11

 家のドアを前にして、ヨハネスはトランクを足元に下ろし、深く息を吸った。心臓が大きな音を立てている。ノックひとつするのが、学校の試験などよりずっと緊張する。彼の噂を、道中色々聞いてしまったからだろう。ここに辿り着くまで、幾度危険だと止められたかわからない。

 レギナルト学長が約束どおり仕事先を調べ、だめもとで送ったヨハネスの推薦状は、無事アグリッパ本人の手に渡ったようだ。そしてしばらくすると、了承だろうと思われる返事を寄越してきたのだった。

『私が求める条件は、優秀かつ、あらゆることに探究心を持ち、信念があり、恐れに立ち向かえる者。そして、国を越える覚悟があれば、来るがいい』

 最後に自宅の住所が殴り書きされて、手紙は終わっている。求められている資質は厳しいが、もはや躊躇う理由にはならなかった。争いごとも多く、各地を転々としてきた彼を追いかけるのは、確かに相応の“覚悟”が必要だろう。

 レギナルトは不安げな顔をしていたが、もう引きとめはしなかった。最後は励ましの言葉を添えて、見送ってくれた。

 そしてヨハネスは、手紙に書かれた住所だけを頼りに、神聖ローマ帝国、アントワープへ赴いたのだった。

 目的の区までは順調に来られたものの、ここからが骨の折れる作業だった。手紙には、番地などの詳しい住所が書かれていなかったのだ。人に知られたくなかったのかもしれないが、自力で探すには広すぎる規模だ。

 通りすがりの人々に、手当たりしだい聞いて回った。家の場所こそ曖昧だったが、アグリッパ自身の知名度は抜群だった。ただ彼らの口から発せられるのは、どれも不穏なものばかりだった。

 この街で彼は、神聖ローマ皇帝カール五世に、自身の豊富な知識と文才を認められ、歴史の記録係に任命された。仕事場兼住居も提供され、以降彼は、ほとんどの時間を、そこで過ごすようになった。ただ近隣との折り合いは極めて悪く、騒音には一際敏感な気難し屋で、頑固者。人と滅多に関わろうとせず、実は魔術師だという説がある。研究室の中に悪魔を飼っていて、彼の弟子が誤って殺されてしまった、などという噂まであった。

 どうにかこうにか家まで辿り着いたものの、心は半ば折れかけていた。

 ヨハネスは恐る恐る、ノッカーを二度打ち鳴らした。金具と木製のドアが、重く低い音を響かせる。

「入れ」

 音に負けないほどの重厚な声が、中から返ってくる。「はい……」となんとか返事をして、両手でドアを開く。

 まだ正午だというのに中は薄暗く、部屋中に埃が舞っていた。壁際にはびっしりと本棚が並び、隙間なく本で埋め尽くされている。入りきらない本が机に積み重なり、以前はその上にあっただろう本が、開いた状態で床に散らばっている。

 机を挟んだ向こう側で、アグリッパと思われる人物が、肘掛け椅子に腰掛けていた。まず目がいくのは、ずば抜けた身長だった。うず高く積まれた本に囲まれても、頭ひとつ飛び出している。細長い面には豊かな顎鬚が蓄えられている。

 ヨハネスが中に入っていっても、彼は顔を上げようとしない。机上の書類にひたすらペンを走らせている。恐る恐る、声をかけようとしたときだった。

「早く戸を閉めろ。陽が入る」

「――え?え、あ、ああはい、すみません!」

 慌てふためきながら、扉を閉める。心臓がばくばく鳴っている。正面に向き直ったものの、アグリッパはまだ書類に熱中したままだ。ペンを動かしつつ、ようやく質問が向けられる。

「名前は?」

「あ、はい。今日から住み込みでお世話になります、ヨハネス・ヴァイヤーです。よろしくお願いします」

「私の名前はハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ・フォン・ネッテスハイムだ」

「はい、よろし――」

「同じことを繰り返すな。煩わしい」

「……はい」

 消え入りそうな声で、なんとか返事をする。このまま回れ右をして帰ってしまいたい気分だった。足がすくんでいなければ、本当にそうしていたかもしれない。

「ヨハネス・ヴァイヤー、と言ったな」

「あ、はい……」

「父親は商人だそうだな?」

「はい、ホップを扱っています」

「ふん、成り上がりのおぼっちゃんが、何を学びに来た?」

 せせら笑うようなものいいに、ヨハネスは怒りよりも驚愕してしまった。こんな仕打ちは初めてだ。どう返せばいいのかもわからず、結局素直に「医学と法律を学びに来ました」と答える。

 ようやく本題に入れたのだ。話を脱線したくはなかったし、初対面で嫌われるのは避けたかった。アグリッパは目を細め、疑わしげな視線を送ってくる。

「法律はともかく、私は特に医学を専門としているわけではない。目新しいことも成せていない。医学校に通っていた方がよかったのではないかね?」

「いいえ、アグリッパ先生でなければいけないんです」

 ヨハネスはそこで一度息を継いだ。先程まで足が竦むほどだった緊張は、いつの間にか忘れていた。ここに来て初めて、アグリッパを正面から見据える。

「僕が学びたいのは、異端審問についてのことなんです」

「――おまえが目指すものは何だ?」

「医者です」

「なら知る必要はない。やめておけ」

 きっぱりと撥ねつけられてしまったが、ここで引き下がるわけにいかない。勇気を出して食い下がる。

「どうしてですか?疑問を持つのに職種は関係ないはずです」

「興味本位でわざわざ危険に首を突っ込むのは、実に愚かな行為だ。さっさと出て行け。もう用はないだろう」

「危険は充分承知です。それでも大きな過ちを見過ごすわけにはいきません。アグリッパ先生もそう思ったから、異端審問に関わったのでしょう?」

「おまえには関係ない」

「関係なくありません。僕はあなたを尊敬しているんです。理由だってちゃんとあります」

 返事はない。ペンを走らせる音だけが、二人の間を繋いでいた。

 五秒が十秒にも、二十秒にも感じられる。時間が経つうちに、振り絞った勇気がみるみる萎んでいく。沈黙に耐えかね、ヨハネスは控えめに尋ねた。

「あの……理由だけ聞いていただいても、よろしいでしょうか……?」

 アグリッパは上目遣いでヨハネスを睨む。しかしそれもほんの一瞬のことだった。

「勝手にしろ。終わったらすぐに出て行け」

「あ、いえ、じゃあやめます。出ていきません」

 すると彼はペンを置き、今度こそ顔を上げた。最初から一貫してのしかめ面だ。もしかするとそれが普段の表情なのかもしれない。眉間の皺は、そこにあるのが当然のごとく、くっきりと刻まれている。

 ようやくしっかりと顔を見て、ヨハネスは思いの他、彼の歳が若いのに気がついた。レギナルト学長と同じ年代を想像していたのだが、それより三十は違うだろう。一見しただけでは、とても歳の見当はつけられない。威厳のある顎鬚が、積み重ねた経験の濃密さを物語っていた。

 その豊かな髭が、微かに揺れる。彼の真一文字だった口端が、片方だけ吊り上げられていた。

「見かけによらず、頑固者のようだな」

 笑っているのか苛立っているのか、どうにも判別し難い表情なので、ヨハネスは戸惑うばかりだった。結局直立不動のままでいると、アグリッパは突如こちらを指差した。

「歓迎しよう、ヨハネス・ヴァイヤー。ここで広く、深く、貪欲に学べ」

 ヨハネスが言葉を発する前に、「ただし、」と厳しい声が続く。

「世間はそんなに甘くないぞ。慣習の波に逆らえば、力不足に泣かされるときが必ず来る」

「――はい。できることから、ひとつずつやっていきます。なので先生、これから厳しいご指導、よろしくお願いします」

 そう言って、頭を下げる。アグリッパは「うむ」と短く応えただけだった。そして、何事もなかったかのように、筆記の作業が再開された。


 住み込みでの弟子入りということで、ヨハネスは早速、二階にある一室を与えられることになった。荷物を片付けるため、新しい居室のドアを開く。そこはリビングよりも、一層雑然としていた。本は床に散乱し、机から落ちたらしいインク壷が、書類にインクを撒き散らし、すでにからからに乾ききっていた。おまけに埃が一面に充満している。

 ヨハネスは室内に入ると、すぐに一つだけある窓を全開にした。掃除が大変そうだと、改めて辺りを見渡す。それにしてもひどい状態だ。

 ベッドは起きたばかりの状態そのままで、下に置かれた衣装箱からは衣類がはみ出している。この部屋だけが、突然時に置いていかれてしまったように感じられた。

「元弟子の部屋だ」

 驚いて振り向くと、いつの間にかアグリッパがすぐ真後ろに立っていた。ヨハネスの脳裏に、街中での噂が蘇る。

 ――アグリッパの弟子は、研究室で飼っている悪魔によって殺されたらしい。

 ――アグリッパの家から出てきた途端、痙攣して倒れるのを見た人がいるんだよ

 二階に上がる前、研究室かはわからないが、たしかに怪しげな一室はあった。そのドアは一階の奥まったところにひっそりとあり、視線の先に気づいたアグリッパが、「そこに入るな」と短く言った。簡潔だが、それ以上の疑問を一切受け付けない固い響きがあったので、慌ててその場を後にしてきたのだ。

 一気に不安が込み上げ、訊かずにはいられなかった。

「その元お弟子さんは、一体どこに……?」

「死んだ」

 一番聞きたくなかった答えが、ストレートに告げられる。

「街で耳にしなかったか?」

「あ、ああいや、聞いたような、聞かなかったような……」

「それはよかった。説明の手間が省けるからな」

 アグリッパはそれだけ言うと、くるりと背を向け、さっさと自室へ引き上げていく。

「あの、ちょっと待ってください!その噂、まさか本当じゃ――」

 躊躇なく、バタンとドアが閉められる。追い縋る声は宙に舞い、室内に澱んだ空気をもたらした。


 翌日。朝早く目が覚めたヨハネスは、部屋の窓をいっぱいに開け放った。自分の部屋なら、光を入れても怒られることはない。毎朝目にしているのに、今日の光は一際強く、頼もしげに感じられた。新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。よし、とひとつ気合を入れてから、部屋を出る。

「おはようございます、アグリッパ先生」

「遅い」

 不機嫌な声が、低く轟く。アグリッパは昨日と同じように、大きな肘掛け椅子に腰掛け、机上に散乱した書類と向き合っている。厳しい一瞥をくれると、

「朝食を作ったのは実に久しぶりだ。弟子が作るものだと思っていたからな。以前の弟子は、出来が良すぎたようだ」

 食卓には一人分のパンと、すっかり冷めたスープが置いてある。向かいの席には、空の食器がきちんと重ねられていた。

「すみませんでした」と慌てて頭を下げるも、アグリッパはすでに作業に没頭し、顔を上げようともしない。

 気まずい沈黙。ヨハネスは仕方なく、重い足を引きずりながら食卓に着く。食事を取るのは気が進まないものの、せっかく用意してもらったものを断るわけにいかない。スプーンを手に取り、機械的にスープを口へ運ぶ。爽やかな朝は、早くも暗澹となりつつあった。

 ――しっかりしなくちゃ。ここは学校じゃないんだ、自覚を持たないと……。

 頭ではわかっているものの、不安は山積みだ。

 実家では使用人がしてくれたことを、全て自分でやらなければいけない。それも自分だけではなく、二人分、である。さすがに寮生活では必要最低限掃除などは行っていたが、食事は毎食用意されていた。ヨハネスにとっては、頭を抱えたくなる大問題だった。

 何しろ調理場にすらほとんど入ったことがないのだ。ちょっとでもマテューの手伝いをしようものなら、母や使用人が飛んできて、あっという間に取り上げてしまう。怪我をしたら大変だと、皆が口を揃えて言う。数年後、ヨハネスが逆の行動で叱られるなど、実家では誰も予想していなかっただろう。

 けれど、今はこうして自ら望んでここまで来たのだ。何としてでも道を切り開くしかない。

 ヨハネスは目の前のスープへと、意識を向ける。今度はひとつひとつ、味を確かめながら、スプーンを口へ運んでいく。玉ねぎはとろけるまでよく煮込まれ、胡椒が程よく味を利かせている。冷めてはいても、充分においしいと感じられるものだった。つまり求められている味は、相当レベルの高いものになるのだろう。アグリッパの厳格そうな思考から、“妥協”などという言葉が浮かぶとは到底考えられなかった。

 そしてその予想は見事に的中し、早朝から料理と格闘する日々が始まった。

 アグリッパに頭を下げ、レシピを伝授してもらうことから始まり、食材の買出しがてら、店主に料理のコツを教わった。

 最初は野菜を切るのも一苦労で、指にはいくつか傷がついた。母が見たら卒倒してしまったかもしれない。そう思うたびに苦笑しつつ、懐かしい思いにひしがれながら、少しずつ、着実に腕を磨いていった。

 しかしアグリッパの批評は、情け容赦ないものだった。食べ終えた後の感想は、いつも一言。「まずい」から始まり、「固い」「薄い」「熱い」「足りない」など、注文は後を絶たなかった。

 ある日は「人参」という日もあった。それがどうやら嫌いなのだとわかったときは、笑いを堪えるのに一苦労だった。

 日を重ねるにつれ、胃の痛むような思いは去り、ヨハネスはいつしか、それらを楽しめるようになっていた。その頃には掃除や洗濯も一通り身についていた。

 そして弟子入りして七ヶ月目。いつも通りの夕食後、アグリッパがついに何も言わずに席を立ったとき、ヨハネスは彼の背後で、飛び上がらんばかりに喜んだのだった。

 とはいえ、ヨハネスが目指しているのは料理人ではない。肝心の医学・法律学の授業も、日々着実に進められていた。こちらのほうはいたって順調で、かつ充実していた。それは今まで学校で学んできたやり方と、まるきり正反対だった。

 アグリッパは知識を与えるより先に、まず考えることを要求した。ひとつの例題を持ち出し、自分なりの答えを述べよ、という具合に。論理的な考察が出せるまで、彼は決して手を貸そうとしなかった。

 ただ、ヨハネスが一生懸命それに応えようとすれば、彼は時間をかけ、真摯に向き合ってくれた。ときには一夜を徹して、議論を交わすこともあった。そのやりとりのなかで、物事の新たな見方、受け止め方を、数多く与えてくれるのだった。

 彼の持つ膨大な知識量に圧倒されながら、ヨハネスはひとつひとつ噛み締めるように、それらを吸収していった。この貴重な時間がいつまで続くかわからない。未だ固く扉を閉ざした、不気味な部屋の前を通るたび、そう心に思うのだった。少しずつアグリッパのことが理解できてきたとはいえ、彼は魔術師でない、とまでは言い切れない。疑惑はいつまで経っても晴れなかった。

 というのにも、噂を裏付けるような、不気味な理由がある。その部屋の奥から、時々物音がするのだ。しかも決まって、アグリッパが不在のときにである。

 カリカリとどこかを引っ搔くような音。それに、喉の奥から発せられる、低い呻き声。扉一枚隔てただけの不気味な何かに、ヨハネスはその都度震え上がった。幾度アグリッパ本人に確かめようかと思ったのだが、知った後のことを想像すると、途端に怖気づいてしまうのだった。

 できるだけ近づかず、気にしないよう努める日々が続いた。そんなある日。ヨハネスはふと、ある可能性に思い至った。

 一度気になってしまうと、いくら打ち消そうとしても、好奇心が恐怖を押しのけ、頭をもたげようとする。確かめずにはいられなくなる。幸か不幸か、アグリッパは仕事のためちょうど外出中だ。今が絶好のタイミング、と考えるのは、はたしていいのだろうか。

 研究室の扉の前で、そっと耳をそばだてる。

 案の定、中では例の物音が聞こえてくる。取っ手を握る掌に、じんわりと汗が滲む。大丈夫。今はまだ昼間だ。悪魔が出てくる時刻ではない。そう自身を説得し、ヨハネスはゆっくりとドアノブを回す。

 そして。扉の先には、確かな真実があった。




 コンコン、と軽快なノックが室内に響く。アグリッパは作業する手を止め、顔を顰めた。内心首を傾げる。相手は一人しかいないが、その意図がわからない。ノックの音を聞く限り、急を要するわけでもなさそうだ。

「ここには来るなと言ったはずだが?」

「すみません先生、わかっていたのですが……」

 ドアの向こうで、おどおどした声が返ってくる。はっきり話せといつも注意しているのだが、この癖だけは直らないようだ。

「後にしろ」

「あ、いえ、今がいいんです。その……僕、もう見ちゃったんです」

 そのくせ妙に頑固なところが腹立たしくもあり、一応彼を評価する点でもある。

 アグリッパは必要最小限にドアを開き、「何がだ?」と尋ねた。目の前には予想通り、新米弟子のヨハネスが笑みを浮かべて立っていた。彼はいつも大抵こんな顔だ。その腑抜けた面にパイを投げつけたくなるときもあれば、ふっと肩の力が抜けるときもある。どちらにせよ、今まで守ってきた自分のペースを、少なからず乱す少年だった。

 こちらの視線を受けてか、ヨハネスは申し訳なさそうに目を伏せた。が、すぐに気を取り直した様子で、両手に持っている二つの容器を掲げて見せた。

「昨日ミルクを切らしてしまっていたので、困っていると思って。お腹空かせてたでしょう?あ、先生にはコーヒーを。ミルク入りでよかったですよね」

 ヨハネスはニコニコしながら、ティーカップを差し出す。アグリッパは受け取ったティーカップと、弟子の手にあるスープ皿を交互に見比べた。悪戯が見つかった子どものように、ヨハネスは肩を縮めて言った。

「数日前、見つけてしまったんです。前から鳴き声が気になっていたものですから……」

「おまえは随分、この研究室を気味悪がっていたようだが?」

「恐かったですよ、とっても。早く言ってくださればよかったのに」

 そう言いながら、ひょいとアグリッパの腕の下をくぐり抜け、中へと入る。一度恐怖を乗り越えると、余計な度胸まで身につけてしまったらしい。アグリッパは溜息をつき、ドアから手を離した。

 ヨハネスは部屋の隅にしゃがむと、足元にスープ皿を置いた。低い鳴き声が上がり、忙しなくミルクを口に含む音がする。

「あはは、やっぱりお腹空いてたんだね。そんなに慌てなくても大丈夫だよ。他に猫はいないんだ、誰も取らないよ」

 笑いながら、柔らかな栗毛の頭を撫でる。好物の効果は絶大だったようで、猫は彼の足元に擦り寄り、めいっぱい甘えてみせている。飽きることなく喉をさすってやりながら、ヨハネスはアグリッパの方へ顔を向ける。

「でもどうして先生は、猫がいることを隠していらっしゃったんですか?」

「別に隠していたわけではない。家の中を無闇にうろついてほしくなかっただけだ」

「それなら僕の部屋で飼いましょうか。この部屋だと先生の仕事を煩わせてしまうでしょうから」

「いや結構。これは研究材料として使っている」

 ヨハネスの表情が一変し、深い哀れみへと変わる。殺してしまうのか、と責めたてんばかりだ。「毛と体液を少し採取するだけだ。」と付け足してやると、ほっと胸を撫で下ろしている。

「それにしても、いったい何の研究なのですか?……医学に関連することなのでしょう?」

 その質問には期待半分、疑惑が半分含まれていた。彼はまだ、馬鹿馬鹿しい魔術師説を捨て切れていないらしい。どのみち否定も肯定もする気はなかったので、アグリッパは敢えて指摘しないでおいた。ある程度の恐怖は、ときに好都合なこともあるのだ。

 なので例の噂の真相も、明かしたくはなかった。眉間に皺を寄せると、ヨハネスはしまったという顔つきになり、慌てて何か言い繕おうとしている。臆病なくせに、好奇心は人一倍強いのだ。適当なことを言ってごまかそうかと思ったが、それもまた面倒だ。彼はすでに、ある程度の知識と論理的な思考を身につけている。アグリッパは大きく溜息をついた。

「おまえが来る以前のことだ。ここには別の弟子が住んでいた。今使っている二階の部屋の、前の居住者だ。

 ある日、彼が遣いに出ているとき、家の裏にこの猫が迷い込んできた。そこの窓の下であまりにうるさく鳴くものだから、仕方なく開けてやった。入ってくるなり、今度は食べ物の要求だ。

 そうこうしているうちに弟子が帰ってきて、猫を見つけ、喜んで飼おうと言い出した。自分が面倒を見るからと。しかし数時間後、あいつは突然発作を起こした。持病など何一つなく、今まで健康そのものだったにも関わらずだ。極度の呼吸困難だった。喉をかきむしり、喘ぎながら外へ飛び出し、そこでばったり倒れた。為す術もなかった。

 当然、容疑者は私一人だ。そしてこの猫は、晴れて悪魔の僕となったわけだ。実態はもう寿命も近い老いぼれ猫だ。残り少ない余生ぐらいは、ここで過ごさせてやっている。あくまで実験材料としてだが」

 じっと話に聞き入っていたヨハネスが、しみじみと言う。

「先生はこの子を守ってあげていたんですね。そして死の真相を突き止めようとしている。亡くなったお弟子さんのために」

 全てを見透かしたような弟子の言葉に、アグリッパは顔を顰めた。自分の心情を覗かれることこそ、不愉快なものはない。

 ヨハネスの温和な眼差しは、今は亡き弟子を思い起こさせた。彼も同じ目で、猫に微笑んでいた。死の瀬戸際でも、猫が近寄ると手を伸ばし、抱き寄せた。そして刻一刻と迫りくる恐怖に怯えながら、口元を痙攣させ、アグリッパへ懸命に何か伝えようとした。黙って頷いてやると、彼は僅かに口角を上げ、そして息を引き取った。

 最期まで実に愚かで、お人好しな弟子だった。多くの者を愛そうと手を差し伸べ、友人にも恵まれていた。敵ばかり作ってきたアグリッパとはまさに対照的だった。

 ――「お強い先生がうらやましいです。僕は気が弱いので、敵をつくるのが恐いんです。どうにか分かり合えないかって、そんなことばかり考えてしまって。これじゃ弁護士には向いてないですよね」

 生命が失われたとき、心が揺れなかったかといえば嘘になる。だが助けられなかった罪悪感で、猫を保護したわけではない。今さらそんな自己満足に浸るほど、甘い考えは持っていない。とうの昔に、不必要だと痛感したのだ。そう、過去に捨ててきたはずだった。一人の少女を助けようとしたときに。

「弟子のためでも猫のためでもない。病気の原因を突き止め、治療法を探すのは、医師の使命だ」

「それでも、先生は優しいです」

「優しい、か」アグリッパは腹立ち紛れに鼻を鳴らす。「実に無意味な言葉だ」

「無意味、ですか?」

「そうだ。あまりに曖昧で、都合のいいものでしかない。優しさとは想いのことだ。想いを持たぬ人間などいない。ただそれを何に対して向けるかで、人の善悪が相手によって変わるのだ。

 猫から見れば、助けたことになるのかもしれん。だが弟子の家族や友人達からすれば、私は絶対的な悪だ」

 ヨハネスは口を噤み、何事か思案している様子だった。やがて顔を上げたとき、そこにはどこか懐かしい笑みが広がっていた。

「それじゃあ人は皆、わかりあえるということですね。想いは、試験の解答みたいにひとつじゃないですから。

 確かにお弟子さんのご家族達は、先生を許せないかもしれません。でも事実を知り、理解することはできます。善が悪と見られてしまうのなら、悪の中にもまた、善を見つけられると僕は信じます」

 ミルクを飲み終えた猫が、また甘えた鳴き声を上げる。ヨハネスはその頭を撫でてやりながら、穏やかに先を続けた。

「優しさは、無意味なんかじゃないです。先生の想いが、ひとつの命を救ったんですから」

「……実に浅はかで、おめでたい考えだ」

 ヨハネスは照れくさそうに、「そうですよね」と言って小さく笑った。その純粋な眼差しは、汚れた世界を見てきた目では、背けたくなるほど眩しく感じられた。

 アグリッパは黙って席に腰を下ろし、やりかけの作業へと戻った。忙しなく書類を漁り、ページを捲る。しかしヨハネスが退室するまで、結局文字はちっとも頭に入ってこなかった。

 数日後。ヨハネスの身体は猫の影響を受けないことがわかり、以降老いぼれ猫(ヨハネスはチェロと名づけたらしい)が、家中を我が物顔で練り歩くようになった。

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