錆びた箱庭

七町藍路

七月二十三日 火曜日

 無人のホームに降り立って、僕は息を吐いた。痛い程に照り付ける太陽に熱された夏の空気が僕の肺を焦がす。蝉の声が幾重にも重なって頭の中に響き渡る。僕を乗せてきた一両しかない列車が夏の奥へと去った。

 祖父がひとりで暮らしていた田舎の家に僕が移り住んだのは、梅雨も開けた七月半ばのことだった。

 寂れた駅舎の待合室に備え付けられた木製のベンチに背負っていたリュックを置いてスマートフォンを取り出し、駅に着いたと兄にメッセージを送る。年季の入った扇風機がガタガタと音を立ててぎこちなく首を振っている。生温い風が纏わりつく。

「涼弥には都会の暮らしが合わないんだよ」

 兄の颯佑は僕が体調を崩すたびにそう言った。

「じいちゃんのところに戻れるように、兄ちゃんから父さんと母さんに言ってやるよ」

 聳え立つアパートの一室、白い部屋の中で、熱を出して寝込む僕の傍らで読書に耽る兄はそんなことを言いながら絵本のページを捲った。両親が共働きだったからか、四つ年上の兄は面倒見が良く、とても大人びているように思えた。

 僕が小学生に上がる年に、僕たち一家は田舎から都会に移り住んだ。理由は聞かされていなかったが、田舎の暮らしが両親には合わなかったのだろうと思っていた。同居していた祖父は田舎に残った。祖父の家に遊びに行くのが盆の恒例行事だった。

 孫たちは皆、祖父によく懐いていたが、なかでも祖父は僕のことを気にかけてくれていた。孫たちの中でもとりわけ身体が弱かったからだろう。

 その祖父が亡くなったのは、この五月の終わりのことだった。老衰だと聞かされた。葬儀にはたくさんの人が参列してくれていたので、祖父の人生は充実していたのだと思った。

「涼弥。お前、じいちゃんの家に住めよ。父さんと母さんのことは俺に任せておけばいいから。お前はもっと楽に生きていいんだ」

 葬儀の帰り道、兄はそう言った。着慣れない喪服が窮屈だった。残された家の管理を押し付け合っていた親戚たちは反対することもなく、あっさりと僕の引っ越しが決まった。両親はどこかほっとしたような顔をしていた。負担だった僕がいなくなって喜んでいるというよりも、都会を抜け出せるということに安堵していたように思う。自分で提案しておきながら、兄は淋しそうだった。

 そうして二ヶ月後、僕は引っ越してきた。

 スマートフォンが振動してメッセージの受信を知らせる。

『水分補給、忘れずに。家に着いたらまた連絡してくれ』

 僕はリュックの中からスポーツドリンクのペットボトルを取り出して口に含んだ。兄は過保護だった。面倒見が良いのは生来の気質と共働きの両親の影響だろう。しかし、過保護さは僕が病弱だからだ。僕の体が丈夫であったならば、兄はここまで過保護ではなかったはずだ。落ちた水滴が待合室の床に小さな染みを広げた。

 ひとつ息を吐いてリュックを背負った。麦わら帽子を被りスーツケースを引っ張って駅舎を出た。駅前には数軒の商店がある。この辺りに住む人々が最低生きていくには困らない程度の品揃えだ。山に囲まれたこの町は都会よりも幾らか涼しいが、この夏は特別暑さが厳しいらしく、じりじりと照り付ける日差しに汗が流れる。さすがにこんな気温では道を歩く人の姿もない。古いアスファルトはスーツケースの滑りが悪く、僕はスーツケースを無理矢理引き摺るように歩いた。

 僕は酒屋の前で足を止めた。里見酒店。小さな町の中でも特に付き合いが長く、祖父が亡くなってから家の鍵を預けていた。この家の一人息子である里見篤志とは同じ幼稚園に通っていたはずだったが殆ど記憶がない。なにしろもう二十年も前の話だ。会ったところですぐにそれと分かるには少しばかり年月が通り過ぎている。

「……ごめんください」

 引き戸はカラカラと軽い音を立てて開き、センサー式のチャイムがポロンポロンと鳴った。店の奥からパタパタと慌てて出てきた中年の女性にはぼんやりと見覚えがある。祖父の葬儀でも見掛けた。里見篤志の母親だったはずだ。僕は頭を下げた。

「あ、黒岡さんとこの! あらやだ、男前になっちゃって!」

「涼弥です、お世話になっています」

「鉄平さんとこの鍵よね、鍵。ちょっと待ってちょうだい」

 おばさんは現れた時と同じくパタパタと店の奥へ戻っていった。その間に手土産を準備しておく。店は古いが清潔に保たれている。唸っている冷蔵庫の中で日本酒やビールが冷えていた。

「はい、これね」

 礼を言って鍵を受け取り、代わりに手土産を渡す。別にいいのに、と笑いながらおばさんは僕の肩をバンバンと叩いた。

「ごめんなさいねぇ、うちの今、配達中なのよ。道、分かる?」

 うちの、とは里見篤志のことだろうか。道は分かると僕は頷いた。

「暑いから、持っていきなさいな」

 団扇とよく冷えたラムネの瓶を無理矢理に握らされた。僕は繰り返し礼を伝えて里見酒店を出た。団扇には町の夏祭りの案内が印字されていた。八月最初の週末らしい。

 何度拭っても汗が止まらない。涼しくなってから来たかったのだが、列車の時刻表は一日に三往復、休日は朝晩の二往復しかない。昼に列車が走っているのは有難かった。乗り継ぎの都合で朝一番の列車には乗れず、夜に着く列車では祖父の家まで夜道を歩いて辿り着ける自信がなかった。

 駅前の通りを抜けると家もまばらになり、田畑が広がる。やがて道の舗装も荒くなる。僕の息も荒くなる。僕は木陰で休むことにした。気分が悪い。水分を補給してもこの暑さでは間に合わないのか、それともただ僕が虚弱なだけか。里見酒店で貰った団扇で風を送っても僅かに息が楽になる程度だった。冷えたラムネを額に当てて目を閉じる。

 そうして暫く休んでいると、車の音が近付いてきた。僕は目を開けた。側面に里見酒店と書かれた軽トラックが僕の傍で止まった。

「おーい、大丈夫か?」

 そう言いながら車から出てきた若い男がどうやら里見篤志らしい。日に焼けて体格が良く、健康そのものといった印象を受ける。面影があるような、ないような。僕は眩しさに目を細めた。

「リョウちゃんだろ。久しぶりって言っても分からねぇか。オレ、里見篤志。篤志でいいぜ」

 里見篤志、改め篤志は僕の横に転がっていたスーツケースをいとも簡単に持ち上げると軽トラックの荷台に放り込んだ。荷台に載せられていた酒瓶がガチャガチャと音を立てた。

「ほら、乗った、乗った」

 篤志は腕を引いて立ち上がらせると、僕のことも助手席に放り込んだ。自分で歩くと言わせない、送ってゆくのが当然と思っているような動きだった。車のラジオからは高校野球の実況中継が流れていた。地方大会らしい。

「今年は暑いなぁ」

 独り言のようにそう言うと、篤志は車を発進させた。ブォンと唸ってから走り出した車はガタガタと揺れながら進んでゆく。あれほど苦労して歩いていたことが馬鹿らしく思える程、あっという間に車窓の景色が通り過ぎる。

「もう二十年近くになるんだよな。みんな元気にしているか?」

「僕以外は」

「ああ、聞いているよ、療養がてらの移住だろ。あ、逆か? まあ、この町には何もねぇけど空気は美味いからな。星も綺麗だぜ」

 篤志の言葉に僕は空を見上げた。晴れた空はどこまでも青く澄んでいた。その後、しばらくの間は篤志と僕は他愛もない話をしていたが、篤志が寄り道をすると言ったので、僕は必然的に付き合うこととなった。篤志が運転する車は祖父の家へ向かう道を逸れて、舗装のされていない道を走り、一軒の古民家の前で止まった。

「悪いな、配達の途中だったもんだからさ。この家で終わりなんだけど。ちょっと待っていてくれよ」

 篤志を待つ間、兄にメッセージを送る。

『里見酒店の篤志と合流した。じいちゃんの家まで車に乗せてもらっている』

 兄からの返信はすぐに届いた。

『よろしく伝えてくれ。自転車があったほうがいいんじゃないか。なければ送る』

『じいちゃんも自転車くらい持っていただろう』

『荷物は明日の朝に着く予定だ。他にも足りないものがあれば言ってくれ』

『了解』

 駆け足で戻ってきた篤志は片手に西瓜を持っていた。

「田淵さんがスイカをくれたから、リョウちゃんにやるよ。細ぇんだから、しっかり食わねぇと」

 それから僕は膝に西瓜を抱えたまま車に揺られた。


 祖父の家は静かに僕を待っていた。二階建ての母屋と農具を入れておく納屋と蔵。その昔はそれなりに裕福な家だったらしい。祖父がひとりで暮らすには広すぎた家だ。無論、僕も持て余すことになるだろう。

 西瓜を抱えた僕の代わりに篤志がスーツケースを運んでくれた。里見酒店で受け取った鍵で玄関扉を開けると、たった二ヶ月で人の住んでいない家の匂いが充満しているような気がした。その中に残る微かな祖父の香りに、僕は祖父の永遠の不在を思い知らされた。

 僕は家中の窓を開けて回った。建て付けの悪くなった縁側の雨戸に苦戦していると、庭から回ってきた篤志がヒョイと簡単に開けてしまった。

「どこの家もこうだよ。コツがあるんだ。オレも配達ついでに修理を頼まれたりするからな。それよりリョウちゃん、顔色が悪いぞ。窓くらいオレが開けておくから、リョウちゃんは休んでいろよ」

 篤志はこの辺りに配達に来たついでに時々こうして換気をしてくれていたらしい。僕は篤志の言葉に甘えて居間の畳の上に横になった。途中から篤志の車に拾われていなければ、僕は今頃、畳の上ではなく道端に倒れていただろう。乗せてもらったのに、この有様だ。少し熱が出てきたらしい。頬が火照っているのが自分でも分かる。

 僕はブレーカーを探す篤志の後姿をスマートフォンで写真に撮り、そのまま兄に送った。

『着いた。篤志が居てくれて助かる』

 兄から渡されたスポーツドリンクは空になっていた。僕は里見酒店で貰ったラムネを開けた。プシュッと炭酸の弾ける音に夏を感じた。瓶の中でビー玉が転がる。日の当たる中庭に向けて瓶を透かせば祖父と過ごした思い出が瓶の向こうに見える気がした。

 僕は目を瞑った。眩暈がする。もし僕が女性だったならば、多少病弱であったとしても、か弱さは儚さに繋がっていたかもしれない。しかし僕は男であるから、ひ弱な体が憎らしく、自分でも情けなくなる。

 吐き気を堪え切れずに僕は目を開けてトイレに駆け込んだ。洗面所でブレーカーを上げていた篤志が何事かと驚いていたが、構う余裕がない。列車の中で食べた昼食のサンドイッチはあやふやになって流れた。

「大丈夫か?」

 心配そうに篤志が尋ねる。僕はトイレの床に座り込んだまま曖昧に頷いた。大丈夫ではないのだが、いつものことだった。

「黒岡さーん」

 玄関のほうから間延びした声が聞こえたので、篤志が玄関へ早歩きで向かった。僕はふらふらとトイレから這い出して洗面台で口を漱いだ。井戸から引いているからだろうか、水はとても冷たかった。篤志と誰かのガヤガヤとした声が聞こえていた。途切れ途切れの会話から察するにガスの開栓だろう。僕はタオルで口を押えて吐き気と戦いながら居間に戻り、スーツケースの中から印鑑を取り出した。作業はすぐに終わった。

「ダメだな、店から氷を持ってくる」

 篤志はそう言い残して家を出た。軽トラックの音が遠ざかる。僕はタオルを絞って首に巻き、縁側に座って水を張った洗面器に素足を突っ込んでいた。

 慢性的な熱や眩暈、吐き気、倦怠感、鼻血。幼い頃から幾つも病院を回ったが、どの医者も匙を投げた。大人になった今でも不調の原因は分からない。一生この病弱な体と付き合っていかなければならないらしい。誰かに代わってほしいとは思わないが、せめて理由さえ分かっていれば少しでも気が紛れるというものだ。僕は深い溜息を吐いた。

 スマートフォンが振動した。僕は兄からの返事を確認した。

『その子は誰だ』

 僕は振り返った。家の中はしんと静まり返っていた。ここには僕以外の誰もいない。そのはずだった。速くなった脈拍が耳の奥に響く。蝉時雨、風の音、冷蔵庫、僕の呼吸。それだけだった。送った写真を見返しても、そこには後姿の篤志しか写っていない。

 再びスマートフォンが振動した。

『ごめん、見間違いだった。気にするな』

 兄はそう返事を送ってきた。兄はユーモアのある人物だったが、人を困らせる冗談を言うような性格ではない。たった一言が僕の心に不安を残すには充分だった。


 しばらく涼めば体調も幾らか良くなった。僕はスーツケースの中身を広げた。着替え、歯ブラシ、気休めの薬、レトルト食品。明日荷物が届くまでの間に必要なものを持参していた。

 さて、と僕は立ち上がった。どこを僕の部屋にしようか。この家は増改築を繰り返したために今や妙な形になっていた。カタカナの「ビ」に似ている。玄関が一番上にあり、台所や水回りに居間を含めた畳張りが四部屋、上の横棒にまとまっている。襖を取り払えば畳の間は一続きの広間になる。葬儀の時にはそうやって使っていたはずだ。

 縦と横の交わるところに二階への階段がある。二階の間取りは一階の上半分と殆ど同じだ。下の横棒にあるのは二部屋。左側が祖父の居室で、右側の部屋はかつて祖母が使っていたと聞いているが、祖母は僕が生まれるずっと前に亡くなっており、長らく空き部屋になっていた。二本の横棒の間が中庭で、下の棒の向こう側には裏の林との境界が曖昧な庭があった。玄関先もそうだったが、たった二ヶ月手入れをしないだけで草木は生い茂っていた。ビの濁点のひとつが納屋、もう片方が蔵だ。

 僕の部屋は居間の隣の部屋になった。居間は中庭に面しており、ぼくの部屋はその北側にある部屋だ。少しは暑さが凌げるといいのだが、この暑さではどこに居ても同じではないかとさえ思える。

 自分でも嫌というほど理解しているし、覚悟もしていた。僕ひとりではとても手に負えない家だ。夏の終わりまでに雑草をどうにか出来れば上々で、納屋と蔵には冬になるまで足を踏み入れないかもしれない。

 僕はリュックからノートを取り出して新しいページを開いた。やるべきことを書き出しておく。

 どうにかするもの、雑草、納屋、蔵。探すもの、自転車、扇風機。

 そもそも、何処に何があるのか把握していない。祖父の形見の品々は、親戚たちが何かと理由を並べて持ち帰った。先祖代々の墓はこの町にあるが、仏壇は叔父が引き取ったらしい。それで墓参りを免れようと考えたのだ、親戚の女性が憎々しげにそう言っていた。本当のところは分からない。

 けれど、僕がこの家に住むと決まったことで、親戚一同が喜んだのは事実だ。誰もが持て余していたのだ。この家のことも、祖父のことも。薄情だとは思う。生まれ育った家ではないのか、世話になったのではないのか、と失望の気持ちもある。だが、僕ひとりがそれらを担うのだという自負もある。

 僕と祖父の思い出は、誰にも邪魔されることなく、ゆっくりと溶けて、色褪せることなく消える。

 そのことがたまらなく嬉しい僕は、この家と共に朽ち果てようとしているのだろうか。冷水でタオルを絞って頭を冷やす。死にたいと思っているわけではない。ただ、この家は僕の世界の最果てにあるのだろうと思っていた。


 そうこうしているうちに里見酒店の軽トラックがやって来るのが見えた。僕は押入れの中から布団を引っ張り出して濡れ縁に並べていた。玄関を使わずともこの濡れ縁から僕の部屋に出入りが出来る。荷物を運び入れる時などは便利だろう。

「リョウちゃん! 休めって言っただろ!」

 両脇にクーラーボックスを抱えた篤志は律儀に玄関から入ってきた。僕の部屋をチラリと覗いて怒り、そのまま台所へ去っていった。ゴロンゴロンと冷蔵庫の中に氷が補充される音はまるで雷鳴だ。

「暑くて休めない」

 僕がそう訴えると、それもそうかと篤志は言った。篤志も汗だくだった。台所の棚の中で忘れられていた桶に氷水を張り、そこに西瓜を漬けた。しばらくすれば食べ頃になるだろう。

 二十年振りに再会した篤志は甲斐甲斐しく、申し訳なくなる程に家のことを手伝ってくれた。それは酒屋の倅だからなのか、それとも世話好きの性格故か、あるいはあまりにも僕が不甲斐無いからか。僕の兄とどこか似ている。いずれにしても後日、改めて礼をしなければならない。

 篤志が廊下を雑巾がけしてくれている間に、僕は二階の部屋で扇風機を二台見つけた。この家で暮らしていた頃は二階が僕たち一家の部屋だった。今では物置になっていた。落ち着いたら二階も見て回らなければならない。炬燵もここにありそうだった。僕は見つけた扇風機を一台ずつ持って降りた。

「でかした!」

 大袈裟なほど篤志は喜んだ。軽く雑巾で拭いてスイッチを入れると、古い扇風機でもちゃんと動いた。

 僕は台所で西瓜を切った。包丁とまな板があって良かった。皿も埃をかぶっていたが困らない程度には残っていた。皿を洗って切り分けた西瓜を乗せて居間に運んだ。

「体、そんなに悪いのか?」

 篤志が尋ねた。

「年々、酷くなっているような気さえする。自分でも情けなくなるよ」

「情けないと言っても、自分のせいではないのだから、こればかりは仕方がないだろうさ」

「原因も分からないのに、回復の見込みはないと言われた。おかしな話だろう」

「いつからだ?」

「さあ、もうずっと昔からだよ」

 僕は考えてみたけれど、思い出せなかった。この町に住んでいた頃から体は弱かったし、都会に引っ越してからも、体育の授業にちゃんと参加出来た試しがない。遠足も修学旅行も知らない。同級生たちが結束を深めて帰ってくる。僕はいつもそれをただ眺めていた。

「それにしても篤志は僕のことをよく憶えていたね」

「そりゃあそうだろう、人数が少なかったっていうのはあるけれど、リョウちゃんは印象的だったぜ」

「病弱だったから?」

「まあそれは否定出来ねぇけど、何と言うか、うーん」

 篤志は少し言葉を考えてから答えた。

「うまくは言えねぇんだけどさ。透明な布を一枚被っているような、そんな感じがした」

 そう言われたのは初めてだったが、何故かストンと心に落ち着いた。

 やがて僕は、篤志の言葉がある意味で正しかったことを思い知ることとなる。


 西瓜を食べ終えると、日が沈んでからまた来ると言い残して篤志は帰っていった。里見酒店の軽トラックを見送ってから僕は家の掃除を始めた。

 風呂とトイレは数年前にリフォームしていた。祖父はもう少し長生きする心積もりだったはずだろう。僕も、もう少し早く越してくるつもりだったのだ。

 しかし、学校へ通うには、この家はあまりにも田舎にあった。幼稚園と小学校は辛うじて駅前にあるが、分校の中学校は隣駅、高校に至っては一番近くても駅四つ向こうだ。とても通えない。

 そうして祖父の死をきっかけに戻ってきた。遅すぎたのだと後悔する。学校のことなどどうとでもなったはずだ。この家に戻ることは逃げることだと心のどこかでそう感じていた。逃げるものなどなかった。立ち向かったこともないのだから。

 適度に休憩を挟みながら水回りの掃除を終える頃には天高くに輝いていた太陽も随分と西に傾いていた。それでもなお日差しは強く熱を放つ。流れる汗を拭う。

 居間の卓袱台の上に置いたままになっていたスマートフォンが振動していた。着信だ。僕は電話に出た。

「……はい」

『嗚呼、先生、やっと出たね!』

 画面を見ずとも僕に電話を掛けてくるのは限られた人たちだけだ。声で相手は分かる。僕は電話をスピーカーに切り替えて卓袱台の上に置いた。

『田舎暮らしの途中で熊や猪にでも襲われたんじゃないかと心配していたところだ。ちゃんと家には辿り着けたかな?』

 電話口でもよく通る明るい声はマヤさん、僕の担当編集だ。

 幸運なことに、僕は作家として生活していた。大学時代の同級生から頼まれて書いた小説がどこをどう経由したのか出版社の目に留まり声を掛けられた。そもそものきっかけは、僕のレポートを読んだ同級生から、文芸サークルの季刊誌に夏を題材として一筆寄せてほしいと頼まれたことだったと思う。運動の出来ない僕にとって、本は唯一の友のような存在であったから、さほど親しい間柄であったわけでもなかったが、断ることもしなかった。

 そんなことがあったことも忘れていた僕の前に突然現れたのが、マヤさんだった。マヤさんは紺色のパンツスーツを身に纏い、明るい茶色の短い髪を輝かせ、夕暮れの大学の正門前で仁王立ちしていた。歌劇団だと誰かが言った。朝から咳が止まらなかった僕は、ゴホゴホと咳き込みながらその女性の前を通り過ぎようとした。気が付くと僕は喫茶店でその人の前で怯えて座っていた。大学三年生の冬のことだった。

『先生はすぐに体調を崩すからね、こうして生存確認しないといけないだろう? あ、ちなみにわたくし、摩耶有美子は今日も今日とて元気でございますよ』

 僕はマヤさんの声を聞き流しつつ麦茶を飲む。マヤさんはどこかガヤガヤとした場所に居るらしい。こことは大違いだ。

『そちらにネット環境はあるのかな、田舎の回線は都会よりも高速だと聞いたことがあるけれど、どうなのだろうね。おーい、先生、聞いているのかい? よもやハンズフリーにして片手間に相手をしてなどいないだろうね』

「原稿は手書きで送ります」

『お、白岡夕凪の生原稿か。興奮してきたな……! 可愛らしい字でお願いしたいね』

「勝手に興奮しないでください」

 白岡夕凪というのがマヤさんの名付けた僕の筆名だった。黒岡が白岡になるのはまだしも、夕凪というのが何に由来するのか、マヤさんに聞いてみたが教えてはくれない。白岡夕凪はなんでも、美少女作家ということになっているらしい。世間は白岡夕凪の正体が、今にも死にそうな男だとは思っていないだろう。賞を貰っても姿を現すことなどない。本がどれほど売れたとしてもメディアに登場することはない。白岡夕凪は謎の作家だ。正体を暴こうとする動きはあるらしい。けれど、謎は謎のままだ。新作を発表するたびに世間がざわめく。僕は熱に浮かされながらマヤさんからの報告を受ける。

 白岡夕凪の正体は、ほかでもない僕自身のために、明かされることはない。

「しばらく書かなくていいように、引っ越し前に随分と書き溜めておいたはずですけれど」

『勿論、先生の速筆はいつも頼りになる。感謝感激だ。だがそれはそれ、これはこれ。田舎暮らしで意欲が湧いて、筆が止まらないということも、無きにしも非ずだよ、先生』

 それにしても、とマヤさんは急に話を変えた。

『てっきり一人暮らしの引きこもりかと思っていたが、親戚のお子さんかな。同居人が居て良かった』

 僕は持っていたグラスを落とした。グラスは床に落ちてバラバラに砕けた。

『先生、大丈夫か』

 僕は息を止める。辺りを見渡す。耳を澄ます。何もない。

「すみません、グラスを落として割っただけです」

『おっちょこちょいか、そんなところもポイントが高いな』

「片付けるので、切りますね。また連絡します」

 マヤさんはまだ喋り倒したかったのかもしれないが、僕は電話を切った。

 兄といい、マヤさんといい、一体、誰のことを言っているのか。この家に何が居るのか。僕は箒と塵取りを持ってきて割れたグラスを片付けた。

 僕には分からない気配がこの家にはある。熱を保ったままの風が吹く。

 落ち着いたら風鈴を吊るそう。僕はそう思った。


 日が沈んで辺りが暗くなった夜八時前に篤志がやって来た。街灯も覚束ない夜道をすいすいと里見酒店の軽トラックが走ってくる。僕は濡れ縁で西瓜の残りを食べていた。

「これ、母さんが持っていけって」

 篤志は料理の入った保存容器をポイポイと冷蔵庫に放り込んでいく。

「おばさんにお礼を言っておいて」

「別に気を使わなくてもいいんだぜ、好きでやっているんだから。分かるだろ、田舎の人間はお節介なんだ」

 篤志を見ていても分かる。ただそれは、田舎だからという理由だけでもないだろう。そういう気質をしているのだ。

 僕は篤志に案内されて、近所に引っ越しの挨拶回りをした。近所の老人たちは皆、祖父とは仲良くやっていたらしい。鉄平さんは、鉄平さんが、と口々に思い出話をした。篤志が適当に切り上げてくれなければ、僕は夜通し祖父の話を聞かされていたに違いない。

「篤志は顔が広いな」

 日が暮れてもなおじんわりと暑さの残る夜道を僕と篤志は歩いた。虫の声やフクロウの鳴き声が聞こえていた。時折、冷たい風が森のほうから吹いてくる。

「若いのはオレくらいだからな。他の店の配達も手伝っているんだ。あと、宅配便もうちが代行している。過疎化と高齢化ってやつだよな。それでもまだ列車があるだけマシなんじゃねぇの」

「大変だろう」

「まあ、大変っちゃ大変だけど、所詮は田舎だからな。行く先なんて決まっているし、数も多くない。一軒一軒が遠いってだけだ」

 朝の列車と夜の列車で高校のある駅、本郷から荷物が届くらしい。駅の名前は単純で、役場や高校のある街の中枢の本郷、そこから下郷、中郷、上郷と山深くなり、僕が降りた駅が奥郷だ。奥郷から先は、いくつか無人駅が続き、やがて山を抜けるらしいが、近道となる道路が建設されたため利用客はほとんどいない。

「それに、じいさんばあさんはオレに会うのを楽しみにしているからな。頼まれていた料理酒一本持って行くだけでも大歓迎だ。孫代表みたいなもんなんだよ、オレ。そうやって御達者連中の生存確認をして回るんだ」

 リョウちゃん宛ての荷物もオレが届けるぜ、と篤志は笑った。万が一、僕があの家で野垂れ死にしたとしても、篤志がすぐに見つけてくれるだろう。そんな無責任な生き方をするつもりなどないが、誰かが自分を訪ねてきてくれるというのは、身に染みて心強いものだ。

 先に見える祖父の家の点けたままの灯りが辺りをぼんやりと照らしていた。他の家と何ら変わりのない、至って普通の田舎の家だ。

「僕のじいちゃんのところにも来てくれていた?」

「鉄平さんか、勿論だ。葬式にも出たぞ」

「ごめん、憶えていない」

「オレもリョウちゃんが居たのかどうか分からねぇ」

 どのように話を切り出すべきか僕は迷っていた。少しの間、無言で歩いていると、僕の迷いを悟ったのか、僕より先に篤志が口を開いた。

「鉄平さんのことで、何かあったのか」

 僕は首を横に振った。

「じいちゃんのことじゃない。あの家のことだ」

 篤志は立ち止まって僕を見た。僕の視線は思わず泳ぐ。半月が夜空に浮かんでいた。

「何か出るとか、そんなことを言っていなかっただろうか」

「出るって、何が、幽霊?」

 篤志の視線が痛い。僕は咄嗟に否定する。

「怖がっているわけじゃない」

 ひとりで暮らす心細さでもないし、幽霊に対する恐怖心でもない。僕はただ気になっていた。兄とマヤさんのふたりが同じようなことを言った。それが偶然だったのか、本当にふたりは何かの気配を感じていたのか。

「ただ、兄も知人も、子供が居ると言ったんだ。僕にはさっぱり分からないけれど、夜中に熱を出して縋り付いた相手が幽霊だなんて嫌だ」

「子供?」

 はて、と篤志は首を傾げた。何か心当たりがあるのだろうか。どうやら僕のことを怖がりだと思ったわけではないらしい。

「鉄平さんは何も言っていなかったけれど、あれじゃねぇのか、座敷童ってやつ」

「座敷童?」

「えーっと、ほら、子供の姿をしている妖怪で」

「いや、座敷童が何なのかは知っているよ。だけどそれはおかしいだろう。じいちゃんが死んでから二ヶ月ほど、あの家は空き家だったはずだ。座敷童が居るのならば、人の暮らす家だろう」

「次の家に行くまでの間借りとか、さ。オレにも分からねぇよ、見たことねぇもん。怖ぇこと言うなって。寄りにくくなるだろうが」

「怖いのか」

「ホラーとかゾンビとか、苦手なんだよ」

 篤志にも怖いものがあるのかと、僕は妙に感心していた。篤志ほど体格が良ければ、悪霊やゾンビとも戦えるのではないかと思うのだが、そうではないらしい。もしかするとこの夜道でさえ怖いのかもしれない。篤志を怖がらせるつもりはなかったので、僕はそれ以上、家のことについて聞くのをやめた。

「明日は僕宛ての荷物がいくつも届くだろうから、よろしく頼む」

 僕がそう言うと、篤志は嬉しそうだった。お安い御用だと笑う。篤志には接客業が向いているのだろう。

 家の前で篤志と別れた。里見酒店の軽トラックは来た道をまた戻ってゆく。夜道に揺れるテールランプが赤い蛍のようだった。

 僕は布団を敷いてからシャワーを浴びた。風呂場の窓の外側にヤモリらしき生き物が引っ付いていた。髪をドライヤーでざっと乾かしてから扇風機で涼んでいると鼻血が出た。先が思いやられる。僕は鼻にティッシュを詰めて俯いた。

 たとえばそれが座敷童なら、と僕はぼんやり考えていた。和菓子を供えればいいのだろうか。玩具のほうが喜ぶだろうか。間借りならば何もせずともそのうち出ていくのではないか。

 鼻血が止まったので、僕は寝ることにした。灯りを消すと殆ど真っ暗だった。都会とは違う。聞こえてくるのは虫の音と風の音。月明かりが心許無く庭先を照らしていた。

 ひとりで暮らしてゆくのだ。僕は目を閉じた。

 心の中を正直に打ち明けてしまえば、この家で暮らすことで体調が良くなるとは思っていない。ただ、都会よりは幾らか長くこの状態を保てるだろうとは期待している。目には見えない力で体が内側から蝕まれているようだった。悪いところなどどこにもないはずなのに体は不調を訴える。苦しいとか、悲しいとか、そういう感情よりも、ただ不安だった。


 唐突に目が覚めた。

 寝汗が酷い。頭を掴まれて振り回されているような頭痛に襲われる。気持ちの悪さよりも痛みが勝る。こうなると暫くの間は繰り返し痛みがやって来る。僕は布団の中で縮こまり、眉間に皺を寄せて波をやり過ごす。熱も上がっていることだろう。けれど声も出せない。動くことすらままならない。吸って吐き出すだけだというのに、息もうまく出来ない。

 スッと何かが頬に触れた。その冷たさに僕は思わず息を止めた。だが、呼吸を一度止めたことで息が出来るようになった。僕は固く閉じていた瞳をゆっくりと開けた。夜の闇が広がっている。何も見えない。自分がどちらを向いているのかさえ分からない。ただ、僕の頬を優しく撫でるような冷たい何かが心地良く、僕はされるがまま、少しも抵抗しなかった。

 やがて痛みが遠ざかる。しばらくの間、僕は闇を見詰めていた。そうして暗闇と瞼の裏の区別が付かなくなった。


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