4

 翌日。マテューが一人向かったのは、例の路地裏だった。できることなら魔女と疑いのある少女になど、会いたくなかった。全ては仕えるべき主であり、大切な友のためだ。

 昨日サマンサは、マテューにだけ聞こえるように、こう告げた。

「ヨハンをお願い。決してあの女の子に会わせないで」

 あのときサマンサは、ヨハネスの思いがけない行動に、衝撃を受けていたはずだった。母と対立する姿勢を見せたのは、初めてだったように思う。それでも彼女から出てきた言葉は、精一杯息子を気遣う想いだった。震えていたその声は、マテューの心も少なからず揺さぶった。そしてこの想いに応えなければいけないと、固く決意した。そもそもヨハネスを唆したのは自分なのだ。事情を知らなかったとはいえ、マテューはそのことを深く後悔していた。

 もっとヨハネスの話を聞いていれば、と思う。恋をしただなんて、とんでもない。サマンサの言うとおり、魔女は人ではない。悪魔と同じなのだ。関われば必ず不幸が訪れ、末代まで呪いが続くのだといわれている。

 路地裏にはそこら中ゴミが散乱し、腐臭とともにじっとりとした空気が漂っている。マテューは躊躇うことなく、その暗闇に足を踏み入れた。

 例の少女は、すぐに見つかった。長い金髪に、白いワンピース。小さな体を折りたたみ、じっと座り込んでいる。

「セレーナってのは君かい?」

 呼ばれた少女は、ぱっと顔を上げた。そして素早く立ち上がり、警戒心をむき出しにして睨みつけてくる。

「ヴァイヤー家の従者、マテューだ。ヨハネス様の代わりに、会いに来た」

 セレーナの表情が僅かに変わる。マテューの言ったことを吟味している風だったが、直後尖った声で答えた。

「ヨハネス様なんて知らない。だからもう行って」

「ヨハネス様は、もうここには来ない。君に会うことは相応しくないからだ。自分でわかってるんだろ?」

 二人はしばし、その場で睨み合った。向こうが何かしようとしたら、相手が少女だろうが飛び掛っていく覚悟だった。呪いなどかけられては堪らない。ヨハネスにだけは害が及ばぬようにしなければ。

 先に動きを見せたのはセレーナだった。ふいとマテューから目を逸らす。こちらに歩いてきたときには思わず身構えていたが、彼女は蔑むような目を向け、側を通り過ぎていった。

 マテューは屈辱を噛みしめ、声を荒らげた。

「もうこの辺りはうろつくなよ!坊ちゃんはあんたみたいなのも放っておけない、優しい方なんだ。金をせびるなら他の奴に――」

「違う!」

 突如セレーナは足を止め、強い口調で遮った。目には激しい怒りがあった。

 その反応を見て、最初に彼女へ抱いていた得体の知れない恐怖は、少しずつマテューの心からひいていく。目の前の少女と、昨日見たヨハネスの真剣な眼差しが交じり合う。マテューは、それをあえて鼻でせせら笑った。

「まさか、真剣に好きだなんて言わないよな?」

 セレーナは激しく首を振る。

「ヨハネス様も坊ちゃんも、わたしは知らない。一人で生きるって決めたの。お金もいらないし、誰からも好かれなくていい」

 ここに来て初めて、マテューの心は大きく揺らいだ。

 これが魔女なのだろうか。魔力を受け取る代償として、彼女は深い孤独を選んだのだろうか。それとも、これも同情を誘うための罠?いや、とてもそんな風には見えない――。

 そこまで考えて、マテューは迷いを振り払った。懐から、小さな箱を取り出す。

「これを。ヨハネス様からだ」

「いらない」

「いいから!」

 言っても埒が明かないので、強引にそれを握らせる。手を離した途端、セレーナは箱を力任せに投げつけた。壁に当たり、落ちる音がやけに大きく響く。

 かっと頭に血が上った。一瞬、少女を殴りたい衝動に駆られる。どんな思いで、ヨハネスがこれを渡そうとしたのか。きっといくら話したところで、彼女には届かない。マテュー自身が、彼女を理解できないように。

 マテューは大きく息を吸い、吐いた。気持ちを落ち着かせると、一息に言う。

「どう思おうと勝手だけどな。これだけは忘れるな。あんたのことを、本気で心配してくれる人がいることを。一人で生きるなんて、簡単に言うな」

 彼女が簡単に言ったなどとは、マテューも思っていない。それでも言わずにいられなかった。自分でも意識しないうちに、思い出してしまったのだ。身をもって経験した、孤独なときの絶望、空虚さを。

 セレーナは黙って唇を噛み、両の拳を握り締めている。今度はマテューが彼女の脇を通り過ぎ、その場を後にした。そっと後ろを振り返ると、まだその場を微動だにしない、小さな背中が見えた。ヨハネスに対して申し訳ない気持ちが、じわじわと胸の中に広がっていく。例の箱を手に取るかどうかは、結局最後まで確認できなかった。




 路地裏の暗闇に紛れ、“浮浪者”は子ども達の奇妙なやり取りの一部始終を覗っていた。少女の方は、最近この辺りで見かける顔だ。身なりを見れば、自分と同じ側に足を踏み入れかけていることがわかる。だから彼女を訪ねて現れた少年に、興味を持ったのだ。

 家のない生活も随分年数を重ね、彼は二つの信条をもとに生きてきた。ひとつは決して目立たないこと。表の住人と争いが起これば、必ずこちらが不利になる。そしてもうひとつは、プライドを捨てること。すでに彼は、どんな目で見られても気にならなくなっていた。自分の名前すら、どこかに捨ててきてしまった。守るものもなくなった今、生きるためならどんな手段も使えた。たとえ相手が子どもだったとしても。

 そしてチャンスは突然やってきた。何か訳ありだろうと思った勘が、見事当たったのだ。少年が少女に渡そうとしたものは、銀のロザリオがついたネックレスだった。しかもロザリオを挟んで、二つの指輪までぶら下がっている。それぞれに嵌めこまれた宝石が、その値打ちを証明していた。

 箱から飛び出したロザリオは、子ども達の関心から逸れ、新しい主人が現れるのを待っている。これを拾わない手はない。一度捨てられた物ならゴミと同じだ。そう考えた“浮浪者”は、少年がいなくなるまでじっと息を潜めて待った。

 一人になった少女は、忍び寄る気配に気づくことなく、その場に立ち尽くしていた。考えに耽っているのか、ロザリオには目もくれない。そこまで確認すると、“浮浪者”は一気に駆け出した。ネックレスの鎖部分を掴み、低姿勢のまま走り抜けようとする。しかし、少女の反応は速かった。

「返して!」そう言って、ロザリオを持つ手にしがみついてくる。「それはあなたのじゃない!」

「おまえのでもないぞ!」

 反射的に言い返し、反動でかっと頭に血が上る。久しく人と話していなかったため、自分の声が錆付いて聞こえる。多くのものを失った今、彼には執着しか残っていなかった。理由も目的もない、ただ生きるという本能。

 “浮浪者”は無我夢中で、少女をロザリオから引き剥がそうとした。しかし向こうも小さな体で、必死に抵抗してくる。ついに彼は少女の長い金髪を鷲掴みにし、力任せに振った。短い悲鳴が上がる。気づけば少女は、壁に転がっていた。

 ――勝った。

“浮浪者”はにんまりと笑みを浮かべた。ロザリオは無事、彼の手の中にある。初めて見る宝石の輝きに、目を奪われていたときだった。

 ロザリオの先に、宝石よりも強い光が、こちらを見据えていた。ゆっくりと立ち上がる少女に、“浮浪者”はうっすら恐怖を感じた。彼女の目に、一種の狂気があったからだ。興奮していた頭は、いつの間にか冷えてしまっていた。

「――返して」少女が手を差し出す。

「い、いやだ!」

 “浮浪者”は慌ててロザリオを両手で握り締める。すると少女は、躊躇なくこちらに飛び込んできた。

 それは一瞬の出来事だった。彼女の歯が、手の甲に食い込む。今度は“浮浪者”が、ぎゃっと悲鳴をあげた。思わず手の力が緩む。少女はその隙を逃さなかった。ロザリオをもぎ取り、彼女は風のように走り去って行った。

 追いかける気には、到底なれなかった。“浮浪者”はその場にへたり込んだ。駆けていく足音は瞬く間に遠ざかり、辺りは夜の静けさに包まれた。聞こえるのは、自分の荒い息遣いだけだ。

 負けた。自分は十歳にも満たない少女に、怯えていた。

「甘くないなあ、生きるってのは」

 まだ擦れた声しか出せないが、先程よりは随分ましになった。夜気の冷たい空気を、肺にたくさん送り込んでやる。

 冷静になれば、これでよかったじゃないかと思えてくる。人には、身の丈に合った生き方がある。宝石を手にすれば、自分の人生は少なからず変わっていた。魅力的なのには違いないが、“浮浪者”は今の単調で平穏な生活も嫌ではなかった。何より、余計なことを考えないのが一番いい。少女のように争ってばかりの人生は、常に痛い目を見るだけだ。

 “浮浪者”は大きな伸びをして、自分の寝床へと帰っていった。取り戻した声で、小さく鼻歌を歌いながら。




 突如店のドアを叩く音に、ホルガーは眉を顰めた。床屋を営む彼は、今日一日の仕事を終え、とっくに店じまいを終えた後だった。夕飯も済ませ、そろそろ寝るかと思った矢先だったのだ。面倒なので、このまま居留守で通すことにする。

 しかしドアは執拗に叩かれ、容易にベッドへ行くことを許そうとしない。ホルガーは小さく舌打ちした。覗き窓から覗いたものの、人影はない。ようやく諦めたか、と思った矢先だった。

「髪を切ってほしいの」

 思いがけない声に、ホルガーは驚いて覗き窓から手を離した。蓋がパタンと閉じ、外の視界から遮断される。しかし彼は、すぐに気を取り直した。声を聞いたことで、人影のない原因がわかったからだ。

 ドアを開けると、そこには予想通り、小さな子どもが立っていた。走ってきたのだろうか、頬が上気している。近所では見かけない少女だ。ホルガーは不機嫌を隠すことなく、ぶっきらぼうに尋ねる。

「うるさいぞ。今何時だと思ってる?」

「わからない。ずっと外にいるから」

「ふん、そういうことか」

 ざっと身なりを一瞥し、少女が夜中に訪れた目的の見当がついた。薄汚れたワンピースに、ぼさぼさの金髪。たとえ日中だったとしても、店には入れなかっただろう。

「うちにおまえの寝床はないぞ。他へ行ってくれ」

 少女は怯むことなく、淡々と言い返す。

「わたしは髪を切りに来たの。泊まるなんて言ってない」

「どっちにしろお断りだ!」

「お金ならある」

 口の減らないガキだ。ホルガーの中で、ますます苛立ちが募っていく。

 一方少女はというと、チャリチャリ音を立てながら、ポケットをまさぐっている。はったりに決まってる、と結論づけ、ホルガーは声を強めて言った。

「仮に金があったとしても、だ」ドアにかけた、『CLOSED』の札を指差す。「この意味ぐらいはわかるな?」

「でも今、このドアは開いてる」

「こ、こんのクソガキが――」

「あなた、どうかなさったんですか?」

 奥から妻のベッティが顔を出す。ずっと様子を覗っていたらしい。会話の相手が少女だと見止めると、すぐさま心配そうに近寄ってくる。「おまえはひっこんでろ」と促すも、どこ吹く風だ。厄介なことになりそうだ、とホルガーは内心ぼやいた。

「おやまあ……こんな夜中にどうしたの?お父さんとお母さんは?」

「死んだの」

「あらそうだったの……気の毒にねえ。今はどうしているの?面倒をみてくれる人はいるのかい?」

「そのことはどうでもいい。わたしは髪を切りたいの」

 少女の予期せぬ返しに、ベッティは多少面食らったようだった。しかし人の良い彼女は、そんなことで少女を見捨てたりはしない。むしろ、まだ心の傷が癒えていないのだろうとかなんとか、都合よく解釈してしまうのだ。

「あなた」と振り返る妻の表情を見て、ほらな、とホルガーは投げやりに思った。

「一晩くらいいいじゃありませんか。泊めてやりましょう。髪は明日切ってもらいましょうね」

 最後は少女に向かって微笑みかける。これではどちらに主導権があるか、わかったものではない。家主としての威厳をかけ、ホルガーは険のある声で呼びかけた。

「ちょっと来い」

 有無を言わさずベッティの腕を掴み、店舗ブースの隅まで連れて行く。少女に余計な口を挟まれないためだ。入り口に立つ姿を横目で見遣りつつ、ホルガーは妻を説得にかかる。

「馬鹿、おまえよく考えろ。飢えたガキに、一晩なんて言葉は通用しないぞ。味をしめて、この辺りをうろつくようになったらどうするんだ」

「そんな犬や猫みたいな言い方はよしてください。かわいそうじゃないですか、まだあんなに小さいのに、ご両親を亡くしたなんて」

「ふん、そんなの知ったことか。親が死んだなんて、平気な顔して言いやがって。信用できるかってんだ」

 ホルガーの発言に、ベッティは目を吊り上げた。

「嘘だと言うんですか。あの子の身なりを見てやってくださいな。汚れているだけではないわ。ワンピースのサイズも小さくて合っていないし、腕には痣がある。辛い扱いを受けて、逃げてきたのかもしれないわ。理由はどうあれ、今この子を見捨てたら、神は私たちをどんな目で見ることでしょう」

 ホルガーは低く唸り、頭をかきむしった。情にもろいうえに、信仰深い彼女のことだ。このまま言い争っていても、埒が明かない。

 深い溜息をつき、何気なく少女の方を見遣る。少女はこちらの会話に興味がなさそうで、ぼんやりと宙を見つめている。豊かな金髪に、整った鼻筋、小さな赤い唇。何年後かにはかなりの美人になるだろうと、容易に想像がつく顔立ちだ。それがホルガーには、逆に不気味に映った。この先彼女に惑わされる人間が、どれだけ出ることだろう、と。

 全く気乗りはしなかったが、妻に言われたことを考えれば、さすがに気が引ける。ホルガー自身、一般的なキリスト教徒であり、幼い頃から隣人愛の精神を教えられてきたからだ。

「明日には、何が何でも追い出すからな」

 釘を指すと、ベッティは渋々ながらも了承した。仕方なく、ホルガーは少女の元へ戻る。

「髪を切るのは明日だ。だから今夜は一晩だけ泊めてやる。その代わり、用が済んだらすぐに出て行け。わかったな?」

「わかった」少女はにこりともせずに頷く。

「ふん、胸糞悪いガキだ」

 ホルガーはわざと聞こえるように呟くと、足音荒く奥に引っ込んだ。後はベッティがなんとかするだろう。むしゃくしゃした気分を抱えたまま、乱暴に毛布を被る。やがて、二人の足音が隣の部屋に入っていくのを聞きながら、ホルガーはようやく眠りについた。




 翌朝。ベッティが目を覚ますと、少女はすでに着替えを終え、所在なげに部屋の隅に座っていた。昨夜は同じベッドで寝ていたので、いつの間にか抜け出たようだ。

「おはよう」と声をかけると、小さく頭を下げる。

「その服、やっぱり少し大きすぎたかしらね。男物でごめんね」

 少女は二つほど袖を折った長袖シャツと、七分丈になったハーフパンツを改めて見下ろしたが、黙って首を振った。

 彼女が着ているのは、去年家を出たばかりの三男のものだ。三人兄弟で女の子に恵まれなかったため、一番小さいものでも、これしか見当たらなかったのだ。

「お腹空いてるでしょう?ちょっと待っていてね」

「――わたしも、やる」

 そう言うと、少女はぱっと立ち上がる。

「手伝ってくれるの?ゆっくりしていていいのよ、あなたはお客さんなんだから」

 すると今度は強く首を振り、早口で返してくる。

「違う。ここは髪を切る所で、泊まる所じゃない。だから――」

 少女の切羽詰った表情を見て、ベッティはようやく理解した。彼女は他人から何かを与えてもらうことに、慣れていないのだ。だからどうするべきか、戸惑っていたのだろう。

「ありがとう。それじゃあ、せっかくだから手伝ってもらおうかしら」

 二人で朝食の用意をしながら、ベッティは思いつく限りいろいろと話しかけた。素っ気無い返答しかなくても構わない。会話をすることで、少しでも少女の心をほぐしてやりたかった。

 そうこうするうちに、ホルガーも起き出してきて食卓についた。眠たげに目を擦り、たるんだお腹をぼりぼりと掻く。少女が皿を並べる様をちらりと見たが、特に何も言わなかった。気に入らなければすぐ文句の出る性質なので、ひとまず苛立ちは収まったのだろう。ベッティは内心、ほっと胸を撫で下ろした。

 食事を終えると、ホルガーは手早く店の準備に取り掛かった。そんなに急かさなくても、と声をかけるが、聞く耳すら持たない。少女もすぐ椅子に腰掛け、素直に始まるのを待っている。

 準備が整うと、ホルガーは鋏を手に、彼女の後ろに立った。

「さあ、どれぐらい切るんだ?」

「たくさん。男の子に見えるぐらい」

「あら、そんなに切っちゃうの?もったいないわ。とても綺麗な髪なのに」

 思わずベッティが口を挟むと、少女は「いらないの」ときっぱり首を振った。続いてホルガーが煩わしそうに鼻を鳴らし、こちらを睨んだ。

「口出しするな。本人がそう言ってるんだ」

 二人からそう言われてしまうと、返す言葉がない。ベッティは仕方なく口を噤んだ。

「よし、じゃあ切るぞ」

 櫛が髪を掬い上げ、鋏が当てられる。少女が頷くと同時に、しゃきん、と刃が閉じ合わされた。豊かな髪束が彼女の後ろを滑り落ち、床を黄金色に埋めていった。



 ホルガーが鋏を置くと同時に、少女はぱっと立ち上がった。巻いていたタオルがはらりと落ちて、金色の髪吹雪が舞う。おかげで掃除が面倒になったと、舌打ちせずにはいられない。

 一方少女は鏡の前に立ち、睨むように自分の姿を見つめている。まるで鏡の中の自分に、勝負を挑んでいるかのようだ。やがてこちらに向き直ると、彼女はにこりともせずに言った。

「どうもありがとう」

 それからポケットに手を入れ、小さな何かを取り出した。差し出されたものを見て、ホルガーは文字通り目を丸くした。

「ほ、本物か!?冗談だろ!」

 思わず大声を上げると、奥に引っ込んでいたベッティも顔を出し、彼の手にあるものを覗きこむ。そして同様に驚きの声を上げた。

「こんな大金……どうしたの?」

「もらったの。だからこれで、髪を切ろうと思って」

 どうかしている、とホルガーは呟いた。たかが髪を切るのに金貨を払うなど前代未聞だ。いくら子どもで相場がわからないとはいえ、いやあんなみすぼらしい格好の子に金貨を渡す大人もどうかしている。まさか盗んできたのか?しかしなぜ、それをこんなところで?

 頭の中で思考がぐるぐる絡み合い、ホルガーは言葉もなく、金貨と少女を交互に見やった。散々悩んだ挙句、彼は引き剥がす思いで金貨を突き返した。

「馬鹿言うな。そんなどっから取ってきたかもわからん金を受け取れるか。お代はいらん。さっさと出て行け」

 しかし少女は、頑としてそれを受け取ろうとしない。

「いらないの。こんなものもらったって、本当に欲しいものは手に入らない。おじさんがいらないなら、どこか適当に捨てていく」

 あまりの言い草に、ホルガーはあんぐり口を開けた。もし少女が少年だったとしたら、生意気な口を、と殴っていたかもしれなかった。貨幣の価値も知らない者は、どのみち痛い目を見ることになるのだろうが。

 そのときベッティが、二人の間にするりと割り込んできた。ホルガーが何か言う前に金貨を抜き取り、少女へと差し出す。

「よく聞いてちょうだい。あなたにとって、この金貨には嫌な思い出があるかもしれない。もちろんお金じゃ手に入らないものだってたくさんある。でもね、生きてくうえで、いつかきっと使うときがくると思うわ。食べ物がたくさん手に入るし、宿で温かいベッドにも寝られる。新しい服も、どこか遠い場所へ行くことだってできるの。いらないなんて、簡単に言っちゃいけない。わかる?」

 少女は俯いたまましばらく黙り込んでいたが、やがてゆっくり顔を上げた。

「生きて、どうしたらいいの?」

「どうするって――」ベッティは僅かに言いよどむ。しかし気を取り直して、励ますように少女の肩へ手を置いた。「生きていれば、いつかいいことがあるわ。神がきっと助けてくださる――」

「嘘!神は助けてなんかくれない!」

 突然、少女は悲鳴にも近い声でベッティを遮った。目には憎悪にも近いものが、爛々と輝いている。

「神はお母さんを殺した。いつかわたしも殺される。焼かれるんだ、皆の前で!」

 ベッティがはっと息を呑む。口を抑えた手が、ぶるぶると震える。ホルガーは血相を変え、妻を押しのけ少女に詰め寄った。

「今、何て言った!?」

 少女は口を真一文字に結び、こちらを見ようともしない。むしゃくしゃした気持ちが、妻へと向かう。

「だから言ったんだ!得体の知れないガキを泊めると、ろくなことがない!こいつがいれば神の寵愛を受けられないどころか、悪魔を呼び寄せるぞ」

 そして今度は躊躇うことなく、少女の首根っこを掴み、入り口の方へ引きずり倒す。

「さあ、今すぐここから出て行け!二度とこの近くをうろつくな!」

 少女はドアにぶつかり、そのまま崩れ落ちるかに見えた。しかし棒のような足でかろうじて堪え、震える拳を握り締めると、乱暴にドアを開けて飛び出して行く。

 ショックから立ち直れない様子の妻をその場に残し、ホルガーは再び店の準備に取り掛かった。一刻も早く、この悪夢のような一日を忘れ去りたかった。早く客が来ないだろうか、と切に思う。新しい出来事で、全てを塗りつぶしてしてしまおう。いつもの平和な日常を取り戻すために。

 少女の駆けて行く足音は、あっという間に遠ざかっていった。




 セレーナと出会った日から数日後。マテューは不穏な噂を耳にした。昨晩、教会に火がつけられたというのだ。

 そこはヨハネスが母と毎週ミサに行く、街一番の大きな教会だった。宿直のシスターがすぐ異変に気づいたため、幸い小火程度で済んだとの事だったが、犯人はまだ判明していないらしい。街の人々はこの事件について、何か不吉な暗示なのだとか、以前悪魔らしき影を見ただのと、口々に噂しあっていた。

「心配だね、マテュー。でも、神父様や他のシスター達に怪我がなくて、本当によかった」

 話を聞いたヨハネスは、そう言って胸を撫で下ろしていたが、マテューは嫌な予感が拭えなかった。

 もしかしたら。そう思わずにはいられない。あのときの彼女の姿が、頭にこびりついて離れない。ただこの推測は自分の胸に秘めておこうと、固く心に決めていた。

『――あの子が元気でいてくれれば、それでいいよ』

 ロザリオを渡せなかったとマテューが謝ったとき、そう言って微笑むヨハネスの目があまりに純真で、無垢だったからだ。

 実は一つだけ、今回の噂でヨハネスに話さなかったことがある。それは、放火した悪魔を目撃したと言う男の話だ。彼は、その悪魔が子どもの姿をしていた、と言ったのだ。金髪にほっそりした体型で、恐ろしく美形の少年だったと。「それからな」と男は声を潜めて付け足した。

「燃え上がる火を見ながら、甲高い声で笑ってたんだ。そりゃ不気味だったぜ。あれが悪魔なのかと思うと、今でも鳥肌が立っちまうんだ」

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