Track7:非国民的ヒーロー-6

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拳が炸裂したかしなかったのか、よくわからないうちにおれの視界は一瞬にしてブラックアウトした。巻き上げられる髪、引力に従ってGを受ける内臓。どうやら今度は、おれは暗闇の中を真っ逆さまに落っこちている最中らしい。


重力に任せて落下していると言うよりは、パラシュートでも装着しているかのようにふわふわと浮遊しながら降下している感じだった。もしかして、さっき足元に突然現れた謎の穴にでも吸い込まれたんじゃなかろうか? このままじゃあ地球の反対側に辿り着いちゃうわ。幼稚園児の頃に母親の趣味で観せられた、不思議の国のアリスのアニメ映画のワンシーンが蘇る。


アリスは確かまだ十歳の好奇心旺盛な美少女だったはずだが、おれはもうすぐ二十歳の好奇心旺盛な平均的男子だ。このまま落ちたところで、時計ウサギに遭遇する事もなければ真っ赤な女王様に裁判にかけられる心配もない。


まるで何かのカタルシスだかアポトーシスでも自己の内部で起きたかのように、今のおれには怖いものなど何もないような気さえしていた。このままこの得体の知れないウサギ穴を落ち続けて地球の反対側に飛び出してしまっても、ブラジルのバンドマンと対バン出来る気さえしてくる。

そもそもブラジルにはロックがあるのかしらとどうでも良い事を考えつつもあまりの暗闇の深さにちょっと恐ろしくなって、思わず自分の肩を抱いた。うーん硬い上腕二頭筋。確かにおれの腕だ。


そして同時に気づいた。左手に何かが触る。思わず右肩があるはずの方向に視線をやると、何故かそこだけスポットライトを浴びたようにぼんやりと光りだした。


光る右肩で、古着屋で五百円だったゴツいシルバーの指輪をひとつだけした短い中指がなぞっていたのは、リュックサックの肩紐……否、これはギターケースだ。おれは知らないうちに、普段愛用のテレキャスを入れているギターケースを右肩に背負っていたのだ。


おれはどうしても自分の解答を確認したくて、見えもしないのに身をよじって背中を確かめようとした。案の定何も見えない真っ暗闇の中でおれの身体だけがフィギュアスケート選手のようにくるりと半回転する。勢い余って頭から斜め下に縦回転しそうになった時、足元に何やら光るものを見つけた。


おれの右肩と同じように、そこだけ照明を浴びたように光るそれに目を凝らす。何やら棒状のものだ。先に丸い球状の物体が付属しており、全体的に白い。思い切ってギターケースを背負ったまま、身体の上下を逆さにしてパラシュートを足首に括りつけて宙吊りになったような体勢になってみた。ゆっくりと降下しながら、おれと一定の距離を保ったまま等速で落下するそれに手を伸ばす。


マイクだ。


今の事務所の社長に貰ったお下がりの専用マイク。本体からシールドまで真っ白にカラーリングされていて、絶妙にダサくて絶妙に洒落ている。おれはこいつをライブの時はいつも使っていて、いわゆる勝負マイクってやつだ。


その勝負マイクが何故か、物凄い勢いでシールドをはためかせながら落下していた。


拾わなきゃ、と思った。こいつはおれが拾わなきゃ。強迫観念のようなものが腹の底から這い上がってきて、おれは一心不乱に手を伸ばした。少しずつ狭まるおれとマイクの間の距離。指先がシールドに触れては離れる。掌に汗が滲んで、気化して冷えてかじかむ。


捕まえなくちゃ。今おれがこいつを捕まえなくちゃ。脳味噌の内側から、鼓膜を揺らすように何回も唱える。捕まえなくちゃ。おれがこいつを捕まえなくちゃ。でないと、でないと――――――。


人差し指と親指が細い本体に引っかかる。その一瞬のチャンスを逃すまいと、半ば強引にてのひらの中に収めた。獲物に食らいつく獣の口のように、力任せにしっかりと掴む。


しかしこれマイクの割に随分太いな。違和感を感じて暗闇の中よく目を凝らすと――――

さっき手にしたマイクだったはずの何かから、何故か人肌の温もりと穏やかなリズムを刻む脈を感じた。


そしてその向こうには、見覚えのある――――憎たらしい、スカしたあの微笑み。


おれはこの時察した。このウサギ穴は、“シェルター”の出口だったのだ。

そして一度掴んでしまった手首からは、手を離す事はもう出来ない。

何故ならおれは、いつかヒーローになるからだ。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




トンネルを抜けるとそこは、こいぬの木のふもとだった。


何を言っているのかわからねえと思うが世田谷区在住の方或いはおれと同様定期的にこの地へ通っている方ならおわかりになるかもしれない。下北沢駅南口を出て向かって右側の路地に入ると、わりかし大きな商業ビルがある。一階にダイエー系列のスーパー、上階にユニクロやらユザワヤやらが入っているこのビルの入口の、ちょっとした休憩にお薦めなベンチなんかが据えられた市民憩いの場的な空間にうやうやしく鎮座ましましているモニュメントが「こいぬの木」だ。


近代的でスタイリッシュな外観の飼い主たる駅前ビルに反抗するかのように、こいぬの木はぶりぶりの丸っこいKAWAIIカワイイフォルムでアスファルトの地面に力強く根を張り、青々と生い茂った葉部分からは同じく丸っこくて可愛らしいこいぬ達がランダムに顔を覗かせている。

まるで可愛らしいこいぬの姿をした世にも恐ろしい寄生虫が、絵本の世界の木をしろとして増殖を繰り返したような狂気のモニュメントだが、どうやら地元の子供達には意外と人気なようだし最近知ったけどこれあのリリー・フランキーがデザインしたシロモノらしい。知らんけど。


おれ達にとっては待ち合わせ場所としても馴染みのこいぬの木、通称「犬のところ」。普段は駐輪場として使われているが、地元のバンドがよく商店会のおっちゃん連だかお店の人だかに許可を取って路上演奏をしていたりもする。おれ達が初めて人前で演奏したのも、ここだった。


そんなこいぬの木が、何故か目の前にあった。


さっきまで深夜の下北沢一番街的なホログラムの中を無心で走っていたおれは、本日何度目かの瞬間移動に驚いてその場に立ち尽くした。しかも目の前のこいぬ達は夕暮れ時の橙色の陽の光を浴びて誇らしげにその丸い頬をつやつやと光らせており、どうやらおれがシェルターからの出口を必死に落下している間にすっかり夜が明けたようである。どんだけ日の出早いねん、最早日の入りやないか。因みにさっきまでケースに入った状態で肩に背負っていたギターはフェンダーのロゴ入りのストラップだけをまとい、今すぐにでも弾いてくださいと言わんばかりの姿でおれの腹の上に落ち着いている。


半開きの口のままこいぬの木を見上げてあっけにとられていると、ええっ、と言うマスオさんかとツッコミを入れたくなる声が聞こえて視線を下げた。愛用の赤SGを担いだフッちゃんが佇んでいる。


フッちゃんは整った横顔にひどく驚いた時特有の奥歯にものが挟まったような半笑いを浮かべて「ええっ」と念押しのようにもう一度呻くと、後ろを振り返ってまたええっ、とわざとらしく呻く。こちとら何で現実世界に置いてきたはずのフッちゃんがここにいるのかもわからんし何でそのフッちゃんがSGと一緒にいるのかもわからんし(しかもきちんとエフェクターやアンプに繋がった、いつでも演奏が始められる状態である)、真夜中のヴィレヴァン前で巨大な男根と共に途方に暮れていたはずのおれ達が何で夕焼けに染まったこいぬの木前でバンドセット組んでいるのか何もかもがわからないのでおれの方こそ「ええっ」なのだが、フッちゃんにつられて思わず振り返った背後を見ておれは更に驚くことになる。


完璧にセットされたドラムの前に、九野ちゃんがちんまりと座っていたのだ。


おれが九野ちゃんの名前を呼ぶのが早いかそれとも相手がおれを「組長!?」と呼ぶのが早いか、ほとんど同時に声を上げたおれ達は思わずドラムセット越しに互いの肩を掴んで存在を確認し合う。華奢な割にしっかりした三角筋、成程、本物の九野ちゃんのようである。


九野ちゃんは立派な三角筋を強張らせておれの肩を揺さぶりながら、おれが言葉を続ける暇も与えずに「ねえねえねえねえ!!」と半ば奇声のような悲鳴のような声で呼び掛けてくる。


「何ここ何これちょっとわけわかんないんだけど!? さっきまで明け方だったのに気づいたら夕焼け出てるし犬のとこ来てるし楽器あるし何これ!?」


心臓がミルクセーキになりそうな勢いで揺さぶられる、おれ。九野ちゃんのパニック具合はついさっきまで謎の精神と時の部屋にキヨスミ共々閉じ込められていた者としては心中察するがすまん、おれにもよくわからん。ドラマーの逞しい腕を掴んでなんとか自分のそれから引き離しながら謝罪の意を込めて首を左右に振ると、フッちゃんが最近第三次成長期でちょっと肉付きの良くなった顎に手を当てたインテリポーズで興味深い言葉を放った。


「もしかしたら、俺達もキヨスミの脳内映像を見せられてるのかもしれんなあ」


可愛らしく小首を傾げる九野ちゃんの鼻っ面に人差し指を突き立てたギタリストは、「俺達も取り込まれたんだよ、キヨスミの脳味噌のエラー症状に」とSFバトル漫画の解説担当キャラよろしく丁寧な説明をしてくれるが、聞かされている当のドラマーは首傾げぶりっこスタイルのまま「成程、わからん」とツイッタラーっぽい反応だし実際おれもよくわからない。


わからない事だらけのままながら、そう言えば、とおれは大事な事を思い出した。キヨスミだ。アイツは一体何処に行ったのだ。ついさっきまで確かにおれはシェルターからの出口であるところの真っ暗な穴の中を、アイツの手首をしっかり掴んだまま落っこちていたはずなのだ。


おれは反射的に右手の方を見た。勢い余ってしっかりアンプに繋がったセミアコのシールドを思い切り踏んづける。断線の恐怖と強烈な西陽に襲われながら、霞む視界越しに相手の顔を、見た。


いた。


いつもの鼈甲べっこう色のプレベ、デカいベースには不釣り合いな程に細く心細い黒スキニーの脚、ダボダボのワンピースのようなTシャツから覗く生っちろい手首、誇らしげに反り返ったトタンのような胸板。


緩やかな曲線を描く撫で肩から続く、針金細工のような長い首に、生暖かい風になびいたパサパサの金髪が絡みついている。


踊るように舞い上がる金糸の髪を、右手の指でピアス穴の五つ空いた左耳の後ろにかけながら、キヨスミはゆっくりとこちらを振り返った。


目が合う。


ヤツはまるで、おれがそこにいるのが当たり前であるかのように、綺麗に笑った。


首に刻まれた繋ぎ目の印はもうないし、若干色黒の肌は無機質に青ざめてもいない。黒糖まんじゅうみたいな丸い頬っぺたは寧ろ少し紅潮して、薄っすらと汗ばんでさえいる。


顔かたちさえ変わっていない相変わらず不細工に毛が生えた程度のそのご面相に浮かべられた微笑みは、しかしその時のおれの目にはひどく整って見えて、柔らかな情感を伴って吊り上げられた口角やゆったりと下がった目尻や、まつ毛のひさしに濃い影をつけられてふっくらと盛り上がった頬や金色の光を湛えて潤んだ黒目がちの両目やそのどれもが左右非対称である事が、その無秩序な美しさの全てが鼻の奥をツンと痛くさせて、全くの無根拠ではあるけれど、これはもう、こいつのこの笑顔はもう、ベーシストの笑顔ではないな、と直感的に思った。


これは、歌い手の笑顔だ。


息が止まったような永遠にも思える一瞬を味わったおれは不意に我に返った。目の奥でロケット花火のような閃光がチカチカまたたく感覚がある。その不思議な感覚に導かれるかのように、おれはドラムの前に座った九野ちゃんを振り返り、バスドラの上に登ってげきを飛ばした。


「九野ちゃん! カウント、頼んだで!」

「なっ、何の! どの曲の!?」


漫画みたいなリアクションだが当然の反応である。しかし今のおれは走り出したら止まれない暴走機関車のスーパーマンだ、おれを止めるためにはせいぜい空飛ぶマントを引き剥がして地の底に叩きつけるぐらいしなければ効かないだろう。そしてコイツ等は、そんな無情な真似は絶対にしてくれないとおれは知っていた。


「アレやアレ!」言いながらギターを背負い直し、いつの間に現れた白いスタンドマイク越しに目の前を通りすぎて行く人波を上目遣いに睨み付ける。


洋服屋のショーケースと、錆びたシャッターの「ゲームセンター ラスベガス」の文字。その前を行く、幽霊のように輪郭のくすんだパステル画調のオーディエンス達。


今からこの狂った回想の下北沢に、ヒーローの手による救いの歌を叩きつけるのだ。

大嫌いで、大好きな、あの歌だ。


「――――『ロベリア』」

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