3

 セレーナの姿が見えなくなっても、ヨハネスはその場でしばらくぼんやりしていた。はっとして空を見上げた頃には、だいぶ陽が傾いていた。明るいうちに帰るはずだったと、ヨハネスは急いで家路に着いたのだった。

「おかえりなさい、ヨハン。遅いから心配したわ。外はもう暗いでしょう?」

「ごめんなさい、お母さん。次からはちゃんと気をつけるよ」

 出迎えた母サマンサは、最初不安げに眉根を寄せていたが、ヨハネスを見て安堵したのか、優しく微笑んだ。

「そうね、約束よ。――さあ、もう夕食ができているわ、早くいらっしゃい」

 テーブルに着くと、すぐさま料理が運ばれてくる。焼きたてのパンにチーズ、チキンや洋ナシ、と給仕が手早く皿を並べる。ヨハネスと目が合うと、給仕は母から見えない角度で、「会えましたか?」と口だけ動かした。ヨハネスが「会えたよ」と同じようにして返すと、彼は嬉しそうに笑った。

 ヴァイヤー家の使用人兼給仕を勤めるマテューは、ヨハネスにとって何でも話せる親友のような存在だった。早くに病気で親を亡くし、十歳のときからここに住み込みで働いている。奴隷として売られていたのを、父が買い取ってきたのだ。

 マテューは父の期待に応え、雑用仕事から給仕、ときには職場の手伝いまで、あらゆる事を器用にこなした。生来の明るい性格で、周囲ともすぐに打ち解けられた。歳が近いせいもあり、ヨハネスとは特に仲良くなった。仕事が終わった後、二人で夜明け近くまで語り合うこともあった。

 セレーナを初めて見かけた日の夜も、ヨハネスは一度相談を持ちかけていた。路地裏で出会った少女のこと、母は最初、彼女を心配して声をかけたが、突如態度が変わってしまったこと。

「お母さんはきっと、僕がこの話をしたら、悲しむと思う。でも、あの子のことが、ずっと頭から離れないんだ。一人ぼっちで、これからどうするんだろうって。僕にできることはないのかなって」

 マテューは目を輝かせて言った。

「坊ちゃん、恋をなさったのですね?」

「こ、恋?」思いもしなかった言葉に、ヨハネスはうろたえる。「それとは、ちょっと違う気がするんだけど……」

「ですが奥様がお嫌いとなると、道は険しいですね。身分の違いもあるでしょうし。路地裏に一人でいたのなら、身寄りがないのだと思います。たしかに心配ですね」

 もはやヨハネスの弱々しい否定など、マテューの耳には入っていないようだ。腕組みをして、難しい顔で一人ぶつぶつ言っている。

 恋かどうかはともかくとして、ヨハネスはこのまま、何もしないで諦めるつもりはなかった。忘れることなどできない。いや、きっと目を逸らしてはいけないのだと思う。

「あの子は、何かに怯えてるように見えたんだ。それにおかしなことも言ってた。自分のことを――」

「マテュー、ちょっとお願い」

 突如、階下から呼ぶ母の声が、ヨハネスの続きを遮った。

「一つ用事を頼みたいのだけど――」

「はい奥様、今参ります!」マテューは慌てて返事をすると、ヨハネスに軽く頭を下げた。「すみません、話の続きはまた後ほど」

 結局、その日にマテューが戻ってくることはなかった。しかしヨハネスはすでに、決心を固めていた。

 そして翌日。ヨハネスは友達の家に遊びに行くと告げ、意を決して飛び出してきたのだ。初めて母についた嘘だった。本当のことを言えば、きっと許してくれないだろうと思った。嘘をついたことは心苦しいけれど、後悔はしていない。

 こうして無事家に戻ってきたわけだが、あっという間の出来事で、時間に置いてきぼりにされた気分で、頭がぼんやりしている。すぐにそれを見抜いたマテューに指摘され、やっとセレーナに会った実感が湧いてくる。

 実際に話してみても、彼女のことは名前以外、ほとんどわからずじまいだった。だからこそ、もう一度会いたいと強く思う。彼女の力になれるのは何か。別れてからずっと、その思いだけが胸の内を占めている。

 母はそんなヨハネスの顔を、テーブルの向こうから見つめてくる。

「今日はなんだか楽しそうね。どこの家の子と遊んできたの?」

 その声でヨハネスは我に帰り、慌てて友達の名前を思い浮かべる。

「あのね――」

 言いかけて、言葉に詰まる。情けないことに、母の当然の問いにすら、答えを考えていなかった。

「その……」

 母の笑顔が、不安げに曇る。マテューがはらはらしながら、こちらの様子をこっそり覗っている。

 三人にとって、長い沈黙が続いた。話し出すきっかけを作ってくれたのは、母だった。

「何があったの?怒らないから、正直に話してちょうだい」

 母の眼差しを受けて、ヨハネスは嘘をついた罪悪感でいっぱいになった。

「お母さん、ごめんなさい」震える声で、先を続ける。「昨日の女の子に、会ってきたんだ」

 さっと母の顔色が変わった。何か言いかけ、ぐっと口元を引き締める。抑えた低い声が、短く問いを投げる。

「なぜ、会いに行ったの?」

「一人ぼっちで、かわいそうだと思ったんだ。昨日泣いてるように見えたから」

「ヨハン。今回のことは、もうしかたがないわ。でももう二度と、あの子に会ってはいけません」

 いつもなら、ヨハネスはここで引き下がっているはずだった。

 母はどんなときも、自分の感情でヨハネスを叱りつけるようなことはなかった。常に正しい言葉で、わかりやすく教え諭してくれた。だからこそヨハネスは母を尊敬していて、反抗するなど露にも思っていなかった。

 でも今回ばかりは違った。自分でも戸惑うほどに、納得できない思いが広がっていく。

「どうしていけないの?セレーナには助けが必要だよ」

「あの子が助けてほしいと言ったの?」

「そうじゃないけど……ただ、自分は魔女だって言ってた。僕がよくわからないって言ったら、お母さんに聞けって」ヨハネスは真っ直ぐ、母の目を見返した。「ねえお母さん、“魔女”って何なの?」

 母は深い溜息をついた。重い沈黙が降りる。

 ヨハネスにはまだ、“魔女”という言葉の恐ろしさが、いまいち理解できていなかった。今まで知らなかったわけではない。ただどこか遠い場所の、伝説のような存在だと思っていた。イメージする風貌も、年齢の常識を超えた近づきがたい女性で、決して同年代の少女ではない。

 ヨハネスから目を逸らし、ようやく母は話し始める。

「聞いたことならあるでしょう?恐ろしい呪術を使って、人間を苦しめるのよ。だから分かり合うことなんてできないわ。ヨハンがかわいそうだと思うのも、全部魔女ならではの計算なの」

「――違うよ」

 母の肩が、ぴくりと強張る。ヨハネスは話を続けるのが、一瞬恐くなる。それでも勇気を奮い立たせて、先を続ける。

「セレーナは、そんなひどいことしないよ。だって、騙そうとなんてしてなかった。本当の感情を、僕にぶつけてくれた。今嘘をついているのは、お母さんだよ」

 一瞬、時が止まった気がした。抑えきれない思いを言葉にした途端、ヨハネスの頭は真っ白になっていた。目の前の母から、すっと表情が消える。

 真っ先に動いたのはマテューだった。二人の間に割って入り、ヨハネスの肩を掴む。

「坊ちゃん!奥様は――」

「下がりなさい、マテュー」

 その声からは、感情がすっぽりと抜け落ちてしまっていた。まるで別の誰かが、母の姿を借りて話しているかのようだった。

「ですが――」

 マテューはなおも食い下がろうとするが、「これは命令です」と有無を言わさぬ口調で遮られ、下がらざるをえなかった。

 母はヨハネスに向き直り、言った。

「明日から一週間、外出は禁止です。今後一切、この話はしないでちょうだい」

「そんな……でも明日は……!」

 その先は続けられなかった。母が食卓を立ってしまったからか、ヨハネス自身が恐くて躊躇っていたからか、はっきりとはわからない。

 マテューの前を横切る際、母は一瞬足を止めた。小声で何か言ったようだったが、ヨハネスの耳には届かなかった。マテューが小さく頷くと、母はリビングを出て行った。

「部屋へ戻りましょう、坊ちゃん」

 促されるまま、ヨハネスはよろよろと立ち上がった。部屋に入ると、外側で小さく鍵の回される音がした。内側から開けることもできるのだが、今ので抵抗する気力が削がれてしまった。

 ベッドに入り、頭まで深く毛布を被る。それを待っていたかのように、涙が一筋流れ落ちた。夢の中で、セレーナは軽蔑した表情を浮かべ、静かに目の前から消え去っていった。

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