都市オルレアンだった。
地名だけなら、ヨハネスも聞いたことがある。フランスの主要都市であるのは確かだが、なぜ師が敢えてここを選んだのかがわからなかった。迎えに来た御者も、特にオルレアンに詳しいわけではなく、ただ肩を竦めるばかりだった。
現地の医学校への編入手続きは既に済んでおり、新しい部屋も確保されていたりと、用意は万全だった。学校長からは、一日ゆっくり身体を休め、翌々日から来るように、と言われていた。
その日の晩は、旅の疲れもあり泥のように眠ったが、翌日は一人で街中に出た。せっかくもらった一日なので、散策することにしたのだ。部屋でじっとしているのが落ち着かなかったせいでもある。
どこに行くあてもないので、とりあえず大きな通りをぶらぶら歩く。
土曜日の午後。晴れ渡った空の下、ひしめく露店の前はどこも人で溢れていた。
「今朝入ったばかりの胡椒だよ!どの料理にも相性抜群!香味料の中でも最高級品だよ!」
露店の店主が手振りを交えて、客を呼び込んでいる。その光景は、ヨハネスにとって懐かしいものだった。
彼の育った場所は、港町だけあって、町中は多くの露店が建ち並んでいた。店主達が、今朝釣れた魚介類を我先にと港で仕入れ、早朝から賑わっていたものだ。
父が商船に乗り、外国へ出航するときと帰ってくるとき、ヨハネスはいつも母と一緒に、港まで送迎に行っていた。朝の騒がしい光景を見るのが、楽しみでもあった。
当時は、自分も父のような商人になるのだと、漠然と思っていた。九歳の、あのときまでは。
「兄ちゃん、栄養は足りてるかい?ちょっと痩せすぎだな、胡椒はどうだい?食欲倍増だよ!」
先ほどの店主が、声をかけてくる。ヨハネスは微笑みながらも、丁重に断った。しかしふと思い直し、少しだけ購入することにする。上機嫌の店主から胡椒の包みを受け取りながら、気になっていたことを口にした。
「ここはずいぶん人通りが多いんですね。いつもそうなんですか?」
「いやいや、今日は特別だよ!なんせ街最大の祭りが開催されるんだからな」
「祭り、ですか?」
「そうだよ、兄ちゃん知らないのかい?ジャンヌ・ダルク祭だよ!」
ジャンヌ・ダルク――。ヨハネスは呟くように、繰り返す。彼女の名前なら、聞いたことがある。
百年ほど前、百年戦争と呼ばれた長い戦いの、終わり頃のことだ。若干十七歳だった少女が、鎧を身に纏い、フランスの救世主となった話は、いまやヨーロッパ中に広まっていた。
そこでヨハネスは、はっと気がついた。そう、彼女が相手国からの侵攻を防いだ街こそ、このオルレアンだったのだ。
「今年も準備にかなり力を入れていてね。広場にある、大きな騎馬像は見たかい?」
ヨハネスは今通ってきた道程を思い出しながら、首を振る。
「いいえ、わかりませんでした。その広場はどこに?」
「ここを真っ直ぐ行ったところさ。四、五年前にできたばかりの像なんだ。偉大なるジャンヌ・ダルクが、馬に乗っている凛々しい御姿さ。一度見ていったらいい」
ヨハネスは店主に礼を言い、広場へと足を向けた。小さな期待が、胸に広がっていた。師の言っていた意味が、ようやくわかった気がした。
ジャンヌ・ダルクの話には、その後哀しい結末がある。オルレアンを防衛した後も、彼女は各地の戦場に赴き、先陣を切った。しかし戦争が終わる頃、遂に敵に捕らえられ、捕虜となってしまった。
そして彼女に告げられたのは、人々を不当に惑わせた異端の罪として、火刑に処す、というものだった。神のお告げによって、農民の暮らしに別れを告げ、剣を手にしたこと。神の言葉に従い、国を救ったこと。全ては異端の罪になったのだ。彼女は最後まで、自分の主張を曲げなかったという。全ては神の思し召しなのだと。
異端とは、一体何なのか。英雄から魔女へと転落した少女を、当時の人々はどう思ったのか。それを知る手がかりが、この街で得られるかもしれない。そう思うと、ヨハネスの足は自然と速まるのだった。
広場は、既に多くの人で賑わっていた。輪の中央には、例の騎馬像が堂々と聳え立っている。鎧を身につけ、反り立つ馬の上で剣を掲げる姿だ。
ジャンヌ・ダルクの顔を見るのは、これが初めてのことだった。当時彼女が十七歳だったことを、誰が信じられただろうか。少女でもなく、女性でもなく、それはまさしく『戦う乙女』だった。真っ直ぐ先を見据える目には、強い意志がこもっているように感じられる。今にも馬と共に駆け出していきそうだ。突き出した剣の切っ先が、きらりと光った気がした。
この像を見れば、充分にわかる。オルレアンの人々は、ジャンヌ・ダルクを心から敬愛している。たとえ魔女として処刑されようと、街を救った事実に変わりはない。彼女はきっと、彼らの中で、いつまでも英雄であり続ける。
瞬きも忘れるほど、その像に見入っていたときだった。
「オルレアンに来たのは、初めてですか?」
最初、自分が声をかけられたとは思わなかった。ワンテンポ遅れて、ヨハネスはようやく我に帰る。振り返ると、一人の女性が立っていた。
少し年上だろうか、と思う。落ち着いた物腰のせいか、年齢のわかりづらい、大人びた雰囲気がある。
僕のことですか、と戸惑いながらも訊いてみると、女性はおかしそうに頷いた。
「突然話しかけてごめんなさい。驚かれてしまいますよね」
「あ、いえ、そんな……。でも、どうして――?」
自分に何かおかしな点があったのかと、少し不安になる。女性はヨハネスの心情を察したかのように、優しく微笑んだ。
「さっきのあなたの様子を見て、私が初めてこの街に来た頃のことを思い出したんです。あの像への感じ方が、街の人達とは少し違う気がして」
「違う、というと?」
女性は考え込むように首を傾げた。
「そうですね……言葉にすると難しいのですが……。戦乙女の話を、どこで聞いたのかによるんでしょうか。ちなみに、あなたはジャンヌ・ダルクをどう思いますか?」
改めて訊かれると、どう答えていいのかわからない。
ジャンヌ・ダルクの話を知った当時は、フランスに行ったことなどなく、他所の国の出来事でしかなかった。
ヨハネスはもう一度騎馬像を見上げた。
彼女の凛々しい姿には、人を強く惹きつける魅力がある。神の加護があると信じ、共に戦った兵達の気持ちもわかる気がする。しかしそれにも増して、ひとつ感じたことがあった。
「かわいそうかなって、思います。あまり相応しい表現じゃないかもしれませんが。なんとなく、悲しそうにも見えるんです」
女性はヨハネスの言葉を噛みしめるように、「そうですか」とゆっくり頷いた。それから隣に立ち、同じように像を見上げた。その横顔には、何かに思いを馳せるような、複雑な表情が浮かんでいた。そして、ポツリと言う。
「私も、同じように思います」
「えっ――?」
「だから何となく、この像が好きになれなくて。でもこうして、たまに足を向けてしまうんです。――ごめんなさい、何言ってるかわからないですね」
ヨハネスが答えあぐねているうちに、女性は騎馬像から目を背けた。そして広場から繋がる通りのうち一本を指し示す。
「この先にある教会に、もうひとつのジャンヌ・ダルク像があるんです。よかったらご覧になりませんか?」
「あ、はい、ぜひ見てみたいです!」
好奇心に駆り立てられ、ヨハネスはすぐさま頷いていた。女性は優しげに目を細め、にっこりと頷いた。
歩いて十分ほどのところに、目的地サン・クレア大聖堂はあった。こちらは随分年数の経った建築物のようだ。ステンドグラスが太陽光に反射して、鈍く光っている。
女性は聖堂内ではなく、中庭の方にヨハネスを案内した。先程の広場とは打って変わって、静謐な空気に包まれている。よく手入れされた草木が風に揺れる中、その像はひっそりと佇んでいた。
白の長いローブを身に纏い、胸の前で手を組み合わせ、祈る姿。とても同じジャンヌ・ダルクとは思えなかった。真っ直ぐ前を見据えた瞳は、ここでは閉じられ、神の声に耳を傾けるように、天へと顔を向けている。その穏やかな姿は、どう見ても敬虔な少女であり、それ以上でも以下でもなかった。
「私には、こっちのジャンヌ・ダルクの方が、本当の姿なのだと思うんです」
像を見つめながら、女性が口を開く。
「たしかに彼女は、とても勇敢な女性です。人生を懸けて、他の誰にも為しえない、大きな役目を果たしました。でもその前に、彼女だって一人の女の子だったはずです。神のお告げとはいえ、戦いに行くのはとても恐かったでしょう。鎧を身につけ、剣を携えた姿は、その恐怖を封じ込めているようで、見ていてたまらなくなるんです。
その後も処刑される直前まで、彼女は頑なに男装を解かなかったといいます。女の子に戻ることなく、戦士として、この世を去ったんです」
農民として普通の生活を送っていた少女は、神の声を聞いたとき、何を思い、剣を手に取ったのか。それは今や誰にもわからない。彼女は栄光の代償に、平安という大きなものを失ったのだ。そう思うと、騎馬像を見たときに感じた印象が、ようやく理解できた気がした。
女性は悲しげに先を続ける。
「本当に、彼女でなければいけなかったんでしょうか。戦争を始めたのは、名前ばかりの顔も知らない人たちなのに、どうして責任を負わせられたのでしょう。神はときに、残酷だと思います」
「残酷――ですか」
クリスチャンのヨハネスにとって、その一言は鈍痛を伴うものだった。けれど反感も覚えなかった。彼女の穏やかな口調には、不思議な説得力があった。
束の間沈黙が降りる。すると女性は、はっとしたように口に手を当てた。
「あ……ごめんなさい。つい不謹慎なことを。神を冒涜するつもりはなかったんです」
「いえ、責めてるわけじゃありません。あなたの言うことも、きっと正しいです。とても思いやりのある考え方です」
女性はほっと表情を崩し、ありがとう、と微笑んだ。ヨハネスも安心し、率直な思いが自然と言葉を紡いでいく。
「僕は幼い頃からずっと、神はいつも僕たちを守ってくださるのだと信じていました。もちろん今だってそうです。だからジャンヌ・ダルクが救世主として選ばれたのも、運命だったのだと思います。
でも神に対してどういう思いを持つのかは、それぞれの自由です。正教とか、異端とかの区別は、正直嫌いです。お互いの価値観を認め合えるときが、いつか来ればいいのにって思います」
「ええ、本当に」
女性は深く頷いた。像に向けた瞳は、ジャンヌ・ダルクを介して、違う何かを映しているように感じられた。いろいろと思うところがあるようだ。
「少しだけ、私の話をしてもいいですか?」
ヨハネスはこれに快諾する。これから特に行くところもないし、何より彼女の話に興味があった。
「広場にある騎馬像は、小さかった頃の妹と似て見えるときがあります。決して、ジャンヌ・ダルクと重ね合わせてるのではありません。ただ鎧に身を固めている姿が、です。
妹はどんなに辛いときでも、滅多に涙を見せることはありませんでした。もともと感情を表に出さないところはあったのですが、母が亡くなってからは、一層他人に心を開かなくなりました。ときに家族である父や私でさえ、あの子のことがわからなくなりました。今まで繋がっていたはずの絆が、少しずつ消えていく気がして、悲しかった。手を差し伸べようとしても、全然届かなくて……」
女性はそこまで言って、目を伏せた。瞼を閉じ、手で口元を覆う。しかし、彼女は泣かなかった。再び目を開いたとき、その目に涙はなかった。
「そんなとき、ここで二つの像に出会いました。それで思ったんです。妹も、私たちと同じく悩んでいたんじゃないかって。母が亡くなるとき、あの子はその一部始終を見てしまいました。そして母と同時に、多くのものを失いました。誰も信じられず、悲しみを表に出さないまま、あの子は鎧で身を固めてしまったんだと思います。これ以上、傷つかないように。
その後、妹は一人叔母の家に引き取られていきました。あれから一度も会っていません。もっと早く、気づいてあげればよかった。弱さを隠す必要なんかないって、言ってあげればよかった」
女性はジャンヌ・ダルク像の頬を、そっと撫でた。まるで妹のぬくもりを、そこに感じているかのように。ヨハネスは隣で、静かにその様子を見守っていた。
夏の長い一日も、いつの間にか終わりに近づいていた。日中でも薄暗い中庭が、次第に暗さを増していく。ジャンヌ・ダルクも目を閉じたまま、濃い影を足元に落としている。ヨハネスには、これから彼女が深い眠りにつくようにも見えた。
女性が顔を上げ、ヨハネスを振り返る。
「そろそろ行きましょうか。もう帰らないと」
二人は言葉少なに、教会を後にして歩き出す。広場は相変わらず、賑わいを見せていた。祭りを間近に控えた人々の熱気が、こちらにまで伝わってくる。
「じゃあ私はここで。付き合ってくれて、ありがとうございます」
女性が丁寧に頭を下げる。ヨハネスは慌てて手を振った。
「こちらこそ、案内してくれて助かりました。話を聞けて、よかったと思います」
今日の貴重な出会いに、ヨハネスは感謝の気持ちでいっぱいだった。女性に向けて、おずおずと手を差し出す。
「僕はヨハネス・ヴァイヤーといいます。あなたがいつか妹さんと笑い合えること、心から信じてます」
女性は微笑んで、その手を握り返す。
「私はルイーダ・リーベルトです。ありがとう。どうかお元気で」
近くで向き合ったとき、ヨハネスの心で何かがざわついた。しかしその理由がわからないまま、いつの間にかざわつきは消えてしまっていた。
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