13

「ヨハネス先輩、この書類はどこにしまえばいいですか?」

「ヨハンでいいよ、歳は変わらないんだから」

 ヨハネスは苦笑しながら、書類を納めるべき箱を指し示した。

 彼がアグリッパの弟子になった後、三人の生徒が住み込みで弟子入りをしていた。皆ヨハネスのときと同様、決して温かいとはいえないもてなしを受け、初日から辛辣な言葉を浴びた。

 落ち込む彼らに、ヨハネスはこっそり叱られないためのアドバイスを与えたり、相談にのったりと、ちょくちょく面倒をみてきた。弟子の苦労を身に沁みてわかるだけに、放っておけなかったのだ。

 それをきっかけに、彼らはヨハネスを慕い、一目置かれる存在になってしまった。三人のうち、二人は年下だからいいものの、今話しているクルトは同じ歳なだけに、何とも居心地が悪い。

「だって先輩は先輩じゃないですか。アグリッパ先生に怒られたとこ、未だに見てないんですから、やっぱり尊敬に値します。自分なんて、この家に住む全員分の両手両足でも数えきれないぐらい、失敗してるんですよ」

「それは大袈裟じゃないかな、さすがに……」

「大袈裟なんかじゃありません。この間だって――」

 クルトの悪い話し癖が始まりそうだったので、ヨハネスは慌てて口を挟んだ。

「ほらほら、早く書類整理を終わらせないと、また後悔することになるよ」

「そうだ、先輩まで巻き込むわけにはいきません!」

 途端に、クルトはきびきびと作業を再開する。ヨハネスはこっそり顔を綻ばせ、机に散らばった書類をかき集めた。

 足元では猫のチェロがまとわりつき、甘えた鳴き声をあげる。食事は与えたばかりなので、単に構ってほしがっているようだ。「今は忙しいから、もうちょっと待っててね」と声をかけると、チェロは素直に離れていき、定位置の暖炉の前で丸くなった。家の中を自由に歩き回れるようになった現在も、薄暗い研究室が彼女の一番のお気に入りだ。おかげで開かずの扉も、今では開けっ放し状態だ。

 アグリッパの元に弟子入りしてから、三年が経とうとしていた。しかし四年目を目前にして、事態は変わりつつあった。近々、ドイツの街ボンへ引っ越すことになったのだ。アグリッパにとっては数ある経験の中の、取るに足りない小移動であり、ヨハネス達にとっては、人生の大きな分岐点となった。なぜなら、世間的に見れば、この移動は“追放”だったからだ。

 この三年間、アグリッパは『学問と芸術の不確かさと虚しさ』を筆頭に、数々の著書を世に出し、話題をさらった。学問を研究する身でありながら、学問の曖昧さを説き、知識人達は傲慢だと批判する彼の意見は、各学会に波紋を呼んだ。そしてこの思想は危険極まりないという結論に達し、彼は数ヶ月ほど前、ついに投獄された。

「牢獄など見慣れたものだ。どこにいようが論文は書ける」

 そう言ってのけた発言は、はったりではないようだった。実際彼は獄中でも、精力的に執筆を行った。

 そして、裏でどんな手段を使ったのか知らないが、割とあっさり釈放され、特にその後追及を受けることもなかった。ただひとつ、速やかにアントワープから立ち去る、という条件以外には。つまり犯罪者とほぼ同等の扱いだった。

 しかしアグリッパは、それでもめげない。

「この街もちょうど飽きてきたところだ。全く、契約の期間が過ぎても歴史の記録作業から解放されず、迷惑していたんでな」

 その後、一通り師の愚痴を聞いてから、ヨハネスは弟子全員の不安を口にした。

「でも先生、これからどこへ向かうんですか?」

「ボンだ」

 アグリッパは得意げに答える。今日は珍しく機嫌が良い。口元がへの字以外になっているのは、実に久しぶりだ。

「ついてきたければ、勝手について来い。行くあてはある。ただし、おまえ達が私の共犯者として捕まろうがどうしようが、責任はとらないがな」

 ヨハネス達は顔を見合わせた。アグリッパが部屋を出て行っても、誰も口を開こうしなかった。三人の後輩達の顔は、一様に不安げだった。“共犯者”と言われれば、二の足を踏むのも無理はない。特に年下の二人は、まだ弟子入りしたばかりで、十三、四歳だ。

 気の毒に思い、無理についてくる必要はないと、言いかけたときだ。考え込む風だったクルトが、ふいに顔を上げた。

「先輩は、アグリッパ先生をどう思っていますか?」

 ヨハネスは少しの間迷ったが、正直に答えることにした。

「とても優しくて、正義感の強い人だよ。いろいろと衝突することも多いけど、それは先生が、いつも本気で相手と向き合ってるからだと思うんだ。悪いことをして投獄されたんじゃない、勇敢に立ち向かった証だと、僕は信じてる」

 後輩達は再び顔を見合わせ、今度は安堵の笑みを浮かべた。こうして、結局弟子全員が師についていくと決めたのだった。

 荷造りも終わり、出発の時が近づいていた。片付いた自室を見渡し、過ごした三年間の感慨に耽っていると、階下から「行くぞ」という声がかかった。

 慌てて階段を降りていくと、すでに家の前で大きな荷馬車が待機していた。後輩達が、せっせと荷を運びこんでいる。一方声を発した張本人は、壁にもたれて胡坐をかき、読書に耽っている。

「先生、先に馬車へ乗っていていいですよ。後は僕たちだけでできますから」

 アグリッパはちらりとヨハネスを見上げ、すぐに本へと視線を戻した。

「いや結構。これからうんざりするほど、揺られるはめになるからな」

 とは言うものの、どっちみちもうすぐ乗り込むのだから、大した違いはないように思う。が、ヨハネスはそれ以上口を挟まず、そっとしておくことにした。きっと彼なりに、この家との別れを惜しんでいるのだろう。

 ヨハネスも加わり、四人総出で準備をし、ようやく荷を運び終えた頃、アグリッパは本を閉じて立ち上がった。

「さて、行くか」

「はい!」

 いよいよ新たな地への出発だ。不安はすでに振り払い、むしろ清々しい気分だった。

 足元にあるトランクを持ち上げる。アグリッパに弟子入りしたときと同じ、牛皮の丈夫なものだ。あのときはこれ一つで、一人でやってきたのだ。今回は皆がいる。だからきっと上手くいく。

「ああそうだ、忘れるところだった」

 アグリッパが、ふと足を止めた。ヨハン、と軽い調子で呼びかける。

「おまえはフランスに行け」

「……はい?」

「心配するな。迎えのものは手配してある。荷はそのトランクだけで充分だろう。今まで同様、しっかり学んでこい」

 さっぱり事態が呑み込めず、呆然とするヨハネスを残し、アグリッパはさっさと馬車に乗り込んだ。後輩たちも突然のことについていけず、おろおろしていたが、師に急かされ、慌てて後を追う。

 クルトが泣きそうな顔で、こちらを振り向く。まるで、ヨハネスが追放を受けたかのようだ。いや、実際そうかもしれない。一体、自分が何をしたというのか。

 アグリッパはヨハネスを見下ろし、平然と続ける。

「互いの旅の幸運を祈る。また会うときがあれば、フランスの話を聞かせてもらおう。それでは、さらば」

 馬車がゆっくりと動き出す。

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待ってください!」

 ヨハネスは慌てて、馬車の前に立ちはだかった。馬が前足を上げ、腹立たしげに嘶く。恐くて後ずさったヨハネスは、勢い余ってその場に尻餅をついた。

「なんだ。質問があるなら早く言え」

 師の理不尽な苛立ちには慣れているので、ヨハネスも臆せず言い返す。

「もう少し詳しく説明してください。どうして僕だけが、フランスへ向かわなければいけないのですか?」

 アグリッパは大袈裟な溜息をついて、面倒くさそうに馬車から下りてくる。ヨハネスに向き合うと、厳しい口調で言った。

「おまえが目指すものは、何だ?」

「医師です」

「違う、そっちじゃない方だ」

「異端審問を終わらせること、です」

 アグリッパの目が、すっと細くなる。まるで心の奥を見透かそうとでもするかのように。

 試されているのだ、とヨハネスは思った。多くの知識を得て、多少なりとも現実を知った今、自分は三年前と同じことが言えるかどうか。

 ヨハネスは心を固め、切り出した。

「きっかけを、話してもいいですか?」

「手短に話せ」

「九歳の頃、母と一緒の帰り道で、一人の女の子に会いました」

 片時も忘れることがなかったので、言葉はすらすらと出てくる。

「彼女は自分を魔女だと言いながら、泣いていました。きっと、全てを拒絶したくなるぐらい、辛いことがあったんだと思います。わかっていながら、僕は何もしてあげられませんでした。魔女という単語に、怯えてしまったんです。

 だから、まずは知ることから始めようと思いました。そして先生の書いた本や、いろんな文献を読んで、本当に恐れるべきなのは、異端審問なのだと知ったんです」

「知ってどうする?」

「止めます、絶対に。僕一人ではどうにもできないけれど、きっと医師の立場から、できることがあると思うんです」

「例えば?」

 そこでヨハネスは、自身の医学知識を総動員して作り上げた自説を述べた。ここで教わった三年間の集大成だ。

 しかし聞き終えたアグリッパは、ふんと鼻でせせら笑った。

「つまらんな。それは全て、わたしが与えてやった知識だ」

 師の想いを引き継いだつもりで、熱く語った結果が、これだ。

 さすがのヨハネスも腹が立ってきた。当たり前じゃないか、他に何を言えばいいのか、と喉元まで出かかったときだ。

 目の前に、一巻の羊皮紙が差し出された。

「自分の目で見て、考え、行動しろ。同じことをしていては、道は拓けん。過去はあくまで切り札の一つだ」

 促されるままに受け取り、中を開いたヨハネスは、驚きの声を上げた。

「これは、先生が異端審問で無実を取ったときの――」

「裁判記録だ」

 それは審問所に勤める書記が、判決が出るまでの一部始終を記録した、正式な文書だった。末尾には異端審問官のサインも入っている。

「どうやって手に入れたんですか?」

 本来なら審問所に保管されるものだ。弁護士とはいえ、無闇に持ち出せないはずだった。

「当時の書記に、写しを取らせた」

「サインって、写していいものなんでしょうか……?」

「本物に忠実な方が、真実味が増すだろう。なに、国を越えれば捕まることはない」

「……つまり、国内では犯罪になる、ということですね?」

 アグリッパが仏頂面で手を伸ばす。

「怖気づいたなら返せ」

「いえ、ありがたくいただきます!」

 きっぱりと言い切り、ヨハネスは再び羊皮紙を丁寧に丸めた。

 怖気づいてなどいられない。これは大きなチャンスなのだ。師の切り拓いた道の、さらにその先へ進むための。突然の別れも、新たな一歩だと思えば、踏ん切りがついた。

「僕行きます、フランスへ」

「無論だ。私が決めたことだからな」

 にべもない返しでも、今のヨハネスは笑顔で応えることができた。

 アグリッパは馬車に乗り込む寸前、ふと思い直したように、脇へ避けた。

「一分やる」

 言うが早いか、中からクルト達が飛び降りてきた。一目散にこちらへ駆けて来る。チェロまで一緒だ。

 短い時間の中、皆で別れを惜しみ、再会を誓い合った。そして彼にしては寛大にも三分後、馬車はごとごと揺れながら去って行った。

「先生、短い間でしたが、お世話になりました」

 ふん、と鼻を鳴らす音が、聞こえた気がした。

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