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「僕、内科医になります」

 ヨハネスがそう宣言したとき、両親は揃って仰天した。

「正気か、ヨハン?」

「どうしてお父さんの仕事を継がないの?何か不満でもあるの?」

 張り手をくらったような二人の顔に、ヨハネスの心は痛んだ。いっそのこと、叱られたり罵られたりした方がいいのにとさえ思ったが、温厚な父がそうはしないこともわかっていた。

 数年前まで、ヨハネスは迷いなく、両親の期待に応えるつもりだった。父が発展させたホップの大事業は、一人息子である自分が受け継ぎ、ヴァイヤー家の安泰を支えるはずだったのだ。

 しかしヨハネスの意思は、あるときを境に変わってしまった。そして時を経るごとに揺るぎなく、強いものになっていった。たとえ両親に背いてでもやりぬく決意が、今日固まったのだ。

「人を助ける仕事がしたいんです。でもあの……商人になるのが嫌なわけじゃないんだ。とても立派で、やりがいのある仕事だと思う。

 ただ僕は、別の方面から人々の生活を豊かで幸せなものにしたい。それが医療だった。この辺りじゃ医学も当たり前のものになって、新しい治療法も伝わってきてるけど、少し都市から離れたら、まだまだ認知度が足りてない。原因のわからない病に苦しんで、神に祈りを捧げることしかできない人達が世の中にはたくさんいる。医学はこれからもっと枝葉を広げて、新しい道を切り開くべきなんだ。僕もその力になりたい。目の前で泣いている人がいるなら、それがどんな理由であれ、もう放っておきたくないんだ」

「たしかに医師になるのも立派なことよ。でもそれは、ヨハンでなれければいけないの?他の人ではだめなの?」

 母が悲しげに口を挟む。反対するのも無理はなかった。

 薬の調合や祈祷しかなかった昔に比べ、医師の数は今でこそ増えてきたものの、世間から見る重要度は依然として低かった。いびつな形の器具を用いたり、身体を丹念に調べられることに対する抵抗感は、なかなか拭えるものではなかったのだ。地方で権力を握る祈祷師は、医師の来訪を好まず、なかなか医療を広められないのが実情だった。給料も決して恵まれてはいない。

 それを承知の上で、ヨハネスはゆっくりと首を振った。

「ごめんなさい、母さん。でも僕、本気なんだ。やり遂げたいんだ」

 さらに何か言おうとした母を、父が労わるように制した。そしてヨハネスに言う。

「母さんがどれだけおまえを心配しているか、わかっているな?」

 ヨハネスは小さな声で「はい」と答える。

「父さんも同じだ。何より、いきなり後継者がいなくなるのは非常に残念だ」

「……ごめんなさい」消え入りそうな声でやっとそれだけ言うと、ヨハネスは堪らず俯いた。

 すると父は珍しく厳しい声で、「顔を上げなさい」と言った。

「それがわかったうえで、医師になりたいと言うんだな?」

 ここで「やっぱりやめます」と答えれば、二人はどんな顔をするだろう。ふとヨハネスは思う。母は間違いなく安堵して、よかったと喜んでくれるだろう。父は優柔不断な息子に眉を顰めつつも、これまで以上の努力を見せれば、きっと許してくれるだろう。事業は無事受け継がれ、事は全て上手くいく。

 今にも揺らぎそうな決意を支えたのは、意外にも父の存在だった。都合のいい考えかもしれないが、言葉の裏で、どこか後押しされているような想いを感じた。ヨハネスが初めて自分自身で出す決断を待っているかのような。こうして向き合っていると、自然に勇気が湧いてくる。

「――はい。僕は内科医になります」

「わかった。そこまで言うならやってみなさい」父は僅かに微笑んだ。「ただし、決めたからには最後までやり通すんだ。失敗したら家の仕事を継ごうなどと、甘い考えを持ってはいけないよ」

「はい、頑張ります!」

 今度は力強く頷き、促されるまま父の執務室を出た。扉を閉めると、廊下で待っていたマテューが目だけで結果を求めてくる。ヨハネスはにっこり笑って、もう一度頷いて見せた。互いに音が出ないよう、静かにハイタッチする。そこでようやく、ほっと肩の力が抜けた。

 自室に戻ると戸に背を預け、大きく深呼吸する。

「やるぞ、必ず」

 そう自身に言い聞かせる。握り締めた拳には、揺るぎない決意があった。




 フリッツが同じ修道院へ行くと言い出したのは、二人で将来の話をしてから数週間後のことだった。ある日唐突に切り出してきたのだ。

「俺も目指すよ、異端審問官」

 ギュンターとしてはもちろん嬉しかったのだが、何故彼が決断に至ったのかが不思議だった。どこか思いつめた表情だったのが、ひっかかってもいた。理由を尋ねても、答えは「何となく、ね」という曖昧なものでしかなかった。口調こそ普段どおりだったが、これ以上の干渉を拒否しているのは、雰囲気で察することができた。以前母と話したときも、似たような表情をしていたからかもしれない。

 気持ちを切り替え、ギュンターは明るく言った。

「じゃあ二人でなるか、異端審問官!」

 フリッツも笑みを取り戻し、頷く。それにほっとして、さらに一言付け加えてやる。

「けどな、クラーヴに就くのは俺だぞ。リッツは隣町だからな」

「わかってるよ。もうここに戻るつもりはないから」

 あまりにさらりと言うので、ギュンターは危うく聞き逃してしまいそうになった。そのため「へ?」と間抜けた声が出てしまう。

「いや戻ってこいよ、隣町だぞ隣町。いつでも行き来できるだろ」

 ほんの少し間を置いて、フリッツは面白がるように視線を泳がせた。

「どうせならパリにでも住もうかと思ってね。広いところに出て行きたいんだ」

「なんだよ、この辺じゃ田舎だからつまらないってか」

「そうは言ってない。ギドなら町三つほど管理するぐらいの方が、ちょうどいいんじゃないかと思ってね。越えたいんだろ、親父さんのこと」

「当たり前だ!でかいこと言うじゃねえか。言ったからには絶対実行するぞ、互いにな」

 二人は顔を見合わせて笑った。今はそれでいい、と思う。これからも共に歩んで行くのだ。話し合い、考える機会はたくさんある。

「じゃあ行くぞ、修道院へ。場所はパリだ、最高の環境だぞ」

「うん。行こう」

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