2
少女は親子の姿が見えなくなるまで、その場に立っていた。周囲の人々の視線が、絶えず感じられる。物珍しそうな目、気味悪がっている目、面白がっている目。
彼らを精一杯睨みつけ、少女はまた路地裏に駆け戻った。先程ばら撒かれた硬貨を、一枚残らず拾い集める。銀貨が全部で五枚、それに――金貨が一枚。少女は目を見開いた。
金貨を目にするのは、生まれて初めてだった。目の上にかざし、繁々と眺める。陽の当たらない路地でも、それは鈍く、傲慢に輝いていた。
その輝きのなかに、差し出された女の人の、白い手が思い浮かぶ。傷一つない、細く長い指。薬草の調合師だった母の手は、いつも擦り傷だらけで、指にはいろんな色の染みを作っていた。あの女の人は、淡いグリーンのドレスを着ていて、とても綺麗だった。母の服は、どれも色褪せ、裾は擦り切れてしまっていた。髪も、靴も、化粧も大違いだ。そしてあの男の子は幸せで、わたしは不幸せだ。
それでも今は、この憎らしい金貨一枚が、わたしの命を長引かせるのだ。
事実、少女は全くの一文無しだった。それどころか、食糧や衣類等さえ持っていない。かといって行くあてもなく、すでに帰る場所すらなかった。
親戚の家を飛び出してから、五日が経とうとしている。叔母はきっと、自分のことなど決して捜さないだろう。厄介者がいなくなり、今頃清々しているに違いない。
少女はすでに覚悟していた。こうなることは、前からわかっていたことだ。母が目の前で殺された日から、ずっと。
父ブラントは、妹からセレーナが家出したとの通達を受け、すっかり途方に暮れていた。もちろん今すぐにでも捜しに行きたいが、国境を越えた距離にあってはそうもいかない。第一娘が行く先など、想像もつかない。普通の子どもが考えるように、家族の下へ戻ろうとする子ではなかった。
三人の子ども達の中で、真ん中の次女、セレーナは、ブラントにとって一番扱いにくい存在だった。
七歳にしては妙に大人びた性格で、何を考えているのかさえよくわからなかった。同じ年頃の子達とも仲良くなれず、擦り傷を作って帰ってきたことも幾度かあった。長女ルイーダより美貌に恵まれていながら、女の子らしい愛嬌がなく、疑問に感じたことは、父であろうと真っ向から反抗した。だから彼女の面倒は、ほとんど全て、妻マリアに任せきりだったのだ。
そんなセレーナも、母には全幅の信頼を寄せていた。母の前でだけは、無邪気に笑い、泣いたり我儘を言ったり、子どもらしい素直な感情を見せていた。そのせいか、マリアもセレーナを特別かわいがっているように見えた。
「あの子にとって、必要なのは母親だけなんだろうな」
あるときブラントは、子ども達が寝静まってから、ふとマリアに漏らしたことがあった。その前日、つい些細なことでセレーナを叱りつけてしまい、それから一切口をきいてもらえなかったときのことだ。
「そんなことないわ」マリアは微笑みながら否定した。「シェリーは感情表現が苦手なだけなのよ。本当はあなたのことが大好きなの。だから叱られて、ちょっと傷ついちゃったのよ」
「そうなのか?僕には理解できない。気に入らないことがあれば、とにかく食ってかかってくる。あんな男勝りじゃ、嫁に行くのも難しいんじゃないだろうか」
それでもマリアは、「大丈夫よ」と言って、おかしそうに笑う。
やはり自分には、セレーナの気持ちはわからない。母親だから見えるものもあるのだろうかと、ブラントはどこか他人事のように感心していた。明日になれば、二人の関係はきっと元に戻るだろう。そうしたら、時間をかけて、彼女を理解する努力をしていこう。
そんな風に、のんびり構えていた矢先。事件は突然起こった。
マリアに魔女の疑いがあるとして、町の男達が家に乗り込んできたのだ。ブラントが仕事に行っている間のことで、帰ってきたときには、子ども達が部屋の片隅で震え、マリアはすでに異端審問所へ連行された後だった。
彼女の罪状は、悪魔と手を結び、毒薬で人を殺した、というものだった。
被害者は有力地主の当主で、数年前から病気を患い、生前はマリアがよく薬草を調合し、直接届けに赴いていた。元々評判がよかったこともあり、当主はマリアの薬に大きな信頼を寄せていた。しかし病気はゆっくりと体を蝕み、先日、彼は静かにこの世を去った。
それが毒殺だと騒ぎ出したのは、当主の妻だった。夫人は以前から、夫とマリアの仲を疑り、会うことを快く思っていないようだった。しかし当主はいつもマリアを歓迎し、自室へ呼んではお茶の一時を楽しんでいた。他愛のない話をしていただけのようだが、それが婦人の妬みに拍車をかけていたのだろう。夫の死後、ここぞとばかりに、マリアは薬に毒を仕込んでいた、自分はその現場を見たのだと、ありもしない話を作り上げ、町の人達を焚きつけたのだった。ブラントにはただの私怨としか思えなかった。
当然、ブラントはありとあらゆる手を尽くして、妻を救おうと尽力した。無実を訴え続けた。しかし夫人の権力を恐れた町の人達は、一様に沈黙を保った。誰の援護も受けられないまま、時だけが無情に過ぎていった。
数ヵ月後、マリアは見るも無残に変わり果てた裸身を、多くの群衆の前に曝け出された。数多くの拷問痕は、彼女が罪を認めず、一人懸命に戦った末のものだった。
処刑台へ上り、足元に薪がくべられていく様を、ブラントは為すすべなく見つめていた。ここで暴れたところで、周りに取り押さえられるのが落ちだ。
込み上げる悔しさに、必死で歯を食いしばる。涙は流さなかった。何ひとつ見逃すまいと決めていた。家で待つ子ども達が、いつか大人になったとき、事実をありのまま伝えるために。彼らには、ただ憎しみを抱くのではなく、過ちに毅然と立ち向かえる強さを持ってほしかった。マリアもきっと、そう望んでいるはずだ。
憔悴しきっているものの、マリアの目は輝きを失わなかった。群衆から罵詈雑言を浴びようと、未だ心は屈していなかった。
「マリア、君を誇りに思う。愛しているよ、心から」
その声が届いたかのように、マリアがブラントの姿を捉えた。視線が交錯した途端、周りの喧騒も、処刑を告げる声も、二人の間から遠ざかっていった。
「来てくれたのね、ありがとう」
「すまないマリア、僕は君を救えなかった」
「もういいの、自分を責めないで。――子ども達をお願い」
「もちろんだ」
「愛してるわ、あなた」
「僕もだよ。決して君を忘れない」
ゆっくりと、松明が下ろされる。火が足裏に到達すると、マリアは苦痛に顔を歪め、泣き叫んだ。群集の興奮は最高潮に達し、罵声と歓声が場を満たした。油も注がれなかった彼女の体は、ゆっくりと、しかし確実に焼き尽くされていく。
そのときだった。喧騒の中に、甲高い悲鳴が響いた。それば罵声でも歓声でもなく、絶望の声だった。
はっとして、ブラントは辺りを見渡した。しかし周りは人で埋めつくされ、捜そうと思って見つかるものではない。声の出所を頼りに、必死に人垣をかき分けていくと、ぽつんと小さな姿が見えた。
「シェリー!どうしてここに――!」
セレーナの耳に、父の声は届いていないようだった。今は抜け殻のように表情を失い、呆然と立ち尽くしている。瞳には燃えさかる母の姿があった。ブラントは娘に駆け寄り、小さな体を抱きしめた。
「見てはいけない!帰ろう、今すぐ家に帰ろう」
「……いや、いやああああああ!」
一際大きな金切り声が、処刑場に響き渡った。「落ち着け、落ち着くんだ」ブラントは必死に宥めながら、彼女の背中をさすっていた。他にどうしようもなかった。
セレーナの爆発した感情が、全身から伝わってくる。体を震わせ、今にも崩れ落ちてしまいそうなほど、膝ががくがくしている。今まで我慢していたものが、ぷつりと音を立てて切れてしまったようだった。
周囲から、遠巻きに人々の視線を感じる。彼らの処刑への興奮は徐々に冷めていき、今度は好奇心の対象をこちらに向けたようだ。けれど二人の側には、誰も寄ろうとしなかった。
「何を騒いでいる?」
声をかけてきたのは、異端審問所の職員だった。処刑の執行を滞りなく行うための補佐役で、観衆の暴動化を防ぐ役割も担っている。二人組みの職員たちは、不審げにセレーナを見やる。ブラントはさりげない風を装って、セレーナを後ろに庇った。
「初めて見る光景だったので、怯えてしまったのでしょう。すぐに送り返しますから」
「ん?貴様の顔、見たことがあるな」一人が、ぎょろりとした目を、今度はブラントへと向ける。「ああ、思い出した。魔女の夫だな」
「ブラント・リーベルトです」
「やっぱりそうか。無残な妻の最期を看取りに来たのか?泣かせるこった」
もう一人がにやつきながら言い放つ。
他所の町から派遣されてきた彼らにとって、魔女と繋がりのあった者もまた、人以下の何者でもなかった。ブラントが無実を訴え続けていたときも、何度冷笑され、心無い言葉を受けたかわからない。
早くこの場を切り抜けたかったが、彼らは二人の行く手を阻み、にやけ顔がブラントの背後を覗き込む。
「じゃあそのチビは、二人の血が混ざり合った“ハーフ”ってわけだ」
落ち着いた表情を保ちながら、ブラントは手の平の汗をそっと拭う。まずい、と思った。
認めてしまえば、彼らは間違いなく、面白半分にセレーナの心を傷つけようとする。それでもし、セレーナが逆上しようものなら、最悪の場合逮捕、ということさえ有りうる。子どもだろうと容赦しないのが奴らのやり方だ。父親として、それだけは絶対に回避しなければならない。
「――いいえ、この子は私の子ではありません」
背後で、セレーナが小さく息を呑む。結局娘を傷つけてしまったのだと思うと、ブラントの胸は張り裂けそうだった。
いくら勝気な性格でも、セレーナはまだ六歳であり、すでに心はずたずたになっていることだろう。痛いほどの視線を背に感じながら、それでも、ここで引き返すわけにはいかなかった。
ぎょろ目が威圧的な態度で尋ねる。
「なら何だ?」
「ちょうど今見かけたものですから。一人で可哀想だと思い、声をかけたんです」
「こんな小さなガキが、一人で処刑を見に来たのか?」
「さあ……たぶん、親とはぐれてしまったんでしょう」
決して表情を、声の抑揚を変えてはならない。ブラントは、必死に自分へ言い聞かせていた。
それでもまだ納得がいかないのか、にやけ顔はなおも食い下がる。
「けっ、下手な嘘ばかりつきやがって」と言って、周囲を見渡した。「おい、チビの名前を知ってる奴はいるか?」
成り行きを見守っていた人々は、いきなり水を向けられ、戸惑い顔を見合わせる。
ブラントは祈るような思いで、一人一人に目をやった。生まれ育った町なので、知った顔がほとんどだ。自分のことを赤ん坊の頃から知る者もいるし、共に支え合ってきた者もいる。しかし彼らは、マリアに容疑がかけられた途端に態度を一変させた。今までの関係が、ここ数週間で全て崩れ去ったのだ。無駄だ、という思いが、奥底からブラントの心を押し潰そうとしている。
――頼む。黙って見過ごしてくれ。
そう強く願ったときだった。
「その子は、私の知り合いよ」
小さなどよめきと共に、人垣が左右に開く。現れた姿に、ブラントは目を疑った。高飛車な声の主は、妻を魔女だと訴えた夫人だった。黒のドレスで一見夫の喪に服しているようにも見えるが、大きな宝石をあしらった装飾品や派手な扇が、彼女の心情を表しているように感じられた。
「何か問題でも?」
「い、いえ!何も問題ありません」
「存じ上げませんで、失礼いたしました!」
町の有力者が相手となるや、二人の職員は即座に態度を一変させる。そして余計なことに関わるまいと、彼らはそそくさその場を離れていった。それが合図だったかのように、周囲の人々もぞろぞろと引き上げていく。
一転して静かになった処刑場で、ブラントは夫人と対峙する形になった。どちらも口を開こうとしない。
ブラントにとって、殺したいほど憎い相手だった。窮地を脱したことは事実だが、思うのは屈辱でしかない。何故彼女は自分の前に現れたのか。今更情が湧いたとでもいうのか。かっと全身が熱くなる。もし妻への償いのつもりだと言ったなら、理性をかなぐり捨て、殴りつけていたかもしれなかった。一生かかっても、許せるわけがないのだ。
しかし彼女はどの予想も裏切り、ブラントの背後にいるセレーナへ微笑みかけた。
「恐かったでしょう?もう大丈夫よ」
笑みが広がり、歪んだものへと変わる。
「悪い魔女は、もういなくなったから」
ブラントが動く前に、セレーナの鋭い声が飛んだ。
「あなたが殺したの?」
その目は確信と憎悪に満ちていた。ブラントは失いかけた理性を何とか取り戻し、前に出ようとしたセレーナを押し戻した。
あの女をこれ以上喜ばせてはいけない。こちらが怒りを露にすればするほど深みにはまるのを、気づいたからだった。
しかし思いは届かず、セレーナはめげずに食ってかかろうとする。案の定夫人は楽しげに毒牙をむき出した。
「まあ気の強いこと。けれど綺麗な子ね。どちらもあの魔女にそっくり」
「そんなに醜く笑うのが人間なら、私は魔女でいい!」
「やめるんだシェリー!」
「ふふ。将来が楽しみね。どんな最期になるかしら」
「やめろ!」
堪え切れなかった叫びは、鼻で笑われただけで力を失い、錆付いていく。
どこからか二人の男が現れ、夫人を守るように立ちはだかっていた。最初から手配していたのだろう。もはや怒りすらわかなかった。
「もう行くわ。またね、シェリーちゃん」
夫人はひらひらと手を振り、男達を従えて去っていった。ブラントは為すすべなくその背中を見送った。
火の爆ぜる音だけが、唯一沈黙を裂いて時の経過を告げている。マリアの身体はすっかり焼き尽くされ、辺りは強い臭いがたちこめていた。
セレーナもまた、処刑台を向いていた。目から一筋の涙が流れこぼれ落ちるが、それを拭おうともしない。
「シェリー。もう帰ろう」
しかしセレーナはきっぱりと首を振る。その頑なさに、ブラントの内心で抑え切れない苛立ちが募っていく。
「言うことをききなさい。母さんはもういないんだ!」
「いる!」強い口調で、セレーナはきっとこちらを睨みつけた。「まだあそこに、いる。お母さんをおいていけない」
ブラントは唇を噛み締めた。どんな姿になっても、母が戻ってくることはない。現実には、墓に埋葬すらしてやれないのだ。
マリアはこの後、歴代の受刑者達と共に、共同の墓穴に入れられる。せめて遺体は引き取らせてほしい、という思いだったが、セレーナの前でそれを訴え、目をつけられる危険は冒せなかった。約束したのだ。自分は子ども達を守るのだと。
しかしセレーナの思いもまた、決して曲げる気のない、強いものだった。敵意さえ感じる目つきが、それを裏づけている。どうして母を助けに行かないのか。なぜ、見殺しにしたのか。真っ直ぐな瞳が訴えかけてくる。
ブラントは思わず、彼女から眼を背けた。娘の前で、堂々と胸を張れる自信がなかった。何もできなかった、という思いが、じくじくと心を蝕んでいく。
そのとき、セレーナがぱっと踵を返した。処刑台に向かって走り出すのを、ブラントは寸前で捕まえた。恐ろしい瞬発力だった。あと一瞬でも遅れていれば、手は届かなかっただろう。
「離して!」セレーナは力の限り抵抗する。「お父さんじゃないんでしょ!」
感情が一気に凍りつく。気づいたときには、手を上げていた。
ぱん、と乾いた音が響く。セレーナは唇を噛み、痛む部分に手を当てる。白い頬が、ほのかに赤くなっていた。
「帰るぞ」
か細い腕を掴み、ブラントは強引に歩き出す。背後に審問官の視線を感じたが、振り向くことはできなかった。家に着くまで、二人は一言も言葉を交わさなかった。
家に帰ると、長女ルイーダと弟のディアスが、不安げな顔で出迎えた。
「シェリー!急にいなくなるから、心配したのよ。どうして勝手に――」
ルイーダはそこまで言って、はっと口を噤んだ。セレーナは唇を噛んだまま、黙って俯いている。
マリアの処刑が今日行われることを、ブラントは子ども達に伝えていなかった。彼らをこれ以上、傷つけたくなかったからだ。このような事態になるのを恐れていたのに、セレーナの性格は充分わかっていたはずなのに、阻止できなかったのが悔やまれてならなかった。
ブラント達の様子を見て、ルイーダはすぐに事態を察してしまった。
「会ったの……?お母さんに」
震える声で尋ねる。セレーナが小さく頷くと、ルイーダはその場に崩れ落ちた。顔を覆い、声を上げて泣く。
「ねえ、パパ」ディアスが、ブラントのシャツの裾を引っ張る。「ママはいつになったら帰ってくるの?」
ブラントは屈んで、ディアスと視線を合わせた。状況が理解できないなりに、彼もまた不穏な空気を感じ取ったようだった。五歳になったばかりのあどけない顔が、不安に包まれている。
「ママはね、しばらく帰ってこられないんだ。パパと一緒に、いい子にして待っていよう」
「うん……でもどうして、お姉ちゃんたちはあんなに泣いてるの?」
ブラントは無理に笑顔をつくり、ふざけた調子で言った。
「二人とも寂しいんだよ。女の子だからね。ディアは強い子だから、泣かないで我慢できるかい?」
「うん、わかった。ぼく泣かないで待ってるよ」
「そうか、いい子だ」
ブラントは息子を強く抱きしめた。しばらくはこのまま離せそうになかった。背後で、セレーナが階段を駆け上っていき、ドアが乱暴に閉められる。ルイーダのすすり泣きだけが、静寂を破っていた。
長い夜が、四人を覆っていく。この先陽が昇る日などあるのかと思うほど、全てが真っ暗だ。ただ一人、ディアスだけが、希望を捨てず、帰ることのない母を待ち続けていた。
処刑の日から数週間後。
「シェリー、おまえはコルドゥラ叔母さんの所へ行きなさい」
父が妹のセレーナにそう告げたのは、突然のことだった。これから叔母の家に引き取られることが、本人の意思とは関係のないところで、すでに決まっていたらしい。
親戚とはいえ、ルイーダ達姉弟は一度も叔母に会ったことがなかった。なぜならその家は、国境を隔てた神聖ローマ帝国にあったからだ。
「どうしてシェリー一人を行かせるの?かわいそうだわ」
何も反論しない妹の代わりに、ルイーダは必死で庇おうとした。しかし父は「仕方ないんだ」と言い訳のように繰り返すばかりだった。
セレーナは母の処刑以来、ほとんど何も語らない。思い出すのは辛いだろうと、ルイーダも自分の気持ちを抑え、あえて訊かないでいた。しかし涙すら流さない姿は、見ているこちらの胸がつまり、泣きたくなってしまう。
「叔母さんの家に行くの、嫌だったら言っていいのよ。私も味方してあげるから」
出発の日も迫ったある日、ルイーダは堪らずそう言っていた。しかしセレーナは、きっぱり首を振った。
「わたしのこと、早くいなくなってほしいんだと思う。姉さんとディアがいれば、それでいいの」
「そんなことないわ、きっと何か理由が――」
「もういい!何もわからないくせに!」
完全な拒絶の刃が、胸に刺さる。妹との間には、もはや大きな壁が隔ててあることを、ルイーダはこのとき思い知らされたのだった。
数日後。セレーナはほとんど別れの言葉を交わさないまま、家を出た。
しかし新しい生活も、そう長くは続かなかった。数ヵ月後には、彼女が家を出て行ったまま帰ってこなくなったと、叔母から報告があった。内容は実に素っ気無いもので、どうして家出に至ったのか、詳細はわからなかった。ただ以前から、夜中に度々悲鳴をあげることがあったと、末尾の方に記されていた。きっと母の死が受け入れられず、パニックを起こしたのだろう、とも。
胸がすりつぶされそうな思いだったが、ルイーダにはどうすることもできなかった。国境を越えた先はあまりに遠く、広大だった。
「必ず戻ってくるさ。シェリーは強い子だ、辛くてもきっと立ち直る。コルドゥラおばさんも、心当たりをいろいろあたってくれるそうだ」
父が励ますように言うものの、その言葉はどこか空虚に感じられた。何より父自身、不安を隠せないようだった。ルイーダ達の前では気丈に振舞っていても、暗闇で一人頭を抱えている姿を、ルイーダは見かけたことがあった。息苦しいほどに胸が痛む。もし自分達がいなければ、父は家を飛び出し、セレーナを捜しに行くのだろう。かといって留守の家を任せられる人がいないので、全員で行くにも無理がある。八方塞がりの中何もできない父を、責めることなどできなかった。
その後家族の間で、セレーナの話題はさりげなく避けられるようになった。ルイーダは心の隅に罪悪感を抱えながらも、妹の無事をひたすら祈り続けるしかなかった。これも神の定め、運命なのだと、言い聞かせながら。
暗闇の中、セレーナは膝を抱え、身震いをした。着の身着のままで飛び出してきたため、全くの手ぶら状態だ。
最初の頃は、迷子になったのかと声をかけてくる大人もいたが、だんだんと汚れが目立ち、匂いを発するようになると、今度は嫌な顔をして避けられるようになった。
食料は店先に並んでいるものを、適当に調達した。初めての盗みには緊張したが、足の速さが功を奏し、すっかりお手の物になった。おかげでゴミを漁るようなことは、あまりしなくて済んだ。
あてもないままさまよい歩き、陽が沈めば、樹上や屋根の上で、束の間眠りにつく。以前から高い所が好きで、一人でいたいときなどによく登っていたため、一番安心できるのだ。そして朝になると、陽の光を避け、また薄暗い路地へと入っていく。
そこでは時折、セレーナよりずっとぼろぼろの衣服を纏った浮浪者がいることもあった。最初は気だるそうにこちらを見遣るが、すぐに関心を失い、自分の世界に引き篭もる。何もせず、呆然としている彼らの目は、とうに死んでいるかのように見えた。
セレーナは一人、冷たい壁にもたれ、座り込む。抱えた膝に顔を埋め、目を閉じる。何も見ないように、何も感じないように。
あの親子に出会ったのは、そんなときだった。
二人の後姿が強く印象に残っている。手を繋いだ母と子の背中。セレーナにとって、この世で一番見たくないものだ。
母親の方は、苛立ちしか残らない中途半端な優しさを残して、そそくさと立ち去って行った。あのとき少年は、一度だけこちらを振り向いた。そして何かを言いかけた。一体何を、と一瞬でも考えた自分が嫌になる。聞いたところで、希望などきっとどこにもないのに。
「よかった、まだここにいた」
不意にすぐ側から声をかけられ、セレーナは驚いて振り返った。そして目を疑った。目の前には、まさにあのときの少年が立っていた。おどおどしながらも、にっこりと笑顔を浮かべる。
少年の意図が掴めず睨みつけていると、彼はズボンで掌をぬぐい、再び話しかけてくる。
「あの……何か、悲しいことがあったの?」
「どうしてそんなこと訊くの?」
「昨日、君が泣いてるように見えたから――」
「泣いてない」
セレーナは即座に言い返す。
強がりなどではなく、涙を零した記憶などなかった。母を失ったあの日から、泣き方も笑い方も、どこかに置いてきてしまったから。
「わかったら、もういいでしょ。――行って」
少年は途方に暮れた顔つきをしているが、なかなか立ち去ろうとしない。そしてなおも食い下がる。
「えっと、僕にできることがあれば、力になってあげられないかなって思って」
セレーナは少し考えた後、少年の前にさっと手の平を差し出した。小首を傾げる彼に、きっぱりと言う。
「それなら、お金をちょうだい。わたしはあなたと違って、お母さんいないの。ひとりぼっちなの」
「そう、だったんだ……」
哀れむ表情は、こちらをさらに苛立たせるだけだった。が、少年は申し訳なさそうに続けた。
「ごめん、でも今日はあんまりお金を持ってないんだ。これだけじゃあ、きっと足りないよね」
そう言って革袋から取り出したのは、数枚の銀貨だった。その手をおずおずと差し出す。全部で五枚。これだけあれば、一週間は食べものに困らないだろう。
母親が金貨を落としていくだけはあって、少年の家庭はかなり裕福のようだ。
セレーナは少年の手から、素早く銀貨を取り上げた。
「どうもありがとう」
形ばかりの礼を言い、さっさとポケットに入れてしまう。
「あの、もしまだ足りなかったら、もう一度家から持ってくるよ。少しここで……」
「もういらない」
セレーナは早口で、少年の言葉を遮った。
いくらもらおうが、もう二度と会いたいとは思わなかった。
「でも、これからどうするつもりなの?」
「関係ないでしょ」
これ以上話すことはないのだと、くるりと背を向ける。
「じゃあ、家においでよ」
思いがけない一言に、セレーナは思わず振り向いてしまった。
少年は彼女の剣幕に驚きながらも、相変わらずにこにこしている。
「……わたしが何者か、聞いてないの?」
「魔女だって、お母さんは言ってたよ?それって本当?」
「そう、わたしは魔女」
「じゃあ、何か特別な力を持っているの?」
少年の素朴な疑問に、セレーナは衝撃を受けた。
彼女が生まれ育った町では、同じ年頃の子どもなら、魔女がどれほど恐ろしいものか、皆が親から聞いて知っていた。迂闊に近づくと呪いをかけられる、という脅しを、近所の子達は愚直に信じていたものだ。
実際のところ、異端審問が行われる頻度には、国や地域によって大きな差があった。セレーナの町のように頻繁に行われているところもあれば、現在のネーデルラントのように、年に一度あるかないかのところもある。少年が魔女の存在にぴんとこないのも、ここではごく普通の反応なのだが、セレーナには全く理解できないことだった。
「もう一度、お母さんに聞いたほうがいいと思う」
そう言って、今度こそセレーナは背を向けた。
「あ、待って!」
少年が慌てて呼び止めるが、構わず歩き続ける。
「明日もまた、会えるかな?」
――話にならない。
そう思っているのに、足は意に反して動きを止めてしまう。胸の内が、わけもなくざわざわする。
「僕はヨハネス・ヴァイヤー。君の名前も、聞いていいかな?」
「……セレーナ」
「ありがとう。また明日ね、セレーナ!」
セレーナは黙ってその場を後にした。少年がずっと見送っているのを感じたが、最後まで振り返らなかった。あの笑顔をもう一度見れば、心のざわつきが大きくなってしまう気がした。あんなに真っ直ぐ笑いかけてくれたのは、本当に久しぶりだったから。
曲がり角を曲がったところで、足は勝手に駆け出していた。無茶苦茶に路地を突っ切り、何度か人にぶつかりながら、それでも足を止めなかった。しかしどうにもできない感情は、どこまで走っても振り払うことなどできなかった。
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