7
買い物を終え、思わぬ収穫も手に入れたトゥリアは、馬車の中で上機嫌だった。鼻歌でも口ずさみたい気分だ。
しかし隣では、見知らぬ子どもがぶすっとした顔で座っている。そして馬車が動き出した途端、尖った口調で尋ねてきた。
「どうして助けたの?」
危うく売り飛ばされそうだったところを助けてやったというのに、礼のひとつもなければ、こちらへの警戒心は全く解かれていない。
――用心深いのはいいことだけれどね。
トゥリアはそう思い直し、親しげに微笑みかける。
「かわいらしいあなたを見過ごせなかったの。お節介だったかしら?」
しかし向こうはにこりともしない。大の男を魅了するならお手の物だが、やはり正反対では扱いが難しいものだ。そっぽを向いたまま、可愛げのない答えが返ってくる。
「べつに。ただ知りたかっただけ」
「それならよかった。ところで、この馬車はどこへ向かえばいいのかしら?わかっているでしょうけれど、私はあなたのことを何も知らないわ」
「じゃあここで降ろして」
返事はにべもない。トゥリアも「そう」とあっさり頷き、馬車を路肩に停めさせた。
「どうぞお好きに」
手ぶりで示してやると、子どもは早速外へ飛び出そうとした。
「でも今思い止まれば、私はあなたに“居場所”を与えてあげられるわ」
ドアにかけた手が、動きを鈍らせ、中途半端な位置で静止する。
「また一人でうろついていたら、同じような大人に捕まるだけよ。あなたのような顔立ちなら、きっといい値で売れそうだもの。せっかく人を惹きつける力があるのだから、自分で人生を選びたくはない?」
「その“居場所”があれば、強くなれる?」
「なれるわ。美は私達女にとって最高の武器よ。そう思わない?」
少女がぱっと振り向いた。顔には初めて、驚きの表情が浮かんでいる。
「どうして――」
「女だとわかったの、かしら?簡単よ。男なら皆、私に好意を持ってくれるから」
ほんの少しからかっただけなのだが、少女は納得がいかなかったようだ。嫌悪感を露に、小さく鼻を鳴らす。それでも様になる美しさだとトゥリアは思ったが、余計なことは口にせずにおいた。年頃の子どもほど繊細で、複雑なものはない。
少女はしばらく考えていたが、口を引き結び、黙って座席に腰をおろした。御者がすぐに手綱を取り、発車させる。
「残ってくれてありがとう。私はトゥリア。名前で呼んでくれて構わないわ。あなたの名前は?」
「――アン」
不自然に揺れる瞳で、偽名だと察しがついたが、追求はしなかった。本当の名前など、これからは不要だ。上手な嘘のつき方さえ身につければいい話だ。
「そう、かわいらしい名前。これからよろしくね、アン」
「……よろしく」
アンは短くそう応えたきり、またそっぽを向いてしまった。風にさらわれないよう帽子を押さえながら、流れ行く景色を眺めている。その顔には、無表情を装っていても隠しきれない、好奇心や不安感が垣間見えている。きっとパリのような都会は初めてなのだろう。訊いたところで、教えてはくれないのだろうが。
自分の側の景色を見遣り、トゥリアは初めてこの街に訪れた、遠い自身の過去に思いを馳せる。あの頃は、目にする全てが魅力的に映っていた。統一された色調に、整然と並ぶ建物の数々。街全体が、ひとつの芸術作品のようだった。
中央に聳える教会は、聖人や天使をこれでもかと周りに固め、一際高い所から悠然と下界を見下ろしている。大歓声が聞こえる方角には、大きな闘技場がある。近づいてみれば、剣を打ち鳴らす金属音や互いの馬が駆ける音まで届いてくる。反対の方角には劇場があり、着飾った紳士、淑女達が続々と中に入っていくのを、羨ましく眺めていたものだ。メイン通りには多くの店がひしめき合い、所狭しと人々が行き交っている。中央を走る馬車も歩く人々も、それぞれが個性を放ち、街を彩る役割を果たしている。
トゥリアが何よりも惹かれたのは、高級品ばかりを扱う、特別な区画だった。建ち並ぶ店はどれも、ドレスや宝石、鬘など貴族御用達の所ばかりだ。いつか必ず、ここに相応しい女性になる。世間知らずの田舎娘だった彼女は、十五年前のあの時、そう決意したのだった。
現在の生活を手に入れるまでには、決して平坦ではない道のりがあった。全ては幸福を掴むためと信じ、自身を酷使してきた。必死で這い上がってきたからこそ、トゥリアには大きな自信があった。高飛車なだけの貴族とは違う。培った実力こそが金を、愛を、権力を勝ち取るのだ。
この娘に出会ったとき、ふと同年代だった頃の自分が重なった。強い意思を持った瞳と、恵まれた美しさ。それらをどう活かし、生き抜いていくかを、当時のトゥリアはすでに理解していた。
しかし少女は両方を兼ね備えていながら、どこか脆く、今にも崩れてしまいそうに見えた。年齢や身なりのせいではない。きっと暗い過去が、深い闇が彼女にはある。しかしトゥリアにとって、それはどうでもいいことだった。ただ、少女がこれからどういう道を進むかに興味があり、少し手を加えてみようと思っただけだ。
「まずは、本来の姿に戻ってもらおうかしら」
返事こそしないが、アンはちらりと自身の服装を見下ろした。トゥリアはその隙に、短い金髪を覆うベレー帽を取り除く。ぱっと振り向いた顔が、初めて陽に照らされる。嫉妬してしまいそうなほど綺麗な、ハリのある肌。時々オレンジにも見える瞳と、赤くふっくらした唇。
「もっと相応しい物を買ってあげるわ。フリルのついたドレスと、女性用の靴と帽子をね」
「いらない」
今度は尖った声が発せられる。しかしトゥリアは聞く耳を持たなかった。
「ここで停めて」と御者に頼み、馬車を降りる。
「言ったはずよ、美は最高の武器だと。確かにあなたは素質があるけれど、その薄汚い格好から変わらないと、意味がないの」
アンは何か反論しかけたが、結局何も言わずに口を閉じた。案外聞き分けよく、後をついてくる。
二人が最初に入店したのは、衣装店だった。色とりどりのドレスが、華やかさを競い合うように所狭しと並んでいる。トゥリアの指示でそのうちの何着かが見繕われ、アンは着替えるよう小部屋へ連れて行かれた。
出てきた姿は、トゥリアが想像していた以上の出来栄えだった。
「とても似合っているわ。これはもう、あなたの色ね」
アンは身に纏った深紅のドレスに、そっと手を触れる。自分の変わりようが驚きだったようだ。鏡に映った姿を、じっと見つめている。胸元と肩の辺りに黒のリボンがあしらわれ、斜めに入るスカートのひだが、彼女を一層大人っぽい印象にさせている。
「わたしの、色」
そう、血の色。トゥリアは声に出さず思う。闇を背負うあなたにこそ相応しい。それさえも魅力になるのだから。
ふと気づくと、アンが真っ直ぐこちらを見つめている。何かと尋ねると、彼女は言った。
「もうひとつ、変えたい色があるんだけど」
こうして少女は、“アン”となるべく一歩を踏み出したのだった。
一通り買い物を済ませ、馬車はようやく家路に着いた。華やかな繁華街とは異なり、酒場や宿屋が集まる地区だ。女性の姿は一気に少なくなるため、行き交う人の服装も暗めで湿っぽく見える。だがトゥリアにとってはこちらが慣れ親しんだ地であり、希望を見つけたホームでもある。
御者が先に降り、手を差し伸べる。トゥリアはいつも通り手を預けたが、アンは無視して彼の横をすり抜けた。御者が顔を顰めてもそ知らぬふりだ。
「レディとして失格ね。親切はありがたく受け取るべきよ」
「あの人は親切なんかじゃない」アンは冷めた声で言った。「仕事だからやってるんでしょ」
「可愛げのない子ね」
トゥリアはくすっと笑う。そして表情ひとつ変えないアンに、本題の話を差し向けてやる。
「ここがあなたの新しい居場所よ」
二階建ての屋敷は、周りを金属のフェンスで囲まれ、ひっそりと建っている。原則、来訪者はお断りだ。大事な従業員を、客とのトラブルから守るためである。
現在人が動いている気配はなく、扉を開けても中はしんと静まり返っている。
「誰もいないの?」
アンの疑問に、トゥリアは首を横に振った。
「いいえ、今は十五人ここに住んでいるわ。まだ皆寝ているのね。そろそろ起きてくる時間だと思うのだけど」
「……ここの人達はこうもりか何かなの?」
「ふふ、面白いたとえね。でもね、ここは夜から一日が始まるのよ」
まだ納得のいっていないアンを横目に、トゥリアは広間の真ん中ほどで立ち止まった。吹き抜けの二階に向かって、両手を二回打ち鳴らす。
「さあ、そろそろ起きてちょうだい!新しい子が来たの。紹介するわ」
すると、二階の部屋の扉が次々に開かれる。中から現れた女達は、どの顔も眠たげだ。新入りと聞いても、出入りの激しさに慣れた彼女達にとって、興味をそそる対象ではないらしい。欠伸をしたり、面倒くさそうに髪をかきあげたりしている。
トゥリアはアンに、こちらへ来るよう促した。
「今日から住むことになるアンよ。親切にしてあげて」
「こんな小さな子に仕事が勤まるの?」
「痛くって泣いちゃうわよ」
彼女達のからかいを受け、アンは警戒を色濃くさせる。内容こそわからなくても、不穏な空気を感じ取ったのだろう。
トゥリアは彼女の肩に手を置き、目で二階の笑いを鎮めた。
「すぐに仕事はさせないわ。その前に覚えることがたくさんあるの。世話係はアティカ、あなたにお願いするわ」
指名された彼女は、露骨に嫌な顔をした。
「なんであたしがこんなチビを――」
「お願いね?」
念を押すと、アティカは渋々頷いた。「こっち来な」と投げやりな調子でアンを呼ぶ。アンはちらりと声の主を確かめ、トゥリアに尋ねた。
「わたしはここで、何をするの?」
知らない場所に連れてこられ、いくつもの視線に晒されながらも、彼女の声音は冷静だった。こちらを見据える目には、ごまかしを許さない鋭さがあった。少女は一体、どこまで理解できるだろう。一瞬考えたが、トゥリアはそのまま話すことにした。どのみちわかるのだから、ぼかしたって意味がない。
すっと顔を近づけ、アンの耳元で囁く。
「男の人を楽しませてあげるの」
「どうやって?」
「一緒にベッドへ入って、望むことをしてあげるのよ。私達が売るのは、この身体」
するとアンは顔を強張らせ、黙り込んだ。怯えるのも当然だろう。最初は誰でも同じだ。すぐに反発してくるかと思ったが、そうはならなかった。ぎゅっと拳を握り締め、唇を噛む。
「……ここの人達は、皆そうしているの?“娼婦”っていうこと?」
「ええ、そうよ」
「それじゃあ、皆魔女なの?どうして殺されないの?」
トゥリアを含め、その場の全員が言葉を失った。一瞬静寂が訪れる。しかし、ぷっと誰かが吹き出したのを皮切りに、上の女達は一斉に笑い出した。
「やだあ、ひどいこと言わないで。どうして殺されなくちゃいけないの?」
「そうよ、あたし達悪いことなんてしてないわよ」
「男達にとって必要不可欠な仕事よ。むしろ感謝されるべきよね」
彼女らのおしゃべりをやり過ごし、トゥリアはアンと視線を合わせた。魔女という単語が出てきたことで、少女の闇が垣間見えた気がした。
「私達は誰も魔女じゃないわ。たしかにこの仕事を悪く言う人もいるけれど、それだけで罪にはならない。だから安心なさい」
「嘘!じゃあどうして――!」
悲鳴に近い声が、屋敷内に響き渡る。半狂乱になりかけたアンを、トゥリアは素早く抱きしめた。腕の中で、強張った小さな身体が震えている。
「それ以上言わない方がいいわ。生きていきたければね」二人の間でしか聞こえぬよう、小声で言い聞かせる。「答えはあなた自身で見つけるの。そのための知識なら与えてあげるわ。だから焦らなくていいの」
何度か深呼吸をさせ、少しの間そうしていると、アンは次第に落ち着きを取り戻した。身体を離すと、彼女は目を逸らしたまま二階へ駆け上がっていった。
「今日からよろしくお願いします」
頭を下げられたアティカは、最初当惑顔だったが、すぐにいつものペースを戻して言った。
「先輩が呼んだらすぐ来る。わかった?」
「わかった」
「わかりました、でしょ」
「――わかりました」
二人のやり取りを、トゥリアは微笑みながら見上げていた。アティカに任せておけば安心だ。棘のある口調や態度から、一見きつそうな印象のある彼女だが、実際は姉御肌で面倒見のいいことをトゥリアは知っていた。
「さあ、そろそろ支度を始めて。夜が始まるわ」
トゥリアが再び手を打ち鳴らすと、彼女達は三々五々散っていった。アンは最後にこちらを振り返る。そして頷くようなしぐさをした後、すぐにアティカの後を追って駆けていく。その背中に向けて、トゥリアはそっと呟いた。
「頑張りなさい。あなたの新しい人生は、ここから始まるのよ」
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