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 こうしてヨハネスは医学を学ぶため、フランスへ留学することになった。いろいろ悩んだ結果、ルーヴェンにあるラテン学校への入学を決めたのだ。しかし国境を越えるのは心配だと、母はずっと反対していた。それでも最後はなんとか納得してくれた。ヨハネスが懇願したのもあるが、父の説得が何よりも大きかった。

 夢を後押ししてくれた父と、細やかに気遣ってくれた母に、ヨハネスはいくら感謝の言葉を述べても足りないぐらいだったが、それは一人前の医師になるまで、大切に心に留めておくことにした。

 そして出発の日。両親が見守る中、マテューをはじめ使用人達の手によって、荷物が馬車へと積み込まれた。

「忘れ物はない?」

 四度目となる母の問いかけに、ヨハネスは笑いながら頷いた。

「大丈夫だよ、母さん。一緒に確認してくれたじゃないか」

「ええ、そうね。でもやっぱりもう一度、確認するべきじゃないかしら」

「そんなことをしてたら、日が暮れてしまうぞ」

 見かねた父が、苦笑しながら母の肩に手を置いた。それで母もようやく落ち着きを取り戻し、寂しげに微笑んだ。すでに準備が整っていることは、充分わかっていたのだろう。

「母さん」ヨハネスは寂しさを振り払い、努めて明るい声を出した。「必ず手紙を書きます。母さんも送ってくださいね」

「ええ、もちろんよ。……身体に気をつけてね」

 最後は涙声になってしまった母を見ていると、こちらまでもらい泣きしそうになる。ヨハネスは慌てて目を擦り、両親に別れを告げた。

「それじゃあ、行ってきます」

 最後にもう一度振り返って手を振ると、馬車に乗り込む。

 こうして十二歳になったヨハネスは、新しい一歩を踏み出したのだった。




「そんじゃ、行ってくるわ」

 ギュンターは大きな頭陀袋を肩に提げると、空いたほうの手を上げた。

 彼がこれから向かうのは、フランスのパリにある修道院だった。父が以前過ごした場所だ。彼が過去を語ることはほとんどなかったため、つい最近この事実を知ったときは無性に嬉しかった。追うべき父の背中に、一歩近づけた気がした。

 そして事は順調に進み、今日出発の日を迎えたわけだ。家から見送ってくれたのは母一人。父はいつも通りの時刻に仕事へ出かけた。去り際に「しっかり学んでこい」の一言を残して。いかにも父らしい素っ気無さだ。これから数年間、俗世の迷いを断ち切る名目のもと、手紙のやり取りさえ禁止された環境に入るというのに。

 一方の母は、ギュンターの修道院行きが決まってからというもの、見るからに元気がなくなった。食も細くなり、一人物思いに沈んでいたりする。それでも決して、ギュンターに自分の思いを話そうとはしなかった。今も笑顔で送ろうとしてくれているが、それが逆に痛々しくさえある。

「行ってらっしゃい。無理はしないでね。最初は生活のリズムが変わって、慣れないだろうけど」

「ま、何とかなるさ。なんせ俺は、親父に負けないぐらい立派な異端審問官になる男だからな」

「そうね――ごめんなさい」

 脆い笑顔はついに崩れ、隠された思いが滴となって零れ出る。それを受け止める術のないギュンターは、ただうろたえるばかりだった。

「ちょ、なんで泣くんだよ!?何かまずいこと言ったか!?」

「いいえ、違うの。寂しいだけよ」

 母はそう言うと、ギュンターの頬を両手で包み込み、額にキスをした。そして小さな声で囁く。

「ギドはギドのままでいてね。素直で真っ直ぐな心を忘れないで」

「何だよ急に」

「約束して」

 兎のように赤くなった瞳は、しかし予想外に強い光を湛えて、こちらを見返してくる。気圧されたギュンターは「わかったって」と呟くように答えた。

 それで安心したのか、母はギュンターから手を離し、優しく微笑んだ。約束の意味はわからずじまいだったが、まあいいかと思い直す。こうして笑って見送ってくれるのなら、それでいい。

 わが家もすっかり見えなくなった頃、遠くにフリッツの姿が現れた。向こうも同じように頭陀袋を肩に提げているが、あちらはギュンターのより一回り小ぶりだ。彼もすぐその違いに目をつけ、開口一番、呆れ口調で言った。

「ギド、これから行くのは修道院だ。向こうに着けば、私物が認められないのは知ってるだろ」

「わかってるよ。けど必要になるときがくるんだな、これが」

 ギュンターが意味ありげに笑みを見せると、フリッツは溜息を吐いた。巻き込まれるのを早々に予測したのだろう。

「何企んでるんだか」

 そうは言うものの、溜息がほんの見せかけなのを、ギュンターはちゃんと見抜いている。内心では、きっと楽しんでいるのだ。彼はいつだって、無鉄砲な計画を実現可能にしてくれる。絶大な信頼を寄せているからこそ、ギュンターは心置きなくチャレンジを続けられるのだ。

 これから、新たな地で、新たな日々が始まる。期待は膨らむばかりだ。

「にしても、徒歩はないよな、普通」

 ギュンターは口を尖らせる。重い頭陀袋に早くもうんざりしていた。一般の聖職者なら、旅にロバを使うのが主流だった。徒歩を選ぶのは金銭的に余裕がないか、よほどの苦行好きぐらいである。

「それは、俺が言いたいんだけどね」

 フリッツが苦笑する。確かにこうなった原因は、ギュンターの方にある。当初の計画では、二人ともロバを与えられるはずだったのだ。しかしギュンターが、ロバはださいから馬がいい、と反発した途端、計画は水に流されてしまった。代わりに与えられたのは、父の容赦ない拳骨だけだ。フリッツは同情で付き合ってくれたに過ぎない。

「悪い悪い、もう文句言わねえよ」

 ギュンターが肩を竦めて謝ったときだった。

「おーい、ギド!リッツ!」

 ヴォルフを筆頭に、向こうから仲間達がやってくる。揃って見送りに駆けつけてくれたのだ。

「なあなあ、親父さんに怒られて徒歩になったってのは、本当だったんだな」

「長旅頑張れよー」

 遠慮なく笑うヴォルフとコニーに、ギュンターは無言で拳骨を落とす。数日前の自分と同様、その場で頭を抱える姿を見て、気分はいくらかすっきりした。

 すると今度はバルテルが進み出てきて、ギュンターとフリッツ二人の肩を同時にばしんと叩いた。

「異端審問官への第一歩だな。頑張れよ」

 彼本人は満面の笑みだが、力は笑えないほど痛い。二人は各々の態度でそれに応える。フリッツはいつも通りの涼しい笑顔で。ギュンターは「痛えよ」と顔を顰めながら。

「会えなくなるの、寂しいよ」

 アヒムが率直に別れを惜しんでくれる。ギュンターも当然、同じ思いだった。今度会うのは、きっとずっと先の話だ。父の後を継ぐためには、修道士を経て、多くの経験を積まなければならない。町に戻ってくる頃には、各々が第一線で働いていることだろうし、もしかしたら新たな家庭を作っているかもしれない。そして今日まで仲間と共に過ごした日々が、遠い思い出となっているのだろう。全員がそれを心得たうえで、笑顔のまま最後の時を過ごそうとしていた。――ただ一人を除いては。

 ギュンターは仲間の陰で隠れるように立っていたデルトルトの頭に、ぽんと手を置いた。癖っ毛で縮れた髪を、わしわしと乱暴に撫でてやる。

「おいデル、もう泣くな。また会えるって」

「泣いて、ない!」

 デルトルトは慌てて、手の甲でごしごしと乱暴に目を擦る。わかりやすすぎる仕草に、仲間達も笑い出す。ヴォルフとコニーに小突かれながら、彼は鼻声で言った。

「わかってるさ。もう会えないなんて思ってない。ただ……一言言いたかったんだ。こんな僕を仲間に入れてくれて、ありがとうって」

 思いがけない感謝の言葉に、ギュンターは胸が熱くなった。デルトルトに出会った当時のことが、つい先日のことのように思い出される。

 仲間入りする前の彼は、いつもこそこそ情報集めをして、決して他人と深く付き合おうとはしなかった。広い人脈を持ちながら、どこか落ち着きなく相手の顔色を覗ってばかりいる様は、人目や噂を気にするあまり、自分をさらけ出すのを恐れているように見えた。

 そのせいか、最初の頃はギュンター達とも不思議な距離を置いていた。たまに姿を現してはこちらが喜びそうな情報を披露し、自分が役立つことをアピールするとそそくさと去っていく。

 あるときギュンターは、率直に聞いてみたことがあった。

「おまえさ、いっつも無理してないか?」

「僕が?何だよ急に」

 彼の乾いた笑いの裏には、動揺と警戒の色があった。

「いやべつに。大した意味はないけどさ。そんなに気張ってなくていいんじゃねえの?俺らといるときぐらい楽でいろよ。誰も悪口言うやつなんかいねえからさ。ま、ヴォルとクルーはちょっと怪しいけどな」

「うわ、ひでー!俺達は信用なしか!?」

「今まさに仲間の悪口を言ったぞギド!」

 ヴォルフとコニーがすかさず抗議する。しかし二人とも大した気にしていないので、怒ったふりをしながらけらけら笑っている。バルテルは呆れたように肩を竦め、フリッツとアヒムはその様子を楽しそうに眺めている。デルトルトだけが狐につままれたような顔で突っ立っていた。それからふてくされたように、もごもごと反論する。

「僕は気を張ってるつもりなんてないよ。そもそも君達が悪口を言おうが気にする必要なんてないんだ。信憑性がないからね。僕は君達と仲良くもなんともないんだから」

「なんだ、仲間になりたかったのか?だったら早く言えよ」

「そ、そんなこと言ってないだろ!」

 裏返ってしまった声を恥じてか、デルトルトは顔を真っ赤にさせた。ヴォルフとコニーが何か言いかけるが、フリッツがさりげなく彼らの肩に手を置いた。そしてギュンターにちらりと視線を送る。アヒムとバルテル、ヴォルフとコニーも、目が合うと軽く頷いた。全員の想いを受けて、ギュンターは口を開く。

「俺らはいつでも仲間として歓迎するぜ。おまえが情報屋じゃなくてもな」

 このとき泣いて以来、デルトルトは今日別れの日まで、大声で笑い、遠慮なく個性を発揮してきた。そんな彼から改めて感謝の言葉を述べられると、不覚にも胸が熱くなる。

「あ、ギドも泣いてるー!」

「泣いてねえよ馬鹿!」

 コニーの頭をはたきながら、ギュンターは勢いよく鼻を啜った。

 最後まで見送ると言って聞かないので、七人は連れ立って町中を歩いていく。先程の出来事を引きずって、仲間内ではどこかしんみりした空気が漂っていた。誰かが無理に盛り上げようとしても、上手く会話が弾まない。このまま別れを告げるのは、自分達らしくないのではないか。そう思ったギュンターは、唐突に足を止めた。

「なんか違うよな、この感じ。最後は俺達らしく、派手に行こうぜ」

 そうして出した提案は、全員一致で賛同されたのだった。


 町で唯一の商店街は、朝の活気も落ち着いて、どこの店ものんびりとした雰囲気だった。買い物客はいつもよりまばらだ。

 果物屋の店先からヴォルフの父、ベンノがこちらに気づいて手を上げる。

「やあ、今日出発するんだってな」

 ヴォルフの甲高い声は、完全にこの父親譲りだ。こちらは毎日商売道具として使っているので、声の張り方も胴に入っている。

「おう。行ってくる」

「気をつけていけよ。ほら餞別」

 ベンノはそう言って、ギュンター達にメロンを寄越してくれた。礼を言って過ぎようとすると、彼が不思議そうに尋ねてくる。

「そういや、うちのヴォルはどうした?今朝見送りに行くって出てったんだが……」

 フリッツがすかさず答える。

「さっき他の皆と来てくれましたよ。ただそのうちの一人が感極まっちゃって、なんだかしんみりした空気になったものですから、僕達まで涙を見せるわけにはいかないと思って、見送りは途中までにしてもらったんです。最後は笑って別れを言うことができました。ヴォルフや皆には、本当に感謝しています」

「いやいや、今日までヴォルが世話になったな。向こうでも頑張れよ。戻ってきたときには、また付き合ってやってくれな」

 ギュンターとフリッツは「もちろん」と約束し、二人で無事果物屋の前を通過したのだった。向かうはここから三軒先にある魚屋だ。

 店主のフレルクはその強面どおりの人物で、万引きすると包丁を持って追いかけてくることで有名だった。子ども達からは陰で“料理長”と呼ばれ、捕まったら人間刺身にされると恐れられている。

 ギュンター達も以前恐いもの見たさで万引きを試みたことがあり、そのときは中高年らしからぬ脅威の速さで追いかけられたものだった。そして全員が盛大な説教と拳骨をもらったのだった。その後も町内の自治会長である彼は事あるごとに出現し、悪さをする度に雷を落とし続けてきた。今ではいろんな意味で顔なじみになっている。

 こちらに気づくと、“料理長”は訝しげに片方の眉を上げた。

「別れの挨拶にでも来たか?悪ガキども」

「もう悪ガキじゃねえって。俺達はこれから立派な大人になんの」

「そういうことは変わってから言うもんだ」

 二人のやり取りを聞きながら、フリッツは隣で苦笑している。何を言っても鼻先であしらわれそうなので、ギュンターは早速本題に入ることにした。姿勢を正し、真顔に戻る。フリッツが後に続いたのを確認し、口を開く。

「おっさん。俺達真面目に挨拶しに来たんだ。最後くらいちゃんと言いたくてさ」

「何だよ改まって。気味悪いな」

 戸惑う“料理長”の姿もなかなか珍しく見ものだったが、二人は計画通り、深々と頭を下げた。

「俺達悪いこともたくさんやってきたけど、真剣に叱ってくれたおっさんには本当に感謝してる。もらった拳骨の重さ、温かさは一生忘れません。今日までお世話になりました」

「おまえ達――」

「なーんてな」

 ギュンターはにやっと笑って、両手に掴んだ二尾のスズキを掲げて見せた。“料理長”の目つきが途端に変わる。包丁に手が伸びる前に、ギュンターは脱兎のごとく駆け出した。

「今度は捕まらねえぜ!」

「後悔させてやるクソガキ!」

 相変わらずの豪速で、“料理長”が追いかけてくる。しかし二度目の敗北を喫するわけにはいかない。こちらはもう子どもの頃とは違うのだ。

 商店街の大通りを、ギュンターは全速力で駆けていく。それにしても、両手に魚を持っているのは大きなハンデだ。まばらとはいえ何度も人とぶつかりそうになる。反面“料理長”は包丁を振りかざしているため、勝手に人が避けていくのだろう。背後の悲鳴は次第に距離が近くなる。

「いいぞギド!そのまま来い!」

 待ち受けていたのはバルテルだ。ギュンターはにっと笑って頷くと、最後の気力を振り絞った。そしてぶつかる勢いで彼に魚を託す。

「任せた!」

「おう!」

 バルテルは逞しい両手で、がっちり魚を掴んだ。




 川にかかる橋を渡り、住宅地に続く直線をバルテルはひた走った。筋力は言うまでもないが、脚力にもそれなりの自信はある。現に“料理長”との距離はつかず離れずといった調子だ。さらにギュンター達との最後の悪巧みともなれば、尚更力が入る。

 思えば仲間になる前の頃、バルテルは二人のことがずっと気に入らなかった。いつも洒落た服を着て、大人達から可愛がられ、自由気ままに過ごしているのが憎らしかったからだ。

 一方八人兄弟の次男だった自分は手に職をつけろと九歳の頃から奉公に出され、鍛冶見習いをしていた。当時は三ヶ月程経った頃で、まだ仕事に慣れずむしゃくしゃしていた時期でもあった。それでアヒムを標的に憂さ晴らしをしていたところで、彼らと出会った。というより激しく殴り合った。

 結果仲良くなってしまったわけなのだが、我ながら不思議なものだ。今は人それぞれの生き方があり、共有できる喜びがあることも、何となく受け入れられる。ギュンターとフリッツに出会わなければ体験できなかったことが、思い出となって心を満たしてくれている。

 だから自分は走るのだ。たとえ包丁を投げつけられても、走りぬいてやる。

 遠くに、待ち受ける仲間の姿が見えてきた。にこにこ笑いながら、頑張れと声援を送ってくる。バルテルは魚を手にしたまま、ガッツポーズを掲げて見せた。いじめた過去を許してくれた、心優しい仲間のもとへ。




 バルテルが距離を稼いでくれたおかげで、アヒムは楽な気持ちでスタートを切ることができた。あまり速く走れる方ではないので、隠れやすい住宅地をあちこち曲がりながら進む。ギュンター、バルテルと続いて、これからまた繋がっていくのだ。ここで失敗するわけにはいかない。

 途中で振り返ってみるも、遠くにいた“料理長”は今のところ見当たらない。上手く撒けたのかな、と希望を持ちかけたときだった。

「こっちの方に行ったはずだ!」

 突然、少し離れた場所で声が上がり、アヒムはびっくりして足を止めた。今のは間違いなく“料理長”の声だ。しかもそこにいるのは彼一人ではない。複数の声があちこちに散っていく。アヒムはたちまち不安になった。こちらが複数なのを知り、“料理長”も負けじと協力者を集めていたのだ。

 ――どうしよう、見つかるかもしれない。

 思わず足が竦む。そんな中アヒムの脳裏に、作戦会議後のギュンターの言葉が蘇った。

 ――「いいか、絶対掴まんじゃねえぞ。仲間を信じて走れ」

「……うん。走るよ」

 隠れていた勇気を呼び戻し、一歩を踏み出す。後は勢いに体を任せ、アヒムは家の陰から飛び出していった。

 程なくして近くから声が上がり、複数の足音が追いかけてきた。彼らとの距離はぐんぐん縮まっていく。もう手が伸びてくるんじゃないか、と思ったとき、ついに援護が現れた。

「アルいいぞ!もうちょっとだ頑張れ!」

 そう呼んでくれているのはギュンターだ。いつの間にか追いついていたらしい。早く早くと言うように、右手を手前から頭の後ろまでぶんぶん振っている。

 もう応える余裕もなかったが、アヒムは懸命に彼の前を走り抜けた。けれど速度は緩めない。次に託す相手は、まだもう少し先にいる。

 すれ違いざま、ギュンターが「ナイスラン!」と背を叩いてくれる。「ここは任せろ!」の一言が、アヒムの新たな力になった。




 屋根の上から様子を覗っていたコニーは、ギュンターが絶妙のタイミングで仕込んでいたロープを張り、三人の大人達が足を引っ掛け転ぶ様に大笑いしながら地上に降りた。そろそろ出番が回ってくる頃合だ。

 すると予想通り、向こうからアヒムの姿が見えてきた。

「こっちだアル!いいぞいいぞー!」

 大声で呼んでしまってから、コニーは慌てて周囲を見渡した。まだ油断できる状況ではないのだ。ギュンターかバルテルがいれば、間違いなく怒られるところだった。

 無事アヒムから魚を受け取り、コニーは軽快に走り出す。さっきこそひやりとしたが、もう不安は消えていた。

 なぜなら最高の仲間達がいるからだ。全員が一つになれば、失敗なんてありえない。以前“料理長”に捕まったのはたまたま運が悪かっただけだ。――いや、他にも悪巧みがばれたことはなくもない。両手で数え切れないほどには、ある。でも後で楽しかったと言えるなら、それはとにかく成功になるのだ。

「いたぞ!」

 気づけば後ろには二人、追っ手がついている。コニーは慌てることなく、近くにあったゴミ箱をぶちまけ、立てかけてあった箒を投げつけたりして距離を稼いだ。この角を曲がれば相棒のヴォルフが待っている。

 すると待ちきれなかったのか、ヴォルフが先にひょこりと姿を現した。にやにやしているところを見ると、何か企んでいるのかもしれない。

「やっと来たな!もう待ちくたびれたよ」

「ごめんごめん、後はよろしく!」

「おうよ!」

 ヴォルフは威勢よく返事すると、角を曲がっていく。姿が消える間際、彼が何もない道を大きく飛び越えていくのが見えた。

「なるほどねー」

 合点がいったコニーは、一人笑いを堪えたのだった。




 背後でどさりと派手な音がして、ヴォルフはガッツポーズを作った。落とし穴作戦大成功だ。時間の都合上深くは掘れなかったのだが、足止めにするには充分だろう。

 このまま住宅街を抜けて田園地帯を突っ切れば、アンカー、デルトルトが不安顔で待っているはずだ。とびきり足の遅い彼のために、こちらが頑張ってやらねばならない。

 普段落ち着きがないと怒られてばかりのヴォルフにとって、思い切り走れと言われ、頼られるのは気持ちがよかった。仲間内一の俊足を活かす見せ所だ。風を切り、なだらかな坂をびゅんびゅん走る。

 一秒でも早く届けようと思う反面、このまま終わってほしくないという思いも、ちょっとだけある。皆で楽しい毎日だったのに、ギュンター達が旅立つのを機に、各自が大人になって、ばらばらになってしまうような気がしたからだ。同じ町だから他のメンバーとは今後も会えるだろうが、何かが違うような。今みたいな一体感を感じることは、きっとこれが最後になってしまうのだろうと。正直なところ、デルトルトがいなければ、泣いていたのは自分だったかもしれない。

 そのとき、自分を呼ぶ大声にヴォルフはぞっとなった。ある意味“料理長”より恐い存在だ。

「ヴォル!あんた何やってんの!今すぐ戻ってきて謝んな!じゃないと、帰ってきたって家に入れないからね!」

 走り続けながら、ちらりと後ろを振り返る。“料理長”と併走しているのは、鬼の形相をしたヴォルフの母親だった。あれは本気モードだ。捕まっても逃げ延びても、待っているのは地獄に違いない。これが逆に、勢いづくきっかけとなった。

「母ちゃんごめん!」

 言うやいなや、限界まで速度を上げる。坂を転げ落ちたって構わない。もうやけくそだった。

 結局ヴォルフは後ろを大きく引き離して、デルトルトへ魚のバトンを繋げたのだった。


 はっはっという自分の息遣いが、やけに大きく感じる。耳障りだ。心臓がばくばく動いているのが苦しくて、柔らかい土で体力を余計に消耗されて不愉快だ。

 重責を担ってしまったデルトルトは、先程からずっとイライラしていた。そうしないとめげてしまいそうだったのも、多分にある。自分がアンカーをやるだなんて、思ってもみなかった。

 提案したのはバルテルだ。泣いたんだから責任取れと、何ともめちゃくちゃな理由だった。足が遅いのは皆が承知しているくせに。こんなの弱いものいじめだ。嫌がらせだ。

 一通り不満を心の中でぶちまけてしまうと、苛立ちは徐々に尻すぼみになっていく。本当は、わかっているのだ。皆がここに来るまで、一生懸命距離を稼いでくれたこと。繋いできたひとつの想いを、託してくれたこと。デルトルトは魚を両腕に抱えなおし、ぐっと気を引き締めた。心臓の音も息遣いもできるだけ気にせず、先にあるゴールだけを見据えて。

 しかし現実は厳しかった。“料理長”との距離は徐々に縮まってきているし、新たな追っ手もその間に加わっている。急がなければと思っていても、足はこれ以上速度を上げられない。顔から汗が滴り落ちる。

「デル!風車の方へ!」

 忍び声の出所を探すと、茂みの中から顔を出すコニーと目が合った。けれどデルトルトの後方に追っ手が迫っていたため、彼はすぐに姿を消してしまう。

 右手にある風車小屋を確認しながら、一瞬向かうのに躊躇する。コニーの声は、後ろの彼らにも聞こえてしまっているだろうか。だとすると、逆に危険ではないか。もしかしたら、すでに別の誰かに合図を送っているかもしれない。そう考えつつ、デルトルトは半ば無意識のうちに風車小屋へと向かっていた。仲間に頼りたい。本能がそう訴えていた。

 しかし風車小屋に着いたものの、仲間の姿は見当たらない。半周回って、絶望的な気分でその場を離れようとしたときだった。

「うわ!」と声を上げる。

 目の前にいたのは、後ろにいたはずの追っ手の一人だった。囲まれた――。あまりに間抜けな自分の行動が、情けなくてたまらない。

「よーし、計画通り!」

 頭上から降ってきた声に、追っ手達は当然頭上を見上げた。反面、デルトルトは反射的に、その場でうずくまっていた。案の定、両側からばしゃっと不吉な音がした。デルトルトはすぐに立ち上がる。

「どうだ!必殺泥爆弾!」

 屋根の上にいるヴォルフがそう言うと、デルトルトに向かって得意げに親指を立てて見せた。一緒にいたバルテルとアヒムも、「行け!」「頑張ってね」と声をかけてくれる。以前自分が引っかかったときは腹が立って仕方がなかったが、今ほど彼の悪戯が心強かったことはない。デルトルトは皆の方に軽く手を上げ、再び走り出した。

 間もなく、ゴールで待つギュンターの姿が見えてくる。大きく手を振りながら、頭上でこちらより後ろの方を指差している。言いたいことはわかっていた。泥爆弾をかわした“料理長”が、すぐ側まで迫っているのだ。けれどもう限界だった。今にも足がもつれそうだ。そう思った途端、ぐらりと体が揺らぐ。まずい、と思ったとき、「デル!」と呼ぶギュンターの声が、はっきりと聞こえた。デルトルトは何とか片足で踏みとどまり、ギュンターの名前を呼び返す。そして力いっぱい魚を放り投げた。

 二尾の魚が大きく弧を描く。ギュンターが全速力で駆け寄ってくる。

「あっぶね!」

 言いながらも、彼はしっかり二尾とも魚をキャッチし、ピースしてみせた。

「よし、俺らの勝ち!」

 それを確認したところで緊張の糸がぷつりと切れ、デルトルトはその場にへたり込んだ。後ろにいた“料理長”は不意をつかれ、つんのめってしまう。包丁を手にしたまま倒れてくるので、デルトルトは「うわあ刺される!」と身を縮めた。

 結局“料理長”はすんでのところで包丁を投げ出し、「物騒なこと言うな」とデルトルトの頭に拳骨を落とした。そしてギュンターを忌々しげに睨みつける。

 後から来た追っ手達や、何事かと集まってきた野次馬連中で、周囲にはちょっとした人だかりができている。その中には、母親に襟元を掴まれたヴォルフも混じっている。彼女の赤茶の髪についた泥が、何があったのかを物語っていた。他の仲間達も一様に顔を揃えている。

 注目を集める中、ギュンターが輪の中心でもう一度言った。

「俺らの勝ちだ、“料理長”」

「何を得意げな顔してんだ、こんな騒ぎにしやがって!」

「万引きに勝ちも何もあるか!」

 途端に追っ手側から怒声が飛ぶが、言われた本人はどこ吹く風だ。

 挑発された“料理長”はギュンターに詰め寄ると、「何のつもりだ?」と唸るように訊いた。ギュンターは不適に笑いつつ答える。

「今まで目かけてくれた恩返しだよ。思い切り走って楽しかったろ?」

「どこまでもふざけやがって!」

 “料理長”は怒りのあまり頬を紅潮させている。走ったせいもあって息が荒く、迫力は一層増している。デルトルトならこの時点で逃げ出したいところだが、ギュンターは相変わらず平然としている。

 緊迫した空気を揺るがせたのは、輪の外から発せられた声だった。

「お取り込み中のところすみません、ちょっといいですか」

 野次馬達が道を開け、フリッツの涼やかな笑顔が現れる。デルトルトはほっと安堵の息を吐いた。

 まだ険しい表情を崩さない“料理長”に、フリッツは一枚の紙を渡して言った。

「お店を放って飛び出してくのは無用心ですよ。あれじゃ、勝手に持っていってくださいと言ってるようなものです」

 紙に書かれたリストを見て、“料理長”はすぐに、店先で並べていた商品だと気づいたらしかった。

「これ全部どうした?」

 殴りかからんばかりの勢いだったが、「売り上げです」との一言で、拳を振り下ろすのは一時中断された。

「代わりに店番やってました。騒ぎを知った奥さんが来てくれるまで、ですけど」

「おお、結構売れたじゃん」ギュンターも横から割って入り、感嘆の声を上げる。

「うん、ほぼ完売」

「さすがリッツ。相変わらず女達から絶大な人気だな。どうやって口説いてきたんだよ?」

「特に何も。誠実に商売してきたんだよ」

 二人の呑気なやり取りを他所に、“料理長”は手元のリストへもう一度目を走らせ、じろりとフリッツを睨んだ。

「悪ガキが商売だ?ただ同然にばら撒いてきたわけじゃないだろうな?」

「安心してください、ほぼ定価ですよ。ちゃんと利益は出るように計算してます」

「ふん、生意気な言い方しやがって」

 彼は吐き捨てるようにそう言うと、大きな声で「悪ガキどもは全員ここに並べ!」と呼びかけた。

 母親によってヴォルフが真っ先に引き立てられ、続いて相方のコニーが、やれやれという顔で従う。アヒムも素直に名乗りを上げた。バルテルに連れられ、デルトルトも渋々列へ並ぶ。最後にギュンターとフリッツが加わり、全員が顔を揃えた。

 これから起きることは、誰もがわかっていた。予想は裏切ることなく、七人の頭には容赦ない拳骨が落とされた。皆痛がりつつ笑い合っているが、デルトルトだけは「僕だけ二回やられた……」と嘆かずにいられなかった。ギュンターがぽんと背中を叩きながら、「ま、そういじけんな」と軽い調子で流そうとする。アヒムが親身に心配してくれるのが、せめてもの救いだ。

“料理長”の怒りにも一区切りついたところで、ギュンターがまだ手にしていたスズキを高々と掲げる。

「というわけで、この戦利品は走りきった記念に全員で食おうぜ。野次馬で来た奴も特別大歓迎だ。包丁は“料理長”が持ってるから、誰かまな板持ってきてくれ」

 野次馬の中から、真っ先に子ども達の喜ぶ声が上がる。大人達は困ったように顔を見合わせ、追っ手達は目で“料理長”の指示を仰いでいる。それを察したギュンターは、にっと笑って先手を打った。

「心配すんな、これは俺が買うんだよ。代金は親父に請求しといて」

「万引きのこともばらすぞ、馬鹿野郎」

「言え言え、さすがに修道院までは追ってこないだろ」

 “料理長”は「口の減らない奴め」と顔を顰めたが、それ以上は何も言わなかった。

 結局オスヴァルトに代金は請求せず、万引きの件も伝えなかったことを、デルトルトは後に知った。頑固な“料理長”にしては珍しく、ギュンター達は最初で最後の情けをかけてもらったのだった。旅立った二人には知る由もないので、いつか再会したとき、思い出話として話せたら、と思うのだった。

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