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「あーあ、もうやってらんねえな」

 ギュンターは頭の後ろで腕を組み、ため息交じりにぼやいた。ここで生活を始めてから、既に何度目かの愚痴になる。すっかり聞き慣れてしまったフリッツは、隣でそ知らぬ振りをしてやり過ごそうとする。しかしギュンターはおかまいなく、勝手に訴え続ける。

「毎朝日の出前から叩き起こされてさ、意識朦朧のなかミサやって、お次は飯の前に本を読め、だ。心が清まるどころか気がおかしくなりそうだっての。リッツはよく平気でいられるよな」

「修道院生活ももう二ヶ月だろ。そろそろ慣れたら?」

 同情もなく、あっさりとそう返すフリッツを、ギュンターは恨めしげに睨みつける。

「二ヶ月の苦労が溜まってんだよ。早起きとミサと読書が大好きな優等生君にはわからないだろうけどな」

 皮肉たっぷりに吐き捨てる言葉も、フリッツは涼しい顔で聞き流す。ギュンターはふてくされて、開け放たれた窓から外を見やる。

 二人は先程朝の読書を終え、朝食に向かう途中だった。

 踵を履き潰したギュンターのサンダルが、ぱたぱたと音を立てる。修道院での二ヶ月間で、二人の服装にはすでに大きな差が生まれていた。ギュンターのロング丈の僧衣は、走り回るうちに裾が擦り切れ、袖には腕まくりの皺が寄っている。一方フリッツの僧衣は新品同様、皺ひとつない。一体どれだけ慎重にしていればその状態を維持できるのか、ギュンターにとっては不思議で仕方がなかった。  

 こちらの思いを知ってか知らずか、フリッツが話題を変える。

「背中はもう大丈夫?」

 ギュンターは軽い口調で答える。

「ああ、あんなもん、どうってことねえよ」

 実のところ、背には赤く痕が残り、まだじんじんと痛む。だが悔いはなかった。心は傷ひとつついていない。

 フリッツが言っているのは、昨日ギュンターが鞭打ち三度の刑を受けた件だ。

 修道院では集団生活のため、いくつか規則が設けられている。もしひとつでも違反をすれば、厳しい処罰を受けなければならない。

 今回罪を犯したのはギュンターではなく、同期に入ったクリストフという少年だった。彼は初めての集団生活に馴染めず、寂しさのあまり母親に手紙を書いた。それを修道院の来訪者にこっそり託そうとしたところを、他の修道院生に見つかり、告げ口されてしまったのだ。

 規則では、手紙を出すことも受け取ることも禁止されている。主に心身を捧げるためには、現世のしがらみを断ち切らなければならないのだ。

 鞭打ちが言い渡されると、クリストフは途端に震え上がり、歯をガチガチ鳴らしながら、必死に許しを請うた。もう決して手紙は書かないと哀願するも、修道院長は「規則で決められたことだ」の一点張りだった。

 処罰の当日。友人達に誘われ、野次馬に加わったギュンターは、なんとなく気乗りのしないまま成り行きを見物していた。

 着々と準備を進める執行役と、十字架を握り締め、震える声で祈っているクリストフ。そして周りを囲む修道院生達の好奇の目。彼らは楽しんでいた。単調な毎日を変える、ちょっとしたイベント事として。この中に、クリストフの行為を告げ口した奴がいる。彼は今、腹の中で何を思っているのだろうか。

 そんなことを考えていると、隣からぽんと肩を叩かれた。

「ギド、もうすぐ始まるぞ」

 声の主は、友人達の一人、アンデイだ。「鞭打ち、見たことあるか?」と興奮を抑えた声で囁く。「俺は初めてなんだ。痛そうだよな」

 わざとらしく顔を顰める様を見て、ギュンターは内に堰き止めていた最後の壁が、静かに崩れていくのを感じた。

 頭で考えるより先に、足が動き出していた。無言のまま、乱暴に人込みをかき分けていく。フリッツが呼び止める声を、背後で聞きながら。縮こまるクリストフを押しのけ、代わりに罰を受けると申し出たとき、場は騒然となった。異例のことではあったが、周りの反対も頑として聞かず、結局身代わりは受け入れられた。

 執行後、泣きながら謝るクリストフに、「おまえ一人じゃないんだからさ、母親に会えないぐらい、我慢しろよ」

 それだけ言い残し、ギュンターは颯爽と立ち去った。痛みなど全く気にしていないかのように――と、周囲からはしばらく英雄視されることになった。

 実際は、クリストフから見えなくなったところで、待ち受けていたフリッツに、強引に医務室へ引きずられていったのだが。そこで医療係の修道士たちに抑え付けられ、塗り薬の激痛に悲鳴を上げる羽目になったのは、言うまでもない。

「親父に殴られた方が、よっぽど痛えよ」

 それでも数日経った現在では、おどけて笑い話にできるほどに、順調な回復をみせている。フリッツは呆れたように息を吐いた。

「わざわざ庇う必要があったとは思えないけど。あのとき、クリストフとはほぼ初対面だろ」

「そうだけどさ、なんか納得いかなかったんだよ。あいつは確かにルールを破ったけど、たかが手紙を書いただけだ。実際は出すのに失敗してんだぜ。それで誰かに告げ口されて罰が鞭打ち十回って、なんていうか、変だろ」

「それが集団で生活するってことだろ。規則があるから秩序ができる」

 ギュンターはまたもやふてくされて、舌打ちする。互いに考えが対立したとき、フリッツにはいつも正論で丸め込まれてしまう。

「あーやだやだ。優等生の模範解答だな」

 フリッツは苦笑し、肩を竦めた。

「ごめん、ギドが心配だっただけだ。気にしなくていい」

「言われなくたって聞かねえよ」

 ふざけていっと歯を剥きだしてやったが、そこはさらりとスルーされてしまう。これもいつものことなので、ギュンターもそれ以上気にしない。また外へと目を移す。

 内心ではわかっているのだ。そして感謝もしている。鞭打ちを受けたとき、彼が待っていなければ、ギュンターは強がって医務室になど行かなかったはずだ。的確な行動で、後に必ずフォローを入れてくれるのが、最高な相棒の役目だ。だからこそ安心して、向こう見ずな行動ができるのだ。

「それよりさ、面白いこと考えたんだよ」

 切り出すと、予想通りの呆れ顔がギュンターを睨む。一度反対しなければ、気が済まない性格なのだ。

「今度は鞭打ちじゃ済まないぞ」

「まだ何するか言ってねえだろ」

「大体わかる」

「じゃあ当ててみろ」

「ここから抜け出すつもりだろ」

「お、おお……何でわかったんだよ?」

 ずばり的中され、思わずぎょっとしてしまう。フリッツは「やっぱり」と溜息混じりに言った。そして窓を指差す。

「さっきから外見すぎ」

 これもフリッツの得意技だ。さりげなく相手を観察し、些細な変化も見逃さない。あの青い目は、あらゆる敵の策略を見抜き、あらゆる女の心を鷲掴みにする二役をこなしているのだ。こちらは隠すつもりもないので、特に都合が悪いわけではないのだが。羨ましい能力ではある。

「――で、どこ行くつもり?」

 ここからが説得の正念場だ。

「中央広場だ。明日の早朝、処刑があるって聞いたんだよ。罪状は魔女。当然火刑」

「そんなのいつものことだろ。異端審問官になれば、いつでも見れる」

「違う違う、今回は特別だぞ。例の“紅アゲハ”だからな」

「くれないアゲハ……ああ、聖職者狩りの?」

 彼女の噂は、すでに修道院内でも話題になっていた。闇に乗じて現れ、神父や司祭などの聖職者を襲う、謎の女。突如現れ、瞬く間に消えてしまったのだと、襲われた者達は口を揃えたという。ただ実際の被害は曖昧なもので、爪が伸びて切り裂かれただの、牙で噛み付かれただの、皆ばらばらだ。恐怖でわからなかった、が正しい見解だろう。しかし襲撃の理由はわからず、不気味なことに変わりはない。

 噂は瞬く間に広がり、“聖職者狩り”などという不吉な言葉が使われるようになった。上層部からは早く女を捕まえろとお達しがあったとのことで、全力の捜索が行われ、そして先日、ついに犯人が見つかったというわけだ。

 しかし肝心のフリッツの反応は、世間よりだいぶ冷めていた。そこでギュンターは顔を寄せ、さらなる説得を試みる。

「それにな、“紅アゲハ”はすっごい美人だって話だぞ。今までのババア達とは違うんだよ」

 フリッツが僅かに眉を上げる。普段はクールでも、そこはやはり普通の男なのだろう。

 実際“紅アゲハ”を見たと言う者達の話では、彼女が駆けると紅のドレスが闇夜になびき、まさに蝶が舞っているようだったという。その姿態もまた美しく、血のように紅い唇がなんとも妖艶だったと。

「気になってきたろ?な、な?」

 追い打ちをかけるも、返ってきたのはいたって冷静な疑問だった。

「襲われたやり方は違うのに、外見の感想では一致してるのか。それなら人相書きでも出回って、もっと早く捕まりそうだけど。被害者、七人出てたよね?しかも全員軽傷で」

「そこはまあ、魔術でどうにかしたんだろ。微妙に顔の形変えるとかさ」

「俺だったらそんなまどろっこしいことしないで、全員口封じに殺すけど」

「物騒なこと言うなよ」

 ギュンターが顔を顰めると、フリッツはふっと笑った。

「冗談だよ。ただ、変な事件だと思って。人を襲っておいて、まるで自分が死にたがってるみたいだ」

「知るかよ、魔女の考えてることなんか」

 否定も肯定もせず、フリッツは「そうか」とだけ呟いた。どこか別の場所に思いを馳せているようだったが、こちらの視線に気づくと、彼は先に口を開いた。

「行こうか、せっかくだし」

「そうこないと!」

 ギュンターはぱちんと指を打ち鳴らす。何となくはぐらかしたような決断だったが、共に行けるなら不満はなかった。言いたいことがあるなら、この場ではっきり言うだろう。代わりにフリッツが口にしたのは、現実的な問題だった。

「で、処刑はいつ?」

「三日後だ。抜け出す方法は、おまえに任せる!」

「簡単に言ってるけど、修道院を抜け出すのがどういうことかわかってる?」

 手紙のやり取りと同様に、修行期間中、修道院を出るのは重大な禁止事項だ。処刑を見たいからといって許可が下りるはずもなく、無断で抜け出せば“脱走”と見なされ、二度と修道院へは戻れない。フリッツが先に言ったとおり、鞭打ちどころでは済まされないのだ。思い描いてきた将来が、あっという間に崩れ去ってしまう。

 しかし冒険というものは、スリルがあるからこそ、やりがいがあるのだ。

「ばれなきゃ問題ないって。すぐ近くだし。その方法を考えんのが、おまえの腕の見せ所だろ」

「見せ所って……。やっぱわかってないだろ」

「で、抜け出す方法はひらめいたか?」

 構わずそう尋ねると、フリッツは呆れたように肩を竦め、それから悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「あるにはある」

 この切り替えの早さが、彼のいいところだ。

「よし、じゃあそれでいこう!」

「まだ何も言ってない」

「それだけ信頼してんだよ、相棒」

 そうでなければ、この話を持ちかけてなどいない。フリッツはあくまでも冷静に、釘を刺してくる。

「失敗は許されない。チャンスは一度きりだ」

「わかってるって。俺達ならできる。だろ?」

 ギュンターがフリッツの肩に腕をまわすと、今度は爽やかな笑みが返ってくる。この瞬間、二人の間でもう成功は確信してしまっている。不安さえ馬鹿らしく思うほどに。




 翌日の朝食時。食堂に修道院長が姿を見せると、皆揃って背筋を正す。食事の祈りを捧げるためだ。

 院長は上座中央の席に着き、ぐるりと堂内を見渡した。そしてある一点に目を留め、訝しげな顔をする。

「二つ、席が空いているな」

「ギュンター・ヘルマンと、フリッツ・ビューローです」 

 修道士達の中から声があがる。

「朝の祈りでは、全員揃っていたはずだが?」

 御歳七十三になる院長だが、彼の鋭い観察力は未だ健在だった。

「ヘルマンの具合が優れないようなので、ビューローが部屋で看病しています」

 アンデイがすかさず発言する。予め用意していた回答であり、考えたのは当然、“ギュンターの頼れる頭脳”ことフリッツだ。

 最初この計画を聞いたときは、自分も連れて行ってくれと頼んだのだが、フリッツからどれだけ危険なことかを淡々と説かれ、とっくに諦めてしまっていた。今後の人生が決まる大事な時期に、わざわざ身を滅ぼすような、愚かな真似はしたくない。恐いもの知らずにも程がある。それでいて、内心の恐いもの見たさも否定はできず、友情に免じてと手助けを引き受けた次第だ。さらに、普段は口にできない高級食材という、成功報酬もある。

 そんなことなど知る由もない院長は、そうか、とすんなり納得し、いつもどおり朝食時の祈りが始められた。そして食事を終え席を立つと。彼は再び口を開いた。

「今日の食事当番は、欠席の二人に食事を届けてやりなさい」

「はい。僕が部屋まで運びます」

 名乗りを上げたのは、先日罰則から救われた同期生、クリストフだ。この後彼は、誰もいないギュンターの部屋で、一人二食を平らげることになる。

 これから午前の作業時間があり、修道士達はそれぞれの持ち場で、農作業や、文書室で写本をしたりする。この時間内に二人は部屋へ戻ってくる計画だ。あまり長く顔を見せないと、さすがに怪しまれてしまう。体調が悪いのに、いつまでも医務室へ行かないのは不自然だ。話が伝われば、医療班の誰かが様子を見に来る可能性もある。用意周到なフリッツのことなので、医療班の中にも協力者はいるという話だったが、後は想定外の事態が起きないよう、運に委ねるだけだ。

 役目を終えたアンデイは、広場の方に向かって小さく呟いた。

「ちゃんと戻ってこいよー」




 静まり返った聖堂で、カチャリ、と金属音が鳴る。

「よっ――しゃ」

 思わず歓喜の声を上げたギュンターは、相棒に非難の視線を向けられ、慌ててボリュームを下げる。

 朝の礼拝を終え、全員が食堂に顔を揃えた頃、二人は聖堂脇の避難扉の前にいた。後々の口実をつくるため、一度部屋へ引き上げる姿も皆に見せてから、引き返してきたところだった。

 すでに修道服から普段着に着替えているので、見つかれば言い逃れはできない。修道士は院に入った初日に、自分の荷を全て預けてしまうからだ。院の大原則、平等を守るため、以降は全て共同の物を使うことになる。服も下着も、同じ数だけ分け与えられる。なので、私物を持つこと自体が問題なのだ。

 しかしギュンターは悪びれることなく、ベッドの下に私服を隠し持っていた。普段はサンダルしか履かないため、靴の用意も抜かりはない。

「安心しろ。服は二人分あるぜ」

 そう言ってフリッツに差し出すと、彼は黙って自分のベッドシーツを捲し上げた。そこには、衣服一式はおろか、ロープや蝋燭、地図まで揃っていた。

「……行く気満々だったんじゃねえか」

 呆れるギュンターに、フリッツは苦笑して「どうせ、いつかは言い出すだろうと思って」と言い返す。

「とか言って、俺が言い出すのを心待ちにしてたんだろ?」

 ここぞとばかりにおちょくってやるも、そこはいつも通り、さらりと無視されたのだった。

 とりあえずここまでは、全て計画通りだった。

「じゃ、開けるぞ」

 ギュンターはそう声をかけ、ポケットからドアの鍵を取り出した。昨夜ゲオルグ司祭の部屋から盗んできたものだ。

 彼を選んだ理由は、ギュンターの提案だった。向こうがギュンターを目の敵にしていることは、院内でも有名な話だ。どうやら異端審問官である父、オスヴァルトの存在が原因らしく、「ご立派な父上が、さぞお嘆きになるだろう」などと、何かにつけて皮肉を言ってくる。四十代半ば、でっぷりした体格に、脂ぎった顔。恵まれたのは階級と脂肪だけだと、ギュンターは常日頃から悪態をついていた。

 フリッツは要望に応え、ゲオルグの部屋へすんなり入ってみせた。優等生の彼は、ゲオルグにとって大のお気に入りであり、教えを請うために訪れるのは、歓迎に値することだったのだ。そこで隙を縫って、避難口の鍵だけを抜き取った。予め鍵穴は下見してあったので、形は見当がついていたらしい。さらにフェイクの鍵も付け足しておいたそうだ。

「おまえすごいよ、トップレベルのスリだな」

 話を聞いて、ギュンターは思うままの感想を述べた。手先の器用さは、彼の特技の中のひとつだ。もしこの先エリートの道を踏み外しても、伝説に残る大泥棒として活躍できるかもしれない。

 フリッツは苦笑して「一応、褒め言葉として受け取っとくよ」と言ったのだった。

 かくして第一難関の避難口は、易々と開錠されたのだった。ガチャリ、と聖堂内に音が響く。先は地下へと下り、修道院の裏手へと繋がっているはずだ。

 鍵はまたの機会に使えるよう、近くに据えられていた天使の像の下に隠しておくことにした。持ち歩いているときに見つかるよりは、ずっと安全だ。

 地下通路の狭く曲がりくねった一本道を、ギュンターが前に立って進んでいく。ここでフリッツの用意した蝋燭が、大いに役立った。ちなみに地図とロープの方は、持ち主本人の的確な判断で、部屋に置いてきてある。これらが日の目を見る日があるのかは、今のところ不明である。

 進んでいくうち、道はだんだん上り坂になり、やがて重厚な鉄の扉が現れた。扉は斜め上についており、内側から押し上げる造りになっている。長い間使われていなかったのだろう、ずいぶん錆付いている。

 持ち上げるには、相当な労力が必要だった。「せーの!」のかけ声で、二人同時に渾身の力を込める。扉はぎしぎしとうめきながら、徐々に持ち上がっていき、頂点に達したところで動きを止めた。手を離した途端に戻ってくるのではと心配な角度だったが、恐る恐る力を抜いても、扉は口を開けたままだった。

 先にギュンターが地上に上がる。眼前には裏手の畑が広がっていた。いつもの仕事場なので、すっかり見慣れた光景である。フリッツのように、図書室に籠もって本の転写をするよりは、日光の下で汗を流す方が性に合っていた。もっとも、自分ですら判読不能な字と、本に対する集中力を持ち合わせていないのだから、図書室に御呼ばれするなど皆無に等しかったが。

 よく耕された土の匂いを、胸いっぱいに吸い込む。収穫期にあたる今時期は、普段より多くの修道士が駆り出され、賑やかになる。そのため閑散としているこの時間が、新鮮に思えた。こうして一人で眺めていると、まるで畑が自分の所有物になったかのようで、ちょっと得意な気分になる。

 遅れてフリッツが地上に上がり、「嬉しそうだね?」と聞いてくる。

「いや、俺の畑も手塩にかけて育てた甲斐があったなあと――」

「それはよかった。とりあえず、扉閉めるから手伝って」

 今は計画の遂行しか考えていない優等生に、この良さは伝わらなかったらしい。ギュンターはさっさと気を取り直し、扉に手をかけた。

「いくぞ」

「ああ」

 開けたときと同様、ありったけの力を込める。ただしあまり大きな音を立てれば、院内の誰かに気づかれる恐れがある。作業は慎重に進めなければならなかった。ようやく閉まったときにはその場に座り込みたい気分だったが、生憎時間の余裕はない。汗びっしょりの額を拭い、足早に畑を後にする。

 修道院の敷地を抜け、人の行き交う通りへ出たところで、二人はようやく吐息をついた。そうして中央広場へ着いたときには、すでに刑執行の時間が迫り、多くの観衆でごった返していた。出遅れた人達が通りにまではみ出している。

「せっかく来たのに、こんな遠くじゃ納得できねえよな」

 そう言うと、ギュンターは人込みをかき分け、ずんずん先へ進んでいく。「強引だな」と苦笑しつつ、フリッツも後に続く。

 遠くに見えていた処刑台が、次第に近づいてくる。多くの目に晒されるよう、人の背の倍近くある高い台の中央に、既に薪が組まれ、そこから突き出た十字の杭が、魔女を死に追いやるために待ち構えていた。

 やがて、場内の一部がざわめき始めた。そちらに目をやると、一人の女性が二人の捕吏に連行されて、姿を現した。

「魔女のご登場だ」

 噂どおり、彼女は確かに美しかった。艶やかなダークブラウンの髪に、くっきりとした目鼻立ち。それに加え、魅惑的な厚い唇と、ゆったりした服の上からでもわかる、豊満な胸。以前は多くの男を虜にしてきたことだろう。

 ただ現在の彼女は、美しさの最盛期を少し過ぎているように見えた。死を迎える日も化粧を許されなかった素顔には、深い疲労の皺が刻まれていた。これも悪魔のせいなのか。そう思ったのは、ギュンターだけではないようだった。

「なんと恐ろしい」

「愚かな。悪魔に心を惑わされるからだ」

「あんなに美しいと評判だったのに」

 周囲の声を聞きながら、ギュンターは女がおぼつかない足取りで処刑台に上る様を見上げていた。

「あの女、悪魔に何を求めたんだろうな。あれだけ綺麗なら、普通の幸せぐらい、手に入れただろうにな」

 そもそも彼女が思う幸せとは、何だったのか。そこにある背景は知る由もない。が、疑問を口にせずにはいられなかった。

 外見さえよければ、身分の低い者や他民族であっても、出世するチャンスは大いにあるはずだ。特に女性の場合はそうだ。体裁を一番に気にする貴族達は、自分を飾り立てるものならば金に糸目を付けない。そのため、娼婦から一転公爵夫人へ、などということも、珍しくはなかった。今発した疑問は、少なからず周囲も感じていることだろう。

 フリッツはこちらを見ることなく、答える。

「彼女が望んだんじゃない。悪魔達が、あの人を求めたんだ」

「悪魔達?」

 その問いに、答えは得られなかった。場が俄かに騒がしくなる。刑の準備が整ったのだ。

 女性が処刑台の中央に立ち、公証人が声高らかに執行の時を告げる。女性の恐怖の叫びなど意に介さず、刑執行人が速やかに薪へ着火する。火は次第に勢いを増し、彼女の足元を舐め始める。煙が大きくなるとともに、広場には肉の焦げる臭いがたちこめた。

 煙と共に漂ってくる悪臭に、ギュンターは顔を顰めた。何度経験しても、こればかりは耐え難い。火は悪魔に穢された心を浄化するのだというが、実際の光景にそういった神聖さは欠片もない。白かった肌は赤く爛れ、美しかったはずの顔は、この世のものと思えないほど、おぞましい形相になっている。目を見開き、歯をむき出し、彼女は今、まさに襲い掛からんとする悪魔を髣髴とさせた。

 苦痛に満ちた絶叫は、ひび割れた声になり、だんだん途切れがちになっていく。一方観衆のボルテージは一層盛り上がり、多くの罵声が飛んでいる。興奮した彼らの中には石を投げる者も現れ、近くにいた執行人達は避難せざるをえなかった。

 喧騒の中、ギュンターは石の飛ぶ処刑台から、その奥に聳える建物へと視線を移した。パリの異端審問所は、フランスの首都に相応しく、敷地面積、高さともに、国随一の規模を誇っていた。真っ白な壁が太陽光を反射して、威風堂々と輝いている。

 今頃、魔女に判決を下した異端審問官と陪審員達は、あの中で広場を見下ろしているはずだ。たしかゲオルグ司祭も、あの陪審員のメンバーだった。もしここにいるのがばれたら大問題だが、自分達は私服で紛れているし、そもそも観衆になど興味は向けていないだろう。美女が泣き叫ぶ様をにやけ顔で眺める様が、目に浮かぶ。彼は相当な女好きだと、影では評判だ。

 そういえば、とギュンターは思う。かつて父も、パリで任に就いていたことがあるらしい。優秀な仕事ぶりだったと誰もが口を揃えるが、パリを離れた理由は誰も知らなかった。そして当の本人は、今も固く口を閉ざしたままだ。

 父は何を思い、グラーヴの異端審問官になったのか。同じ立場になれば、答えを得られるのだろうか。あの大きな窓から同じ景色を見下ろしたとき、自分は何を思うだろう。

「地獄だよ」

 突然、フリッツが低く呟く。あまりに絶妙なタイミングだったので、ギュンターはぎょっとして我に返った。しかしフリッツの方は、

 こちらに関心を向けてはなさそうだった。視線は処刑台で上がる炎に釘付けだ。瞳には紅い光が揺らめいている。

「魔女の行き先は最初から決まってる。あんな形相で、天国にいけるわけがないからね。魔女だけじゃない、関わった全員が地獄を見る。もちろん俺達もだよ、ギド」

 フリッツはそう言って、こちらを見ないまま微笑を浮かべた。明らかにいつもの彼ではなく、けれど一時の感情ではない、気圧されるような迫力があった。

「リッツ、おまえ何言って――」

「戻ろう。そろそろ時間になる」

 急に興味をなくしたように、フリッツはふいと処刑台へ背を向けた。いつもの冷静な声が、周囲の喧騒を縫って小さく届く。ギュンターが口を開く前に、彼はさっさと歩き出してしまった。

「ちょ、待てって!――無視かよ」

 腹立ち紛れに舌打ちするも、結局は諦めるしかなかった。実際、計画の時間は迫っている。問い詰めるのは後回しだ。

 ギュンターは最後に一度、まだ煙を上げる魔女に目をやった。ここに来るまでは見たくてたまらなかったのに、今はすっかり興が冷めてしまっていた。心のわだかまりを断ち切るべく、ギュンターも足を速めて、遠ざかる相棒の背中を追う。

 人垣を押しのけ、ようやく最後列から抜け出したときだった。ふと足を止める。遠くに人影が見えたのだ。気になったのは、何者か、ではなく、なぜそこにいるのか、だった。

 その人物は、ギュンターの遥か頭上にいた。広場の後方に立ち並ぶ木の中の一本、太い枝の上にバランスよく立っている。足首まである外套を羽織っているが、背丈や肩幅から、小柄な体格であるのはわかる。ただフードを被っているので、顔を判別するのは難しい。ギュンターの視線に気づく風もなく、人物は身動きひとつせず、処刑台の方を見下ろしている。

 そのとき一陣の風が、広場を駆け抜けた。先程の穏やかな天気からは考えられないほどの、強い突風だった。まるで、魔女の断末魔の思いが込められているかのようだった。

 観衆達は正面からまともに風を受け、野次が一時中断される。ギュンターは背を向いていたのであまり影響を受けなかったが、樹上の人物には同じく風が襲いかかった。被っていたフードが、はらりと落ちる。瞬間、ギュンターは目を疑った。

 風になびく長髪と、外套の裾から覗く深紅のドレス。紛れもなく、そこにいるのは女だった。それも、息をするのも忘れるような、美しさを備えた。

 風を避けるように顔を伏せた彼女は、ようやくこちらの存在に気がついた。底知れぬ暗闇を湛えた目が、ギュンターを捉える。ぞくりと寒気がするほど、負の感情がそこで渦巻いているように感じられた。どんな光も届かない、漆黒の闇。それでもギュンターは、彼女から目を離すことができなかった。あの闇の中に引き込まれてもいい、手を伸ばしたいと思った。

 しかし彼女の方は、すでにギュンターへの関心を失ったようだった。樹上でひらりと身を翻す。動作に合わせて、黒髪と深紅のドレスが優雅に舞った。遠くを見据え、口を僅かに開く。ドレスと同じ、紅い唇。まるで、血の色のような。

「おまえ、まさか――」

 ギュンターが言いかけるのと同時に、彼女は軽やかに宙を飛んだ。「うわっ!?」と驚いたときには、ふわりと隣の木へ移っている。

「紅アゲハ」

 すぐ傍から聞こえた声で、ギュンターは再び驚く羽目になった。いつの間にか引き返してきたフリッツは、肩を竦めて「なんてね」と付け加える。先程の不穏な空気は消え、普段の彼に戻っている。

「冗談やめろよ」と軽い口調で言いつつ、ギュンターはもう一度樹上を見上げた。しかし彼女の姿はもう、どこにもなかった。

「あれじゃ、“紅アゲハ”っていうより“紅さる”だろ。何だあの跳躍力」

「度胸あるね。女の子なのに」

「にしても、何で樹の上なんかに。変な奴。――けどさ、あいつの顔、見たか?」

「いや、風で顔を伏せてたから、よく見てなかった。ギドは?」

「すっげー綺麗だった」

 正直な感想を述べると、フリッツは「そう、よかったね」とおかしそうに笑った。

「惚れたの?」

「誰がだよ」

 厄介な質問を振り切り、ギュンターは大股で歩き出す。全て夢だったのではと思うほど、あっという間の出来事だった。だが夢の残像は、ギュンターの目の奥でちりちりと燻り続けていた。処刑台で燃え続ける火のように、いつまでも。


「遅いぞ、二人とも」

 打ち合わせていた場所に着くと、すでに協力者達がそわそわして待っていた。

 彼らは無償で食事を提供する、慈善活動の当番だった。この活動は週に三度、決まった時間に外へ出ている。二百人分の食事を運ぶための、大きな台車をひいて。

「悪い悪い。ま、今夜は約束どおり盛大にやろうぜ」

 ギュンターが市場で買ってきたウイスキーの瓶を振ると、皆は顔を見合わせて笑った。このメンバーで酒盛りをするのは、当然初めてのことだ。真面目な彼らは、食事に出される葡萄酒以外、口にしたことのない者がほとんどだ。それならとギュンターが話を持ちかけ、皆恐る恐る話に乗ってきたのだった。

 二人は、空けておいてもらった台車のスペースに潜り込んだ。上から大きな布がかけられ、台車が動き出す。後は敷地内まで、彼らに運んでもらうだけだ。裏口から苦労して出ただけに、正面から楽々と帰還するのは気持ちよかった。人気がないのを見計らって台車を下り、二人は無事部屋へと戻ることができた。

 こうして修道院脱出計画は、平穏に幕を閉じた。アンディとクリストフも含め、約束の酒盛りを終えた後は、何事もなかったかのようにまたいつもの日々が始まる。

 皆が各々のベッドに戻った後、ギュンターはフリッツに広場での言動を問い詰めたが、彼は「誰かが言ってたのを思い出して」などと言うだけで、納得のいく答えは得られなかった。けれど日常に溶け込んでいくうちに、ギュンターの中で次第に疑問は薄れていった。そして樹上の出会いもまた、夢だったかのように現実感を失くしていったのだった。


 その日も普段と変わらず、朝の修練の後、各自が課された作業に精を出していた。ギュンターの属する農業係は、収穫で一日汗を流し、食糧庫へと作物を運び入れていた。

 玉ねぎの詰まった箱を下ろすと、ギュンターは額の汗を拭い、軽く伸びをする。この後神学の講義があり、夕方の祈りを終えれば、ようやく夕食だ。院内に戻ると、食堂から複数の立ち働く気配があった。今夜のメニューを考えるだけで、早くも空腹が訴え始める。祈りの間、腹が静かでいてくれるかは不安なところだ。

 食堂を通り過ぎようとしたところで、ちょうど出てきたクリストフと鉢合わせする。「あ、ギド。ちょうどよかった」と嬉しそうに言う。

「玉ねぎが足りなくなって、取りに行くところなんだ。付き合ってくれないかな?」

 ギュンターは露骨に嫌な顔をしてやった。

「こっちはたった今運び終えたとこだよ」

「頼むよ、量が多いんだ。他の皆は忙しそうだし……。ギドしかいないんだって」

 そう言われるとやはり無下に断れず、仕方なく元来た道を引き返す。

 箱いっぱいに玉ねぎを抱え、食糧庫を出たときだった。開け放した院の窓に、ちらりと人影が横切っていくのが見えた。黒い外套だったので修道生かとも思えるが、フードを目深に被り、人目を憚るような早足だったのが妙に気になった。

「なあ、今の見たか?あそこの窓、人通ったよな?」

 指差すと、クリストフはそちらを見て首を傾げた。

「何も見えなかったけど……」

「――怪しい」

 説明するのももどかしく、ギュンターは抱えていた箱を、クリストフの持つ箱の上に積み上げた。

「悪い、ちょっと見てくる!」

 重さによろめきながら、「何だよ急に……」とクリストフが不平を漏らす。が、もう構ってなどいられなかった。

 院内に駆け込み、先程見かけた辺りへ向かう。しかしすでに人影の人物はいなかった。近くにいた修道生数名に訊いてみたが、誰も見かけてはいないようだった。

 やはり人目を避けていたのか。理由は何なのか。気になりだしたら止まらない。

 しかもこの辺りは、司祭や院長の部屋が並んでいるエリアだ。事件性があるのでは、とよからぬ想像もできる。が、報告するにも証拠がない。調べてみたら修道生だったとなれば、ただ恥をかくだけだ。

 その後も講義の開始ぎりぎりまで探索を続けたが、成果は得られなかった。結局諦め、夕食時にフリッツへ話を持ちかけると、彼は見透かすような目で言った。

「もしかして、処刑場で会った女の子のこと、気になってる?」

「は?何でそうなるんだよ」

 予想外の展開に、ギュンターは少なからず動揺していた。心に引っかかった原因はそういうことなのかと、自身に問いかけてみる。

 黒い外套、目深に被ったフード。似ている点といえばそれぐらいなのにも関わらず、自然と連想してしまっていた。期待、というまでには至っていない。たぶん。

 感情を汲み取ったのか、フリッツはただ微笑み、「どうする?」と問いかけてきた。

「どうもしねえよ。怪しい奴はいなかった。それだけだ」

 投げやりに返すと、「そっか」と向こうからも素っ気無い返事がくる。しかしさりげない一言が、ギュンターの心にかかったもやを、一層濃くする要因となった。

「ま、仮に侵入者だったとしたら、動くのは夜中だろうね」

 話はそこで終わったのだが、心の内では、何が何でも正体をはっきりさせたい思いではちきれそうだった。


 そして皆が寝静まった真夜中。ギュンターは一人、部屋を抜け出したのだった。今回は友達連中を巻き込まないことに決めていた。相棒のフリッツも例外ではない。院長室などの場所が場所だけに、見つかれば厄介だ。というのが、建前の言い訳だ。

 音を立てないよう、そろそろと廊下を進む。怪しい動きはないかと目を凝らし、耳を澄ますが、廊下は当然人気がなく、ドアの向こうも静まり返っていた。

 さらに進んだとき、くぐもった話し声が聞こえた。ドアの向こうからだ。確認すると、なんとゲオルグの部屋だった。これは話のネタになる。夜中にこそこそ密会するのは、何か後ろめたいことがあるに違いない。敵の弱点を掴む絶好のチャンスだ。

 足元にランタンを置き、鍵穴からそっと中を覗く。ゲオルグの他にもう一人、あの黒外套の人物が、ちょうどその正面、部屋の中央で立ったまま向き合っていた。部屋の中だというのに、まだフードを被ったままだ。ドアに耳をつけると、微かだが声が漏れてくる。

「何故その名前を知っている?あの女の差し金か?」

「殺した愛人の名前、まだ覚えていたんですね」

 返す声の主は、女性のものだった。凛とした、それでいて氷のような冷たい声。

「あの女の用件は何だ?金ならもう払ったぞ」

「トゥリアさんは関係ない。聞きたいことがあって来たの」

「おまえも娼婦か?こっちに用はない。さっさと帰らなければ、今すぐ人を呼ぶぞ」

「そう。じゃあいい」

 彼女はあっさりそう言うと、不意にフードを取り、首もとの留め具をぱちりと外した。羽織っていた外衣が、ばさりと足元に落ちる。現れたのは、見覚えのある深紅のドレス。

 しかし驚いている暇はなかった。彼女が手にしているのは、紛れもない殺意だった。

「紅アゲハ……!」

 ゲオルグの引き攣った声が引き金となり、ギュンターの体は勝手に動き出していた。

 力任せにドアを突き破る。鍵が勢いよく弾け飛び、中の二人が同時にはっとこちらを向いた。動きが止まった機を逃さず、ギュンターは彼女に近づき、ナイフを持つ手を捻り上げた。

「くっ」と小さな呻きが漏れ、ナイフが行き場を失い、床に落ちる。すかさずそれを拾い上げると、彼女は刺すような視線で、こちらを睨みつけた。

「ギ、ギュンター・ヘルマンか!?なぜここにいる?いや、そんなことはいい。早くその女を捕らえろ、侵入者だ!」

「原因作ったのは、たぶんあんただろ」

 ギュンターが呆れて言ったときだった。目の端で、微かに動きがあった。ギュンターが腕を伸ばすのと、彼女が身を翻したのはほぼ同時だった。かろうじて片腕を捕らえたものの、彼女はもう一方の手で、火が灯った燭台を引っ掴んだ。

 背後に投げられた燭台が、派手な音を立てる。ゲオルグの呻き声が、それに重なった。振り返ると、彼は頭を抱えてうずくまっていた。しかし気遣っている余裕はなかった。床に転がった燭台から火が燃え移り、司祭のローブへじわじわと迫っていたからだ。

 ギュンターはとりあえず掴んでいた腕を放し、ベッド脇のテーブルにあった水壷とテーブルクロスを手に取った。小火程度だったので事なきを得て、辺りは薄闇に包まれた。ゲオルグまで水浸しになったのは、この際仕方がない。

 水壷を放り出し、すぐに“紅アゲハ”を探す。案の定、彼女は別の案を思いついたところだった。暖炉に近づくのを引き止め、無理やりこちらを向かせる。すると、こちらが口を開く前に、向こうが噛み付くような勢いで怒鳴った。

「邪魔しないで!何も知らないくせに!」

「だからって放っておけるかよ!おまえ自分が何やってるかわかってんのか!」ギュンターも負けじと怒鳴り返す。

「人殺しを殺して何が悪いの!」

 その剣幕と予想外の発言に、ギュンターは一瞬、返すべき言葉を失った。ゲオルグのことは確かに嫌いだが、そんな馬鹿な話はあるわけがない。彼は長年聖職を勤めてきた司祭であり、悩むまでもないはずだった。しかし、何かが引っかかってもいた。

 木の上から処刑台を見つめていた、あの日の光景が浮かぶ。彼女は何を思い、今日まで過ごしてきたのか。ただの妄言で、ここまで強い意志を放つことができるだろうか。知りたいと思った。今までにないほど強烈に、彼女のことを。

 そのとき、ギュンターの背後で、大きな影がゆらりと揺れた。

「よくも、やってくれたな……!」

 低いだみ声が、二人の会話を打ち消した。眼前には、頭から血を流したゲオルグが、恐ろしい形相で立っている。彼は“紅アゲハ”に視線を据えたまま、こちらに開いた手を突き出した。

「ナイフを寄越せ、ヘルマン。少し思い知らせてやる」

「正気か?あんた司祭だろ」

「やかましい!正当防衛だ!」

「いや落ち着け。女一人相手にむきになるなって」

「違う!こいつは――」

「そう。わたしは“紅アゲハ”」

 冷たい声と温かな吐息が、耳元にかかる。ほぼ同時で、手首に痛みが走った。先程自分がやったのと同じ捻り方だ。手からナイフが離れ、彼女はそれを落ちる前に掴んだ。

「先にあなたが死ぬ?」

 首筋に、鉄の冷たい感触が伝わる。もうこの状況についていけなかった。単なる好奇心から、どうして今自分がナイフを突きつけられているのか。当事者のゲオルグはといえば、悪態をつくばかりで役に立ちそうもない。

 ふっと息を吐くと、ギュンターは考えるのをやめることにした。こういうときは直感で動く方が、案外上手くいったりするものだ。何より、自分の気持ちに正直でいられる。

「やってみろよ」

 ギュンターが言うと、彼女は僅かに眉根を寄せた。探るような視線に応え、ゆっくりと、一歩前に進み出る。不思議と恐怖は感じなかった。彼女はナイフを握りなおし、少し声を荒らげた。

「甘く見ないで。あいつのために命を懸けたいなら、そうしてあげる」

「おまえこそ、こんなところで人殺しになりたいのか?俺と司祭を消して、自分も捕まって処刑されて、それで満足か?」

「だからあなたに――」

 そこで彼女は、唐突に言葉を切った。

「動かないで。見殺しにするの?」

 視線はギュンターから離さなかったが、声は背後へと向けられていた。おそらく、ゲオルグがこっそり逃げ出そうとしていたのだろう。彼の人柄を考えれば、容易に想像のつくことだった。そして、次に取るであろう行動も。

「無駄だぞ」

 ギュンターが言うのと同時に、ゲオルグは開け放たれたドアへと駆け出していた。廊下に出るや、助けを呼ぶ声が響く。「な?」とギュンターが肩を竦めると、“紅アゲハ”は悔しそうに唇を噛んだ。事の発端を起こしておきながら、彼女は今迷い、動揺しているように見えた。裏切られたギュンターよりも、ずっと強く。

 抜け殻のようになった彼女は、すでに動く気力をなくし、ただそこに立っているだけだった。遠くで人の声が集まり始め、騒ぎが大きくなっていく中、この部屋だけは時を止めたかのように静まり返っていた。

 壁の向こうにあったはずの日常は、ドアをぶち破った途端に立ち消え、どちらも非日常になってしまった。選択肢は二つ。どちらの世界に行くか、だ。我ながら、あまりに馬鹿げた選択肢である。彼女を忘れれば、非日常はいずれ元に戻る。けれど、完全ではない。なぜなら自分は、きっと彼女を忘れ去れないからだ。

 理性を踏み倒したとき、思いはすらりと出てきた。

「逃げるか」

「――え?」

「何があったのか知らねえけど、一旦諦めろ。ここにいたら処刑されるぞ、あいつの望みどおりに」

「あなたには――」

「そうだよ、関係ねえよ。ただ捕まってほしくないから言ってんだ」

 彼女は何も見逃すまいとするように、じっとギュンターを見つめ、「どうして?」と尋ねた。それは、初めて敵意なく投げかけられた、純粋な疑問だった。けれど今のギュンターには、明確な答えなどもっていなかった。どのみち、これ以上話す時間は残されていない。

「向こうの声、聞こえてるだろ。いいか、三秒で決めろ。生き延びる努力をするか、ここで捕まるか」

 三秒の間に彼女が出した答えは、とりあえず動くことだった。もしくは、ただギュンターから離れたかったのかもしれない。足を向けた先は入り口ではなく、窓際だった。窓枠に手をかける寸前、ギュンターは先手を打って言う。

「あの木に飛び移るつもりなら、やめたほうがいいぞ。他に足場もないし、正門に近いから丸見えだぜ」

 彼女は動きを止め、まじまじとこちらを見る。その表情から推測するに、どうやら以前会ったことは覚えていないようだ。しかし落胆している暇はない。ギュンターは彼女の目を見据え、手を取った。

「とりあえず信じろ。ちゃんと逃がしてやるから」

 振りほどかれるかと思ったが、そうはならなかった。彼女は頷く代わりに、繋がれた手に少しだけ力を込めた。

 複数の声を置き去りにして、二人は先の見えない中を走り出す。救いだったのは、向かう先が寄宿舎と反対の方角にあったことだ。おかげで誰にも遭遇せず、無事に聖堂へと入る。

 扉の軋む音が、堂内に響く。いつも通い慣れた場所であるのに、なぜか別世界に足を踏み入れてしまったような感覚に襲われる。この神聖な空間に、自分達は相応しくないのかもしれない。そんな思いが一瞬頭をよぎるが、すぐに切り替え、今やるべきことへ集中する。天使像をずらし、鍵を取ると、奥にあるドアへと差し込む。開けた途端、廊下の方が俄かに騒がしくなってきた。声はどんどん近づいてくる。自分達がここに向かったのが、気づかれたのかもしれない。

「行くぞ」と声をかけると、彼女は一拍置いて、再び走り出した。


 外に出ると冷たい夜風が吹きつけ、肌を刺した。おかげで心はだいぶ落ち着きを取り戻したが、代わりに頭をもたげるのは、これからどうするか、という現実的な問題だった。

 修道院から充分離れたところで、緊張の糸が緩み、ギュンターはその場に座り込んだ。ははっと力なく笑い、彼女を見上げて声をかける。

「な、ちゃんと逃げきれたろ」

 彼女は僅かに首を傾げ、斜めの角度からこちらを見下ろしていた。

「あなたまで逃げる必要は、なかったと思うけど」

 まずは逃がしてやった礼を言えよと思うが、その疑問はもっともだった。あのまま聖堂に残っていれば、まだ言い訳できた。よく考えもせず、自ら最後の逃げ道を断ってしまったのだ。おまえと一緒に居たかったから、とはさすがに言えなかった。彼女なら冷ややかな一瞥と共に、瞬く間に消え去ってしまいそうだ。

 気まずい沈黙が二人を包む。ギュンターはすぐに耐えられなくなり、無理やり話題を変えた。

「おまえさ、この前中央広場にいただろ?魔女の処刑があった日、木の上で」

 それほど驚いた風もなく、彼女は「ええ」とあっさり肯定する。だからどうした、とでも言いたげだ。感情の差を思い知らされ、つい投げやりな口調で尋ねる。

「で、何でこうなったんだよ?殺した愛人ってのと関係あんのか?」

「盗み聞きしてたの?」

 こちらの問いをはね返すように、嫌なところをついてくる。

「たまたま聞こえたんだよ。べつに言いたくないならいい。どうせ俺には関係ないからな」

 予想に反し、彼女はぽつりと言った。

「――復讐」

 闇に包まれた瞳からは、何の感情も量り知ることはできなかった。淡々とした口調で、話が続く。

「あいつは前から、何人かの魔女を告発してた。前回もそう。身勝手な都合とお金のためだけに、わたしの代わりを仕立て上げた。処刑のとき、あいつはとても満足そうな顔をしてた。人の命が消えるのを、自分の手で消せるのを楽しんでるの。そんな奴、死んで当然でしょ」

「魔女を見つけたら、誰だって告発するだろ。何で人殺しみたいな言い方するんだよ?」

 俗に言う“魔女狩り”が盛んな現在、魔女を見つけた者に、多少の報酬が与えられることは、ギュンターも知っていた。定職に就かないような層からは、その報酬を目当てに、本業として稼ぐ者もいた。しかし司祭のような聖職者が、金銭目当てでそんなことに手を出すとは信じ難かった。彼は異端審問で審議する権利も持つ、絶対的な正義なのだ。個人の利益のために動くなど有り得ない。普通に考えれば、“紅アゲハ”などと名乗る彼女の方が、間違いなく悪なのだ。

「っていうか、おまえこそ本当に――」

「さっきからそう言ってるでしょ。そしてあいつも、間違いなく人殺し。フィーネは罪をなすりつけられただけ」

 聞いておきながら、ギュンターは返す言葉を失っていた。彼女の話は、すでに理解できる範囲を軽く飛び越えてしまっていた。ただひとつだけ、聖職者の端くれとして、どうしてもはっきりさせておくべきことがある。

「なら“紅アゲハ”は、魔女なのか?」

「そうだと言ったら?」

 間髪入れず、彼女は挑発するかのように切り返してくる。正気か、と思いながら、ギュンターは彼女を見据えた。喧嘩腰ではあるが、嘯いているのではない気がした。彼女の目は、ゲオルグへの殺意と同様、真剣そのものだった。射抜くような視線が、ひたとギュンターを捉えている。

「……軽々しく言うなよ。見ての通り、俺は修道士だぞ。魔女だったら今すぐ連れ戻すに決まってんだろ。どうしたいんだよ、おまえ」

「わからない。最初にやりたかったことは、あなたに邪魔されたから」

「あのなあ――」

「本気で言ってるの。助けたこと、後悔してる?」

 再び難解な問いが、今度は逃すまいという気迫でぶつけられる。風が吹き、長い髪が乱れても、彼女は決して顔を逸らそうとしなかった。ギュンターは小さく息を吐く。

「今更後悔するかよ」

 あの時自分は、彼女を失いたくないと思った。無我夢中でここまで来てしまったが、その気持ちに嘘はない。

「――今なら、これ以上訊かずに見逃してやる。行け」

 迷いが生じる前に、早く行ってほしかった。胸の内にある矛盾した想いに、区切りをつけたかった。

 しかし、彼女はその場を動こうとしなかった。ほんの僅かに、瞳が揺れる。

「どうして、そこまでするの?」

「なんでって……べつに大した意味はねえよ」

「意味もないのに、自分の信条を簡単に曲げるの?あなたの言ってることはおかしい。理由がなければ、人は誰かを助けたりしない」

「いちいちうるせえな。わかった、助けた俺が馬鹿だったよ。邪魔して悪かったな」

 自棄になり、そう言ったときだった。逸らしかけた視線の先に、きらりと光るものがあった。まるでギュンターを呼んでいるかのように、それは一層強く輝いて見えた。

「――ロザリオ?」

 ギュンターが呟くと、彼女ははっと自分の胸元を見下ろした。握った掌の中で、ロザリオの両端にある二つの指輪が、かちゃりと音を立てる。なぜ動揺したのかはわからないが、ギュンターはひとつの疑問が消えたことで安堵していた。

「何だ、おまえやっぱり普通の奴なんじゃねえか。意味わかんね」

 悪魔の力を持つ魔女が、ロザリオをさげているなど有り得ないことだった。普通なら近づくことすら苦痛のはずだ。

 彼女は何か言いかけるが、結局ギュンターから目を逸らした。魔女でないと判明して、不都合なことなどあるのだろうか。しかしそれを訊いたところで、答えが返ってくるとも思えなかった。

 会話が途絶えたところで、ギュンターはようやく重い腰を上げた。いつまでもこうしているわけにはいかない。考えなしに飛び出してきてしまったが、とりあえず修道院に戻るつもりだった。どんな結果が待っているにしても、二年間共に過ごした仲間達に、一言でも何か伝えたかった。

 これが最後のつもりで、彼女に声をかける。

「そのロザリオ、大事にしろよ。復讐にこだわるより、前に進んで、自分の幸せ掴んで見返してやれ」

「――幸せなんて、どこにあるの」

 ぽつりと発せられた言葉は、問いかけでもなく、向ける先もなく、空虚に漂っていった。ロザリオを握る手に力がこめられる。そのまま引きちぎってしまうのではないか、と思うほどの強い感情が、そこにはあった。彼女を理解することは、きっと不可能だ。自分達の距離はあまりに遠く、見るもの全てが違っているのかもしれない。悟っていながら、ギュンターは一歩踏み出さずにいられなかった。

 固い拳の上に、自分の手を重ねる。わかりあえなくていい。ただ、失いたくなかった。

「今ここにいるのは、おまえが選んだことだろ?泣き言言ったって何も始まんねえぞ。本気で幸せになりたいなら、まず自分を否定すんな。人を恨むのも、もうやめろ。そしたら俺が力になってやる」

 手の中の拳が、僅かに緩む。彼女は顔を上げ、ギュンターを見据えた。

「……本気で言ってるの?」

「嘘ついてどうすんだよ。本気かどうかはこっちが聞いてんだ」

「どうかしてる」

「ああそうだろうな」

 手を離したのは、互いにほぼ同時だった。そんなタイミングだけは合うのかと思うと、おかしいような、虚しいような気分になる。

 再び沈黙がおりるが、こちらから言い出してしまった以上、返事を聞くまでは粘ってやるつもりだった。睨みあうような視線を交わすうちに、彼女はようやく口を開いた。

「どうするつもりなの?これから」

「それはこれから考える」

 きっぱり言い切ると、彼女は珍しい動物にでも出くわしたかのように、目を見開いた。そして呆れたようにため息をつく。その仕草は、相棒であるフリッツにどことなく似ていた。もっとも、彼ならギュンターのことを知り尽くしているので、驚きもせず、すぐに具体的な案を提示してくれるのだが。当然彼女には見込めそうもないので、とりあえず思いついたことを口にする。

「明日の夜明け、中央広場で。話はそれからだ」

 ギュンターはそう言うと背を向け、修道院へと足を向けた。地下通路の入り口をくぐるまで、彼女の視線を背に受けながら。


「おかえり」

 聖堂に戻った途端、予期せぬ出迎えを受け、ギュンターは一瞬ぎょっとなった。声の出所を探し当て、ほっと息をつく。「脅かすなよ」と言うと、柱の陰から出てきたフリッツは、小さく笑った。

「院内はもう大騒ぎだよ。謎の訪問者と、ギュンター・ヘルマンを捜せってね」

 覚悟はしていたが、いざ現実を突きつけられると、やはり気分は沈む。その心を読み取ったかのように、涼やかな声が揺さぶりをかける。

「今なら、まだ逃げられる」

「今さら逃げねえよ。逃げて、どうにかなるもんでもないしな」

「訪問者を捕まえてくればいい。まだ近くにいるんだろ。ギドの親父さんの力があれば、追放は免れるかもしれない」

「やらねえよ」ギュンターはきっぱりと言いきる。「自分が助かるためだけに、そんな卑怯な真似できるか」

 フリッツは口を噤み、じっとこちらを見つめてくる。なんだよ、とうろたえるギュンターに、彼はぽつりと言った。

「もしかして、その訪問者に惚れた、とか?」

「ほ、惚れてねえよ!っていうか、女だなんて言ってねえだろ!」

 束の間の沈黙の後、「本気なんだ……」と、フリッツが深い溜息をつく。「冗談で言ったのに」

 改めて思う。彼の前で、隠しとおせるものなどない。何を言っても裏目に出そうなので黙っていると、さらなる追い討ちがかかる。

「どうするんだよ、これから」

「わかんね。追放されてから考える」

「異端審問官になる夢は、諦めたってことだ」

「まだ諦めたわけじゃねえよ」

「追放されるのに?」

「うるせえな、わかってるよ」

 完全に八つ当たりだった。けれど今のギュンターに、もう考える気力は残っていなかった。ベッドに倒れこみ、夢も見ないほど深く眠りたかった。

 気まずい沈黙がおりる。もっとも、そう感じているのはギュンターだけかもしれなかった。フリッツがぽつりと言う。

「羨ましいよ。強い後ろ盾があれば、どんな過ちを犯しても、許されるんだから」

「――どういう意味だよ?」

「そのままの意味だよ」

「親父の力は借りねえって言ってんだろ」

「それじゃ、夢は諦めるしかないだろうね」

 彼の話し方に、ますます苛立ちが募る。かっとなり、声を荒らげかけたときだった。

 廊下の方から、人の声が近づいてくる。どうやら数人はいるようだ。向こうにも、苛立ちと焦りが覗える。司祭から強く命令されてきたのだろう。

 ギュンターはふっと息を吐いた。肩の力が抜ける。行けよ、と言うつもりだった。二人でいるところを見つかれば、フリッツの立場も危うくなる。

 しかしそれよりも先に、彼はギュンターの横をすり抜けていた。

「俺はなるよ、異端審問官に。自分の力でね」

 去り際にそう言い残すと、躊躇うことなく、扉を開け放つ。

「ギュンター・ヘルマン、発見しました!」

 張り上げた一声は、聖堂から廊下へと、一気に駆け抜けていった。


 早朝の中央広場は、前に来たときとは打って変わって、閑散としていた。今の時間なら、商店街が動き始めた頃だろう。子ども達でさえ家の手伝いに追われ、広場で遊んでなどいられない。

 ギュンターは肩に担いだ荷を背負いなおし、辺りを見回した。行商人がリヤカーを引いて、広場を横切っていく。リヤカーの影が通り過ぎた後には、木の枝が重なり合い、石畳に幾何学模様を作る。

 ぼんやりとそれを眺めていたギュンターは、ふと思い立ち、歩き出した。足を止めたのは、一本の木の下だった。初めて、彼女と出会った場所だ。なんだ覚えているじゃないかと、心の内で思う。

「行くぞ」と声をかけると、頭上で枝を踏みしめる音がした。やがて少女は木から降り立ち、ギュンターの前に姿を現した。昨日と同じ外套を羽織っているが、中に着ているのはドレスではなく、チュニックと足元まであるロングスカートだった。

 彼女が真っ直ぐギュンターを見つめる。

「本当に、いいの?」

「何度も言わせんな」くるりと背を向け、歩き出す。「これから故郷のクラーヴに向かう。大体五日位の距離だ。移動手段は徒歩しかないし、金もほとんどない。野宿のときもあるだろうから、覚悟しとけよ」

 応答はなく、少女は黙ってあとをついてくる。

 ふと大事なことを思い出し、ギュンターは足を止めた。「そういやさ」と言いつつ振り向くと、少女は僅かに首を傾げ、見返してくる。

「自己紹介がまだだったよな。俺はギュンター・ヘルマン。ギドでいい。一応、よろしく」

 手を差し出すと、少女は少し躊躇った後、「アン、でいい」と言って、握り返した。家名まで明かす気はないらしい。特にこだわることでもないので、「そっか」とだけ返しておいた。

 再び歩き出しながら、ギュンターは最後に修道院を振り返る。窓のどこかひとつから、フリッツがこちらを見ているような気がした。引きずる気持ちを抱えたまま、ギュンターは二度と振り返らず、広場を後にした。

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