七月二十四日 水曜日

 遠くから名前を呼ぶ声が聞こえる。揺り起こされて僕は目が覚めた。ゆっくりと目を開けると、ぼんやりとした人の姿があった。

「リョウちゃん……!」

 眼の焦点が合うまで少し時間が掛かった。自分の置かれた状況を理解するのにもやや手間取った。

 そうだ、ここは祖父の家で、僕はここで暮らし始めて、ああそうか、篤志だ。

「……おはよう」

 咽喉から乾いた声が出た。

「おはようどころじゃねぇよ」

 篤志は狼狽えていた。僕は慎重に起き上がった。体を起こしてみると、篤志がどうして焦っているのか、その理由がよく分かった。僕は寝ている間に血を吐いていた。着ているTシャツや枕に血が付いている。口の周りに手を触れると乾いた血がこびり付いているのが分かった。確かに、乾いた口の中に血の味が広がっている。

 ホラーが苦手だと言っていた篤志には悪いことをしたと思った。

「……とりあえず、顔を洗ってくる」

 ふらふらと洗面所へ向かった僕を篤志が慌てて追いかけてくる。

「りょ、リョウちゃん、病院へ行こう! 医者に診てもらおう」

「気遣いはありがとう、でも無駄だよ、病院ならもう何軒も回った」

 洗面所で顔を洗う。鏡の中の僕は随分とやつれた表情をしていた。

「どこへ行っても同じだよ。あらゆる数値が異常なのに、その原因は不明で、実際のところ何が正常なのかも分からない。治療法もない。この身体で生きているほうがおかしいって、そう言われた。それでも僕は生きているのに」

 僕の言葉に、鏡の奥の篤志が泣きそうな顔になる。篤志が悲しむことなどない。同情も必要ない。ただ出来るならば最期のその時まで変わらずに接してほしい。

「ハンコ」

 僕はタオルで顔を拭きながら言った。

「受け取りのハンコが必要だろう」

 篤志が運んできた僕の荷物は段ボール五箱だった。そのうち三箱は生活に必要なもの、一箱は仕事に必要なもの、そして残る一箱には心当たりがなかった。送り主は僕自身になっているが、これは僕の字ではない。僕が首を傾げながら受け取りの印鑑を押している間、篤志は僕のスマートフォンを使って連絡先を交換していた。

 時計を見ると九時前だった。

「とにかく何かあったら連絡してくれ。いや、何か起こる前に連絡しろ」

 僕はスマートフォンの電話帳を確認した。里見酒店と里見篤志が新しく加わっている。

 しっかり飯を食え、水分を補給しろ、適度に休憩しろ、無理をするな。篤志はそう言い残して慌ただしく配達に戻っていった。感謝もろくに伝えられなかった。あとでメッセージを送っておこう。

 僕は段ボール箱をひとつ開けて、中から衣類用の洗剤を取り出した。汚れた服やシーツを洗濯機に放り込んでスイッチを押す。それから篤志に言われた通り、朝ご飯を食べることにした。篤志のおばさんのお裾分けと西瓜を食べた。洗濯機のゴウンゴウンと回る音と、ミンミンゼミの鳴き声が聞こえていた。

 篤志はきっと僕が悲観的になっていると思っただろうけれど、僕は存外に楽観的だった。今の時代、インターネットで何でも買えるのだから、生活には困らないだろう。死なない程度に生きていくことは出来るはずだと思っていた。どこで生きていても、僕は僕だった。他の誰にもなれなかった。

 これでも体調はマシなほうだ。食べ始める前に体温を測ってみると三十八度だった。一般的には高い数値だが、僕にとっては見慣れたもので、これが平熱だと言ってもいい。もちろん熱っぽいとは感じていて、身体には少し怠さがある。けれどもこれが僕にとっての普通なのだ。

 食器を洗ってから洗濯物を庭に干す。好き放題に伸びている雑草もどうにかしたいのだがもっと涼しくなってからのほうが良さそうだ。

 それから段ボール箱を開けて中身を整理する。食料品は台所へ、掃除道具はそれぞれの場所へ、着替えは押入れの中に。この家に残っていることをアテにしていたものも多いので、整理は案外すんなりと終わった。

 問題は謎の段ボール箱だ。僕はひとつ残った段ボール箱を前にして開けるのをためらっていた。送り状の文字は僕のものではないし、家族の誰のものでもなかった。僕がこの家に越してきたこと、この家の住所は家族と親戚とマヤさん以外は知らないはずだ。連絡もなしに僕の名前で荷物を寄越す人たちではない。箱の大きさは他の箱と変わらない、一般的なサイズだ。持ち上げてみればずっしりと重く、揺すってみても音は聞こえない。

 僕は慎重に封を開けた。

 中に入っていたのは、ただ封筒が一通。それだけだった。それ以外には何も入っていなかった。

 僕は封筒を取り出した。真っ白な封筒は軽い。もう一度段ボール箱を持ち上げてみる。軽い。あのずっしりとした重みは何だったのか。薄気味悪さを感じながらも僕は封筒を開けた。

『悪意に気を付けなさい。』

 たったの一文。祖父の字に似ていると思った。僕の記憶にある祖父の筆跡よりも震えているが、それが晩年の祖父の字ではないかと思った。だが、祖父は二か月前に亡くなった。

 僕はスマートフォンで荷物の追跡番号を調べた。これは一体いつ集荷された荷物なのか。追跡番号を入力しても番号が間違っていると表示される。データが何もない。期待してなどいなかったものの、表示されるエラーに少しがっかりした。

 段ボール箱を畳んで片付ける。捨ててしまってもよかったのだが、何かの時に使うかもしれないと思ったので置いておくことにした。

 封筒も引き出しに仕舞っておく。これが手の込んだ悪戯だったとしても、祖父からの忠告だと思いたい自分がいる。都合良く解釈したい。怖さよりも不安が勝つ。縋り付きたい、と。

 淋しくないわけがない。恋しく思わないわけなどないのだ。僕は誰よりも祖父に懐いていた。大好きだったのだ。


 薄い青の空が広がっていた。僕は雑草を掻き分けながら庭を進み、納屋に向かった。キーィと泣くように引き戸は開いた。舞い上がる埃に咳が出た。

 納屋は随分と片付けられていた。農具はほとんど残っておらず、捨てそびれた古い家電が朽ちているだけだった。目当ての自転車も忘れ去られたように埃を被っていた。

 僕は納屋から自転車を引っ張り出した。レトロな緑色の自転車だった。納屋の中で風雨にさらされずにいたおかげか、古いわりに錆びてはいなかった。ただタイヤとサドルは交換する必要がありそうだ。

 思いのほか埃をたくさん吸い込んでしまったらしく喉の辺りがヒューヒューと鳴るような咳が出始めたので、僕は自転車を引き摺りながら母屋へ戻った。部屋の中に入り、麦茶で喉を潤しながら自転車の写真を撮って兄に送った。

 そうして涼んでいると、近所の渡辺さんがひょっこりと現れて胡瓜をお裾分けしてくれた。僕は麦茶を出して少し話をした。しばらくすると藤田さんがトマトを、南さんがトウモロコシを携えて現れた。濡れ縁で僕はご老人たちと交流する時間を過ごした。近所の人たちの話題は大半が祖父のことだった。僕に話を聞かせるというよりは、自分たちで思い出に浸っているような、そんな時間だった。

 無造作に置いてあった団扇を見つけた渡辺さんが僕に尋ねた。

「夏祭りは久しぶりかね」

「ええ、そうですね。小学三年生か四年生の時に行って以来かな、と」

「今年はハコのある祭だから、存分に楽しめるだろうね」

 そうなんですね、と返しながら、ハコとは何のことだろうと、僕はそれが何か知らなかった。聞いてみようと思ったのだが、丁度スマートフォンが鳴ったので、僕は席を外した。

「はい」

『あ、先生。お休み中のところ申し訳ない』

 マヤさんだった。僕がマヤさんと話をしている間に、渡辺さんたちはぞろぞろと帰っていった。マヤさんの要件は簡単で、白岡夕凪に届いているファンレターが溜まってきたのでそろそろ転送したいのだが、肝心の僕の住所を書いた紙を編集室に置いてきてしまったので、取り急ぎ住所を教えてほしいということだった。マヤさんの背後はやはりざわついていて、どうやら郵便局に居るらしい。

『受け取りの時間は指定せずとも良いだろうね』

「大丈夫ですよ」

『そういえば先生、甥っ子君とは仲良くやっているのかい。先生は子供が苦手そうだが』

「まあまあですね」

 僕は適当に返事をした。ひとり暮らしだとは言えなかった。

 マヤさんとの電話を終えて濡れ縁に戻ると、夏野菜がまるでお供え物のように見えた。

 僕は冷蔵庫を開けて野菜を仕舞った。驚くほどに生鮮食品がない。この辺りの人たちはどこで買い物をしているのだろうか。

 気分は悪くなかったが、食欲は湧かなかった。昼時だというのに喉元が固形物を拒んでいた。熱は朝よりも少し上がっていた。しかし、じっとしているのも居心地が悪かった。

 水筒と財布とスマートフォンだけを持ち、首からタオルを掛けて麦わら帽子を被った。戸締りもろくにせず、自転車を押して出掛ける。道中、畑から家に帰る藤田夫妻に会った。自転車を整備に出したいことを告げると、駅前に自転車店があることを教えてくれた。

 家から駅前までは緩やかな下り坂で、四十分ほどかかった。普通の人ならばもう少し早いだろうし、自転車に乗れば僕でも三十分くらいにはなるだろう。篤志の車に乗せてもらったから実感がなかった。思っていたよりも遠かった。僕は自分の浅はかさを後悔した。

 滝のように流れる汗がぼたぼたと滴り落ちる。坂田自転車店に着くと、店主である壮年の男性がすぐさま僕を店内に招き入れた。扇風機の生温い風も今は有難い。

「自転車を、ですね、乗れるようにして、いただきたくて、ですね」

 僕は汗をタオルで拭いながら話す。

「あ、黒岡鉄平の、孫の涼弥です、祖父がお世話になりました」

「ああ鉄平さんとこのね」

 坂田さんは慣れた手つきで自転車を触り始めた。僕は店先のベンチに座って水筒の麦茶を飲んだ。

「鉄平さんとこに移ってきたんだってねぇ、あ、戻ってきたんだっけか。いい色の自転車だろう、この子は。それにしても今年は暑い、暑いねぇ」

 脈絡もなく坂田さんは話をした。店のカウンターにある古いテレビでは高校野球の地方大会が中継されていた。僕は、ええとかはいとか適度に相槌を打ちつつ、日陰になったベンチで暑さを耐え忍んでいた。

「そこの酒屋の篤志と同い年だったっけ」

「ええ、そうです」

「篤志もさぞかし喜んでいるだろうな。なにせ、若者らしい若者が少ないもんでな。見りゃ分かるか」

 ガハハ、と坂田さんは豪快に笑った。

 坂田さんが作業をしている間、僕はベンチでぼんやりと座っているだけだったが、ふと思い立ってマヤさんに電話を掛けた。

『うっそ、先生、何事だ』

 僕から連絡することは非常に稀なので、マヤさんは失礼なほどに驚いた声を出した。後ろで電話が鳴っている。編集室だろう。

「ひとつ、やはりお伝えしておこうと思いまして」

『どうしようか、白岡夕凪が引退だなんて言ったら。もう心中するしかないな』

「違います、そんなに深刻な話ではないので安心してください」

 一呼吸してから僕は告げた。

「僕、一人暮らしです。祖父の家に、ひとりです」

 へ、とマヤさんらしからぬ気の抜けた変な声を漏らしたかと思うと、それからしばらくの間、マヤさんは黙り込んでしまった。

 幾重にも絡まる蝉の声の中に、坂田さんが自転車を整備するキュッキュッという音が合わさってゆく。どうしたものかと、僕はマヤさんの声を待っていた。

『ホラーを書くのにはもってこいじゃないか。ホラーと美少女、実に良い組み合わせだ』

 どこか投げやりにマヤさんは言った。

「僕は美少女ではありません」

『いいや、黒岡涼弥が白岡夕凪で、白岡夕凪が美少女ならば、黒岡涼弥も美少女。これが世の理というものであってだね』

 やれやれとマヤさんは長い溜息を吐き出した。

『オーケイ、先生。今週末、そちらに行こう。リストにまとめておいてくれたら、必要な物資は持参するよ。それまで達者で』

 マヤさんはそう言って電話を切った。僕は足を投げ出した。マヤさんの決断力も行動力も、その潔さは出会った頃から変わらない。かつて大学生の僕を探し当てた時も、僕を白岡夕凪として売り出した時も。マヤさんの性格が違ったものであれば、今頃僕はどこで何をしていたか、想像も出来ない。

 向かいの仲本商店で小学生くらいの少年たちがカキ氷を買っていた。虫捕り網と虫籠を持って、これから山へ入るらしい。色鮮やかな氷を食べ終えた少年たちは小さな自転車を精一杯漕いで遠ざかってゆく。これぞ夏休みといった趣がある。腰の曲がったおばあさんや日傘を差したおばさん、白のタンクトップ一枚のおじいさんといった人たちが通り過ぎていった。里見酒店の軽トラックも僕の前を通り過ぎた。

 坂田さんは相変わらず話題を散らしながら作業を続けていた。はじめのうちは律儀に相槌を打っていた僕も、やがて口を閉ざした。暑い、眠い、しんどい。僕はベンチに横になった。

 夏空と山々のコントラストが美しく、僕は熱い息を吐いた。都会の空も綺麗だったけれど、見上げていたのは白い天井ばかりだった。こんなにも空は広かったのかと、静かな病室を思い出して少し感傷的になった。

「坂田さん」

 僕は起き上がって坂田さんに声を掛けた。坂田さんは後ろのタイヤを交換している最中だった。

「カキ氷は何色がお好みですか」

 そうして僕は仲本商店で坂田さんのブルーハワイと自分のみぞれを買った。仲本商店のおばさんは年代物のカキ氷機の扱いも手馴れたもので、あっという間に柔らかな氷の山が出来上がった。

 僕はサンダルを脱ぎ、ベンチの上で膝を抱えるように座りながら、坂田さんの半分ほどの速度でカキ氷を食べ進めていた。先程通り過ぎた里見酒店の軽トラックが戻ってきた。

「リョウちゃん」

 篤志が車から降りてきた。やはり夏には適度に日焼けしているほうが、夏を満喫しているように見える。健康美というやつか、美丈夫というものか。日に焼けて汗の輝く引き締まった体躯は、僕には到底手にすることの出来ないものだ。毎晩、腹筋をすれば篤志のようになれるのだろうか。そんな自分は少しも思い浮かばない。

「ひとりでここまで来たのか」

「すごいだろう」

 僕はふふんと鼻で笑って氷を口に運んだ。甘味と冷気が口の中に広がる。

「馬鹿、途中で倒れたりしたらどうするんだ」

「本当に駄目なときは家から出ない。それに、今日は気分が良いんだから、少しの気晴らしぐらい大目にみてほしい」

「……送っていく」

 ムスッとした表情で篤志はそう言うと、店の中を覗き込んだ。

「おっちゃん、あとどれくらいかかる」

「三十分ってとこだな」

「なら二時半にまた来る」

 篤志はそう言うと軽トラックに乗って去った。怒っているような、拗ねているような、への字の口がその不機嫌さを物語っていた。

 ここで篤志を待たずに帰ろうものならば、と僕は融けて薄い砂糖水になったカキ氷を飲んだ。篤志の親切に甘えながら、罪悪感もあった。放っておいてほしいとも思う。

 君に、僕の何が分かるのか。二十年前に少しばかり仲が良かっただけの君が、僕の何を理解していると言うのか。

 けれどもそれは僕だって同じはずだ。僕も篤志の二十年を知らない。どんなふうに暮らし、何を見てきたのか、僕は少しも知らないのだから。

 幼馴染というには浅く、友人と呼ぶには遠く、僕はこうして篤志との距離を測っている。

 どうせ、君も。


 自転車の整備が終わるよりも篤志が戻ってくるほうが先だった。軽トラックの荷台の荷物が増えていた。配達の荷物だろう。配達をするということはきっと集荷もするのだろう。

 僕はベンチにぐったりと横になっていた。仲本商店のおばさんが気を遣って僕に氷枕をくれていた。通りすがりのふたりの少女が交替で団扇を仰いでくれていた。ままごとの延長のようだった。

「リョウちゃん」

 篤志が呆れたように僕の名を呼んだ。

「調子がいいんじゃなかったのか」

 僕は反論しようとしたけれど、喉から出たのは呻き声だけだった。

「いや、いい。喋るな」

 しゃべっちゃダメよ、と少女のどちらかが言うと、もうひとりも同じ言葉を繰り返し、ふたりでクスクスと笑い合っていた。

「おー、出来た、出来た。これで走れるぞー」

 坂田さんの声に、僕は頭の横に置いていた財布を篤志に渡した。ひどい眩暈がした。口を塞ぐタオルを取れば吐いてしまう気がした。暑さとは異なる汗が滲んでいた。坂田さんが軽トラックの荷台に自転車を積み込んで固定している間、篤志は仲本商店で氷を買っていた。少女ふたりは代わる代わる僕の額や頬に小さな手を置いて、きゃあきゃあと騒いでいた。

 氷の塊が入った袋を携えて戻ってきた篤志は、荷台の荷物を助手席に移し替えていた。僕はぼんやりと見ていた。景色が滲む。

 篤志は僕を軽々と抱き上げると荷物を移して空いた荷台に寝かせた。ビニールシートが敷かれた荷台の床はゴツゴツとしていた。

「げんきになってね、リョウちゃん」

「またね、リョウちゃん」

 少女たちが名残惜しそうにいつまでもそう言って別れを告げてくれた。

 車が走り出した。僕は揺れる荷台で浅い呼吸を繰り返しながら、空の高いところに輪を描く鳶を見上げていた。


 家に着いた記憶はない。

 目が覚めると日が暮れ始めていた。幾らか暑さの和らいだ風が緩やかに吹いていた。僕は自分の部屋に寝かされていた。今朝、畳んで片付けたはずの布団の上だ。木陰に自転車が置かれていた。静かだった。

 ヒタ、ヒタと、板張りの床を素足でゆっくりと歩く音が聞こえた。篤志の足音にしては軽い。子供の足音のようだった。僕は外を眺めたまま身じろぎひとつ出来なかった。金縛りというものになったことはないが、おそらくこれは金縛りではないと思う。動こうと思えば動けるのだが、動かそうという気力が湧かない。ただひたすらに億劫だった。僕は足音を背中で聞いていた。

 歩き回っていた足音はやがて畳の上にやって来て、僕の背後で止まった。何者かの気配がぴったりと背中に貼りつく。それでも僕はぼんやりと玄関先の庭を見ていた。ヒバリのような小鳥が跳ねるように低く飛んだあと、一気に空へと舞い上がった。

 気配はやがて静かに遠のいていった。

 僕はそのままじっと山吹色に染まる夏の庭を眺めていた。廊下の柱時計が六回鳴ったので、午後の六時だと分かった。

 答えがあれば良かったのだと今でも時々そう思う。これが原因で、ここが異常で、こうして治療する、こういう名前の病気だと、知ることが出来ていたらどれほど楽だっただろうかと思うのだ。

 僕の不調は他人から見ても明らかに異常だった。最初のうちは気の持ち様だと笑っていた人たちも、すぐに気が付く。気持ちひとつでどうにかなるようなものではないと。けれども、この病に名前はなく、そもそも病気かどうかさえ誰にも分からない。分からなければ、受け入れられない。

 周囲から測られる距離にもいつしか慣れてしまった。そうして僕は心の寄る辺を失った。

 不意に鼻血が出てきたので、僕は仕方なく起き上がった。

 そもそも同級生たちとどのようにして仲良くなればよかったのか今でも分からない。休憩時間に鬼ごっこも出来ず、運動会はテントの下で、遠足にも修学旅行にも参加出来ず、放課後も遊べず、三割ほどは保健室で過ごすような僕と、誰が仲良くなれたというのか。

 居ても居なくても、同じだっただろう。

 卑屈になっているわけではない。ただ、そこで育まれるはずだった友情をすべて犠牲にして、僕は生き永らえているのだと思っている。友情と命は両立出来ない。少なくとも僕にとってはそれがこの世の理だ。

 そうであってほしいと思う。

 僕はティッシュで鼻を押さえながら布団の上に座ったまま外を見ていた。庭を見ていたというよりも、ただそのあたりの空間を視界に入れていただけだ。茫然と、漠然と。

 思い返してみれば、僕の体は年々悪くなっているような気がする。小学生のころはすぐに熱を出して疲れてしまう少年だった。少しくらいならば体育の授業だって出席できた。血を吐くようになったのは高校生になってからだ。

 今でも鮮明に覚えている。高校一年生の五月、数学の授業だ。高校には僕の持病を伝えていたが、病名がないので同級生も先生たちも、僕の不調は気持ちの問題か、あるいはただの仮病だと思っていた。

 その日も具合が悪かったが周りの席も僕を囃し立てたので、数学の先生が僕を当てた。簡単な連立方程式の問題だった。僕は黒板に解答を書いていった。途中で手が止まったのは分からなかったからではない、手が震えていたのだ。うわっと誰かが声をあげた。先生、黒岡が血を吐いた。あっという間に教室はパニックになった。誰かが呼んできた体育の先生に担がれて、僕は病院へ運ばれた。兄のお下がりの詰襟を血に染めてしまったことが悲しかった。

 それ以来、誰もが僕の扱いに手をこまねいているように思えた。触らぬ神に祟りなし、深く関わらないほうが身のためだと。

 ああ、悲鳴を上げているのか、僕の体は。積み重なる年月に歪み軋んでいるのだ。

 鼻血が治まったので僕は立ち上がって水を飲みに台所へ向かった。

 洗濯物が干したままになっていることを思い出して、僕はシーツや服を取り込んで畳んだ。それから蚊取り線香を焚いた。夏の匂いだった。祖父の不在が少しは紛れるような気がした。

 それから濡れ縁に座ってスマートフォンを触った。兄からの返信も届いていたし、マヤさんからの着信履歴もあった。両親からのメッセージもあった。来月の盆休みに伊勢神宮へ行くらしい。両親は些か呑気であり、それが僕にとっては救いだった。両親までが深刻な顔をしていたらきっと僕は立ち上がれないだろう。

 僕はマヤさんに電話を掛けた。

『あ、先生。また行き倒れていたのかい』

 マヤさんは陽気な声でそう尋ねた。

「おかげさまで」

『先生のお宅までの道筋を調べてみたけれど、田舎だな、そこは。車で行くよ。それなりに荷物は持って行ける』

「マヤさん、用事はそれでしたか」

『まあね。数時間前に先生が倒れたと連絡が入ってね。先生のスマートフォンからさ。ひとまず寝転がしておいてもらえればそのうち目が覚めるだろうとは伝えたのだけれど、もう少し真剣になれと怒られてしまったよ』

「若い男でしたか」

『ああ、知り合いかい』

「ええまあ」

 どうやら篤志はスマートフォンの履歴からマヤさんに連絡を入れたらしい。確かに僕の通話履歴はマヤさんが大半を占めている。

『今時、親切な子じゃないか。編集部からもお礼を言っておかないといけないな。男同士の友情は大事にしたまえよ、先生』

「もう愛想は尽かされていると思います」

『本当にどうでもいいと思っているのなら、見ず知らずの他人にわざわざ電話を掛けたりなどしないさ』

 マヤさんの声に僕は黙った。蝉の声もまばらになって、山の向こうから迫る夜が見えた。

『お礼を言いたいのなら、ハムの詰め合わせでも贈ってみるといい。謝りたいのなら、夕食にでも誘ってごらんよ。たいていのことは食べ物が解決してくれる。そうだ、何か食べたいものがあれば持参しよう』

「……風鈴をください、出来るならば鉄のものを」

『何を所望するかと思えば、風鈴とは。よし、見繕ってみよう』

 しばらく話をしてマヤさんは電話を切った。

 僕は麦茶を一杯飲んでから、再び電話を掛けた。

『リョウちゃん、どうした』

「あ、え、と」

 五回コールが鳴って出なければ明日掛け直そうと思っていたが、思いがけず篤志がすぐに出たので、僕は焦るあまり何を言わなければならなかったのか頭から抜けてしまった。

「ぎゅ、牛乳って、どこで買えるのかなって」

 自分でも理由は分からないが、僕は咄嗟にそんなことを尋ねた。篤志は呆気に取られていたのではないかと思う。一瞬の間が空いたあと、電話の向こうで笑いを押し殺そうとするような声が聞こえてきた。

『牛乳な、牛乳。ふふ、牛乳は大事だな』

「う、うん、大事だ。卵とか、欲しい。あと豆腐」

『日配品や生鮮食品は、この辺りの人たちはだいたいネットスーパーだな』

 僕の想像よりもずっと田舎での暮らしは進んでいて、篤志によると、本郷にあるスーパーがネットスーパーも展開しているらしい。

『電話でも注文できるけどネットのほうが手っ取り早いだろ。昼の一時までに注文すればその日の夕方の五時くらいには届くよ。みんなそうやって、地域の店とスーパーを使い分けて買い物している』

 交通が不便だった昔から新鮮な食材を奥郷まで運ぶのは大変で、線路が通った今でも駅前の商店も保存が出来るものを扱う店ばかりだ。

 愛想を尽かしていると思っていた篤志の声は穏やかだった。僕は戸惑っていた。何を言うべきか、今更、何を伝えればいいのか。僕が言葉を迷っていると、篤志が言った。

『リョウちゃん。明日、本郷の病院へ行こう。そこで診てもらって、今までと同じ結果だとしても、それでオレも納得する。これ以上、リョウちゃんのことを困らせたりしないから』

「……分かった」

 一番星が見えた。黄金色の黄昏が訪れる。

「篤志」

『うん?』

「……ごめん」

 本当はもっと伝えたい言葉があったはずなのに、僕はたったそれだけを紡ぐことしか出来なかった。気にしてねぇよ、と篤志は否定したけれど、僕は自分が不甲斐無くて仕方がなかった。

 体が弱い、それが交友関係の狭さの根本にあるわけではないことくらい、僕も分かっている。一番の原因はこの性格だ。僕が兄のようであれば、マヤさんのようであれば、篤志のようであれば、どれほど虚弱であったとしても多くの友人に囲まれていただろう。

 卑屈ではないと言い張りながら、実際のところ僕は卑屈だった。

 純粋で純真な美少女である白岡夕凪とは程遠い。

 篤志は夜の配達の途中だったらしい。また連絡すると言って、僕たちは通話を終えた。星が光る。僕はスマートフォンを放り出して布団に突っ伏した。

 頭の中を様々な考えが浮かんでは消えてゆく。火照る身体から零れる吐息は熱く、全身を倦怠感が支配する。脈が速い。耳鳴り。鈍く殴られているように頭が痛い。

 また来た、発作だ。

 僕は布団を握りしめて時が過ぎるのを待つ。我慢すれば治まる。耐えればいいだけのことだった。時間だけが薬も効かないこの痛みを和らげてくれる。せり上がる吐き気も、止まりそうな呼吸も、耐えるだけでいい。この時間を乗り切るだけでいい。ギュッと目を瞑って痛みが去る時を祈る。

 全身が強張っているが、力が入っている感覚がない。自分の意識から離れたところで体が縮こまる。うまく息が出来ず、意識も朦朧としてくる。水の中に沈んでゆくようだ。

 布団に突っ伏した僕の首筋にスッと冷たい手が触れた。夜中に頬をなぞっていたあの手だろうか。けれども呼吸は楽にならなかった。

 冷たい手は僕の首筋に留まっていた。どうしたものか思案に暮れているように思えた。やがて、僕の頭を撫で始めた。ゆっくりと、柔らかに、まるで幼い子供をあやすように。

 何故だか妙に可笑しくなって、フフッと笑いが零れた。それで息が少し楽になった。濁る痛みの中で考える。この手の主は、あの足音の主と同じだろうか。

 冷たい手が僕の髪から離れる頃、痛みは治まり、後味の悪い余韻だけが頭の奥で残響していた。

 朝食の後、今まで何も食べていなかったが、食欲はなく、飲み物で胃を満たす。固形物を口にすれば吐いてしまうだろう。嘔吐するつらさを味わいたくない。水を飲みながら熱を測った。三十九度を超えていた。眩暈がする体を引き摺って台所まで行く。冷凍庫から水と氷を出して布団に戻る。発作が終わって痛みが去っても、熱は残る。

 明日、起きられるだろうか。夜に目覚めたりはしないだろうか。

 僕は目を閉じた。瞼の裏で世界がぐるぐると回る。後ろへ引っ張られるような感覚の中で、僕は眠りに落ちた。

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