2
桜がもうじき散る頃になり江戸の人々は物悲し気な瞳で散り終わりそうな桜を見ている。私はそんな時でも光の当たらない薄暗い部屋で一人眠っていた。
母からは体を丈夫にしろと言われているがこうも毎日布団と重なり合っていたら丈夫な体にはならないだろう。せめて外に出て歩いたりしないと体力もつかないし体もどんどん弱っていく。
『思いっきって外に出てみようかしら・・。』
今日は家の中には古株の門下生・重兵衛しかいない、それに重兵衛は門下生でありながら父の事を慕っているあまり昔から家の手伝いをやってくれたりもする。
その重兵衛も今は道場の掃除を行っているので私の部屋を見に来る余裕はないだろう。
『少しくらい、いいわよね。』
布団から出て襖を開け廊下を見回すと部屋の中よりも薄暗くヒンヤリとしていて自分の家でも少し怖くなる。
廊下に出て裏口に回り外に出よう。そう思い御高祖頭巾を被り足早に裏口へ向かう。
ここで重兵衛に見つかったりしたら終わりだ、そう思い高ぶる気持ちを抑え裏口にたどり着く。
草履を履こうとしゃがんだ瞬間
『おいっしゅう!!出てきやがれっっ!!』
聞いた事のない声の男が思い切り戸を開け叫ぶ。
『きゃっ!』
驚き、顔を上げ叫ぶ男と目が合う。
綺麗なお顔。
最初の印象はその綺麗に整った容姿にそぐわない大声を出す怖い男の人。
見知らぬ男も私の姿を確認するなり驚いて謝る。
『うわっ!すっすいません、急に大声出しちまって』
『えっ、いえ、大丈夫です。それよりどうかなさいました?』
質問すると男は慌てて兄がいるか聞いてきた。兄がいないのを教えると綺麗に整った顔を盛大にしかめる。だがすぐに困惑した表情で訪ねてきた。
『あんた、ここの家の人か?』
『えっ?はい、私はここの道場の娘で修蔵の妹の≪みむら≫と申します。』
男はその答えを聞くなり目を瞠る。まじまじと私の顔を見て似ていない、本当に妹なのか?など一人でつぶやく。
『あの、貴方様は?』
『えっ?あぁ、俺はあんたの兄、修蔵のダチの≪よしむね≫って言うんだ、よろしくな』
『よしむね様?兄のお友達なのですか、申し訳ございません兄の話でもお聞きした事のないお名前で、知らぬとはいえ失礼致しました。』
深々と頭をさげると吉宗は慌てながら顔をあげてくれと頼む。顔をあげると意外にも近くに吉宗の顔がありなぜか体が熱くなる。
『全くしゅうに似てねぇな、本当に兄弟なのか?』
吉宗にたずねられ本当の兄弟でない事を話そうとした瞬間、息を切らし戸口に立っている兄に気づく。話しかけようとしたがそれを兄が怒声で遮る。
『お前たちっ!こんな所で何をしているんだ!それにヨシっお前の家で待ち合わせとぬかしておきながら何でここにいる!私の妹に何かしていないだろうな!』
兄がここまで怒る姿も取り乱す姿も初めて見る気がする。それよりも最後の私に何もしていないという言葉に引っかかる。
『お兄様、吉宗さまに失礼です!この方は何もされてもいませんし、たった今会ったばかりです。』
『そうだぜ、しゅう。それに俺がいつ自分の家で待ち合わせっつったんだ?俺はいつもの橋の袂で待っていたんだ。いつまで経っても来ねぇからこっちからわざわざ来てやったんだぜ?』
平然と言ってのける自分の友達に腹が立っているいるのだろうか、それにしてもいつもの兄ならここまで怒ったりはしない。不思議に思っていたら兄が見当違いな事を言いだす。
『そんな事はもうどうでもいいっ!お前が私の妹に会ってしまったのが一番問題なんだっお前の事だっ私の妹も食い物にする気だろう、この色魔野郎っ!』
『はぁあっ!?おい、しゅう!お前ダチの俺の事をそんな風に思っていやがったのか!』
『思うに決まっているだろう!自分の家が小間物屋だからといって店に来た綺麗な客と通じていたりするのを知らないと思っているのか!というよりお前自身が聞かせるんだろう!』
その事を聞いて前に兄が私に注意した時のことを思い出す。
《若い女の子を食い物にするやつだっているんだ!自分の容姿が並外れていいからって人の妹にまで何かするかもしれないやつだって・・≫
もしかしたらこの事は吉宗さまの事だったのかもしれない。訝しく思っていると吉宗も反論する。
『おいおい、しゅう。それは違うぜ、俺は商人の息子としてきちんと商売しているんだ。それなのに客の方がいい寄って来たりするからいけねぇんだよ、俺はただ懸命に商いを』
『みむらっ!今すぐこの男の傍から離れて一刻も早く忘れなさい!こんないい加減な男に私の妹がたぶらかされたりでもしたら・・』
『大丈夫だぜ、しゅう。俺は女を泣かせたりはしないからよ。』
『この間お前を慕っていた女の子を泣かせただろ!適当な事をぬかしてその気にさせておいてどこまで人の気持ちを踏みにじれば気が済むんだ!』
その事を聞かされた瞬間吉宗もばつの悪そうな顔をする。兄にしてみればそんな男に妹までたぶらかされてしまうのではないかという不安があるのだろう。
『お兄様、なにもそこまで』
『ほら、お前の可愛い妹も俺の事心配、いてっ何しやがる!』
修蔵が吉宗の襟首を引っ張り外に追い出す。吉宗を外に出すと思い切り戸を閉め心張棒をかける。外では吉宗が大きな声で騒ぎ立てる。
『みむら、早く自分の部屋に戻りなさい。御高祖頭巾なんて被ってまさか外に出ようと思っていたんじゃないだろうね?』
『・・・。体を丈夫にするためには外にも出ないといけないと思い。』
『どうせまた母上が何か言ったんだろう。気にすることはないから早く部屋に戻って布団に入りなさい。』
有無も言わせぬ兄のいい様に従わざるをえない。しぶしぶ部屋に戻りいつもの見慣れた場所に腰を落とす。久しぶりに外に出られると思っていたのに、と外に目をやるとほぼ葉桜になりそうな桜の木が目にはいる。
満開だった桜の木もすぐに鮮やかな色を落とし身をひそめる。自分も一瞬でもいいから桜の花のように満開に咲きほこれる様な鮮やかな思い出を作りたい。
そう思うとなぜか頭の中に会ったばかりの整った顔の口の悪い男が浮かぶ。
『吉宗さま、か。』
今はなぜそんな事が思い浮かぶのかは分からないが、時を重ねてその思いは淡く儚い桜の花の様になるとは思いもしなかった。
吉宗に初めてあってからひと月が経とうとしている。
初めて会った夜に修蔵が部屋に来て吉宗の事をみむらにたずねる。
『みむら、あの男の事をどう思う。』
『えっあの男とは吉宗さまの事でしょうか?』
『あぁ、そうだ。あの男に会ってしまったのだからお前がどう思っているのか私は聞いておきたい。何せあの顔だ、女からしてみれば悪く思うものなぞそういないはずだ。』
修蔵が厳しい顔でみむらにたずねる。みむらは確かに第一印象は『綺麗に整った顔』と思った、だがそれだけで特別な感情を抱いたりはしない。兄の心配性にも困ったものだと困惑していたのを察したのだろう修蔵が間髪入れずに問いただす。
『その感じだとあまり悪くは思っていないのだな?だが、甘いぞ。あいつはそういう心の隙間を付け狙ってくる男なんだ。』
兄の言い草に本当に友達なんだろうかと訝しく思う。友達を持ったことのない私がそんな疑問を抱くのはお門違いだろうが思わずにはいられなかった。
『お兄様、そんなに吉宗さまの事疑って。吉宗さまが気の毒です。』
『私はお前を案じているからここまで言うんだ!とにかくこれからはより一層あいつがこの家に近づかないように気を付けないとな。』
『吉宗さまがこの家に来たことなど今までになかったのでは?』
そうだ、私がここにいる間吉宗は一回もここには来ていない。もし来ているならば寝たきり娘が気づかないはずがない。そう思っていると兄がため息をつきながら話だす。
『それはそうさ。私はヨシがお前に会わないように必死でこの家に近づかないようにしていたんだから。苦労したものだ。』
『えっ、会わないようになど難しいのでは?私はずっとこの部屋にいるんですもの、どなたか訪ねてこられればおのずと』
『訪ねられないようにしていたからだ、待ち合わせも全て私の家以外にしている。そうでないとお前と鉢合わせになる率が高くなるだろう。』
兄の心配性は少し度が過ぎると思っていたがまさかここまでとは思わなかった。それにもし私に会っても吉宗が自分を好きになる率も考えているんだろうか。
『吉宗さまはお綺麗な方がお好きなんでしょ?私を好きになるとは考えにくいです。』
『いや、お前は私の自慢の妹だ。病弱だろうと器量よしで淑やかで慎ましく礼儀も正しい。あの男が狙わない訳がない!』
ここまでいくと心配性を通り越して兄が何か病気にかかっていないかと心配してしまう。みむらは頭が痛くなりそうなのを我慢し兄の話を長々と聞かされた。
『みむら、私は本日お琴さんの所に用があり出かけるが家には重兵衛さんがいるから安心するんだよ。それに今日はヨシも商いがあるとかで一日中家の中にいるからここに来る心配もないからね』
『えぇ、大丈夫ですよお兄様、そうご心配なさらずとも。』
兄の長い話を聞かされて1週間後、兄が密かに思いを寄せるお琴さんから文が届いた。内容は大事な話があるから五月一七日に家まで来てほしいという事らしい。
兄はその手紙を受けとって暫く落ち着かない様子だったが当日にはいつもの心配性の兄に戻っており安堵した。
『よし、では行ってくる。』
『はい、お気をつけて。』
兄を見送り重兵衛の元に向かう。重兵衛は年は四五歳で独り身である。なのでみむらの事を実の娘の様に可愛がってくれている。
『重兵衛さん、今日の昼餉は量を少なめにできますか?』
『勿論です。みむら様の部屋に後程お持ち致しますので。』
重兵衛に礼を言い部屋に戻る。今日は朝餉に兄が異様に張り切り大きなおむすびと熱々のお味噌汁と香の物をもって部屋に来た。浮かれるのはいいがここまでされたら流石に身が持たない。
布団にはいり半刻が過ぎた頃裏口で人の声が聞こえた。重兵衛がいるから平気だろうと思っていたがまたすいませんと一際大きな声が聞こえてきた。
重兵衛が厠にいるならば待たせるわけにはいかないと思い部屋を出て裏口に向かう。
廊下を進み裏口にたどり着いた途端。
『おっ!いたいた、久しぶり。』
ほぼひと月以上前に出会った男・吉宗が立っていた。
『よ、吉宗さま。どうしてこちらに?』
『どうしてって言い草はねぇんじゃねぇの?』
吉宗は口を尖らせて首の後ろを掻く。手には風呂敷を持っていたので商いの途中でここに立ち寄ったのだろうか?それならば修蔵は今はいない。その事を伝えようとしたら吉宗が先に話し出す。
『しゅうがいないのは知っているぜ?なんせ俺がここにいないようにしたんだからな』
『え?どうしてお兄様がここにいないのを?』
不思議に思い首をかしげる。その姿が面白かったのか吉宗の口元が微かに緩む。
『しゅうがいけないんだぜ?可愛い妹がいるのにずっと俺に内緒でいたなんてよ、だから仕返しに俺がお前の兄を罠にはめたんだよ』
内容もとても気になるがそれ以上に可愛いと面と向かって言われたことに恥ずかしくなり顔が赤くなってしまうのが自分でわかる。
『あれ?どうした、顔が赤いぜ。可愛いって言ったからか?色が白いからすぐわかっちまうな』
『ち、違います!私は別に・・』
図星だったのでますます体が熱くなり顔もほてってくる。そんな姿が面白いのか吉宗はニヤニヤしながら顔を近づけてくる。
『いいじゃねぇか、兄貴に似てなくて色が白くて目鼻立ちもしっかりしていて。』
兄や父、重兵衛以外の異性とここまで顔を近づける事が初めてて思わず手で顔を覆い吉宗に背中を向ける。
『私はお兄様の本当の妹ではありません!正式には従兄妹です。』
『へぇ、でも二人とも初心なのはそっくりだな。』
『お兄様は初心ではありません、道場の跡取りなんですもの。』
その答えがおかしかったのか吉宗は大きな声で笑う。兄がそれでも初心だといいたいのだろうか、相手の方へ振り返ると吉宗は笑いを堪えながらそういう意味ではないと答える。
『お前も兄貴も異性慣れしていないって事だ、どんな相手でもすぐに顔が赤くなる、本当の兄弟みたいだな』
『そ、そんな事は!』
違うと言おうとしたがあながち間違ってもいない。現に今も目の前の吉宗に対し顔が赤くなっているのが自分でもわかる。慌てて話題を変えようと兄がいないのを知っていた事について問う。
『どうしてお兄様がいない事をご存知なんでしょう?兄は私以外には誰にも申していないと』
『ああ、そのことね。お琴さんから文が届いただろ?あれは俺がだしたからだ』
『吉宗さまが文をお兄様にお届けになったんですか?』
『いや?俺があの文を書いたんだ、勿論俺を贔屓にしてくださってる娘さんに書いてもらったんだけどな。』
いけしゃあしゃあととんでもない事を口にするものだ、開いた口が塞がらないとはまさにこの事だろう。ぽかんとした表情で吉宗を見ていると更に話を続ける。
『お前とあったあの後に色々と聞き出したんだよ、お前が病弱であまり外に出られないとか友達もいないとか、まぁそのくらいしか教えてもらえなかったけどな』
兄の事だ、きっとそれ以上は話したくなかったはず。だがそれと兄とお琴さん、吉宗が今ここにいる理由が飲み込めない。
『だったら本人と直接話して素性を知ろうと思ったまでよ、お前の兄貴には悪いけど今日お琴と会う約束は全てデマって事』
『えっ⁈嘘だったのですか全て!』
さも当然というように吉宗は大きく頷く。兄はあれだけお琴さんと会うのを楽しみにしていたのに、一人で悩んでいると吉宗が草履を脱いで家に上がる。
『え、あの兄は本日いないのでこちらに用は』
慌てて吉宗を止めようとするが吉宗はその対応が気に食わなかったのか盛大にため息をついてみせる。
『全く、本当兄弟揃って感が鈍いというか、今日はお前に用があってきたんだよ、だからお邪魔しますっと。』
『私に用が?何の御用でしょう?』
『まぁまぁ、とりあえずここじゃなんだ。部屋まで案内してもらおうか』
さらりと言ってのける吉宗に面食らうみむらだが、家族以外の男が自分の部屋に来るのはいささか不安を感じる。その感じを察したのかすぐに吉宗は言葉を続ける。
『しゅうの大事な妹だ、何にもしねぇよ安心しな』
『いえ、そんな事思っても。では重兵衛にお茶の支度でも』
『その心配はいらないぜ、今は重兵衛さんとやらは屋敷にいないから』
どうして?とたずねると吉宗はさっき外に出かけるのを見かけたから、としか教えてくれない。重兵衛がこちらに何も言わないで出かけるだろうか?と考えると吉宗は手を取り部屋に行こうと言ってくる。
初めて手を握られ驚きのあまり顔もおのずと強張る。だか吉宗と目があった時に優しく微笑まれ下を向いてまた顔が赤くなる。
吉宗はその反応も楽しみながらみむらの部屋へと一緒に歩いていく。
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