10
講義が終わり、賑やかな校舎の廊下を、ヨハネスはできるだけ早足で進んでいた。両脇にはたくさんの書類を抱えている。
家業を継がず、自分の夢を追い医学校へと入学してから、一年余りが経とうとしていた。父との約束どおり、ヨハネスは一日も無駄にせず、一心に学問に励んだ。努力は確実に実を結び、成績は常にトップクラスだった。
母が心配していた交友関係も、比較的良好だった。何人か友達と呼べる存在ができ、試験が近くなるとヨハネスの人気は最高潮になった。試験対策でまとめたノートが、いつも争奪戦になるからだ。自分の勉強も大切だが、そうやって頼られることがヨハネスは何よりも嬉しかった。
そんな彼が現在向かっているのは図書室だった。定期試験を間近に控え、誰もが勢い込む時期だ。勉強場所の確保は、いつも困難を極める。
重い手荷物にうんざりしながら、苦労して扉を開く。室内はすでに多くの学生で占められていたが、なんとか席を確保し、ヨハネスは大きく息をついた。必要な資料を本棚から探し当て、机に積み重ね、いざやろうとペンを手にしたときだった。
「やあ、ヨハン。はかどってるかい?」
頭上からよく知った声が降ってくる。
「今ちょうど、始めようとしたところだよ」
ヨハネスは笑いながら顔を上げた。
思ったとおり、目の前にいるのは同級生のハリーだった。寝起きのようなぼさぼさ頭はいつものことだ。腫れぼったい目とその下の隈は、昨日も徹夜していたことを物語っている。これも彼にとっては特に珍しいことでもない。本人曰く、何かに夢中になると、つい時間を忘れてしまいがちになるらしい。その情熱が勉強に向けば、と思わないでもないが、きっと彼にとっては別ものなのだろう。
学生寮で同室ということもあり、二人は入学当初からすぐに親しくなった。ハリーの勉強嫌いは筋金入りで、他の様々なことに関心をもつため、真面目な医学生達からすれば少し異質な存在だったが、ヨハネスにとっては気の許せる大切な友人だった。気さくで明るい性格が、マテューにどことなく似ていたからかもしれない。勉強のフォローからハリー自慢の雑学披露まで、共にいる時間はいつも楽しかった。
「隣いいかい?」と言うそばから席に着き、ハリーはさっさと準備を始める。返事は必要ないようだ。これも普段のやりとりなので、ヨハネスは書類の束を引き寄せスペースを空けた。
時々ハリーのつまずいた問題をヨハネスが解説しながら、二人は暫し自習に励んだ。しかしハリーの方の集中力は、徐々に切れかけていく。
「この前さ、面白い本見つけたんだ。もうはまっちゃってさ。夢中で読みふけったんだよ、一夜漬けで」
「へえ。何て本?」
話を合わせるだけの何気ない問いだったのだが、ハリーはよくぞ聞いてくれましたとばかりに勢い込み、ペンと紙を脇に除けてしまった。鞄から一冊の本を取り出し、「これだよ」と差し出す。表紙には『学問と芸術の不確かさと空しさ』という、長たらしい題名があった。
「ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ著?」
首を傾げると、ハリーは「知らないのか?」と大袈裟なほど驚いた。
「天才という名に相応しい、超有名人だぞ。宮廷書記から宮廷医師、その後ドール大学で教鞭をとり、神学博士にまでなった。ついでに占星術まで操るらしい。今ではなんと、あのローマ皇帝カール五世に認められて、歴史の記録係だ」
その仕事の合間に書き上げたのが、この本なのだという。
「世間では話題騒然らしい。なんてったって、十五歳で大学を卒業して“神童”と言われた人が、『学べば学ぶほどそれは虚しく、いかに自分が無知かを思い知る』なんて言うんだぜ?カール五世も一転、怒り心頭って話さ。そりゃそうだよな。歴史に刻まれた多くの人達を批判しちゃったんだから」
ヨハネスは話を聞きながら、ぱらぱらと本のページを捲った。やはり聞いた事のない人物だ。宮廷仕えだったのなら、医師としても相当腕を持っていただろうに、と思う。どんな経緯があったにしろ、医学から離れてしまうのはもったいない。
そんなことを思っていた折、ある単語が目に飛び込んできて、ヨハネスはぴたりと手を止めた。慌てて数ページ前へと戻る。
やはり見間違いではなかった。この本には、“異端審問”に関する記述がある。著者は弁護士の仕事をしていたときに、魔女の容疑がかかった少女を無罪にしたのだという。
「これ全部本当の話、なんだよね?」
ヨハネスが尋ねると、ハリーも横から該当のページを覗き込んでくる。そしてなぜか得意げな顔で大きく頷いた。
「そう、すごいだろ?ほぼ有罪確定だったのをひっくり返したんだってさ。しかもその容疑者っていうのが、農民奴隷の女の子だって話だ。助けたところで何の利益もないのに、かっこいいよな」
「すごいよ……本当に、そんなことができるんだ」
今のヨハネスには、もはや友人の言葉もほとんど耳に入っていなかった。
「珍しいな?ヨハンが医学以外のことで、そんなに興味をもつなんてさ」
「――うん。もっと知りたい、この人のこと」ヨハネスはぱっと顔を上げて、「この本、貸してもらってもいいかな?」と頼んだ。
ハリーは少し驚きながらも、すぐ嬉しそうに頷いた。
「もちろん、薦めるつもりで持ってきたんだ。ただし!条件がある」
ヨハネスは笑って、自分の試験対策ノートを差し出した。
「これと交換でいいかな?」
「よし、成立だ!」ハリーはぱちんと指を鳴らした。「今回こそ高得点が狙えるぞ……!」
やる気を取り戻したようで、彼は再びペンと紙を引き寄せた。ヨハネスもとりあえず勉強を再開したが、気持ちはすっかり例の本へと向いていた。今度は自分が徹夜する番になりそうだ。
寮の自室に戻ると、ヨハネスは早速本のページを開いた。
冒頭にはタイトルの通り、学問や知識を深めることに大きな意味はない、終着点はどこにもないのだということが、持論として述べられている。彼の言うことは正しいのかもしれないが、読んでいる側にとってはあまりに夢がなく、学ぶ意欲を削いでしまう内容だ。世間が騒然となるのも頷ける。
著者はどうして、このようにネガティブな内容を書いたのだろう。この本を通して、一体何を伝えたかったのか。どんなに考えてみても、ヨハネスにはやはり理解できなかった。
学問を学び知識を積まなければ、彼は医者にも、他のどの職にも就けなかったはずだ。たとえそれが不確かな知識だとしても、今人々の役に立てるのなら、恐れず存分に使うべきだ。そうしないといつまでも前には進めない。多くの才能を持つ本人が、一番わかっているはずだ。学問も芸術も、空しくなんか決してない。
反発する気持ちを抑え、丹念に読み進めていくと、ついに該当のページへと辿り着いた。こちらは章が変わり、冒頭の論文調ではなく、著者本人の体験談になっている。
『一五一八年、フランスのメッスで法律顧問をしていた頃のこと。
容疑者である農民奴隷の娘が、異端審問にかけられていた。起訴した異端審問官によると、今は亡き彼女の母親が、生前魔女だったことが容疑の元だという。そして今年起きた家畜の大量死は、彼女が母親の処刑を恨んだ末、報復したものだと。
しかしこれはおかしな話だ。動機以前にまず証拠がない。娘が容疑をかけられたのは、母親が魔女だったからというだけだ。
彼女が実際に呪いをかけた現場を、誰かが目撃したのなら話は別だが。今のところ根拠になりそうな証言はなく、容易に作り話とわかるものばかりである。
この疑問に対し、脳なしの審問官は必死の形相で反論を述べた。
「魔女はサバトと呼ばれる夜の集会で、自分の子どもを悪魔に捧げる儀式を行う。だからこの娘はすでに、邪悪を植え込まれている」
そこで私は彼に、法律よりも絶対不可侵な聖書から、根本的な教えを引用しなければならなかった。高位聖職者の地位にありながら、彼はどうやらこの内容を忘れてしまったようである。
聖書の中で、預言者エゼキエルはこう述べている。「罪は犯した本人が償うのであって、子は親の罪を問わず、親もまたこの罪を負うことはない」
たとえ娘がサバトに連れて行かれたことがあるのだとしても、それは本人の意思ではない。彼女はむしろ被害者だ。聖なる御力で守られるべきであり、命を奪うなどもってのほかだ。
その後大した発言は出されず、結局娘には無罪が下された』
異端審問の記述はそこで終わっている。数週間後アグリッパは法律顧問を辞め、メッスを去り、別の地で医師へと転職したようだ。詳細は書かれていないが、転居の裏にこの件が関係していたのは想像に難くない。権威ある異端審問官が、ものの見事に打ち負かされたのだ。バックにいる修道会も黙っていないだろう。ひとつの失敗事例が、会にも大きな影響を及ぼしかねないからだ。著者も知らないはずはなかっただろう。それでも彼は自分の危険も顧みず、正義を貫いた。
「――やっぱり、すごい人だ」
「お、読み終わった?」
ベッドに寝転がっていたハリーが顔を上げる。どうやらペンを置き、ヨハネスのノートを暗記する作戦に移行したようだ。
「うん。あ、いや、まだ途中なんだけど。この本に出会えてよかったよ」
「だろ?一度でいいから、本人に会ってみたいもんだ」
「うん――会ってみたい。会えないかな?」
乗り気になったヨハネスに対して、ハリーは笑って否定する。
「いやー、無理だろ。今世間でもっとも騒がれてる人なんだから。っていうかカール五世のお怒りをかっちゃって、ただでは済まないぞ。会った途端に巻き込まれかねないって」
「でも、もしその前に捕まって投獄されたりしたら、二度と会えなくなるよ」
ヨハネスは大真面目だったが、ハリーはすでに興味を失ったようで、「まあそうだよなあ」と適当な相槌を打ち、再びノートの暗記を始めてしまった。なのでヨハネスもそれ以上声はかけなかった。ただ一度抱いた思いを、簡単に諦めることはできなかった。
もう一度、ざっと本に目を通す。彼の経歴から、何か手がかりになるものはないだろうか――。そして、ふと思い至った。
「あのさ」
「うん?」
面倒くさそうな返事が、ベッド上から返ってくる。
「レギナルト先生って、たしかここの学長になる前はパリ大学にいたんだったよね?」
「ああ――たしかそうだったと思うけど」
「本によると、アグリッパもパリ大学で教師として在籍してたみたいなんだ。もしかしたらお互い知り合いだったりしないかな?」
「まさかそんな都合よく――っておい、どこ行くんだよ?」
ヨハネスは本を手にすっくと立ち上がる。そして友人の制止も受け入れず、部屋着にガウンを羽織り、颯爽と自室を飛び出していた。
廊下を突き進む間、ヨハネスは五年前の出会いに思いを馳せていた。あのときの少女の姿が、今も目に焼きついて離れない。金色に輝く髪に、真っ白なワンピース。彼女は拳を握り締め、濡れた瞳でこちらを睨みつけている。
彼女の口にした言葉の意味が、声にならなかった苦痛が、今では少しだけわかる。そのとき自分が、どれだけひどい裏切りをしたのかも。今さら悔いたところで、過去は決して変えられない。これからできることをするんだと、何度となく自身に言い聞かせてきた。
そしてヨハネスが辿り着いた答えは、医師になることだった。両親に話した決意が全てだ。目の前で苦しむ一人一人に寄り添い、力となりたい。人の役に立てる仕事は数多くあるが、ヨハネスは相手と直接向き合い、手を差し伸べたかったのだ。
寮から繋がる学舎を通過すると、奥には学長室がある。ヨハネスは部屋を出た勢いのまま、ドアをノックした。
中から物音は聞こえない。途端にどっと不安が押し寄せる。
よく考えれば、こんな時間にいきなり部屋を訪れるのは失礼極まりない行為だ。もう日没はとうに過ぎ、真夜中に近づいている。
待っている数秒の時間が、とてつもなく長く感じられた。
――やっぱり明日出直そう。
そう思い、そろそろと踵を返しかけたときだった。
唐突にドアが開き、学長がぬっと顔を出した。ヨハネスは内心飛び上がり、慌てて姿勢を正す。
眼鏡の奥にある目が、不思議そうにこちらを見下ろしている。
「こんな時間に何か用かね、ミスター・ヴァイヤー」
「いきなり伺ったりしてすみません、レギナルト先生。思い立ったらいてもたってもいられなくて……」
「優秀な君がやりたいことなら、できる限り協力しよう」
とりあえず入りなさいと、学長はドアを大きく開け、中に招き入れてくれる。どうやら怒っているわけではなさそうだ。勧められるまま椅子にかけ、ヨハネスは率直に思いの丈を口にした。
「実は、ぜひ教えを請いたい人がいるんです」
「ほう、誰だね?」
そこでヨハネスは手にした本を示し、経緯を話そうとした。が、途端にレギナルトが大声を上げる。
「アグリッパか!?」
予想外の剣幕に、ヨハネスは半身を引きつつ「は、はい」と消え入りそうな声で答えた。
「悪いことは言わん。あの男に関心をもつのはやめなさい」
「でも、なぜですか?先生はアグリッパさんについて、何かご存知なんでしょうか?」
「――全く知らないわけではない。だから君に忠告しているのだ」
「教えてください。アグリッパさんはどんな人なんですか?
レギナルトは苦虫を噛み潰したような顔で、口を噤んだ。彼のことについては、どうにも気が進まないようだ。それでもヨハネスが辛抱強く待っていると、根負けしたように溜息をつき、過去を語ってくれた。
二人が出会ったのは二十年前、パリ大学で、同時期に教授として就任したのが始まりだった。しかし互いに全くといっていいほど反りが合わなかったという。その原因は、当時のレギナルトとアグリッパの講義に大きな違いがあったからだ。
レギナルトの専門は、当時物理学だった。彼は大学の意向に則り、生徒達が愛国心を持ち、将来国の発展に尽力できるよう熱心な講義を行った。この情熱が、若く未発達な心を正しい方向に導けるのだと信じていた。
一方のアグリッパは、神学を専門としていた。その講義は聖書の解釈をきっかけに、大学中を騒然とさせた。彼が行ったのは、『自由検証』というものだった。教会が今まで継承してきた教えではなく、彼独自の解釈を行ったのだ。そして生徒達にも、教わるだけではなく、自分の考えを自由に述べるよう促した。
それは教会側から追求されかねない、恐ろしい行為だった。たとえ解釈に大きな違いはなくとも、反逆者のレッテルを貼られるには充分な理由になりえた。彼の講義の噂は瞬く間に広がり、教会の耳に届くのも時間の問題だった。
見かねたレギナルトは、忠告のつもりでアグリッパに声をかけた。これ以上教会を敵に回すような講義をすれば、自分の身を滅ぼすことになる。そもそも、異端とも間違われかねない思想を生徒達に植え付けるのは、教鞭を取る者として相応しくないと。
すると彼は蔑んだ目で、こう言ってのけたという。
「異端の思想だと?型どおりの講義で生徒から考える力を奪うことが、正しいとでも言うのか?教鞭を執る者として、耳を疑う言葉だ」
これが二人の間に亀裂を作る決定打となった。以降彼らは大学内でも、一切言葉を交わすことはなかった。
結局数週間後、問題の講義は教会の逆鱗に触れ、アグリッパは大学からの追放を余儀なくされた。その後間もなく、彼は街からも出て行ったのだと、レギナルトは人伝に聞いたのだった。
「それからもあの男はあちこちでいざこざを起こし、各地を転々としていると聞いた。何度過ちを起こしても懲りないのだから、救いようがない。君が手にするその本も然り。あの男は常に物議を醸すだけで、実際は何も為していないのだ」
力のこもった忠告を聞きながら、ヨハネスは今の話について考えてみた。
アグリッパという人物を知ろうとすればするほど、わからなくなる。各分野で優れた才能を発揮しながら、長続きせずに辞めてしまう。あちこちで問題を起こすのは、きっと譲れない強い信念があるからなのだろう。それなのに、場所を移すと今度は全く違う職業についていたりする。彼が為したいこととは、何なのだろう。
「先生、僕はやっぱり知りたいです。直接会って話ができたら、どんなにいいかと思っています。この本を読んで、先生の話を聞かせていただいて、思いはもっと強くなりました。アグリッパさんの独自の世界観は、きっと僕の将来にも役立つと思うんです」
「危険な思想だ。害にしかならん」
「どうしてそう言い切れますか?アグリッパさんはおかしなことを言ってるわけじゃないです。おっしゃるとおり危険で、でもきっと正しいんです。先生だってわかっていたから、あのとき反論しなかったんじゃないですか?」
レギナルトは左手を額に当て、緩く頭を振った。同時に溜息を漏らす。
それを見ると、ヨハネスは少しだけ申し訳ない気持ちになった。勢い込んで強気な発言をしてしまったが、学長を否定するつもりはなかった。ただ微かな期待があったのだ。もしかしたら彼は、アグリッパを理解できないのではなく、理解したくないのではないか。こうして今でも嫌っているのは、それだけ気になっているからではないのかと。
眉間に皺を寄せたまま、レギナルトは目を瞑り、まだじっと考え込んでいる。今誰かが部屋に入ってきたら、眠っているのかと思うかもしれない。そんなどうでもいいような考えが浮かぶほど、長い時間に感じられた。
やがて彼はゆっくりと腕を解き、机に向かった。引き出しから取り出したのは、、二枚の羊皮紙だった。まだ渋面のまま、ようやく口を開く。
「彼の所属する施設に、手紙を送ってみよう。私からだと知った途端、破り捨てるかもしれんがな。ただし、学校に呼ぶのは無理だ。問題が多すぎる。だからミスター・ヴァイヤー、君が直接学びに行くんだ。できるかね?」
「――はい。ありがとうございます、レギナルト先生」
ヨハネスは感謝を込めて、深々と頭を下げた。
「その前に、ご両親にきちんと報告しなさい。きっと心配をかけるだろうから、私からも説明を添えよう」
学長から羊皮紙を一枚渡され、ヨハネスはそれを丁寧に丸めて、ローブの内側に入れた。
興奮で胸が高鳴っている。自分はこれから、アグリッパのもとへ向かうのだ。ハリーはきっと驚くだろう。両親にはやはり心配をかけてしまうだろうか。でも今更止まることはできない。今回もまた、夢への大きな一歩となるのだから。
「ひとつだけ、聞いてもいいかね?」
レギナルトに聞かれ、はい、とヨハネスは姿勢を正す。
「君が今学びたいものは、ここでは得られないもの、なのだね?」
少し迷った後、ためらいがちに頷く。下手な嘘はつきたくなかった。何よりレギナルトが、そんな気遣いを求めたわけでないのも感じていた。口を開こうとすると、彼は手を振り遮った。
「いや、それ以上は言わなくていい。巻き込まれるのはごめんだ」
苦笑交じりの学長の顔から、もう苦悩の色は消えていた。
「大きなことに挑戦するには、相応の覚悟と代償が必要だ。立ちはだかる壁は思いの外高く、厚いかもしれない。心して励みなさい」
ヨハネスは再び深く一礼し、部屋を後にした。
「あなた!大変なんです!ヨハンが、ああ、どうしましょう……!」
商船に山ほどのホップを積み、マルクスが無事航海を終えて帰途に着いた日のことだった。
血相を変えて駆け寄ってきた妻を、慌てて抱きとめる。彼女が口にする「アントワープに、アグリッパが、今すぐ」という途切れ途切れの単語では、さっぱり状況が掴めない。
「まあ落ち着きなさい」
マルクスは妻の肩に手を置き、大きく深呼吸するよう促した。サマンサが震える息を吐き出してから、「ヨハンが、どうしたんだ?」とゆっくり問いかける。
返事の代わりに差し出されたのは、一通の手紙だった。それはすでに開封されており、書いてある字はたしかに息子のものだ。しかしその内容は、到底信じられないものだった。自分で恥ずかしくなるほど、素っ頓狂な声を上げてしまう。
「学校を離れるだと?」
隣でサマンサが泣きそうな顔をして頷く。
「アグリッパとは何者だ?相当な名医なのか?」
「いいえ、その人はただの異端者です!」
差し出された本には、『学問と芸術の不確かさと虚しさ』と題が打ってある。マルクスは初めて目にするが、妻によるとかなり話題になっている本らしい。ヨハネスからの手紙を受けて、早速買ってきたのだという。
促されて適当なページを読んでみるものの、内容が全く頭に入ってこない。昔から商学のみを頭に叩き込んできたため、論理的なものにはさっぱりついていけないのだ。
それにしても息子はなぜアグリッパという人物に拘るのだろうと、疑問ばかりが膨らんでいく。妻の説明を聞いても、彼は特別医療に専念してきたわけではなさそうだ。各地で問題を起こす危険人物としては、名を馳せているらしいのだが。
「魔女裁判だわ……」
サマンサが低い声で呟いた。
「何だって?」
「きっと忘れていなかったんだわ。あの子は魔女を助けられると思ってるのよ」
「落ち着きなさい、サマンサ。ゆっくりでいいから、わかるように説明するんだ」
泣き崩れるサマンサを宥め、ようやく聞き出したのは、マルクスが初めて耳にする話だった。ヨハネスが九歳のときに出会った少女のこと。引っ込み思案だった息子がとった初めての行動と、母としてサマンサが貫いた姿勢。二人を同等に愛しているマルクスには、どちらを責めることもできなかった。しかし、息子の真意はやはりわかりかねる。
「一体何を考えてるんだ?医者になるのと魔女裁判には、何の繋がりがある?」
低い呟きは何の意味もなさないまま、二人の間で空虚に消えていく。サマンサのすすり泣きだけがその場を悲しく満たしていた。マルクスはしばらく考えていたが、ようやくひとつの決断を下した。
「今すぐヨハンを連れ戻そう。本人から話を聞かないことには納得できない」
「ちょっと待ってください!」
突然の声に、夫妻は驚いて部屋の入り口に目を向ける。戸を開け放って姿を現したのは、使用人のマテューだった。こちらが口を開く前に、「すみません、最初から立ち聞きしてしまいました」と深く頭を下げる。その潔さがいかにも彼らしい。きっとヨハネスのことを気にかけていたのだろう。二人のときは、兄弟のように仲が良かったことも知っている。
マルクスは表情を和らげ、顔を上げるよう促した。
「言いたいことがあるのだろう?話してみなさい」
目を腫らしたサマンサを気遣わしげに見遣りながら、マテューが話し出す。
「ヨハネス様を心配するお気持ちはわかりますが、すぐに連れ戻すのは考え直していただきたいのです。学びに行くのは今しかないんです。この機会を逃せば、噂の渦中であるアグリッパの所在はわからなくなってしまうかもしれません。そうなれば、ヨハネス様の長年の夢が絶たれてしまいます」
「ヨハンは医者になりたいと言ったんだ。魔女裁判に関わるとは聞いてないぞ」
「魔女に拘っているのではありません。医者として、全ての“人”を救いたいとお考えなんです。身体と心の病気、両方を」
マルクスは口を噤んだ。キリスト信者である名分で、おまえは魔女というものをなにもわかっていないと、この向こう見ずな使用人を叱りつけることもできた。しかし、(本当にそうだろうか)と問うもうひとつの声がある。今ここで、二つの若い情熱を奪い去っていいのかと。
「魔女を救うには、死を与えるしかない。医師には他の方法があるというのか」
思わず零した呟きに、マテューは強く頷いた。
「きっとできます。お二人の愛情を受けてきたからこそ、ヨハネス様は魔女という差別にも疑問を抱いたのではないでしょうか。奥様は哀れな子どもに手を差し伸べる、心美しい方です。そしてだんな様は、身寄りのない人種をも違う私を雇い入れ、温かく接してくださいました。その想いを、受け継がれているんです。病気で苦しむ人も、差別で苦しむ人もなくなる世界を、ヨハネス様は築こうとしているんです」
それはあくまで夢物語だ。たった一人の力で世界は変えられない。病気は数多く存在し、差別が消えることもまたないだろう。大人になれば誰もが気づく結論だ。けれど――。マルクスは震える心を止めることができなかった。けれどなんて真っ直ぐで、純粋な夢だろう。父として息子を誇りに思うのは、間違っているだろうか。
隣にいるサマンサを見遣る。彼女は涙を拭い、静かに決断のときを待っていた。
「サマンサ――」
「わかっています」
まだ濡れた目を細め、彼女は気丈に頷いた。マテューは短く非礼を詫びると、静かに部屋を出て行った。
数週間後、旅の準備も整ったヨハネスの元に、待望の手紙が届いた。もう返事は来ないかもしれない、と半ば諦めていた。今考えれば、自分はとんでもないことを書いてしまった。父さんと母さんはどんなに驚いただろう。せっかく入学した学校を離れると聞いて、失望させてしまったかもしれない。
父の筆跡を見ただけで、内容を読む前からじんわり胸が温かくなる。今までは母からが大半だったため、感慨もひとしおだった。
手紙がきたと伝えると、ハリーは自分のことのように喜んでくれた。「早く読んでみろよ」と急かされるも、ヨハネスはなかなか封を開ける決心がつかなかった。
封筒の上から推測するに、ほんの一枚紙が入っているだけだ。『今すぐ帰ってこい』という内容だったらどうしようと、うだうだ考えてしまう。
「じゃあ代わりに俺が――」と開封しようとするハリーから慌てて手紙を取り返し、ようやく決心をつける。
文面は簡潔だった。
『おまえの信じる道を進みなさい。正義を追い求めるならば、その道はきっと神のお導きなのだろう』
ヨハネスは手紙を封筒へ戻し、折れないよう本の間に挟んだ。父の想いが、短い文章の間から伝わってくる。本当は反対だったかもしれない。けれどきっと、これからも両親は自分を信じ、応援してくれるのだろう。
「よかったな、許しが出て!」
ハリーに肩を叩かれ、微笑みながら頷く。もう迷いはなかった。
そして数日後。別れを惜しむ同級生達に見送られ、ヨハネスは新たな学び場へと向かったのだった。
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