暗黒の空にひとすじの光を

志田 凪華

1

 彼女は、ひとすじの光を捜し求めていた。

 彼は、ひとすじの光を護るため、戦う決意をした。

 そして僕は、彼らと出会ったあの日、暗黒の空にひとすじの光を見た。



 ある日曜の午後。賑やかな街並みを、母親と少年が手を繋いで歩いていた。少年は、週に一度の教会でのミサを終え、軽やかな足取りだった。手を離せば、今にもスキップしてどこかへ行ってしまいそうな勢いだ。

 少年が母親を見上げ、楽しげに話しかける。

「お母さん、今日はね、神父様のお話ちょっとだけわかったよ!」

「そう?どんなところ」

「あのね――」

 少年が一生懸命話すのを、母親は微笑みながら相槌で応える。そして「ちゃんと聞いてて偉いわね」と小さな頭を撫でてやる。

 すると少年は満面の笑みを浮かべ、その場でぴょんぴょん飛び跳ねた。親子にとっての今日は、穏やかで、幸せな一日となるはずだった。

 しかし、少年がふと足を止めたことから、わずかな狂いが生じる。小さな手が、路地の暗闇を指差す。

「お母さん、あそこに女の子がいるよ」

 母親も足を止め、目を細めて路地の奥を窺った。暗闇に目が慣れてくると、たしかにそこに、一人の少女がいた。ゴミ箱に寄りかかり、膝を抱えて座っている。以前は白かっただろうワンピースは、すっかり汚れてしまっていた。顔は膝に隠れて見えず、眠っているのか身動きもしない。

「ひどい世の中ね。まだ幼いのに。――ヨハン、少しここで待っていなさい」

 少年を残し、母親は一人細い路地に入っていき、少女の側に屈みこんだ。長いドレスの裾が、隅の小さな水溜りに浸かり、薄黒く染みをつくる。彼女は視界の端でそれを捕らえたが、大して気にすることなく、こんにちは、と声をかけた。

 少女は顔を膝の間に埋めたまま、何も答えない。ただ近くで見ると、彼女は小刻みに震えていた。いつからここにいるの?歳は?名前は?何を尋ねても俯いたままだ。

「恐がらなくていいのよ。もう大丈夫――」

 母親が震える小さな肩に、手を置いたときだった。

「触らないで!」

 ぱんっと鋭い音を立てて、手が払われる。母親は驚いて少女を見返した。少女は鋭い目つきで、彼女を睨みつけていた。

 その顔は、恐ろしいほどに整っていた。くっきりとした目鼻立ちに、透き通るような肌。見事に流れる金髪。まるでどこかの絵から飛び出してきたかのような、幻想的な雰囲気さえ感じられた。

「助けるのは、人間だけでしょ?」

「――え?」

「魔女は、殺そうとするんでしょ?」

 はっと母親が息を呑む。先程までの穏やかな表情が、途端に強張る。すぐさま立ち上がり、少女を避けるように、後ずさった。

 そのまま立ち去るかに見えたが、母親は少女から視線を外し、鞄から革袋を取り出した。じゃらりと重たげな音がする。彼女は震える指で、硬貨を何枚か取り出し、それを差し出そうとする。しかし震えが手首まで伝わり、硬貨は少女の手前でばらまかれた。少女は黙って、散らばったお金を見つめる。

「それで好きなものを買いなさい。だからお願い。私たちのことは忘れてちょうだい」

 母親は震える声でそう言うと、忙しなく周囲を見渡す。。周りに人の姿はなく、通りを歩く人々も、こちらを気にする風ではない。少年だけが心配そうな顔で、二人の様子を覗っている。

 母親は少年に駆け寄り、手を握って足早に歩き出した。

「ねえ、あの子は置いていくの?助けてあげないの?」

 引っ張られるように歩きながら、少年が戸惑いの声を上げる。母親は答えない。ただ一刻も早く、この場を離れたい一心だった。

 そのときだった。母親にとって、恐れていた事態が起きた。

「ほら、やっぱり!」

 少女の声が通りに響く。周囲の人々は不審な顔で、彼女を遠巻きに見物し始めた。少年も気になり、後ろを振り向こうとする。

「見てはダメ!」

 母親は少年の手を強く握り締め、小声で、しかし有無を言わさぬ口調で止めた。

 少年は初めて聞く声に、一瞬肩を震わせ、恐る恐る母親を見上げた。彼女に少年を見返す余裕はない。真っ直ぐ正面だけを見据え、口を真一文字に結んでいる。ただ握った手の震えだけが、彼女の隠しきれない感情を、少年に伝えていた。

 理由も、今の状況さえわからないまま、少年は口を噤む他なかった。一方少女の声は、次第に迫ってくるように感じられた。

「お金なんかいらない!わたしが欲しいのは、そんなんじゃない!」

 親子は強く手を握り、ひたすら先へと歩き続ける。

「絶対に許さないから!人間なんか、皆死んでしまえ!魔女がどれだけ恐ろしいか、わたしが思い知らせてやる!」

 ついに我慢できなくなった少年は、気づかれぬようそっと後ろを振り返った。そこには、自分と同じ歳ぐらいの少女がいた。こちらに射抜くような視線を向けている。両手は誰に握られることなく、それぞれ硬く握り締められている。口元が、微かに歪む。

「泣いてる……?」

 そう言いかけて、少年は口をつぐんだ。そして少女から目を背け、二度と振り返らなかった。これ以上、母親を悲しませたくなかったからだ。

「魔女狩りが、もうここまできているのね……」

 母親の呟いた意味を、少年はまだ理解できなかった。魔女という言葉を聞いたのは、今日が初めてだったのだ。

 彼の名はヨハネス・ヴァイヤー。一五八四年、神聖ローマ帝国のネーデルラントで生まれ育ち、現在八歳を迎えようとしていた。

 そしてこの時代、続く災害に田畑は荒れ果て、多くの国が飢饉に苦しんでいた。しかし国同士の争いが絶えることはなく、依然あちこちで戦闘が起き、人々は為す術もなく、ひたすら神に祈りを捧げた。 

 神の存在は一層その重要さを増し、宗教が力を広げていった。重要な位置を占めた教会、そして権力を持つ王達は、苦しむ人々に怒りをぶつける対象、憎むべき『魔女』へと焦点を向けさせた。それは正式に『異端審問制度』と名づけられた。魔女は神を信仰しない異端者であり、人類共通の敵だった。

 この『異端審問制度』により、新たに異端審問官という役職がつくられ、各地に異端審問所が設置された。彼らは神の名のもとに異端者を特定し、各自の判断で処罰する特権を与えられていた。

 魔女たちは数々の災いの元凶とされ、多くの者が処刑台へ送られた。『魔女』となる正式な基準は何なのか、どのぐらいの人数がいるのかを知る者はいない。あらゆる者が疑われ、人それぞれの感情が噂を増やしていく。

 こうして人々には新たな恐怖が生まれた。後にこれが魔女狩りと呼ばれ、暗黒時代の幕を開けることになる。

 ある王は異端審問を推奨し、こう宣言したと言われている。

「魔女の疑いがある者は、全員殺せ!なぜなら、その判別はあの世で神がなされるからだ!」

 そしてヨハネスはその後、この異端審問に大きく関わっていくことになる。

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