七月二十七日 土曜日

 電話が鳴っていた。布団の上で横になっていた僕は手探りでスマートフォンに手を伸ばしたが見つからなかった。着信音はしばらく鳴り続けていたけれど、結局僕が電話に出ることはなかった。電気の点いていない部屋はぼんやりと明るい。蝉の声の代わりに雨音が聞こえていた。湿った風が強く吹いている。風鈴は荒れて、雨が草木を叩き、濡れ縁の先が濡れていくのを僕はぼんやりと眺めていた。

 雨に打たれる庭の奥に、暗い箱が見えた。それは僕の妄想に過ぎないのかもしれなかった。ヒタヒタと近付いてくる足音に僕は耳を澄ませた。足音は僕の枕元で止まった。僕は身動ぎひとつせず、座敷童もただ佇んでいるだけだった。奇妙な時間が流れた。この座敷童だって幻かもしれない。

 そもそも、僕の人生そのものが妄想で出来ているのかもしれなかった。たとえば僕はどこかの病室で眠り続けている患者で、これはすべて夢の中の出来事だ。自分ではこの夢から抜け出すことが出来ない。出口など見えないのだから。終わりなど、どこにあるのか。

 一際強い風が吹きつけて、僕の顔に雨の飛沫が飛んできた。睫毛の先に雨粒が光る。僕はひとつ息を吐いて目を閉じた。

 そうして五分ほど瞼の裏を見ていたが、ガサガサと草を掻き分けて進むような音に目を開けた。透明な傘を差した篤志が庭を歩いていた。僕は声を掛けるべきか迷った。気付かずに通り過ぎてくれていい。気付かないふりだっていい。

「リョウちゃん」

 篤志は僕が起きていることに気付いていた。

「台風」

 そう言われてはじめて僕は台風が近付いていることを知った。この雨も風も、台風の兆しだったらしい。篤志は古い雨戸をガタガタと閉ざしていった。部屋が夜のように暗くなる。廊下の灯りだけが僕の部屋を照らしていた。篤志が泊まりに来たのは、このためだったのだろう。雨音が遠のいた。


 昨夜から体調が優れない。曖昧な目覚めと浅い眠りを繰り返す。食べたものは夜の間に吐き出し尽くしてしまった。熱もなかったし、血を吐くこともなかったけれど、とにかく苦しくて起き上がることさえ難しかった。布団でぐったりと横になったまま、何も出来ずにただぼんやりとした時間だけが過ぎた。廊下の柱時計が午前十時を告げた。

 白湯と体温計を持ったマヤさんが部屋に入ってきた。僕は体温を測った。食欲を尋ねられたので、僕は頭を横に振った。空腹は感じていなかった。けれど何も食べずに過ごしても体調は回復しないように思えた。あとで林檎でも剥いてみようとマヤさんは言った。包丁を持つマヤさんの姿は想像出来なかった。

「こんな数字、初めてだな」

 体温計を手にマヤさんが首を傾げた。僕の体温は三十五度二分まで下がっていた。普段の体温から三度程も違うので、僕の身体がうまく適応出来ていないのかもしれない。

「本降りになってきた」

 ずぶ濡れになった篤志がタオルで体を拭きながら帰ってきた。外は大荒れのようだ。雨戸がカタカタと震えていた。

「この家、テレビがないんだね。世俗とは切り離された暮らしもまた白岡夕凪にぴったりだが、こうも台風が接近しているとなればそれも些か不便だな」

 閉め切った部屋は湿気が高く、扇風機が精一杯に稼働していてもなお蒸し暑かった。じんわりと汗ばむ。息を吸って吐く、胸が微かに上下する。瞬き。それを繰り返す。僕の容体は悪いながらも安定していた。

「リョウちゃん、何か食ったほうがいいぞ」

 僕の額に触れた篤志の手は僕の身体よりもずっと冷たかった。僕は少し頷くだけだった。結局、果物を剥いてくれたのはマヤさんではなく篤志だったし、林檎ではなく桃だった。瑞々しい桃が胃に染みた。

 マヤさんは持参した荷物に囲まれていた。篤志は僕が覆面作家の白岡夕凪であることを知っているとマヤさんには伝えてあるし、篤志が白岡夕凪にはそれほど興味を持っていないことも伝えたので、今更マヤさんは白岡夕凪の正体を隠そうとはしない。僕もマヤさんも、篤志が白岡夕凪の正体を言いふらすなどとは思っていない。

「白岡夕凪へのファンレターをチェックするのも大切な仕事だからな。むしろこれが一番大事だと言ってもいいほどさ」

 編集部に届く作家宛てのファンレターはすべて編集者たちが開封して中身を確認する。何しろ、届いたものが手紙だけとは限らないし、手紙の内容もどんなものか定かではないからだ。

「白岡夕凪は美少女だからね、とりわけ注意が必要なんだ。読んでみるかい、アツシ君」

 マヤさんは手紙を一通、篤志に渡した。それを読んだ篤志の顔が徐々に強張り、明らかな嫌悪感が露わになる。

「こんな手紙なんて序の口、初心者向けさ。カッターの刃が入っていたこともあったし、婚姻届けもあったね。高級メロンは良かった。ああ、あれもあったな、使用済みの、まあ何とは言わないけれど」

 軽やかな口調でマヤさんはとんでもないことを言う。僕も自分に届いたものについては一通り教えてもらうのだが、目を背けたくなるものや耳を塞ぎたくなるものはマヤさんによって弾かれる。悪質なものについては警察に相談もしているそうだ。マヤさんは僕の原稿に目を通す時よりも鋭い眼差しで手紙を読む。

「そんな汚らわしいものを白岡夕凪に見せるわけにはいかない。白岡夕凪が生きる世界は美しいものだけで満たされていなければならないからね」

 その白岡夕凪は起き上がることも出来ない僕なわけだが、マヤさんには関係がない。マヤさんの中の白岡夕凪は、その名の通り揺らぐことがない。風の吹かない夕暮れ時。朝と夜の僅かな狭間。閉じ込められた黄昏の儚い世界。それが、白岡夕凪という作家だ。

「私が白岡夕凪を見つけたんだ、だから私には白岡夕凪に対する責任がある。私のすべては白岡夕凪のためにあるようなものだよ」

 桃を食べて少し気分がスッキリした。僕はのそのそと起き上がった。酷い眩暈がする。けれども、身体を起こしていたほうが少しマシかもしれなかった。汗でべたついた肌が不快だったので、洗面所で顔を洗った。鏡の中の僕は青褪めていて不健康だった。腕も脚も余りにも細い。息をしている死体みたいだ。篤志の逞しい筋肉が羨ましい。

「マヤさん」

 僕はタオルを首から掛けたまま居間に戻った。

「マヤさんは目には見えないものにも力があると信じますか」

 僕がそう尋ねると、マヤさんは手紙から顔を上げた。篤志が何か言いたげに僕を見た。

「勿論。文学に携わる者として当然、言霊は信じている。私はロマンチストだよ」

 どこからか入り込む隙間風がピーピーと鳴いていた。

 僕はハコのことをマヤさんに話した。


 なるほど、と言ったきり、マヤさんは黙ってしまった。僕と篤志は顔を見合わせた。雨風は強さを増し、蛍光灯がチカチカと瞬いた。僕たちは停電に備えて懐中電灯やロウソクを探すことにした。

「いよいよ頭までおかしくなったと思われたかな」

 階段下の収納を探す篤志に後ろから声を掛けた。

「ハコっていう信仰があるこの町のほうがおかしいんじゃないのか」

「信仰は自由だよ」

「それならリョウちゃんが何を信じても、おかしいことなんてないだろ」

 篤志の声はどこか苛立っているように聞こえた。くだらないことを聞くなとでも言いたげだった。非常時の光源を手に入れた僕たちが居間に戻ると、マヤさんは難しい表情をして待っていた。

「迷信にも超常現象にも、そこにはそれが語られる理由が必ずある。そうだろう?」

 はぁ、と篤志が曖昧に返事をした。

「信仰の動機なんてものは単純だ。常識では説明の出来ない事象が観察された。偶然であろうと必然であろうと関係がない。過程が明らかにされず結果のみが現れたならば、どうしてそうなったのか理由付けは後から付いてくるものだ」

 つまり、と僕は尋ねた。マヤさんの言葉はちんぷんかんぷんだった。

「この町には、ハコを信仰する然るべき理由があるということだ。そして、ハコがこの町にとって重要なものであるということも事実だ。さらに言えば、ハコが何らかの特殊な力を持っている、というように観察されているということも事実だろう」

 マヤさんは遠回しな言い方をした。

「ハコの力を自分で確かめてみなければ断言出来ないな。先生の身体がハコによって蝕まれているのだと分かった暁には、きっと私は誰よりも憎悪に燃え上がるだろう」

 そう言いながらマヤさんは手紙を仕分けした。白岡夕凪に宛てられた手紙を誰よりも厳しく検閲するのがマヤさんだ。そこには白岡夕凪を脅かす者への憎しみがあるのだろう。

 悪意に気を付けなさい。

 僕は祖父からの手紙を思い出していた。潜む悪意、蔓延る悪意。ハコに溜められた悪意が呪いとなって僕を苦しめているのだろうか。

「しかしながら、相手がオカルトでは私も太刀打ち出来ない。人間相手ならば殴り込みに行くものを。そういうものは、やはり神職に頼むべきだろう」

 悔しそうにそう言うと、マヤさんは憎々しげに手紙を段ボール箱へ放り込んだ。そっちの段ボール箱は廃棄する分だ。

 僕は停電する前に食事を用意しておこうと思って立ち上がった。僕は食べられなくても、ふたりは食べる。何より、客人だ。僕があまりにも不甲斐無いために忘れがちだが、この家の主は僕なのだ。僕は台所に立った。台所の窓に雨が叩きつけていた。真昼だというのに外は真っ暗だった。

 ひとまず、素麺だ。多めに茹でておけばいい。篤志とマヤさんはまだ何か話をしているようだった。僕は鍋の中で踊る素麺を眺めていた。別に、白くて細い素麺に自分自身を重ね合わせているわけではない。真っ暗な窓が恐ろしかったのだ。

「貸してみ?」

 湯を切ろうとして鍋を持ち上げようとしているところに篤志がやって来た。

「せっかくオレが居るんだから頼れよ。全部自分でやろうとしなくていいんだぜ」

 篤志は鍋の湯を流しに置いていたザルで切った。湯が入った鍋を持ち上げるとき、篤志の腕の筋肉が盛り上がっていた。適度につけられた筋肉は美しく、やはりこれが健康美なのだと思った。湯気がもわもわと視界を白く曖昧にした。僕は冷凍庫から氷を取り出して素麺を冷やした。昼食の分を皿に盛りつけて、残りは小分けにして冷蔵庫に仕舞う。代わりに昨夜の残り物を取り出して、それも皿に盛り付けた。僕の昼食は先程食べていた桃の残りだ。

 そうして居間で昼食を囲んでいると、電気が消えた。


 真っ暗闇の中、懐中電灯だけを頼りに篤志は玄関のほうへと歩いていった。スマートフォンで話している声が聞こえていた。しばらくすると戻ってきた。

「中郷あたりの倒木で電線が切れたらしい。上郷と奥郷は全滅だって」

 篤志はやれやれと肩をすくめた。

「おお、サスペンスみたいな展開になってきたな」

 マヤさんは暗闇でも臆することなく素麺をすすりつづけていた。その図太さには呆れを通り越して尊敬してしまいそうになる。

「夕方には台風も通り過ぎる。それまでひとまずの辛抱だな」

 篤志は居間のテーブルに懐中電灯とスマートフォンを置いた。懐中電灯の青白い光だけが居間を照らしていた。

 それで僕は今朝の着信を思い出した。僕は存在すら忘れていたスマートフォンを探した。篤志が電話を掛けてくれたのですぐに見つかった。

 履歴を確認すると、電話を掛けてきたのは兄だった。僕は掛け直した。

「もしもし、兄ちゃん?」

『あー、涼弥。悪いな、今朝の電話で起こしただろう』

 兄はすぐに出た。声の調子からして、忙しくはなさそうだ。

『大した用事じゃなかったんだ。そっちの生活にはもう慣れたか?』

「まあまあかな。みんな親切だよ」

『そっか、それは何よりだ。体調はどうだ?』

「良くも悪くも、いつも通りかな」

 ハコのことを兄に電話で伝えるのは憚られた。兄を不安にさせたくなかったし、話すならば直接会った時がいい。

『そういえば、台風は大丈夫なのか?』

「さっき停電した。でも、昨日からマヤさんと篤志が家に泊まってくれているから平気。ふたりと話をする?」

『いや、よろしく伝えておいてくれ。充電は大事にしないといけないからな。用事はただ、誕生日に何か欲しいものはないか聞きたかっただけだ、考えておけよ。それじゃあ落ち着いたらまた連絡してくれ』

「うん、ばいばい」

 僕は電話を切った。兄の声を聞くと、暗闇でも安心出来た。

「お兄様は急用では?」

「いえ、誕生日祝いは何が良いか、聞きたかっただけみたいです」

「リョウちゃん、誕生日が近いのか」

 篤志の顔はよく見えなかったが、驚いている声をしていた。

「今日」

「今日!」

 篤志の声が上擦った。素麺を食べ終えたマヤさんが続ける。

「ちなみに誕生花は天竺葵、いわゆるゼラニウムだ。白いゼラニウムの花言葉はいいぞ、あなたの愛を信じない、だよ。孤高の美少女、白岡夕凪にぴったりじゃないか」

「マジか、プレゼントなんて用意してねぇ」

 マヤさんの豆知識は篤志の耳に届いていないらしい。篤志は残念そうな声を出した。

 プレゼントなんて必要ないと言うことも出来たかもしれない。こうして泊まりに来てくれる友情が何よりも嬉しいと伝えるべきだったかもしれない。けれど、僕は何も言わなかった。いや、何も言えなかったのだ。

 僕は閉じられた雨戸の向こう側に、明らかな気配を感じていた。僕とマヤさんから見れば正面、篤志の背中、中庭の雨戸。その向こう側。そこに何かが居ると認識した瞬間、身体の奥深くに痛みが走った。心臓を鋭い杭に貫かれるのは、こんな痛みなのかもしれない。

「……ぐっ」

 痛い、痛い。心臓が痛い。何だ、これ。

 僕は胸を押さえた。あまりの痛みに呼吸がままならない。僕の様子がおかしいことに、ふたりはすぐ気が付いた。懐中電灯の光が僕に向けられる。背中に添えられたのはマヤさんの手だろう。いつもの発作とは違う、初めて経験する痛みに、僕は何も考えられなかった。

 ドンッと大きな音が居間に響いた。バンッ。ダンッ。雨戸を力任せに殴りつけるような音だった。中庭のほうから聞こえていた音は、徐々に移動しているようだった。ぐるりと雨戸を回って入る隙間がないか探しているようだった。音が鳴り響くたびに家が軋む。

 ダンッ!

 ドンドンドンドン!

「随分と不躾な来訪者じゃないか」

 マヤさんは低い声を出した。その隣で僕は痛みのあまり泣きそうになっていた。いや、もう泣いていたと思う。感覚のほとんどを痛みが上書きしていき、視界はぼやけていたが、耳だけがやけにはっきりと聞こえていた。

「アツシ君、先生を頼む」

 そう言ってマヤさんは僕のことを篤志に託し、懐中電灯を握りしめて雨戸を殴りつける音へと近付いていく。篤志の腕の中は温かかったはずだが、僕は寒気に震えていた。経験のない痛みに訳が分からなくなって、篤志の腕を引っ掻いたことだろう。

 マヤさんが勢いよく雨戸を開け放ったと同時に、僕は意識を手放した。

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