ディアマン

七瀬葵

Diamant

 携帯の待ち受け画面を見て絶句した。

 『7月12日 16:28』と、無機質な文字が並んでいる。

 そうか、今日は君の19回目の誕生日だった……。

 今年の誕生日には、0:00ピッタリにメッセージを送るんだ!と決意したのは僅か2週間ほど前のことである。7月の予定を手帳に書き込んだ時に確認したのだ。なのに、それなのに、……。

 こんな夕方になって初めて気づいたと知られたら怒らせてしまうだろうか。それでも気づいたことぐらいは褒めてほしい。でも当然のことながらプレゼントは用意していない……。いや、こういうのはモノよりも気持ちが大事で……。

 そんなこんなで2分ほど 悩んだ挙句、LINEでメッセージを送ることにした。

『お誕生日おめでとうございます』『もう19歳ですね』『また1年、宜しくお願いします』

 ……もっと気の利いた台詞はないのだろうか。我ながら、彼女としてどうかと思う。最後の一文なんて、年賀状か!と突っ込まれそうなものだ。

 しばらく画面を開いたままで眺めていたが、既読がつくことはなかった。


 彼は同じ高校の2つ上の先輩だった。成績優秀な陸上部のエースという派手なポジションにいた彼は、私が入学したときには既にかなりの有名人であった。「正統派イケメン」といわれるくらいには顔もよく、女子人気も高かった。

 そんな遠い世界にいた彼と、同じロックバンドが好きという理由で意気投合し、恋人同士にまでなったことは、本当に不思議な巡り合わせとしかいいようがない。

 付き合い始めたのが私が高校1年の秋。そういう関係になったときにはすでに彼は受験生だった。2人で遊びに行ったりすることはほとんどなかったが、一緒にお昼を食べて雑談をしたり、塾には行っていなかった彼と図書館で勉強したりした。こんなに大事な時期に私なんかと会っていて大丈夫かと心配した時期もあったが、そんな心配を他所に、彼は超難関国立大学に現役で合格した。

「春からはあんまり会えなくなるけど、電話もLINEも、いつでもしてな。そんな遠くにいるわけでもないし、時間作って会いに来いよ」

「はいはい。華の大学生ライフ、エンジョイしてくださいね。あ、でも浮気はしないでくださいよ」

「うっわ、ひでぇー。俺ってそんなに信用ない?」

「顔も性格もよくて頭もいい人を信用するのは、無理というものです」

「……褒めてんのか貶してんのかわかんねぇよ」

 そういって、2人で笑いあう。彼の明るい笑い声が、今も耳の奥に残っている。


「……会いたいよ」

 会えなくなってから、その人の存在が自分の中でどれだけ大きなものだったかを思い知った。優しい笑顔も、ときどき見せる疲れた顔も、走っている姿も、熱心に勉強している姿も、下手なのに必死な気遣いも、全部が愛おしく感じる。もう私のいるところからは見えなくなってしまった。

「会いたい」

 もう一度、小さく呟くと、ほとんど無意識に立ち上がり、鞄を掴んで家を出た。


 家の近くの駅から各駅停車で20分。あとは10分も歩けば彼の実家に着く。もう迷うこともなかった。だいぶ日が長くなったなぁなどと考えながら、小学生の走り回る住宅街を歩き、その家の呼び鈴を鳴らした。

「はーい。……あら、はなちゃん」

 出迎えてくれたのは落ち着いた雰囲気の女性――、彼の母親の陽子さんだった。

「突然ごめんなさい」

「いいのよ。なんとなく、来るような気がしてたの」

 そういっていたづらっこのように微笑む。彼同様、この人もなかなか鋭い人だ。

「あがって。暉に会っていって」


「暉」と書いて、「ひかる」と読む。そう自己紹介された時にはとっくに知っていた。なんせ相手は学校イチの有名人ある。校長のフルネームを知らない生徒は多いが、その名前を知らない生徒はほとんどいないんじゃないかと思った。付き合うよりも前のことだ。

 でも、彼にとってそんなものはどうでもよかったのだ。自分が決めたものを大切にし、自分で選んだ強さを貫く。周りを引きつけていたのは、彼のそんな魅力なのだと、知ったから惹かれたのだ。


 陽子さんについて、リビングを抜け、畳の部屋へと足を踏み入れる。

 彼女に促され、座布団に正座すると、彼と目があった。

 彼は、暉くんは、笑っていた。

 白い歯を見せて、眩しい笑顔で。明るい笑い声が、すぐそばで聞こえそうな、そんな笑顔で。

 写真の中の彼は、一緒に過ごしたときのままだった。本当に、何も変わっていない。

 陽子さんがマッチを擦って蝋燭に火をつけてくれた。

 何も言わずに彼女に軽く頭を下げ、手を合わせ、目を閉じる。言葉に出さずにいう。

『遅くなってごめんなさい。お誕生日おめでとうございます』

 本当はわかっていた。あの誕生日メッセージに既読がつく日はもう来ない。


 彼が死んだのは、進学が決まって間もなく。引越しの準備のために東京へ向かう途中のことであった。

 その日は、朝から冷たい雨が降っていた。

『じゃあ行ってきます。っていっても、明日の夜には帰るけど』

「いってらっしゃい。お土産待ってます」

 そう電話した後、私は音楽を聴きながら数学の課題をやっていた。普段は静かに勉強することが多いが、彼はきっと、バスの中で大好きなバンドの曲を聴くのだろうと予想できたから、なんとなくアルバムをラジカセで流したままにして聴いていた。

 彼の乗った高速バスは、雨が原因で起こった土砂崩れに巻き込まれた。乗客は全員死亡、高速道路を走っていた周辺の乗用車も同じように死者を生んだ。

 お昼のニュースでそのことを知り、「まさか」と思いながら彼に電話を掛けた。しかし、どれだけ待っても呼び出しのコールが続くだけで、相手は出なかった。それでは受け入れられず、LINEにメッセージを入れて返事を待った。

 同じ日の夜には、彼は死んだのだと知った。


 思ったほどのショックはなかった。涙も出たし、食欲がない日もあった。でも、数日のことだった。

 それよりも、呼吸をする度に感情が溶け出していくような感覚と、深い喪失感に取り憑かれた。自分が生きているのかが、よくわからなかった。彼の人生と一緒に、自分の時間も止まってしまったのではないか。ぼんやりとした意識の中で、そんなことを考えていた気がする。

 わかっていた以上に、彼は自分にとって大切な存在だったのだ。 


 どれくらい時間がたっただろうか。後ろで足音が聞こえて目をあけると、陽子さんがリビングからこちらを見ていた。

「はなちゃん、座って。お茶がはいったわ」

 足が痺れて上手く立ち上がれなかったが、陽子さんに悟られないよう平然を装う。リビングのテーブルに置かれたティーカップの前に座る。

「いただきます」といって、紅茶に口をつける。……美味しい。

「はなちゃん。実は貰って欲しいものがあるんだけど」

 陽子さんはそういって向かいの席に座った。手には、白く塗られた木彫りの箱を持っている。それを私の方へと差し出した。

「なんですか?」

「暉の部屋で見つけたものなの。開けてみて」

 木箱を手に取り、蓋を開ける。ねじの付いた小さな箱が埋め込まれ、その横に二つ折りになったメッセージカードが入っていた。

「オルゴール……ですか?」

 陽子さんがこくりと頷いた。背中に冷たいものが走った。


 暉くんが死んで、出来なくなったことがある。

 それは、彼と私の好きだった、あのバンドの曲を聴くことだった。

 意識して避けていたわけではない。けれど、何となくあの日からCDを手に取ることがなくなり、気づけば、聴かなくなってしまった。一度、テレビ番組でライブの特集をやっていたのを見かけたが、曲が流れたときに思い出してしまった。彼の声、彼の笑顔、2人で好きだと話し合った、あの時間のことを。

 とても耐えられなかった。彼の存在と一緒に、出会ったきっかけになったあの曲たちを、2人で共有した大好きなものを、自分の中から消してしまいたかった。

 

 メッセージカードを開くと、彼の、流れるような勢いのある字が並んでいた。

『羽奈へ

 たくさん応援してくれてありがとう。

俺は俺で、新しい場所で頑張るから、羽奈も頑張れ!

また会おうな』

 とても短い、彼らしい、温かい文章だった。

 手紙の中で並んでいる文字たちが、歪んで見えなくなる。――違う、私が泣いていたのだ。

 彼の言葉に背中を押されるように、震える手でゆっくりとねじを回す。

 

 一音、また一音と、オルゴールが音を奏でる。優しい、とても優しい、刺さるような音だった。

 どこで入手したのか、それは彼の一番好きだった曲だった。

 

 もしもあの日、彼があのバスに乗らなければ。

もしもあの日、雨が降らなければ、土砂崩れが起きなければ。

 もしもあの日、彼のバスがもう少し遅れていれば。

 彼は今でも、生きていたのだろうか。

 たくさんのもしもが、ずっと頭の中で渦巻いている。それと同時に、数えきれないほどの後悔が。

 もっと素直に話せばよかった。

 もっと一緒に過ごせばよかった。

 もっと、好きだといえばよかった。

 もっと、もっと、もっと……。


 けれどそんな後悔には、なんの意味もない。

 彼ならきっというだろう。「大切なのは、今なんだ」と。


 生きなければいけない。彼にはもうない、『今』という時間を。どんなに後悔しても嘆いても、決してその人は戻ってこない。だからせめて、彼の残したものと共に、必死で生きるしかない。

 オルゴールは手の中で、短いフレーズを繰り返していた。


「……寂しいです、すごく。彼がいなくなって、自分の半分を失ったみたいでした」

「…………」

 陽子さんは何もいわず、真っ直ぐにこちらを見つめている。

「だけど、彼が『頑張れ』っていうから……、私はまだ、頑張って生きないといけないんだと思います」

「……うん、私もそう思うわ」

 上手く言葉がでて来なかった。

「それ、貰ってくれるかしら」

「はい、いただきます」

 

 もうない、もういない。

 だけど、決してなくなりはしない。

 歩かなければ、進まなければ。

 すぐには上手くなんかいかないだろう。それでも前を向いて生きなければ。

 

 陽子さんに挨拶をして、彼の家をでた。陽子さんは「いつでもいらっしゃい」といってくれたけど、もう大丈夫な気がした。

 辺りは暗くなっていた。広がる星空の中へと、一歩を踏み出す。


『頑張れ、羽奈。行ってらっしゃい!』


 彼の声が聞こえた気がした。

 もう、振り返らなかった。


「いってきます」

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ディアマン 七瀬葵 @kaoriray506

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