6
穏やかな波が船底に打ち寄せ、心地よい揺れをもたらしていく。空は雲ひとつなく、細い三日月が浮かぶ夜だった。日中は貨物や人の行き来で賑わっていた港も、すっかり人気がなくなり、静まり返っている。眠気を誘うには絶好の組み合わせだ。
係留した貿易船の甲板で、乗組員ジャンは大きな欠伸をした。果てしなく思われた積荷の作業を終え、明日はいよいよ出航だ。同僚の船員達は意気揚々と夜の街へ出かけていったのだが、彼は運悪く船番の外れくじを引き、一人ここに残されていた。酒と女は当分の間お預けだ。
何をするでもなく、ジャンはもう一度大欠伸をする。どうせ誰も来ないだろうし、少しぐらい寝てしまおうか、と思ったときだった。
ぎし、とすぐ近くで音がした。
「誰だ!?」
ジャンは素早く腰の短剣を抜き、身構える。何者かが、はっと小さく息を呑む。しかし動揺を隠せなかったのはこちらも同じだった。心臓が飛び出そうなほど脈打っているし、剣を持つ手はすでに汗で湿っている。
「今出てきた方が身のためだぞ。海の男を舐めんなよ」
先輩達の迫力を真似て、精一杯どすの聞いた声を出す。多少声が震えてしまうのは仕方がない。なんせこんな緊張感のある場面は、初めてのことなのだ。
相手は最初の物音以来じっと動かず、暗闇で息を潜めている。気配だけを感じるのが、一層恐怖心をかきたてる。猫や犬ならいいのに、と思わずにいられなかった。
そのとき。帆柱の影が、ゆらりと動いた。半身を引いたジャンは、意外な影の正体に「なんだよ、ったく」と呟いていた。緊張が一気に抜けていく。
姿を現したのは、凶悪な盗人でも犬猫でもなく、小柄な少年だった。ブロンドの短髪に、ベレー帽。服はところどころ、黒く汚れている。頬はこけ、手足は折れそうなほど細かったが、目だけは生きる意志を失ってはいなかった。
「食い物でも探しに来たか?今適当に持ってきてやるから、そこで待って――」
「違う」少年は声変わり前の高い声で、言葉の続きを遮った。「この船に乗せてほしい」
「馬鹿言うな。これは貿易船だ。人じゃなくて、荷物を運ぶんだ。わかるか?」
「人を乗せる船はどれ?」
「さあな。他の船のことなんか知るかよ。どっちみちおまえみたいなガキ一人じゃどこでも断られるさ。遊びじゃないんだぞ」
ほら下りろ、と顎で示すも、少年はその場を動かない。そして射抜くような鋭い目で、こちらを見返してくる。
「遊びだなんて思ってない。遠くへ行きたい、今すぐに」そうしてズボンのポケットを探る。取り出したのは、なんと金貨だった。「これで船に乗せて」
「正気か、おまえ。こんなのどこで拾ってきた?」
どう考えても、金貨を持ち歩くような階級の子どもではない。驚くジャンに、少年は何も言わないまま黙ってそれを差し出す。受け取ってよくよく見てみるが、間違いなく本物の金貨だ。
「――よしわかった。乗せてやる。ただし船長にばれるとまずいから、俺とおまえだけの秘密の取引だ。言いつけには絶対従ってもらう。わかったな?」
「わかった」
少年はにこりともせずに頷いた。愛嬌のかけらもないが、とにかく物分りは良さそうだ。それにしても、とジャンは思う。末恐ろしいほどの美少年だ。男衆だけで長い間寝食を共にする船上では、格好の餌食になるだろう。むろん、誰にも存在を明かすつもりはない。せっかくの臨時収入がばれたら面倒だ。
取引が成立したところで、ジャンは彼を船蔵へと導いた。積み上げられた木箱の中身を、手近なところからチェックしていく。そして手ごろな箱を見つけると、中にあった生地や織物などを抱えられるだけ持ち出した。それらを適当に他の箱へと詰めていく。
「ほら、見てないで手伝え」と声をかけると、少年は素直に従った。やがて子ども一人分程のスペースができると、彼もジャンの意図を察したようだった。
「ここに隠れていればいいの?」
「そうだ。飯は隙を見て持ってきてやる。用を足すのは真夜中だけだ。どうしても我慢できないときは、そこの隅っこでやれ」
「わかった」
約束どおり文句の一つも言わず、少年はさらりと頷いた。そしてさっさと中に入り、蓋を閉じるのを待っている。これから待ち受ける状況をわかっているのかいないのか、言い出しておきながら疑わずにいられない。何せ十歳にも満たないような子どもなのだ。
不安な気持ちを振り払い、ジャンはしっかりと箱の蓋を閉じた。他のものと遜色ないことを確認し、一人甲板へと戻る。後はなるようになるだけだ。楽観的にそう結論づけ、ジャンは再び、大きな欠伸をした。
「おい、この積荷間違ってんぞ!」
先輩船員のどら声で、ジャンは不快な目覚めを迎えた。見張り番から解放され、ようやく眠りについたところだったので、頭がぼんやりして活動するのを拒否している。知らないふりで二度寝してしまおうか。そう思った矢先、船室のドアが乱暴に開けられた。
「いつまで寝てんだ、さっさと起きろ」
「……何ですか、朝早くから?まだ出航までは時間あるじゃないですか」
「間違った積荷が何箱か紛れ込んでたんだってよ。船長にばれる前に戻さないと、おまえがどやしつけられるぞ」
「何で俺なんですか!?」
「見張り番だからだよ、早く気づけばこんなことにはならなかったんだ、嫌ならすぐ手伝え」
あまりに不条理だ。言ってやりたいことは山ほどあったが、船長に目をつけられるのだけはごめんだった。罰則が大好きな彼にかかれば、これから地獄の日々が待っていることだろう。
ジャンはしぶしぶ起き上がった。手の甲で目を擦り、頭をかきむしる。そこではっと手を止めた。
――間違った積荷が紛れ込んだ。
それはつまり、間違えた積荷を船から降ろすということだ。
「まずい」
一気に血の気が引く。ジャンは慌てて船室を飛び出した。
甲板ではすでに大半の船員が揃っていて、今まさにいくつかの箱が運び出されているところだった。人と箱の合間を縫って、ジャンも船蔵へと駆け下りる。
「間違った積荷ってどれですか!?」
勢い込んで尋ねると、先輩の不機嫌な面が振り返る。
「手前の十三箱だ。これは降ろす方のやつだって、昨日言っただろうが!さっさと持っていけ」
全くの初耳だったが、そんなことは気にしていられなかった。彼が指し示した中には、まさに少年の隠れている箱もカウントされていたからだ。ジャンはこっそり肩を竦めた。
――運が悪かったな。
少年の箱を持ち上げながら思う。いや、自分としては、これでよかったのかもしれない。厄介な存在はばれずに済んで、肝心の金貨はしっかり懐に納まっている。少年に対して申し訳ない気持ちがないわけではなかったが、事情があるのだから仕方がない。
子ども一人増えた分にうんざりしながら甲板へ上がり、桟橋へと下り立つ。その間箱の中は、物音ひとつせず静かだった。言いつけを守るというよりは、外で野太い怒鳴り声が飛び交っていれば、出るに出られないのだろう。
「悪いな。目立たない所に置いてやるから、俺がいなくなったらとっとと逃げな」
船を離れて周囲を確認してから、小声で話しかけてやる。
「嘘つき」
少年が発したのは、吐き捨てるような一言だけだった。
「こっちだってできる限りの努力はしたんだぞ。たまたま運が悪かったんだ、どうしようもねえだろ。ま、見つからないよう上手くやれよ」
そう言って、物陰へ箱を置こうとしたときだった。
「おお、それが例の積荷だな」
遠くから駆け寄ってきたのは、長身のひょろりとした男だった。体格的に船乗りではなさそうだ。
「たぶん。俺は下っ端なもんで、詳しいことは知らないですけど」
「まあいい。とにかく時間がないんだ、よこしてくれ」
男がジャンの持つ箱へ手を伸ばす。そのまま渡そうと差し出しかけるが、ジャンはすんでのところで思い直した。中身の一部が子ども一人と入れ替わっているのだから、さすがに男は重さの変わりようを不審がるだろう。蓋を開けられれば一巻の終わりだ。
「俺持って行きますよ。他にもあるし、一人じゃ大変だろうから」
「そうか、すまないな。助かるよ」
あっさり手を引っ込めた男は、置く先を指示して他の場所へと駆けていく。この積荷の本来の経路は、荷馬車で行く陸路だったようだ。どこへ向かうのかと一瞬気になったが、自分には関係のないことだと思い直す。
荷馬車の前で待っていた男にも話をつけ、無事積荷を置いて踵を返す。やるべきことはやった。これからどうなるかは少年次第だ、上手く逃げ延びるよう祈るしかない。
とはいえ、最悪見つかったとしても、馬車でならまだマシかもしれない。箱の中身は幸い同じ行き先の箱に入れたのだから、損害額を請求されることもないだろうし、少年は追い払われて終わりだろう。船の上ではそうもいかないし、全部ばれたときの罰則が比にならない。だから少年のためにも自分のためにも、これでよかったのだ。
ジャンは前向きに考えようと、努めて陽気に口笛を吹く。今日もいい朝だ。風も程よく強い、これぞ絶好の船旅日和だろう。だから早く出航してしまいたい。足取りは自然と速くなっていった。
思わぬ手違いも無事に解決し、荷馬車は予定よりやや遅れて港を出発した。行商人ビョルンはほっと胸を撫で下ろす。得意先に品物を届けられなければ大変だ。長年の信頼関係が崩れ去ってしまう。
彼が扱っているのは、外国から取り寄せた選りすぐりの生地だった。主に貴族のドレスなどで使われる高級品のためか、取引先の店主もプライドが高く、気むずかしい人が多い。いつも客の我儘な注文に悪戦苦闘しているため、神経の磨り減る仕事なのだろう。商品を値段でしか判断しないビョルンには、デザインのことなど全く興味がなかったが。
がたがたと荷馬車に揺られながら、隣の席にいる相棒、オラフを見遣る。彼は商品の積み下ろしを担う力仕事と旅の用心棒を兼ねているが、今は呑気に大いびきをかいている。残念ながら後者の方は若干心もとないが、長年の付き合いですっかり慣れてしまった。
一人でぼんやりと、流れ行く景色を眺めていたときだった。ごとり、と背後で小さな音がした。訝しく思い振り返ってみるが、あるのは積み重なった商品箱だけだ。
「おい、今中で音がしなかったか?」
気になってオラフにも確認してみるが、「さあ。鼠でも同乗したんじゃないか」と他人事のような口ぶりだ。
「品物に悪戯されたら取り分が減る。食糧に手をつけられたら腹が減る。どっちみち俺達が困るんだ。さっさと見てきてくれ」
苛立ちの混じった声で急かすと、オラフは文句を言いつつ、ようやく重い腰を上げた。荷台に上がり、ごそごそと荷物を改めるが、どうやら鼠は発見できなかったようだ。すぐに引き上げてくると、また大いびきをかきはじめる。ビョルンはため息をついた。これ以上気にしても無駄なようだ。
その後は不審な音もなく、三日間の旅は無事何事もなく終わった。しいて言えば食糧の減りが多少早かった気もするが、齧り後も散らかした形跡もないことから、虫や鼠の線は消えていた。疑わしきは前科もちの相棒だったが、彼を問い詰めたところで知らぬふりをされるだけなので、ここは大目に見ようと自分を納得させた。
「さあ着いたぞ」と寝ているオラフを叩き起こす。おざなりな返事はいつものことだ。
得意先の店の前で馬車を止め、荷台の扉を開く。約束の日時に間に合ったため、店主は愛想よく出迎えてくれた。オラフと二人、リストを確認しながら次々と品物を店内へ運び入れる。そうして無事一軒目を終えたところで、よし、とビョルンは額の汗を拭った。
「今日で全部回りきれそうだな」
「今夜は旨い酒が飲めるな」
オラフも肩を回しながら、嬉しそうに言う。
しかし二軒目に到着したとき、事件が起きた。最初と同様扉を開け、品物を運び出す、そこまでは順調だったのだ。
ビョルンが荷馬車に背を向けたとき、突如オラフの怒鳴り声がした。何を言っているのかわからず、眉を顰めて振り返る。が、ビョルンは状況の掴めぬままバランスを崩し、気づけば無様に尻餅をついていた。何かが勢いよくぶつかってきたのだ。その正体を突き止めるより、彼にとっては品物の無事を確かめる方が重要だった。慌てて落とした木箱を引き寄せる。
一方本気になったオラフの動作は素早かった。あっという間にこちらへ来ると、転がったままの何かをむんずと掴む。
吊り上げられるようにして立ち上がったのは、6,7歳の華奢なな少年だった。棒のような手足をばたつかせ、逃れようと必死でもがいている。しかしオラフの丸太のような腕の中では、無駄な抵抗に過ぎなかった。
「おいチビ、逃げられると思うなよ!どうやって潜りこんだ?盗った物全部出せ!」
「何も盗ってない!」
オラフの追及に、少年も負けじと言い返す。
二人の会話についていけないビョルンが「おい、ちゃんと説明しろ」と促すと、オラフはようやくビョルンの存在に気づいたらしく、勢い込んで言った。
「こいつ、たった今うちの馬車から飛び出てきたんだ!」
「な、何だって?」
いつからだ?と言いかけて、ふと口を噤む。よく考えれば、思い当たることがある。道中聞こえた物音や、減っていた食糧。
「隠れてたのか?港からずっと」
少年が初めてビョルンに目を向ける。子どもらしからぬ、敵意に満ちた目つきだった。肯定も否定もしないところを見ると、推測はどうやら当たっているらしい。ビョルンは腰に手を当て、溜息をついた。
「何だってそんな馬鹿なことをしたんだ?」
盗むなら港で持ち出して、とっとと逃げればよかったのだ。こちらとしては迷惑極まりないが、そう思わずにはいられない。こんな遠いところまで来て、一体どうやって帰るつもりなのか。まさか家まで送り返すほどお人よしではなかったが、同じ年頃の子どもを持つ父の目線で見ると、ついそんな余計なことまで考えてしまう。
「遠くに行きたかったから」
少年が短く答える。
「家出か?」
「違う」
「じゃあ何だ?親が心配するだろう。こっちが誘拐したと思われるのはごめんだ」
「親はいない」
孤児だったのか、とビョルンは少し哀れに思う。他人を寄せ付けまいとする雰囲気は、心の奥に秘めた悲しみからきているのかもしれない。彼は少し声を和らげ、少年に尋ねた。
「とにかく、何も盗ってはいないんだな?悪いがポケットの中を見せてもらおうか」
すると今度は素直に、少年はポケットの中の物を取り出した。あるのは数枚の硬貨と、そして鋏だった。見たところ家庭用としては使わないような、少し高価なものだ。
「何だってこんな物――」
「おじさんには関係ない」
少年はきっぱり言うと、また鋏をポケットに突っこもうとした。ビョルンは「待て待て」と慌ててその腕を掴んだ。少年が鋭い目つきで睨む。
「触らないで」
「そんな鋭い鋏、そのままポケットに入れていたら危ないだろう。これで包むんだ」
とりあえず疑問を脇に押しやり、ビョルンは懐にあったハンカチを差し出す。少年はそれを受け取らず、すっと目を細めた。こちらの意図を探ろうとでもするかのようだ。余計な感情に流されぬうちにと、ビョルンは小さな手にハンカチを押し付けた。
「今回だけは見逃してやるから、さっさと行け」
今度の動作は素早かった。少年はぱっと立ち上がり、礼も言わずに駆け出そうとした。
「ちょっと待った」
そう言って再び襟首を掴んだのは、今まで黙ってやり取りを聞いていたオラフだった。顔に浮かんだ笑みを見て、ビョルンは嫌な予感がした。この相棒は普段何も考えていないくせに、変に頭のまわるときがあるのだ。何となく予想していたことを、彼はそのまま口にした。
「身寄りがないなら、売っちまおうぜ」
奴隷市場に連れて行けば、少年の未来は一層暗いものになるだろう。オラフにとってはおいしい臨時収入だろうが、子どもの一生がかかっているのだ。
「やめろ、行かしてやれ。何も盗ってなかったんだから、もういいだろう」
「何だよ、ノリが悪いな。よく見てみろよ、こいつの顔。これは結構いい値段になるぜ。どうせ一人でいたって野たれ死ぬだけだ。人助けみたいなもんじゃねえか」
少年の抵抗を他所に平然と言ってのける神経が、ビョルンには我慢ならなかった。
「オラフ、いい加減にしろ。この子をどうこうする権利はおまえにも俺にもない」
するとオラフも意地になったようだ。口を尖らせ反論してくる。
「嫌だね。捕まえたのは俺だ。だからどうこうしようと俺の自由だ」
「めちゃくちゃなことを言うな」
「めちゃくちゃじゃないさ。そうだ、保護だよ保護」
このままだと埒が明かない。ビョルンは大きくため息をついた。相棒の提案には全く乗り気でないが、彼とはこれからも長い付き合いになるのだ。一時の情で、今までの関係を反故にするのは躊躇われた。人を替えるほど深刻な問題があるわけでもないし、何より他を探すのは面倒だ。そう考えると、結局折れるのはいつもこちら側になる。
「――仕事はまだ終わってないぞ。それまでどうするつもりだ?」
オラフは状況が有利になったことをすぐに感じ取り、ころりと機嫌を直した。
「縛って荷台の中にでも転がしとくさ。終わったら近くの奴隷市場に連れて行く」
「それこそ誰かに見られたら、面倒なことになるぞ」
「盗みをはたらいたから、警察に突き出すとこだと言えばいいのさ」
「盗んでない!」
少年がすかさず反発する。
「うるせえな、おまえは黙ってろ!」
暴れることに苛立ったオラフが、拳を振り上げたときだった。
「暴力を振るうのはよくないわね。その逞しい身体は、か弱い女子どもを守ってくれるためではないの?」
新たな声に、相棒を止めようとしていたビョルンを含め、三人ともが動きを止めた。店の方を振り返る。
入り口に立っていたのは、真っ青なドレスを纏った美しい女性だった。折れてしまいそうな細いウエストと、大きく開いた胸元から覗く豊満で完璧なスタイルに、ビョルンは思わず見惚れてしまう。いや、男なら誰もが魅了されるだろう。彼女の前には、年齢など何の問題にもならない。妖艶な笑みを浮かべた唇から、しっとりとした声が発せられる。
「あら、あなたはクリスじゃない?」
その目はビョルン達を通り越し、真っ直ぐ少年へと注がれていた。少年は彼女を睨みつけたまま、何も答えようとしない。感動の再会、とは程遠い光景だった。代わりにビョルンが口を挟む。
「知り合いですか?」
「ええ、この子の母親とは古くからのなじみで。クリス、何度か会ったことがあるでしょう、覚えていない?」
「見間違いでしょう。あなたとこいつじゃ、身分が違いすぎる」
横槍を入れたのはオラフだ。獲物を取られるのが癪なのだろうが、彼の意見にはビョルンも同感だった。豪華なドレスが着れる身分の婦人と、質素な服装の少年とでは、出会う機会さえないだろう。
疑いの視線を受けてもなお、婦人は平然と返す。
「外見ではわからないこともあるのよ。私が何者かだなんて、あなた方にはわからないでしょう?」
そして彼女は、再び少年に向き直った。
「クリス。あなたは私を覚えている?」
二人の視線がぶつかり合い、沈黙が訪れた。ビョルンも、オラフも、婦人も、皆が少年の答えを待っている。
オラフがしびれを切らすかと思った頃、少年はようやく決断をした。
「――覚えてる」
「嘘つけ、いい加減なこと言いやがって!」
「もう帰らないと。家まで送ってくれる?」
婦人は満足げに微笑み、「ええ、もちろんよ」と少年の手を取った。なおも食いつこうとするオラフに対し、彼女は冷たい声で言った。
「これ以上騒ぎ立てるのは、あなた方にとってよくないことよ。先程まで、嫌がるこの子をどうしようとしていたか、忘れていないわね?警察にきちんと事情を説明してもいいのよ」
「もう諦めろ、オラフ」
有無を言わせぬ口調で、ビョルンが口を挟む。これ以上面倒なことになるのはごめんだった。不満げではあったが、オラフもそれでようやく引き下がる。
婦人に促され、少年は近くに停めてあった馬車へと乗り込む。彼女らの姿が見えなくなると、ビョルンは小さく息を吐いた。正直なところほっとしていた。少年がこの後どうなろうが、こちらには全く関係がなくなる。無駄にやきもきしなくて済むのなら、相棒が一日中不機嫌だろうが、大したことではない。
こうして仕事を再開した二人は、平穏な一日を終え、旨い酒と共に眠りに落ちた。朝を迎える頃には、どちらも少年のことなど気にしなくなっていた。相棒の単純な性格は、ときに長所にもなる。ビョルンは思う。もう二度と会うことはないだろう。恐ろしく綺麗な婦人も、少年も。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます