七月二十五日 木曜日 午後
弐羽醫院に残されていたハコの診察記録は、僕と殆ど同じ症状だった。
はじまりは、熱。著しい高熱を出したあと、高い体温を保つようになる。
次に、疲労感。運動とも呼べない軽い動作ですぐに体力を失う。
さらに咳や吐き気、眩暈が続き、鼻血が出やすくなる。貧血の症状も現れる。
やがて血を吐く頃になると、激しい頭痛を伴う発作を起こすようになる。
発作の頻度が高まるにつれて、体が思うように動かせなくなり、起き上がる事さえ困難になる。
そして。
「そのあたりにしておきなさい」
僕が読んでいた古いカルテを弐羽先生は取り上げた。記録は五人分残されていた。その全員がこの町の人間で、性別に偏りはなかったが、八歳から十五歳までの子供だった。
先々代はこの呪いのような症状を箱庭症候群と名付けたようだ。その詳しい所以は分からないが、ハコと箱庭を掛けているのだろう。
呪いというオカルトを信じることは馬鹿だと笑われるだろう。けれど、それならば呪い以外の原因を教えてほしい。どうすればいいのか教えてくれ。それが出来ないのなら、放っておいてほしい。
「君が本当にハコであるならば、医者としてこんなことを告げるのは非常に残念だが、医療で君を救うことは出来ない」
「知っています」
弐羽先生は僕の血圧、身長や体重を測った。採血もした。軽すぎるという自覚はあったけれど、改めて数字で見ると自分でも引いてしまう。
「軽すぎるね。君の身長なら六十くらいは必要だよ。少なくともあと十キロは欲しいね。だが無理に食べようとしても体が拒絶するだろう。食べられるときに、食べられるものを、食べられるだけ。量が食べられないなら回数を増やすといい。ひとりで食べるよりも誰かと一緒に食べたほうがいいだろうね」
昼食にしよう、と弐羽先生が言ったので、僕たちは四人で出掛けることになった。
建物の外に出ると、夏の日差しに目が眩んだ。隣からスッと日傘が差し出された。柏木さんが僕に日傘を貸してくれるというのだ。
「レースの日傘は恥ずかしいですか」
「……いえ」
無表情の柏木さんの瞳は僕が断ることを許さなかった。
「でも柏木さんが日に焼けてしまうのでは」
「鍛えていますので」
心を、と付け加えて柏木さんはスタスタと歩き始めた。僕は柏木さんの日傘を開いた。黒いレースが優雅に揺れた。
すぐ近くのスーパーに入る。冷房が心地良い。
「あ、リョウちゃん。ゆうべ話したネットスーパー、あれ、ここのことだぜ」
それぞれ買い物カゴを手に持った篤志と柏木さんが商品を次々とカゴに放り込んでいく。僕と弐羽先生はふたりについていった。篤志は時折、柏木さんに何かを尋ねていた。
「リョウちゃん。バナナとリンゴなら?」
「桃」
僕は篤志の買い物カゴに芳醇な香りを漂わせる桃を入れた。
篤志はどうやら僕の食材を買い込んでいるらしい。
「この町はいいところだ。だが、都会だとか田舎だとか関係なく、人の生きる場所には多少なりとも悪意があるんだよ」
弐羽先生がそう言ったのだが、親子丼と焼き肉弁当で悩んでいるらしく、両手に持った弁当を見比べる姿で言われても、あまり身に染みる言葉には聞こえなかった。
「高いところから低いところへ水が流れ込むように、涼弥君にも妬みや恨みが流れ込んでしまう。自分自身の感情ではないものが、呪いという形になってね。人を憎むとき、良くなれとは望まないだろう。悪くなれ、駄目になれ、そう思うはずだ。それが君の身体を蝕んでいるのだと、私は考えているよ」
医者なのに随分と非科学的なことを言う人だと思った。白衣を身に纏っていなければおよそ医者には見えない人だから、医者らしくないことを言ってもそれなりの説得力があるようにも思える。医学的な話をするときよりもずっと似合っている。霊媒師や詐欺師と言われても信じてしまう。失礼ながら。
冷房に冷えすぎた僕はアイスだけを買って、篤志に財布を渡し、先に店の外へ出た。夏空を真白な飛行機雲が斬り裂いてゆく。走り込みをする高校生たちを眺めていると買い物を終えた三人が出てきた。僕は半分に割った氷菓を篤志に渡し、代わりに買い物袋をひとつ受け取った。
「一度でいいからこういうのをやってみたかった」
「半分こ?」
「友達がいないんだ、笑ってくれ」
「どうしてだよ、オレは嬉しい」
ありがと、と篤志は言って、僕の手から買い物袋を取り戻した。アスファルトの照り返しなどものともせずに歩くその後ろ姿が、近く、とても遠いものに見えた。
友人と呼べる人はいない。僕はそれがどういう人なのかを知らない。友情とは一体どのようなものだろうか。甘酸っぱいものだとも爽やかなものだとも聞く。一瞬だとも永遠だとも聞く。
果たしてこれが友情なのだろうか。篤志は僕の友人なのだろうか。友情と独占欲と羨望の違いなど、僕に分かるはずもない。
けれどもこれが、どうか特別であれと願う。
三時過ぎに弐羽醫院を出た。また来週、と弐羽先生は笑って言った。来週には血液検査の結果も出る。柏木さんは笑顔ひとつ浮かべずに僕たちをじっと見ていた。少しは慣れたけれど、やはり無機質で人形のような人だった。
来た道を同じように篤志の車で帰る。車内の音楽は古い映画のサウンドトラックに変わっていた。信号待ちをしていると、横断歩道を学生たちが渡っていった。
「篤志はどんな高校生だった?」
何とはなしに僕は尋ねた。
「どんなって聞かれてもなぁ」
「野球部だった?」
「いや、野球部はなかったよ。人数の少ない学校だから、部活はそんなにたくさん選べなかったな。オレは空手部だった。田舎だからか、ちょっと古風な部活ばっかりだった」
信号が変わって車が発進する。
「楽しかった?」
「まあ、楽しかったよ。試合のことよりも、帰り道にみんなでコロッケを買って食べたこととか、夏の暑い日に頭から水を被ったこととか、そういうどうでもいいことばっかり思い出すな」
僕は篤志の高校時代を想像してみた。友達に囲まれて、褪せない輝きを放つ日々。青春というもの。僕の知らない世界の話。
「妬くなよ、リョウちゃん」
「妬いてなんかいない」
篤志は悪戯っぽくそう言ったし、僕は拗ねたように答えたけれど、篤志の言葉は正しいのだと思う、僕は嫉妬していた。それが、健康な篤志に対する僻みであればよかったのだろう。僕は黙って窓の外に目を遣った。
車はあっという間に本郷の中心街を抜ける。道は吸い込まれるように山の中へ続く。鬱蒼とした木々は森に夏が入り込むのを拒んでいるようだ。キャンプへ向かうらしい若者たちの姿もあった。
僕も篤志も何も話さなかった。ニューシネマパラダイスのテーマが流れていた。
何かを言わなければならない、けれども何を言えばいいのか分からない。そういった沈黙は嫌いだったけれど、篤志の沈黙はそれとは違った。篤志は言葉を探してなどいない。喋らなければという義務も感じていない。ただ、黙っているだけ。僕が話し掛ければ気軽に返事をしてくれるだろう。
木々の隙間から神社の鳥居が見えてきた。浮かび上がる朱色があまりにも鮮やかで気味が悪い。僕は目を逸らした。
「神社、気になるか?」
横目でチラリと僕を見ながら篤志が尋ねた。僕は首を振った。
「怖い」
「それなら祭にも出掛けねぇよな」
「行かないし、行けない。人混みは苦手だ。無理はしない」
「じゃあ花火でもするか」
「花火」
僕は篤志を見た。篤志は前を向いて運転していた。
「そうか、家の庭で花火が出来るのか」
「リョウちゃんの家なら余裕だろ。雑草は刈らないとな」
「すごいなぁ。部屋の窓から見たことしかない」
「手持ち花火もやったことねぇの、そっちのほうがすごいだろ」
篤志の横顔が笑う。すごいなぁと僕は繰り返した。
「リョウちゃん、田舎には何もないかもしれないけれど、都会では出来なかったことも、ここなら出来るかもしれない。楽しいことはいっぱい見つけられるよ」
まだ日も決まっていないうちから僕はそわそわしていた。篤志の言う通りだろう。出来ないことばかりじゃない。僕にだって出来ることがあるはずだ。数え切れないほどの初めての体験が僕を待っていることだろう。そうしたワクワクやキラキラを少しずつ集めていく。もっと楽に生きていいと、兄が言っていたのはこういうことなのかもしれない。
気持ちが軽くなる。けれども、抱えていた何を手放したのか分からない。僕は窓の外を見た。神社はもう見えなくなっていた。
家に戻ったのは夕焼けが終わる頃だった。僕は篤志の車の助手席でウトウトと、夢と現実の狭間を行ったり来たりしていた。
「リョウちゃん、起きろ」
篤志に揺り起こされて僕は目を開けた。頭の中でムーンリバーが流れていた。篤志はどこか焦っているようだった。
「家の灯りが点いている」
僕は助手席から家の様子を窺った。電気は消して出掛けたはずだ。篤志が戸締りもしてくれた。鍵は持っている。両親も兄も仕事だし、マヤさんが来るのは週末だ。けれども僕の部屋も、その奥の居間も、玄関先も赤々と光が灯っていた。
僕たちは車から降りて慎重に家に近付く。僕は玄関の引き戸に手を掛けたが、鍵は閉まったままだった。急いで鍵を開ける。そのまま引き戸を開けようとした僕の手を篤志が止めた。篤志の顔を見ると、じっと引き戸の向こう側を見ていた。僕もつられて磨りガラスを見た。
人影があった。
僕の胸くらいまでの、人影があった。子供だと咄嗟に思った。喉の奥がヒュッと鳴った。けれども僕は勢いよく引き戸を開けた。カラカラと大きな音を立てて引き戸はあっさりと開いた。
誰もいなかった。
家の中は怖いくらいに静まり返っていた。点いたままの蛍光灯が不気味だった。僕はずかずかと家に上がった。家の中には何の気配もない。
「リョウちゃん」
篤志が僕を追いかけてきた。僕は腕を組んで居間に突っ立っていた。
「大胆すぎるだろ、怖くないのか」
「弐羽先生のほうがよっぽど怖い」
「だからってオレを置き去りにしないでくれ、オレはリョウちゃんと違って、弐羽先生よりもお化けが怖いんだから」
「座敷童だって言ったのは篤志だろ」
「そうだけど」
あ、と言ってバタバタと篤志は玄関の方へ戻っていった。その間に僕は窓を開けて、必要のない電気を消す。
「リョウちゃーん、牛乳冷やせー!」
玄関から篤志が僕を呼ぶ。怖がっていたはずだが、切り替えは早いらしい。昼間に行ったスーパーの買い物袋を両手に抱えた篤志が戻ってきた。冷やすものを受け取って、冷蔵庫へ仕舞う。
「篤志、夕飯は?」
「何かある?」
「おばさんのおかずがある。素麺も、茹でれば」
「よばれて帰ろうかな」
僕は冷蔵庫から篤志のおばさんからもらったおかずを取り出した。それから鍋に湯を沸かして素麺を茹でた。
篤志はよく食べた。見ていて清々しいほどだった。僕は素麺を茹でただけだったのに、おいしそうに食べてくれる姿が嬉しかった。篤志が結婚したら、奥さんはきっと食事のたびに幸せになれるのだろう。篤志が料理をつくるのかもしれないけれど。
「リョウちゃん」
箸を止めて篤志は言った。
「ごめんな」
僕は篤志が謝る理由が分からずに首を傾げた。篤志は白い素麺をじっと見詰めていた。
「ハコだなんて、嫌だっただろう?」
「……何の病気か分からないと言われたほうが、きっと嫌だったと思う。原因が分からないということは、血を吐くよりもつらかった。名前のない病が嫌だった。たとえ治ることがなかったとしても、理由が分かっていれば、たぶんそれだけで救われるんだと思う」
「それが呪いだと言われても?」
「馬鹿だと思うだろう。でももう縋り付けるものがない。分かってくれとは言わない」
僕の言葉に、篤志は項垂れた。何も言わない、何も聞かない。扇風機の音がやけに大きく響いていた。
しばらくして篤志が口を開いた。
「都会の生活はつらかったか?」
俯いた表情は見えない。
「つらかったよ」
僕は出来るだけ淡々と答えた。
「ずっと帰りたかった。逃げ出したくて仕方がなかったよ」
息の詰まる日々。思い出したくもない。楽しかった思い出はひとつとして心に蘇らない。あれは何だったのか、僕の十代は一体、何だったのだろうか。
「そっか」
篤志もあっさりと言った。
「オレもそこに居られたらよかったのに」
顔を上げた篤志は僕の眼を見据えた。
夜だ。
篤志の瞳は夜の色だ。
「都会の暮らしは似合わないよ」
「確かにな、電車の乗り換えなんて絶対無理だ」
篤志は笑って素麺を食べた。僕もつられて笑った。うまく笑えている自信はなかった。
捕まりそうだと思った。篤志の眼差しに、囚われてしまうと思った。その優しさに甘えて頼り切って手放せなくなる。離せなくなる。しがみついて、きっと溺れてしまう。
引きずり込んではいけない。
こっちに来てはいけない。
僕はヘラヘラと笑いながら、篤志との距離を測る。これ以上は踏み入ってほしくないと願いながら、心のどこかでは触れられることを望んでいた。距離のないところまで近くに来てほしい。
灰色の思い出が心に翳りを広げる。優しさなんて、ひと時の慰め。同情だって一瞬の倒錯だ。深入りしないほうがいい。どうせ傷付くだけだから。
救いなんてきっとどこにもない。
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